サイドミラーから窺える背後に視線をやると会社の周囲に居た社員には気付かれずに済んだらしい。とりあえずほっと胸を撫で下ろし、最初の青信号を過ぎたところで話し始めた彼の言葉へ耳を傾ける。どこへ向かっているのかは聞いていない。
「――ピアス?」
 声に出して聞き返した。身構えた割に、黄瀬の用件は意外と簡単なものだったようだ。
「うん。社長の家に忘れてきちゃったかなと思って」
「……外したのか?」
「シャワー借りた時にね。腕時計は付けたんスけど、多分ピアスだけ置いてきちゃって……見なかったっスか?」
 右手はハンドルに置いたまま、反対の手で左耳を触りながら彼は言う。そちらに目線を向けると確かにその肌に耳飾りは何も付けられていない。
 黄瀬の言い分によれば恐らく自宅の脱衣所に置き忘れてあるのだろう。彼が帰った後、自分もシャワーを浴びたけれどそこまでは見ていなかった。――そしてあの日から一度も、アパートには足を踏み入れていない。
「……悪いな。この三日間、家には帰ってないんだ」
 誤魔化しようもなく正直に告げるほかなかった。しかし口にしてから、深い意味はないが、くらいの前置きは付けておくべきだったかと反省する。案の定、言葉の意味を重く捉えた黄瀬はぱっとこちらに向いて忙しなく口を動かした。
「え、もしかして仕事立て込んでた? ごめん、」
「そうじゃない。大丈夫だ」
 やはり会社に寝泊まりをしたとでも思われたのだろう。不要な気遣いをさせてしまう前に遮り、いったん口を噤む。黄瀬はそれ以上聞いてはこないものの内心では絶対に理由が気になっているのだ。ちらりと寄せられた視線でそのくらいは容易くわかる。誰に教えたって得するものでもないし本当は言いたくなかったが、気まずい沈黙が流れてはそんな小さな抵抗も意味を成さなかった。浅く溜息をつき、目を伏せて喋る。
「……別に特別な理由はないよ。ホテルに泊まってたってだけだ」
 そういえばテツヤに放浪癖の件について弁解することを忘れていた。直接大輝と連絡を取った方が早そうだと思い至ると同時、「なんで」と隣から心底意外そうに返される。今度は純粋に尋ねるのか。
「ホテルマンの接客から、学ぶことが多いからね」
 説明しつつ流れて行く外の景色に目をやる。オフィス街を駆ける車は割と速度も遅く、黄瀬は頼んだ通り安全運転を心掛けてくれているらしい。車内は寒くもなく暑くもなくちょうどいい室温。鼻を利かせると僅かにフレッシュな良い香りが漂い、全部彼の気遣いなのだとはすぐにわかった。ふかふかした助手席の背もたれに寄り掛かると、心地良さに眠気が瞼を重くする。
「え? そういうの見てるんスか? 仕事終わった後に」
「ああ。まぁ普通に部屋を取ってそこで一晩過ごすが」
 欠伸を噛み殺しながら言えば。
「……ちゃんと休めてる?」
 少し眉を顰めてそう聞かれ、僕は首を傾げた。当然だろうと。
「設備は完璧だし、睡眠を取るには充分快適だよ。掃除だってしなくていい」
 と言ってから生活能力の低さを露呈したようで咄嗟に口を閉ざしたが、予想外にも黄瀬は腑に落ちないというように顔を歪めさせたままだ。
「本当に寝るだけ? 仕事したりしてそうっスけど」
「そりゃあ多少は……って、なんでちょっと機嫌悪くなってるんだ」
「別に」
 どの口が。どこからどう見ても苛立っている態度を取られれば無闇に話し掛けられない。まるで子供のような反応に思わず二度目の溜息をついてしまい、何が原因だったのか考えを巡らせた。横目で右隣を見やれば僅かに俯き、サングラスと金色の前髪のせいで表情がよくわからない。ちゃんと前を向いて運転してくれ。
「やっぱり金遣い荒いんだな社長だもんなとか全然自分の体労わってないみたいだし家で休めよとか全く思ってないっスよ」
「……あからさまだな……」
 いきなり一息で並べられた台詞に若干気圧される。彼の言う通りホテルに着いてから何時間か仕事はするが、それは自宅に帰ろうが会社に残ろうが変わらない。そう反論すると「この仕事中毒者」と悪態をつかれてしまった。黄瀬とは顔を合わせてまだ四回目くらいのはず、それなのにテツヤ並みに遠慮のない口振りだ。確かにもう親しい関係だなと思う。
「あんま無理してるとあとで付けが回ってくるっスよ」
「お前が言うほど僕はヤワじゃない」
「休み無しで働いたら誰だって疲労は溜まるっつってんの」
 刺々しい口調で浴びせられ、目を見張った。彼が僕の声に被せるように言い返してきたのは初めてだったからだ。必ず相手の言葉には最後まで耳を傾けるような性格をしているのに、今回だけは何故か必要以上にむきになっているように感じる。
(……何か、あったのか……?)
 黄瀬を悩ます何かが今日起こったのか、それともこの話題自体がタブーなのかは知り得ない。が、あまり意地を張っていても良いことはなさそうだ。
「……わかった。気を付けるよ」
 静かにそう答え、ところで、と早々に話を切り替えた。
「どこに向かってるんだ、この車」
 ビル群を抜け、ショッピングモールが脇に並ぶ公道。会社からどれくらい離れたかはわからないもののなんとなく知っている景色だ。が、通りを歩く人々が会社員から大学生やカップルに移り変わっている様子を見ても、普段の自分があまり利用するような道でないことは明らかである。
 最初から行く先は知らされていなかった。乗車したら言うだろうと思って放っておいたのだが、このまま見知らぬ目的地へ向かって走り続けられては少しの不安も募る。しかし過ぎ行く光景に目をやりながら尋ねると、黄瀬はすぐに返答をせず無言のまま何か考えたらしい。暫く経ってから急にブレーキが掛かったのだ。ハザードランプを点けて歩道横に停車し、予想していなかった行動に驚きを隠せない。
「……やっぱりやめた」
 は?
「……黄瀬?」
「本当は連れて行きたいところあったけど、変更。家まで送ってく」
 そう言い切るなり彼は助手席に左手を置いて背後を確認し、ミラーを注視しつつ小道に入るように車をバックさせる。そして右手でハンドルを切りながらたった今走行してきた道を辿ろうとする黄瀬の名前を、慌ててもう一度呼んだ。どうしてだと、そんな意味を込めて視線を向けると、彼はさも当然のようにこう理由を告げる。
「三日も家で休んでない人を夜遅くに連れ回せるわけないでしょ」
 果たして優しいのか意地っ張りなのかわからない。
「いや、そんな……だから休んでないわけじゃないって」
「でも眠そうっスよ」
 容赦なくきっぱりと反論されてしまい、こちらのつまらない言い訳が通じそうな雰囲気ではなかった。僕がさっきから欠伸を堪えていることはきっと気付いているのだろうし、既に車は来た道を戻り始めている。それでも彼の予定を潰してしまった申し訳なさから自分も引き下がらなかったが、黄瀬が一度決めた意志を絶対に曲げようとしないのは相変わらずだった。
「別にお前が気にすることじゃないだろう。そこまで気を遣われる筋合いは、」
「じゃあホテル行く? 俺と」
 至って真剣な表情で運転しながら遮られ、不覚にも言葉に詰まる。もちろんその一言が何を意味しているのか、暗に含められた言意を理解できないわけがない。
「選んでいいっスよ、家かホテルか」
「…………」
「まぁ休めるのは前者だろうけど」
――それは、卑怯だ。顔色を窺うように瞳だけ右側に動かしても彼は少しの恥ずかしげもなく、時々こういう発言を躊躇わずにして一体どこまでが本気なのだろうと脳裏で考える。
「……家に帰るよ」
 結局、羞恥を押し殺すように小さな声でそう呟き、いつの間にか相手のペースに呑み込まれている悔しさから視線を落とした。すると、うん、いい子、と満足そうな返事をされて余計に気恥ずかしさが込み上げる。なんで僕がまるで子供をあやすかのような扱いを受けなければならないんだ。
 すまない。――端的に謝って窓の外へと顔を背け、それから数分、会話が途絶えた。
 その間に心の中を占めた感情と言えば、驚いたことにショックや物寂しさというような類だったのだ。嫌でも実感する。こうして二人で居る時間を自分は少なからず心地良く感じていて、黄瀬がどこかへ連れて行ってくれることに、僅かな期待を寄せていたのだと。そしてそれが無くなって寂しく思うなんて随分馬鹿らしい話だった。一体どこまでが本気なのか、本当にその言葉を向けたいのは僕の本心に対してだろう。
 氷室さんと会って己を戒め、この三日間はいつもと同じように仕事に没頭しようとした。書類と向き合い、部下を指導し、他社との会合も済ませ――事実、上手くいったのだ。黄瀬とのことだって頭から離れていたし、やっぱりあの一晩だけがおかしかったんだと、そう思えていたはずだった。否、そう言い聞かせていたのかもしれない。
 窓枠に頬杖を突き、いざ顔を合わせたらこのざまかと内心で自嘲する。調子を狂わされているのはどっちだ?
「……覚えているのか、僕のアパートまでの道」
 ふと、引っかかったことを口に出して尋ねた。黄瀬は先ほどから大通りを外れて入り組んだ街道をすいすいと運転しているけれど、ナビを頼っているわけでもなくその頭の中に地図があるらしい。随分な土地勘だと思ったが、僕の家はそれでも一度や二度通っただけで辿り着けるような大道には面していない。
「んー、まあ、なんとなくっス。違ってたら言ってね」
「合ってるが……」
 これには正直に驚いた。よくよく考えれば運転もとても慣れているし、ハンドルを切り出すタイミングは遅いものの回すスピードは速いという無駄のない動きから見ても、車幅感覚をしっかり把握できている。先ほどの一回以外は急ブレーキもなく、アイドリングとエンジンブレーキを使って普通に上手い。日頃マネージャーに送迎されるばかりではないのだろうか。
 本人に聞いてみると「桃っちに運転させたらまず車庫から出る時点で一時間っスよ」と返されてしまい、いろいろと察した。あれだけ優秀な女性でも苦手なことはあるようだ。
「それにしても……かなり記憶力が良いんだな」
 赤信号で停車すると同時に言えば、黄瀬はこちらを見てそうでもないよと笑う。
「ただ、一回目にしたものとか景色とかってなんか忘れないんスよね。イメージとして残ってるっつーか……ほら、この間は社長の家から駅まで歩いたし」
 だからそれを記憶力が良いと言わずして何て言うんだ。特技にも分類されるだろう才能に胸中で感心していると、「あ、そうだ」と何か思い出したように彼は呟く。ちょうど信号が青に変わった瞬間だった。
「社長って夕飯はいつもどうしてるんスか?」
 自分で作るの? と発進しながら聞かれる。
「家に居る時はな。でも食べに行くこともあれば、コンビニもよく利用するよ」
「へー……意外っスね。栄養偏ったもの好きじゃなさそうなのに」
「簡単に済ませたいんだ。洗濯も掃除も、家事に追われて仕事がおざなりになるなんて馬鹿げているだろう。……と言っても、お前の言う通り添加物はあまり好まないから、適度に自分で作ってバランスは考えるかな。その為に料理は勉強したよ」
 一人暮らしをしていればそれくらいのことは当然と話したが、黄瀬は目をしばたたかせた後に僕から顔を逸らした。おい何を笑ってる。
「……や、ごめん。なんか、ワーキングマザーみたいだなと思って……」
 口元を抑えるようにしてぽつりと呟かれた単語を頭の中で反芻し、意味を咀嚼してから相手を睨み付ける。
「……言葉は選べよ黄瀬」
「だ、だから謝ってるじゃないスか……ていうか褒め言葉褒め言葉」
 軽く弁解されたところで何も説得力がない。キャリアウーマンでありながらワーキングマザーなんてすごいっスよ、などと言い出した彼をついには殴ってやろうかと思ったが、顔に傷を付けたら芸能生命が終わってしまうからやめてあげた僕に感謝してほしい。誰がウーマンだ、誰がマザーだ。
 そんなつもりで言ったわけではないというのに、予想外の捉え方をされては僕だって口を尖らせる。しかし黄瀬は口角を緩ませて笑ったまま、ちらりと隣を見やれば整った横顔が窓の外から入り込む街頭に淡く照らされていた。
「社長なら良いお嫁さんになれそう」
 けれども完全に面白がっている一言に、はあ、と溜息をついて背もたれに深く寄り掛かる。
「……勘弁してくれ。僕は仕事以外に尽くさない主義だ」
「えー」
 何がそんなに愉しいのだろう、そう言われたことなんて当然初めてだ。伏せた瞼を上げるとフロントガラスから半月が覗き、まだ雨が降る様子はなさそうでとりあえず胸を撫で下ろした。家に帰っていない為に快晴だった数日前から傘を持ち歩いていないのだ。
 そうしてこちらの思案もつゆ知らず、先ほどよりいくらか機嫌が良くなったらしい黄瀬は普段と変わらない口振りに戻り話を切り出す。
「今日はどうするんスか」
「何が?」
「夜ご飯」
――ああ、全く考えていなかった。
「家に帰って作るか……どこかで買っていくよ」
 自宅の冷蔵庫に調理できるほど食材が残っていたか思い出しながら端的に答え、場合によっては近くのスーパーへ行くことも予定に入れる。九時ならまだ開いているだろう。頭の中で簡易的な献立まで構想し始めたところで、それじゃ駄目っス、と彼の声が割り込んできた。
「社長は帰ったらとりあえず休んで! ご飯作るより早く食って寝てほしいんスけど……あ、それならドライブスルーとかでいいんじゃないスか? 栄養面はまあ、今日は考えない方向で」
 人差し指を立てて提案され、その勢いに少し気圧されてしまった。けれど黄瀬の言葉で一つ引っ掛かる部分が。
「……ドライブスルー?」
 聞き慣れない単語に眉を顰めて首を傾げると、えっ、と彼は目を見開く。そう反応されるまでには三秒の沈黙を要した。
「えっと……だから、ファーストフードの」
「……うん?」
「……あれ、もしかして知らない……?」
「しっ、知らないわけじゃない! ……使ったことがないだけだ」
 失態を隠すべく慌てて言い直したが、最後の一言で不覚にも声量が萎んでしまう。ドライブスルーとやらがどんなものなのか知識はあるものの、今までの人生において縁がないのは確かだった。現代を生きる若者としてはありえないのかもしれない。恥ずかしさに俯きつつも瞳だけを動かして黄瀬を見上げると、ハンドルに手を置いたままこちらに目をやった彼は困ったように笑う。
「別に引いたりしてないっスよ。ちょっとびっくりしたけど」
 それよりその上目遣いは卑怯、と視線を前に戻してぼやかれ、反射的にぱっと下を向く。「じゃあ今日が初体験っスね」黄瀬がそう言い僕が何を返事するよりも前に、彼は自宅への道から一本外れた道路へと進行方向を曲げた。


 心の中では、紛れもなく僕は喜んだのだと思う。二十四時間営業のファーストフード店まで車を走らせた黄瀬と、一緒に居られる時間が延びて。自分でも驚くほどわかりやすかった。家に送ると断言された時に感じた寂しさが幾分か取り除かれ、唇から零れ落ちる声も少し明るい。彼には気付かれたくなかったが、どこまで隠し通せているのかは最早自分にも判断できないでいた。
 アパートの近くにその店があることは知っていた。ロスへ旅立つ随分前から建っている店舗であり、昔、駅から近くて便利だよなと大輝が言っていたのを思い出す。しかし部活帰りの中学生や課題を見せ合っている高校生に紛れて食事をするような機会は滅多になく、自ら行きたいと思うことも少ない。ソースを多分に塗り込めた濃い味をたまに舌が恋しく感じて、という感覚は残念ながら僕にはなかった。
「ていうか勢いで来ちゃったけど、社長、もしかしてファーストフード嫌いっスか」
 だから派手な店構えのパーキングに車を進入させながら聞かれた時、胸中でどきりとした。ここで頷いたらやっぱりやめようと言われるかもしれない。いや、彼なら絶対に言う。せっかく時間が延びたのに、確かにそう思い込んだこの脳は果たして何をどこまで黄瀬に求めているのだろうか。
「嫌いではないよ」
 ぐるぐると思考を巡らせながら口を衝いて出た言葉はなかなかひねくれた物言いで、あ、失敗した、と口を閉ざす。案の定、僕が普段こういった店に進んで入らないことを察した黄瀬は苦笑した。
「ヘルシーなものの方が好きそうっスもん」
「……まあ、否定はしないが」
「店変える?」
 ドライブスルーとは要するに、車に乗ったままサービスを受けられるというものだろう。前方に二台の乗用車が並び、その後ろでいったん停車して尋ねられる。躊躇うことなく首を横に振ると彼は一瞬目を丸くしたように見えたが、サングラス越しではよくわからなかった。けれどどうにか納得はしてくれたようで、じゃあ何頼もっか、と質問が切り替わる。
 ところがそう聞かれても答えようがなかった。何せ日本のファーストフード店に来たのは数年ぶりだ。コマーシャルで見かける限定商品は特別耳を傾けていない分よく覚えていない上、定番メニューも全く把握できていない。
「お前のおすすめは?」
 これが一番手っ取り早いと判断し質問を質問で返すと、えぇ、と彼は唸る。
「おすすめって言われても……俺ここのはなんでも食うしなあ」
 そして顎に手を当て、いくつかのハンバーガーの名前をつらつらと挙げていった。一つ一つの単語からどんな食べ物なのか連想しつつ、確か飲みに行った時にも黄瀬がメニューを見ながらいろいろと食べたがっていた様子を思い出す。食い意地を張っているわけではないが、彼は好き嫌いもあまりないのだろう。なんとなく気になって尋ねてみた。
「嫌いな食べ物? あるっスよ。うなぎとか」
「うなぎ……」
「うん。子供の頃に骨が刺さっちゃってさ」
 軽いトラウマなんスよ、とおどけている。理由を聞いてなるほどと納得したものの、やはり黄瀬は味や食感云々で好まない食べ物というのはほとんど無いらしい。健康的で何よりだ。それでいてファーストフードも頻繁に利用し、けれど全く太らないなんてそりゃあ桃井も文句の一つや二つ言いたくなるだろうな、と内心で頷く。
 高身長とそれに伴ったバランスの良い体型や左右均整のとれた綺麗な顔、加えて苦労しない体質ともなれば、総合的に見て彼は本当に恵まれていると思わざるを得ない。これは本人の努力もあるだろうが、人当たりの良さとコミュニケーション力の高い部分も評価できよう。普段から表情も豊かで、見てて飽きず、彼のことを知れば知るほどこの業界の為に存在する極めて珍しい素材のようだと感じた。
(……こんな人間がよく日本で生まれたものだな)
 隣に目をやりながらぼんやり考えていると、「社長?」と不意打ちで顔を覗き込まれ我に返る。
「決まった?」
「あ……悪い。よく聞いてなかった」
「ええっ、あんたが聞いてきたのに……」
「ごめんごめん」
 おすすめのハンバーガーを順に紹介してくれていたのだろう黄瀬は口を尖らせた。そして軽く謝ったものの説明が耳に入ってこなかった僕は結局、お前が決めていいよ、と人任せなことを言ってしまう。
 彼は少し不服そうな反応をしながらも渋々了承してくれたようだ。前の二台が注文を終えたらしく、車を三メートルほど進ませてパワーウィンドウを下げた。
『いらっしゃいませ、こんばんはー』
 ご注文どうぞ、と落ち着いた女声がスピーカーから届く。初めてそれを目にした自分は黄瀬が淡々と注文しているのを見て、こうやってやるのかと一つ学んだ。確かにこれなら降りる手間が省けるし、騒然とした空間で食事をしなくて済む。コンビニに飽きたらこっちでも良いかもしれない。
 スピーカーの下には簡易的なメニュー表が掲示され、それを照らすように点けられた小さな電灯の周りに羽虫が集っていた。黄瀬の声は車内にも響き、まだその声音を世間に晒す仕事は受け持っていなくてよかったと言うべきなのだろう。この先、紙面の上や静止画のみの撮影から抜け出すこととなれば、彼の声だけで勘付くファンもきっと出てくる。
「えーと、じゃあそれのセットで……あ、社長、飲み物コーヒーでいい?」
 いきなり振り返って聞かれ、ああ、と生返事をしてしまった。さっきも飲んだばかりだというのに。
『承りました。ありがとうございます。前方に進んで少々お待ち下さいませ』
 オーダーは全て終わったらしい。指示の通りに車が進むと既に先に並んでいた乗用車は駐車場から出て行くところであり、店の裏側に設置された窓口から愛想の良い店員が顔を覗かせた。
「ご注文ありがとうございました。千八十円になります」
 若いアルバイトと思しき大学生だ。黄瀬は金額が示されると同時に、僕が乗車した際に後部座席へ移動させた鞄へと手を伸ばす。そこから財布を取り出している様子を見てはっとなった。奢ってもらうつもりは毛頭ないし自分が支払わなければと紙幣を出そうとしたら、ちょっと待って、と手首を掴んで止められてしまう。
「何だ?」
「いや、何だじゃなくて……これくらい払わせてよ」
 溜息をつき、まるで呆れるかのような口振りで吐き捨てた。が、特にそこまでされる理由も思い当たらず眉間に皺を寄せて「なぜ」と口にしかけたところで、それよりも先に強い口調で反論される。
「いいから! 社長は大人しくしてて」
 思った以上に真剣な顔つきで制され、驚いて瞬きをしている間に黄瀬はぱぱっと支払いを済ませていた。結局、右手に持った自分の財布は役立つ場面もないまま。ありがとうございました、ともう一度店員が頭を下げ、茶色の紙袋を受け取った彼が窓を閉める。
「……すまない」
 半ば呆然としながら呟くと、黄瀬は眉を下げて笑ってから財布を鞄へと戻しこう言った。
「千円も奢らないケチ臭い男だと思われてたんスか、俺」
「違うよ。そんなこと思ってない」
 けれど立場上、こういった食事において誰かに奢られるという経験はとても少ない。生まれ育った環境からしても必然的に常に上の人間でなければならなかった為、どんなに些細な額であろうと部下に払わせるなんて以ての外だ(この間の飲み会費用も玲央と小太郎の意見を押し切って後から僕が二人に合計額を渡した)。黄瀬とそういう関係性でなくともその癖は抜けない。――そんな言い訳を、口にすることはできなかった。
「……久しぶりだったな。他人に命令されたのは」
 代わりに先ほどの一言を思い出しておどけると、大人しくしてて、と強く言いつけたことを指しているのだと理解したようだ。
「え、あー、……すいません」
「ははっ、気にしてないよ」
 いきなりしおらしくなった態度が面白くてつい笑ってしまう。運転の邪魔になるだろうと思い彼の手から紙袋を受け取ると、まだ全体が暖かく、袋の口から微かにファーストフード独特の濃い匂いが漂った。
「じゃあ、あとは家まで送るから、おなかすいてたら食べててもいいっスよ」
 そして運転手の姿へと戻った黄瀬を見て、ふと一つの思考に辿り着く。そこから迷うような暇はなかった。アパートの建つ方面へ曲がるべく右ウィンカーを出した彼に、左、と咄嗟に言う。
「え?」
「左折してくれ」
「でもあんたの家あっち……」
「いいから。寄ってほしい場所がある」
 数分前の黄瀬と似た有無を言わさぬ口調で告げると、頭上に疑問符を浮かべながらも点滅するウィンカーが右から左へと変えられた。



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