仕事が終わっても自宅へ真っ直ぐ帰らないのはいつものことだった。向こうで暮らしていた時、友人に会う為によく外へ出ていたのだ。それは決まって夜が更けてからであり、日が昇る前まで友人に招待されたその場で過ごすことなどしょっちゅう。始発で帰宅してシャワーを浴び、そしてほんの少しの仮眠を取ってから再び仕事へ行くような日々を繰り返していた。あんな生活で体力を保てていたのは若さ故だろうと自分でも思う。今じゃ到底やってられない。
 とは言え、退社した後にどこかへ立ち寄ろうと勝手に動いてしまう足は相変わらずだ。最近はただ眠るだけでも自宅よりホテルを選ぶことがままある。ただ一つ取り違えないでほしいのは、僕は決してあのアパートに不満があるわけではなく、いろいろとこの目で見て体験して世間のあらゆるビジネスを吸収したいだけということだ。ホテルなんて特に学べるものの多い場所。彼らの働きぶりを実際に目にすると接客業の大変さがよくわかる。ファッションアドバイザーだってあれくらいの接客技術があるに越したことはないだろう。
「――放浪癖」
 不意打ちだった。突然、後ろから淡々と聞こえてきた声に思わず足が止まる。今日はどこに行こうかなと考えていたところで思考をシャットダウンされ振り返ると、いつの間にか自分の背後に立っていたテツヤはこう続けた。
「が、治ってないって言ってましたよ。あいつやっと帰ってきたくせに全然会わねえんだけど、って」
「……大輝か」
「正解です。自覚はあるようで安心しました」
 その流れでお疲れ様ですと缶コーヒーを渡されては受け取るしかない。もう帰るつもりでいたが、否、もう会社を出て駅周辺をぶらつくつもりでいたのだが、まずは放浪癖などと難癖をつけてくる旧友への弁解を優先すべきか。
「テツヤ、残業は?」
「……しませんなんて堂々と言えるわけないでしょう、社長相手に」
「あはは、今日は構わないよ。ちょっと話そう」
 そう笑って休憩室の方を顎で示すと、喫煙ルームじゃなくていいんですか、と返されて目を見張った。彼は確か僕が喫煙者だとは知らなかったはず――ああ、大輝か。


Mr.Perfect / Scene 02 - B part


「一昨日、青峰君と緑間君とちょっと食べに行ったんです。全部青峰君の奢りで」
「珍しい」
「その前にも予定してたんですけどすっぽかされたので」
 階段を一つ下りて四階の休憩室に行くと、先に休んでいた社員が僕の姿を見るなり会釈をしてそそくさとどこかへ去っていった。恐らくテツヤの姿は見えていなかっただろう。どん、と肩がぶつかってやっとその影が視界に入った社員は心底驚いたようだった。もう慣れたものだが、相変わらずの影の薄さだと思う。高校時代から全く変わっていない。
「大輝も忙しいのかな」
 おどけて言うと彼は眉を顰めて小さく溜息をつく。
「違いますよ、ただ寝過ごしたらしいです。……まあ、前日まで仕事が立て込んでたみたいですが」
 ローテーブルを挟んで向かい合わせに設置されているソファーに腰を下ろし、テツヤにも前に座るよう促して話を聞いた。それなりの広さを取っている休憩室には他にも長椅子がいくつか置いてある。二台の自販機も脇に備えられ、何か飲むかと尋ねるとテツヤは首を横に振った。自分はコーヒーを貰っておいて申し訳ない気持ちはあったが、欲しい時は素直に欲しいと言う奴だ、本当にいらないのだろう。
 缶のプルタブを開け、反対の手でネクタイを少し緩める。それから立て込んでいたという一言を反芻し、大輝の職を脳裏に思い浮かべた。
「じゃあ最近は都内に居たのか?」
「いえ、僕はよく知らないんですがとあるアーティストのツアーに同行していたとかで、全国を転々としてたって言ってました」
「ああ……だからアパートに居なかったのか」
 帰国してすぐ上の階の人間にも挨拶に行ったものの、大輝の部屋だけインターホンを押しても反応がなかった記憶は鮮明に残っている。職場から帰っていないのだろうとは考えたが、まさか日本を横断中だったなんて驚きだ。中学からの付き合いで今や同じアパートの住人でありながら、彼とはなかなか顔を合わす暇もない。
 三年前、ロスへ飛び立つ際に周囲には何も言わなかった。そのせいで放浪癖があるなどと非難されているのだろう、向こうに着いてからはこちらと交流も滅多にしていない。どうやらそのツアーは終わったようなので近いうちに会っておくかと思い至ったところで、僕の顔をまじまじと見ながらテツヤは口を開く。
「赤司君、まだあそこに住んでるんですね」
「ん? ああ、結構気に入ってるんだ。ここから近いし、閑散としてるし」
「閑散と、って……周りに何もないと不便じゃありませんか? 君は大都市で暮らしていたんだから、特に」
「いや、それがロサンゼルスって意外と田舎なんだよ。今は改善されてきたが、馬鹿広い割に昔は交通の便が驚くほど悪かった。駅が少ないんだ。移動手段は専ら車、ラックスで観光客を受け入れるだけ受け入れておいて、道路の渋滞は激しくなるばかりでね」
「ラックス?」
「エル・エー・エックス。ロサンゼルス国際空港のこと」
 なるほど、と相槌を打たれる。
「……ま、おかげで貿易は盛んだがな。アパレル産業は最先端を走ってるニューヨークと良い勝負だし、ご存じ多民族国家である為に街中を見渡すだけでいろいろなものが目に飛び込んでくる。あとはほら、ロスと言えばハリウッドやテーマパークが有名だろう? とにかくエンターテイメント性は溢れていたよ。……学ぶことは多かった」
 そこまで言い切ってコーヒーを一口飲み込むと、唇を結んで聞いていたテツヤが不意に柔らかく微笑んだ。
「初めてですね。赤司君が向こうのことを話してくれたのは」
 何故だか嬉しそうに言われ、不覚にも言葉に詰まる。思わず、視線を逸らすように瞼を伏せ、面白くないだろと考えもせずに返してしまった。
 確かに自らロスのことをこれだけ喋ったのは帰国後初めてかもしれない。仕事が終わって箍が緩んだか、勝手に動いていたこの口を微かに恨めしく思った。しかし相手は何が楽しいのやら珍しく笑ったまま言う。
「どこがですか。すごく面白いです、君の話は。本当はもっと聞きたいこともあるのに……青峰君の方が赤司君についてよく知っててびっくりしました」
「そうでもないと思うが」
「喫煙者だなんて初耳でしたよ」
「それはアパートのベランダで吸ってるところをたまたま見られたからだ。仕事中は持ち歩いてもいないし、寧ろ知ってるのがお前と、大輝くらい……」
「……赤司君?」
「あ……いや、なんでもない」
 くらいしかいない、と口にしようとして、もう違うことに気付いた。曖昧に濁して足を組み替える。
(何を言ってるんだ……)
 数日前に彼に知られたばかりだろう。あの時は本当に無意識に手が煙草へと伸びていて、余程気が抜けていたのだと思う。玲央や小太郎を家に泊めた時でさえ、あまり見られるのが嫌で灰皿を引き出しに隠したというのに。海外生活中に関わった人間は割と知っているが日本では極力気を付けていたのだ。
 喫煙者であることに引け目を感じておきながら、黄瀬の前では何の躊躇いもなく吸おうとしてしまった。それほどまでに彼を自分の内側へ受け入れている事実が不思議でたまらない。僕は人懐こい性格とは程遠いし、仕事に関係なく特別寛容になる相手なんて今まで誰一人として居なかったから、尚更。
 理由ははっきりしていないが、黄瀬の存在が自分の中で着実に大きくなっていることは確かだった。
「――赤司君」
 缶の中身に視線を落として考え込んでいたところで声を掛けられ、はっとなる。顔を上げるとテツヤはいつも通り感情の乏しい表情に戻り、少し迷いがちに口を開いた。
「僕は……ここで、上手くやっていけるでしょうか」
 そして静かに紡がれた一言は予想以上に真剣な声色で、自分を呼び止めた理由はそれだったかと理解する。どう答えるべきか逡巡しつつ、何も言わずに缶コーヒーを持ったまま僕は席を立った。俯いているテツヤの横を通り過ぎ、休憩室の窓際へと足を進める。「帝光に不安があるのか」背後に座っている彼へとそう尋ねた。
「……違います。ただ自分の力量がこの出版社に見合っているのか、……何せエリート集団ですから」
「少なくともオフィスクオーターのオファーに成功した時点で僕からの評価は高いよ、お前も」
「それは相手が知り合いだったからです」
「結構なことじゃないか。人脈の広さも業界では重要だ」
 シャッ、とブラインドを開けながら言い切るとテツヤは口を噤んでしまう。納得できていないのかもしれない。
 四階から覗いた外の景色は夜の八時ともなればすっかり暗くなり、家路を辿る会社員の姿が多く見えた。前の大通りでは車が絶え間なく走り続け、十字路の周辺は混雑を極めている。この道を進んだ先にはネオン街も広がっているものの、まだ残業に苛まれている多数の会社から漏れ出る無機質な明かりが夜道を照らすばかりだ。
 テツヤ、と静寂を破るように名を呼ぶ。
「この世界に居て、何もかも真っ向勝負で通用するとは思うなよ」
 体を反転させて告げれば、いつの間にか彼もソファーから立ち上がり僕と向き合っていた。
「お前が嫌いそうな卑怯な手段を僕はいくつも使ってる。……それが認められないなら正直、お前にこの仕事は向かない」
「わかってます。でも……」
「……何だ」
 言い淀んで目線を下げる相手の続きを催促するように問う。すると意を決したように拳を柔く握り、こちらを見上げたテツヤは思いのほかしっかりとした口調で「でも」と反論した。
「僕は君が言うほど、君は、卑怯な手段を使ってないと思います」
 それは予想していなかった台詞であり、僅かに眉を寄せ、瞬きを一度してから咀嚼する。どこかで聞いた覚えのある響きだと考えを巡らし、そしてすぐに思い出した。確かテツヤと同じように、彼も。

――付け込むなんてそんな卑怯な手、使われた覚えないんスけど。

 あの一晩から既に三日が経とうとしている。
 皆して何を根拠に断言しているのかわからない。擁護する相手くらい選べと言いたいところだが、黄瀬も、テツヤも、そういうことを告げる時に限って意志の強い態度で堂々と宣言してくるのだ。
「……まったく、どいつもこいつも……」
 馬鹿ばかりだな、と小さく悪態をつきながら顔を逸らし、不覚にも口元が緩みそうになるのを抑える。まさか嬉しがってなどいないはずだ。こんな言葉一つで。
「まあ……好きに捉えるといいよ。僕が言いたいのは、ここで成長したいなら少しは狡賢くなれということだ。桃井さつきに対する行動の早さと確信性はかなり良かった。結果も伴ってる。上がそう評価しているんだから自分の功績は素直に受け入れて糧にしろ、マスコミの下請け業者に就きたくなければな」
「はい。……ありがとうございます」
 まだ全てのわだかまりが消化できているようではなかったが、ゆっくりと頭を下げて返事が返ってくる。その様子を見ながら窓に軽く凭れて残り半分ほどのコーヒーに口をつけた。ごくんと苦みの効いたそれを飲み込み、あと、と付け足す。
「不安なら、もしもの時の為にリスクヘッジの一つでも考えておくといい。線路に飛び込まなくて済むぞ」
 口角を上げておどけると、恐ろしいこと言わないでください、と間髪を容れずに一言。「そうならないように頑張れ」目を伏せて助言し、そろそろ休憩室を出ようと壁から背中を離した時だった。
「……あれ」
 ふと、テツヤが首を傾げて呟く。何かを見つけたような口振りに加え、彼の視線は僕の背後へと向けられていた。
「……あの人って、もしかして」
「ん?」
 指を差して示された方向へ振り返り、そのまま窓の外に目をやる。
「通りに停車している車の中に居る人、見えますか?」
 僕の隣に並んだテツヤがそう尋ねてくるが、一台の車が止まっていることはわかってもその奥までは明瞭に映らなかった。
「悪いが視力はあまり良くないんだ」
「……赤司君って意外と健康的じゃないですよね」
「失礼だな」
 出来る限りまで目を細めて凝視するもののやはりぼやけてしまう。しかし指摘されれば気になるというもので、窓枠に手を付いて食い入るように見詰めていると今度は別の人間が自分を呼び止めた。赤司、と休憩室の入口から百九十を超える高身長の友人の声。首だけ後ろに向ければその左手には缶入りのおしるこが握られている。
「緑間君。もう帰るんですか?」
「ああ、そのつもりなのだよ。ただ明後日のことで赤司に少し確認を取りたくて……って、聞いてるのか」
「真太郎、すまない。ちょっと眼鏡貸してくれ」
「は? あっ、おい!」
 何をするのだよ! と怒鳴られてしまったがちょうど良いタイミングで現れるお前が悪い。さっと奪い取った彼の眼鏡を掛けて再び外へ目線をやった。途端、視界はくっきりと輪郭を持ったけれど思った以上に度がキツく、僅かに目が眩む。
「……何なのだよ、一体」
「珍しいものが外にあるんです」
「珍しいもの? ……というか赤司、お前コンタクトは」
「さっき外したばかりでさ」
 慣れないコンタクトはパソコンを閉じてすぐに取るのが常だ。恐らく今は何も見えず状況が全く把握できていない真太郎に内心で謝りつつ、そしてレンズ越しに映った人影に目を見張った。
 帝光出版の前に先ほどから止まっている藍色の乗用車。至って普通の車の運転席に座っている、その男は。
「――黄瀬……?」
 瞳を丸くしたままぽつりと口から零れ落ちる。予想だにしていなかった正体に素直に驚き、ぱちぱちと瞬きを繰り返して暫く固まってしまった。すると「やっぱりあれが黄瀬涼太なんですか」と隣でテツヤが呟いた。そうか、彼らはまだ黄瀬に直接会ったことがないのだ。
「うちに用があるみたいですね」
 黄瀬に焦点を当てて言われた台詞には頷かざるを得ない。車から降りようとはしないのは周囲に一般人が多く歩いているからだろうが、エンジンを止めて会社のロビーを遠目に見ているようだ。入るのを躊躇っているのか?
 帝光出版本社などカーナビに入力すれば一発で辿り着く。しかし当然、社に足を踏み入れるは何かの関係者であることを示さなければならない。まあ彼の場合はその顔を晒せば難なく通されるとは思うけれど、それはなるべく避けたいのだろう。用件が私情ならば尚のことだ。
「眼鏡、ありがとう」
 掛けていたそれを外して真太郎に返し、残りのコーヒーを全て飲み干す。間もなく休憩室を出て行くべく足を踏み出すと驚いたことにすぐに呼び止められた。会いに行くのか、と。振り返れば、眼鏡を掛け直した真太郎が納得できないとでも言いたげな表情でこちらを見ている。
「仕事なら放置するわけにはいかないだろう」
「こんな時間にマネージャーも連れずいきなり訪ねてくるなんてありえないのだよ。明らかにあいつが、お前一人の為に」
「真太郎」
 勢いに任せて根拠のない主張を並べようとする口を制した。すると彼はぐっと言葉を堪え、僕から視線を逸らす。外の景色を見終えてこちらに向き直ったテツヤは黙っていた。「で、何の確認を取りたいって?」脈絡も何もなく、今更わざとらしく用件を聞くなんて自分でもタチが悪いと思ったが、真太郎は眉根を寄せながらも当初の目的を果たそうと話題を転換する。
「……明後日のモデルに対するインタビューは、ヨウセンから紫原が請け負い、そのデータ回収の為に黒子が付き添うという予定のままでいいのか」
 彼の仕事とプライベートをきっちり分別する性格は買っている。顰め面のまま寄越された予想通りの質問に躊躇うことなく頷こうとしたが、どうせならと容易く切り替わった思考のせいで自分の口は別の返事を導き出した。
「真太郎、お前も付いていくか?」
「……え?」
「黄瀬に会ってみたいだろう」
「いや、」
「決定だな」
 相手が口籠っている間にそう明言すると、突飛な命令を受けて動揺と困惑の色は見え隠れしたものの結局それ以上の反抗はなかった。言い返しても無駄だと考えたのだろう。正しい判断だ。
 軽くなった空き缶を自販機の横に設置されたごみ箱を目がけて投げ入れる前、ご馳走様、とテツヤに向かって端的に礼を告げる。
「明後日、敦のサポートは二人に任せる。真太郎はテツヤから詳細を聞いておくこと。仕事自体はヨウセンの方で勝手に済ませてくれるとは思うが、くれぐれも無礼のないように気を付けろよ。……特にオフィスクオーターはうちにとって今後最大の戦力と成り得るからな」
 そして右手から放たれた空き缶が縁に当たることもなく穴へと吸い込まれ、底に落下した音のみが休憩室に響いた。
「はい。お疲れ様です」
「……わかったのだよ」
 肯定の返答を聞いた後に「じゃあご苦労様」と声を掛けて二人を残し、鞄を取りに行こうと一度五階へ戻る。そこは『TiPOFF』編集長として自分のデスクも置いてある一室であり、今回ファッション誌編集に選出された社員が何人か残っていた。『TiPOFF』に費やす人員はあまり多くはないものの、その分功績を積んだ優秀な人間が当てられている。
 真太郎を引き抜いた時、彼は快く承諾したわけではなかった。元々興味の範疇外であったのだろうし、アパレル関係の雑誌についてはここ、帝光出版本社による取り扱いだ。本社へ来るということは傘下より発行されているミステリー小説やエッセイなどの彼が担当していた作家から離れなければならない。それはできないと何度か断られもしたが、自分の父――会長ではなく僕が直々に編集長として就く、協力してほしいと言ったら、かなり迷った末に副編集長の待遇を受け入れてくれた。
 が、昔からモデルを含め芸能人には好印象を抱いていないような男だ。彼を抜擢した理由は完全にその編集能力とレスポンシビリティーの高さにあり、モデルやデザイナーとの接触はなるべく避けた方がいいだろうと僕自身判断していた。だからインタビューなんて仕事はフレキシブルな対応を得意とするテツヤに任せたのだけれど――事情が変わった。真太郎があまりに黄瀬を良く思っていない。本人は自覚がないようにも見えたが、決して良しとは言えない先入観を持ったまま『TiPOFF』の編集に取り組んで、最高の作品が出来上がるとは到底考えられなかった。
 これから『モデルの黄瀬涼太』と関わっていかなければならない、その事実を、まずは認めさせないと駄目だ。そう考えて明後日の仕事に加えたものの、正直なところ吉と出るか凶と出るかは何とも言えない。
(上手くいくといいが……)
 きっと彼の中に芽生えている不信感は僕の行いも関係している。今こうして黄瀬のもとへ行こうとして、呼び止められたのが何よりの証拠だろう。
 真太郎の言葉は遮ったけれど否定はしなかった。自分だって理解していないはずがなかったのだ。黄瀬の用件は仕事上ではないのだと、それは彼の言う通りあの敏腕なマネージャーが介入していない様子を見れば一目瞭然だ。
 エレベーターを使って一階まで下り、事務処理をしていた受付嬢にお疲れ様と一言告げて外へ出る。最近は暖かな日々が続いているが、そろそろ雨が降ると今朝の天気予報で低気圧と共に示されていたのを思い出した。夜空に星も月も見えないのは広く立ち込める雲のせいだろう。
 生温い風が前髪を揺らす。四階の窓から見つけた車はまだそこに停車していたものの、しかし中に居る人間はハンドルに凭れるようにしてスマホを弄っていた。おかげで外の景色は全く視界に入っていないようで、近くへ寄って窓ガラスを二回ノックすると、こちらを見上げた視線と視線が絡み合う。向こうは前と同じくサングラスを掛けていたが、目を見開いて心底驚く様子は隠し切れていない。
「……社長」
 パワーウィンドウが下がり、黄瀬は小さく呟いた。
「なんでここに」
「こっちの台詞だ」
「……ですよね……」
 間髪を容れずに言い返すと気まずそうに視線を逸らされる。私服に身を包んだ黄瀬は髪をセットしているわけでもなく完全にオフの格好で、右手にあった赤いスマホを仕舞いながら、いきなり来てごめん、と目も見ずに謝られた。その後ろめたさがちらつく素振りに自分も居た堪れなくなって、つい車窓の奥に見える整った横顔から顔を背けてしまう。
「まったくだな、アポくらい取っておくべきだ。まあ……仕事中なら、の話だが」
 すると会社の入口でこれから飲みにでも行くのだろう社員数人の集団が視界の端に映り、ここで立ち止まったまま彼の姿を目撃されるのはまずいと判断した瞬間に口が動いていた。ぽつりと零したその言葉を咀嚼した黄瀬が漸くこちらを見上げる。
 僅かな間を置いて、サングラス越しに見詰め合った一、二秒間で相変わらず透き通った綺麗な瞳を持っていると思った。しかしそんな風に見られているとはきっと考えもつかないのだろう。黄瀬はふっと目を細めて笑い、前方へ向き直ってエンジンを掛ける。
 そして、あんただって、と口角を上げて続けられた台詞に僕は眉を寄せた。
「仕事のつもりで俺んとこ来たなら、ちゃんと締めてるはずでしょ」
「何をだ?」
「ネクタイ」
 首元を指差して即答され、驚くほかなかった。視線を落とせば確かにだらしなく緩めたそれが映り、慌てて締め直す。
「……なんで知ってるんだ」
「ミブチさん達に教えてもらったっス。気を抜く時はちょっと緩めるんだって」
 玲央のやつ……。
「ちなみに俺の前だと緊張してるから、仕事終わって飲みに行った時でもネクタイ緩めなかったんスよね?」
「緊張? それは違うな、この間の飲みに行った際はまだ互いに親しい関係ではないから礼儀を正そうと」
「ってことは、一回寝たから俺達もう『親しい関係』っスか」
「……ちがう」
「顔赤いよ」
 しまったと後悔する。馬鹿を見た。ネクタイに手を掛けたのは先ほどテツヤと話す前だったが、それを言い訳に使えるほど自分が優位に立てていないことなどわかっていた。僕の気が緩んでいる隙を突かれた事実に変わりはない。
 からかうつもりが逆手に取られ、羞恥を紛らわすように小さく舌打ちをする。一方、さっきまでの戸惑った様子はどこへ行ったのやら笑みを崩さない彼はすこぶる機嫌が良いらしい。
「……もういい、好きにしろ。今日の仕事は終わりだ」
 黄瀬が思ったよりも口の上手い男であることはこの先も忘れてはならないだろう。
「ん。じゃあ乗って」
 ここまで上手く丸め込まれてそんな有無を言わさない一言を告げられては、珍しく僕が相手に流されるという失態に繋がっても仕方がないと割り切った方が早かった。同時に三日前の氷室さんとの会話を思い出し、また二の舞を踏んだらどうしようと言う不安がなかったわけではない。けれど黄瀬ならいいか、どうにかなるだろう、と何がいいのかもわからないまま彼を受け入れている感覚が理性を少しずつ、しかし確実に侵食していっている。おかしい。
「……安全運転してくれよ」
 そう言って、助手席へと回る足は不思議と重くなかった。



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