体育祭は九月上旬に行われる。それまでの二週間を切った短い期間で、オレ達は放課後、部活の前にリレーの練習も兼ねるようになった。青峰っちが言っていた通りほとんどはバトンパスの練習だったが、毎日最初と最後には四百メートルのタイムも計る。リレーは一人ずつ校庭一周、計二千メートルというルールだ。
「……よし、やはり全員タイムに問題はないな」
 右手に持ったストップウオッチと記録用紙に目をやりながら赤司っちがそう呟く。走者順に主将が記録を取り、赤司っちのタイムは緑間っちが計っていた。多少の差はあるが一人残らず一分を切る好成績、伊達に日々外周をさせられているわけではないことを実感する。
 リレーの練習を開始して三日が経ち、現時点で一番速いタイムは青峰っちの五十三.四秒だった。この人だけは毎回五十五秒を切っていて、赤司っちが言うには陸上部と充分に張り合っているらしい。
 一般的に四百メートルは運動部でなければ七十秒台も難しいとのことで、中三の陸上部で平均が五十五秒から六十秒程度。オレと緑間っちは大抵五十七秒か八秒あたりをうろつき、紫原っちはオレ達より数秒遅い。そしてなんということか、我らが主将は遅くても五十五秒台、加えて青峰っちに続き二人目の五十秒台前半を叩き出した走者なのだった。――正直、驚きを隠せない。
「赤司っちって、足速かったんだ……」
 トラック競技において一、二秒の違いは天と地ほどの差となる。データを整理している主将と副主将を眺めながら思わず独り言を零すと、それが聞こえたらしい他の二人に声を掛けられた。
「え、お前、赤司のこと足遅いと思ってたのか?」
「赤ちんめっちゃすばしっこいじゃん」
 紫原っちの言い分はいまいちピンと来なかったが。
「いや、どっちかって言うと長距離走向きかなって思ってたんスよ」
 外周の時に先頭を走るにしても常に一定のペースを保ち、試合中でもオレ達より一回り小さな体型でありながらかなり持久力の高い選手であることは知っている。おかげで単発型のイメージはあまり頭になかった。ここだけの話、オレより遅いだろうなんて思っていたのも事実だ。決して嘗めていたわけではなく、日頃のプレーを見てそう判断したまでである。
 それがこんなに速いとは想定外であり、ますますあの人の完璧さが印象に残るばかりだった。するとオレの返答に青峰っちは「あー」と半ば納得したように口を開く。
「まあ、あいつ部活ん時もダッシュは得意じゃないとか言ってたからな……どこがだよって感じだけど」
 そう話しているうちに紫原っちは主将達の方へ近寄って何か話し掛けていた。オレも本人のことは本人に聞きたいと思うのに、それができない距離感がもどかしい。あれから赤司っちと二人で言葉を交わした回数など片手で数えられるほどである上、部活の連絡や体育祭のことを含めた事務的な会話しかしていなかった。何一つとして、状況は変わっていないのだ。
「青峰っちさ、体力テストのシャトルランどこまでいった?」
「あ? なんだよ急に」
「参考までにっスよ」
 こうして皆と居る時は気を紛らわす為に、青峰っちや緑間っちに話し掛けることも増えたように思う。
「そんなの覚えてねー……百は超えたんじゃね」
「え、マジ? 意外と真面目にやったんスね」
「赤司が一緒だったんだよ。あいつも余裕で百超えやがって、なんか負けたくなかった」
「あれ、青峰っちってあの人とクラス違うでしょ?」
「合同体育」
 なるほど羨ましいなんて思ってない。嘘です。
「で、どっちが勝ったんスか」
 そこでタイムの記録整理を終えたらしい緑間っちに「体育館へ戻るのだよ」と数メートル先から振り返って呼ばれる。主将と紫原っちはもう校庭を去ろうとしていて、その後ろ姿は遠く見えた。
 リレー練習の際のみ、少しの間はグラウンドを借りられることになっている。陸上部が集合する前にタイムを計ってしまおうとホームルームが終わればオレ達はすぐにここへ集まり、そして一走りした後は体育館でバトンパスの練習へと移行した。青峰っちの返事を待ちつつ、自分達も彼らの後を追う。
「ちなみにお前はどっちだと思う」
 暑い日差しに目を眇めながらそう尋ねられ、えぇ、と思わず不平を言い立ててしまった。
「それ聞くなんて卑怯っスよ……でもチクられたら怖いし赤司っちで」
「はは、賢明だわ。オレが勝ったけど」
 あっさりと明かされた勝敗に目を見開く。馬鹿な。
「うっそ、え、ホントに?」
「授業が終わらないからってあいつが教師に止められてた」
「なんスかそれ」
 続けてたら青峰っちが負けてたんじゃないの、とは言わないでおく。この人もそれを自覚しているからまずオレに聞いてきたのだろうと思ったからだ。
 そんなことよりも、誰かが赤司っちの話をしている、自分の見ていない赤司っちの姿を知っている、たったそれだけの事実で心が暗く曇るのを否めない自分を確かに感じた。果たして嫉妬心か独占欲か――あの人が目の届くところに居ない分、以前より明確に浮き彫りとなるおよそ綺麗じゃない感情。こんなに離れてしまうならいっそ告白なんてしなければよかった。と、そう後悔することだけは憚られたが、しかし現実とは甘くない。諦める努力なんてものをいつか学ばなければならないのだろうとも思った。
 想いを隠し通してきた間は抱え込むことが辛くなってもう言ってしまえとあんな風に告白をしたが、伝えたら伝えたで今度は言わなければよかったと悔やんでしまう。結局、あの人に恋をした時点で何もかもオレの思い通りにはならないのだ。
 バッシュに履き替えて校舎へ戻ると、赤司っちは職員室へバトンを取りに行ったらしい。主将の姿が見当たらないまま普段は三軍が使っている第三体育館の方へ向かう。外の日照りもほとほと嫌になるが、冷房などそもそも付いていない体育館はもっと蒸し暑かった。Tシャツが汗でべっとりと背中に張り付く。とは言え毎日のようにここで汗を流して動いているのだから、今更文句を言う気も起きない。
 全面コートの三分の二を使ってアップが開始された三軍の部員は見知らぬ人間ばかりだった。まだボールを持ったメニューでさえないが、自分達と歴然とした実力差があるのは見て取れる。入部して半年経っても、初心者というレッテルが外れない選手も多い。
「黄瀬」
 その様子をぼんやりと眺めていると不意に声を掛けられ、小さく肩が跳ねた。
「……赤司っち」
 振り返って尚のこと驚く。いつの間に戻っていたんだ。
「始めるよ、バトンパスの練習。お前は向こうだろう」
「あ……うん、ごめん」
 久々に彼の方から話し掛けられて一瞬何かと思ったが、やっぱり会話の内容なんてそんなもので。あからさまに凹みかけたがすぐに声の調子を戻して謝り、示された位置へと足を進める。初めは五メートル間隔で一列に並び、走らずにバトンの感触を掴む練習だ。
「はい」
 掛け声を忘れてはならない。渡される一歩手前で緑間っちから合図があり、同時にオレは手の平を返さずに右手を後ろに持っていく。バトンを受け取ったら左に持ち替えながら歩き、はい、と同様に赤司っちへとパスする。渡し終えた後は赤司っちの前に予め青峰っちが並んでいて、そこからまた順に続けていくというエンドレスの練習法。これを軽く十分から十五分ほどは淡々とやり続け、そのうちにバトンの長さや掴み方、相手に渡す時の腕の高さなどを覚える。赤司っちはオレより背が低い分、通常よりも高く上げようと意識しているようだった。
 いつも後ろ姿しか見ることのないこの練習は正直に言って楽だ。赤い髪が揺れている。触りたい。――でも、ただ見詰めるだけで決してその背中に触れてはならない自制心も、近付いたと思えば離れていく距離感も、なぜリレー如きでそんな戒めを思い知らされなければならないんだと無闇に苛立った。
(きっついなー……)
 はあ、と人知れず溜息をつく。
 ここまでは別に何番の走者でも問題ないが、次のテークオーバーゾーンを意識して本格的に開始されるバトンパスの練習はそれなりに大変なのだった。リレーは個人の走力ももちろん大切だが、同じくらいパスがいかに自然に通るかも重要となってくる。基準点から前後十メートルずつ、合わせて二十メートルを区域とするテークオーバーゾーン内でバトンを渡さなければ失格だ。
「紫原、パスの時に減速するな。スピードを落とさずに渡すんだ」
「えーだってミドチン走り出すの遅いんだもん」
「お前が掛け声を怠るからタイミングが掴めないんだろう!」
「はあ? ちゃんとやってんじゃん」
「どこがなのだよ」
 要するに上手くいかないとこうなる。喧嘩するな、と半ば呆れたように二人の仲介役に回る赤司っちを横目で見やった。
 青峰っちから紫原っちへのパスはあまり失敗したことがない。青峰っちはいつもタイムがぶれないし、紫原っちのスタートを切るタイミングが毎度の如く適当極まりなくとも必ず追い付ける実力があるからだろう。そもそもこの二人はバスケをしていても割と自分の感覚で好きに動くタイプだ。ミスをしたらしたでお互い特に何も言わないが、次の時には直感で動いて改善されるという、チーム最強のOFとDFはなかなか良いコンビネーションを見せているのだった。本人達は少しも気付いていないだろうけれど。
 逆に言えば、バスケにおいても正確さを求める緑間っちに対して紫原っちとの相性は決して良いとは言えなかった。確かに掛け声はちゃんとしているものの、毎回異なった位置で合図を掛けられればむやみやたらと前には出られない。緑間っちより紫原っちの方がタイム自体遅いというのも相まって、テークオーバーゾーンを越えたら、という不安が緑間っちの中にあるのだろう。だからスタートがいつも僅かに遅れる。
「なかなか成功しないっスねえ」
 大分見慣れた言い合いを悠長に眺めていると、紫原っちにパスをし終えて退屈そうにしていた青峰っちが口を開いた。お前ひとのこと言えんのかよ、と。
「え? 緑間っちとは結構上手くいってるっスよ。あの人とタイム近いし、パスのタイミング絶対同じだし」
「緑間とは、な」
 そんな強調されなくともわかってる。
「……オレのタイムがあと二秒速ければ、赤司っちとのパスも楽なんスけどね」
 頭を掻きながら苦笑すると、「オレもあいつにだけはパス回したくねえ」なんて返された。あんたなら十分追い付けるだろうに何を言っているんだとは、口にできない。
 言った通り、緑間っちから自分への受け取りはほとんど成功している。スピードと身長を同じくしている選手であればあるほどパスは容易だ。そしていつもと変わらず人事を尽くしている彼は『はい』と声を掛ける瞬間が常に一定であり、一度タイミングを掴めばあとは簡単だった。――が、最大の難関はオレからアンカーへのパスと言えるだろう。
 ぶっちゃけ、かなりキツい。
「主将ほんとに足速いんスよね……」
 思わず零れた呟きは独り言となって霧散した。
 彼がボールを持った上でのスピード勝負に強いことは知っていたが、まさか単純に陸上競技でここまでの実力を持っているとは思わなかったのだ。青峰っちに匹敵する速力は当然ながら、スタートを切ってからトップスピードにまで持っていく時間が異様なまでに短い。調子が良ければテークオーバーゾーン内でそれも可能としている。正直、陸上部に転向しても普通にやっていけるんじゃないかとさえ思った。
 そしてオレが追い付こうと本気を出しても、上手く渡せた回数は片手で数えられるほど。最後に減速せず赤司っちの右手へとバトンを伸ばすが、全速力で走りながらこの身長差を考慮してパスをするのは意外にも難易度が高いのだった。――今のように。
「黄瀬ちん赤ちん、ライン出てるよー」
 オレ達の番が回ってきてバトンパスを試みるが、紫原っちの声によって赤司っちの足が止まる。まただ。自分が相手に追い付いていない為に、失敗する時は大抵二十メートルのラインを越えて渡してしまうパターンだった。
「……すいませんっス」
「いや、謝らなくていい。オレも今のは走り出すタイミングが早かった」
 そうは言ってくれるものの違うだろう。青峰っちだったら追い付いていた。ただ単にオレが遅くて、届かなかったのだ。自分の力量不足に舌打ちをする。
 テークオーバーゾーン内では渡す側の選手が次の選手を追い抜く勢いで走り通すのがベストとされている。しかしこれでは追い抜くどころかバトンを受け渡しできるかさえも曖昧であり、このまま赤司っちが最速を保っても意味がないことは明らかになりつつあった。案の定、向こうから提案を持ち掛けられる。
「次からはもう少し遅めにスタートしよう」
 この一言はオレにとってかなり屈辱的なものではあったが、実際そうするしか術はなかった。無理をしても失格となれば元も子もない。青峰っちとオレの走順をチェンジ、という案も一度は出たものの、紫原っちへのパスを今の状態から崩すのは勿体ないと結論付けられて実行に移すことはなかった。それに赤司っちは言うのだ。黄瀬なら大丈夫だと。
 迷いのないその言葉にどれほどの意味が詰まっているのかわからず、今の自分には寧ろ気遣われているようにしか感じないのが本音だった。なんとなく、以前だったらオレのタイムをもっと伸ばすようにと喝を入れられていた気がする。けれど今はこうして赤司っちの方が妥協しているわけだ。この短期間で足を速くすることに可能性を見出せないからかもしれないが、オレと深く関わるのを拒んでいるのだと思えてならなかった。卑屈に考え過ぎだと言われればそれまでだとは言え、オレではあの人に追い付けないと暗に見切られたという事実も、相変わらず彼の両眼に自分は移されない現状も、全てが重なってオレを落胆させる。涙も出ない。
 ただ、苦しい。







 体育祭まで残り三日となった。明日と明後日は準備期間の為に部活動は禁止され、自分達も入場門やテントの建設に駆り出される。今日まで欠かさずバスケに多くの時間を費やしてきたが、体育祭が近付くにつれ、だんだんとリレーの練習にも比重が傾くようになっていった。体育館で行っていたバトンパスの練習も、普段外周で走っている校外を使い始める。アスファルトと校庭の砂とでは大分感触も違ってくるがそれ以上に、バッシュより運動靴に慣れるという意図を優先する為だ。
 一週間前から四百メートルも各自三本以上は走るようになり、来た者からどんどんタイムを計っていく。昨日、オレは初めて五十六秒台に乗って内心で喜んだ。少しでもあの人との差を縮めたかった。それがタイムなのか想いの距離なのかはわからなかったが、とにかく自己最高記録を塗り替えられたのは嬉しい。しかし一度良い記録を残せたからと言ってそれが続くかと言えば否であり、たった今計ったところ一本目は五十七.一秒、二本目は七.六秒、そして最後が七.二秒という結果だった。
「まぁこれくらいなら平気なんじゃねーの」
「青峰っちに言われても嫌味にしか聞こえないんスけど……」
「ちげーよ。赤司もそう言うだろって意味で」
 何故いきなり赤司っちの名前を出したんだ。自分でも大袈裟なまでに反応してしまうからやめてほしい。
「そ……そういえばまだ来てないんスね、赤司っち」
 誤魔化すように、辺りを見渡して思ったことを口にする。自分を含め他の四人は既に集合してタイムも計り始めているのに、肝心のアンカーがなかなか姿を現さない。またホームルームが延びているのだろうかと思っていると、緑間っちが「恐らくコーチのところでミーティングをしているのだよ」と答えた。こんな時でも相変わらず主将として忙しそうだ。自分達の間では未だに何の進展もなく、ここ数日、あの人のことが前以上にわからなくなっているように思う。
(……今までで一番、遠いなあ……)
 出会った頃よりも、名前すら知らなかった頃よりも、手を伸ばせば届く距離には居るはずなのに。
 しかし苦しいという感情も徐々に枯渇していったのか、次第にオレは何も感じなくなっていった。告白をしたあの日にこの恋は終わっていたんだと思うようになった。でなければもうやり過ごせないのだ。一向に赤司っちから話し掛けられる様子もなく、返事など待たずとも状況を考えれば一目瞭然。失恋したんだ。友達に戻れる見込みもない。無駄な足掻きはやめて、せめて赤司っちに気を遣わなくていいと言うべきだろうかと、そんなことまで考え始めた。あの人が、『ちゃんと考えたい』と言った時に抱いた僅かな期待さえ忘れて。
 後から来た紫原っちがタイムを計っている最中、渇いた喉を潤そうと鞄に手を伸ばした。が、そこで水筒を教室に置き忘れていたことに気付き、緑間っちに一言断って校舎へと踵を返す。
「寄り道しないですぐ戻ってくるのだよ」
「わかってるっスよ」
 部活や委員会の活動が既に始まっているこの時間、オレのクラスに辿り着くまでの廊下にほとんど人影はない。すれ違った何人かの教師に挨拶をしつつ、三階の一番端の教室へ向かった。方角的に、四時頃の太陽が最も綺麗に差し込む一室だ。日中が長い夏、夕焼けには程遠いが、それでも輝く日差しは眩しかった。きらりと視界が色を持つ。
――教室の前まで来て、足が竦んだのはその為だと思いたかった。
「っ……」
 開けっ放しの入口から室内が見え、映った光景に息を呑む。それはあまりに不意打ちで。中には誰も居ないと思っていたのに、窓際の後ろから二番目、オレの席。
 太陽の光にも馴染むルビーの色彩が映えていた。
「……赤司っち……」
 ぽつりと無意識に唇から零れ落ちる。自分の耳にも届くか届かないかくらいの声量ではあったが、二人きりの閑散とした空間にそれはよく響いた。おかげでオレがいつも使っている机の傍に立ち、水筒が置き去りにされたままの机上を指先で撫でていた彼がゆっくりとこちらに振り向く。そして自分の姿を捉えるなりその両目は大きく見開かれ、驚きを隠せないようだった。ミーティングではなかったのか。
――黄瀬、と静かに名を紡がれる。オレが惹かれた声だ。ただそれだけで、愛しい唇から名前を呼ばれるだけで、救われたように喜ぶ心臓には気付かないふりをした。
 最後に教室を出た者が戸締りを怠ったのか、開放された窓から柔く風が吹いて真っ赤な髪が靡く。たった数秒、言葉も瞬きも忘れて視線と視線を交錯させた時間がひどく永く感じられた。あの瞳に、自分はいつだって引き寄せられるのだろう。――しかしそう茫然とするのも束の間、先に我に返ったのは赤司っちの方だった。
 はっとなったように教室から出て行こうとする。が、同時に上腿がオレの机に当たったらしく、ガタン、と反動で水筒が倒れて床に落下した。一瞬何が起こったのか状況把握に手間取ったが、律儀にもそれを慌てて拾おうとする赤司っちを見て、この足は勝手に動いていたのだ。
 本当に久しぶりに二人きりになったことを頭が理解し、居ても立っても居られなかった。
「待って、赤司っち」
 オレが教室へ入ったのを足音で察知した赤司っちはもうこの場から離れたい一心でいっぱいいっぱいだったらしく、手にした水筒を持ったまま机に戻すことなく逃げ出そうとする。いやそれオレのだしそんなに露骨に逃げられるとさすがに傷つくんだけど。
 構わず机の合間を縫って彼の右手首を後ろから掴んだ。瞬間、再び教室のタイルへと滑り落ちたそれから嫌な金属音が鳴ったものの、中身が漏れることもなく損傷などは心底どうでもよかった。
「ッ……離せ、黄瀬」
「嫌っス」
 決してオレの方を見ようとはしない。
「ねえ、なんでこんなところに居るんスか?」
 それが自分でも意地の悪い質問だということはわかっていた。こんな風に聞かれては赤司っちも言葉に詰まってしまうだろうし、現に振り返らずに俯いたまま黙り込んでいる様子は予想の範囲内だ。お前には関係ないなどとはまさか言えまい。赤司っちとクラスの違うオレの教室になんて本来は来る必要もない上、間違えたなんて口実も通用するわけがないのだから。
「……この、教室に……少し用があって、」
「じゃあなんでオレの席に居たの」
 追い打ちをかけるように問うと、短い沈黙の後に小さな赤い頭がふるふると左右に揺れる。何も言い返せない、そういう意味だろう。その動作で今のオレはとても優しいとは言えない行動に出ているのだと改めて実感した。手首を握り締めていた力を緩め、けれど逃がさないよう、赤司っちを挟むようにしてもう片方の手を机に突く。
 長い前髪が下を向くことによって表情を隠してしまっていた。よくよく考えれば自分のことを不健全な目で見ている男に捕まりそうなのだ、逃げようとして当然なのかもしれない。
「……ごめん赤司っち、責めるつもりじゃなかったんスよ」
 居た堪れない静寂を破りたいが故に、半ば思考を放棄すると同時に身も蓋もない台詞が口を衝いて出た。「返事、考えてくれた?」と。
 失恋したのだと言い聞かせていた心が嘘のように見当たらない。あれほど虚無感を抱いていたというのに本人を前にした途端これだ。二十センチもない互いの距離を心底望んでいた自分を感じ、笑えないな、と思った。
 無かったことにはされたくなかった。イエスにしてもノーにしても、ちゃんと赤司っちの口から赤司っちの本心を聞きたいと今になって図々しくも願った。するとずっと結ばれていた唇が、静かに息を吸って「考えたよ」と告げ、どくりと心拍が鳴る。相手にだけは聞こえてほしくない心音。
「二週間、ちゃんと考えた。……返事を待たせて悪いとも思った」
「……ん」
「でも、」
 言い掛けて漸くこちらを見上げた視線は、凛としていた。
「でも……、答えが出ないんだ」
――なんとなく、予感はしていたのかもしれない。これだけ待っても何も言われないどころか、オレから避けるような態度を取る赤司っちを見て――彼が、迷っていることに。
 迷って悩んで幾度も考えて結論が出なかったのだろう。それは恋愛経験の浅いと言える赤司っちにとってはきっと至極当然の話だった。好き、嫌い、その二択の返事を用意する前に、恐らくもっと根本的な部分をこの人は気にしているのだ。
「どうしてか、理由とか……聞いてもいいっスか?」
 顔を覗き込んで尋ねた。不思議とつい先ほどまで脳内を蝕んでいた焦燥感は消え失せ、目の前の好きな人が一つ一つ自分に向かって言葉を紡ごうとしてくれる事実に対する安心感の方が大きい。
 赤司っちは少し躊躇ったが、視線を下げつつも濁さずに告げる。
「――あの日から、お前が笑わなくなったから」
 消え入りそうな声にずきりと胸が痛んだ。
「……そんなことないっスよ」
「あるよ。だから、オレはどうすればいいのかわからなくなったんだ。会っても、話し掛けようとしても、お前がいつもと違うから」
 酷い言い分だ。避けていた原因がオレの態度にあるというなんて。そんな、告白をした相手に対して今まで通りなんて無理に決まっているだろう、自分はそこまで鈍い人間じゃない。
「それに……青峰達と居る時の方が楽しそうだ」
 しかしその言い草が口を尖らせて少し拗ねたように見えたと言ったら、あまりに都合が良いだろうか。
――赤司っち、と呼んで、机に置いていた右手を彼の細腰へと回した。
「……手出してもいいなら、オレはあんたの傍に居るよ」
 ぐ、と引き寄せてから今にも唇が触れ合いそうな距離で囁くと、いきなりキスをされそうになったことに驚いたのか身を引こうとする。けれど左手は相手の手首を掴んだまま、少しも離れることを許さなかった。自分達が友達であった時には考えられないような密着の仕方に赤司っちも理解が追い付き始めたのか、みるみるうちに顔が赤く染まっていく。その反応を見て同時に、やっぱり付き合った先のこととかはあんまり考えられてなかったんだろうな、と思った。
 最初からはっきりさせておくべきだっただろうか。オレは赤司っちが好きだからもし付き合うことになったら抱き締めたいしキスしたいしそれ以上のこともしたいと。制服越しでもわかるように腰を撫でると、びくりと反応して固まってしまう。
「き、黄瀬……ちか、い」
「やだ? オレとこうするの」
 二週間弱、否、恋に落ちてから半年、必死に抑え込んでいた欲が今にも爆発しそうで、自分からしてもこの体勢は芳しくない。どれだけ自制をしようが結局は心の底から惚れた人間を前にして感情はぶり返す。馬鹿をしている自覚はあった。赤司っちの気持ちを無視することだけは駄目だと、こんな無理強いするような言い方で相手が動揺しないわけがないのだ。なけなしの理性に罅が入る。
 オレに捕らわれたまま逃げ道を失った赤司っちは、何かを紡ごうと幾度か唇を震わすものの、しかし言葉は一つも出てこないようだ。
「……嫌なら、嫌って言って。赤司っち」
 たった一言でいい。じゃないとオレは単純だから、自惚れてしまう。
 握ったままの手首が熱く感じるのは自分の体温なのか、相手の熱なのかわからなかった。そして赤司っちは一度瞬きをしてから、小さく息を吐き出す。

「……、いや、だ……」

 その一言を聞いて心のどこかで安堵感を覚えたオレは、最早何を求めていたのだろう。
 蚊の鳴くような声で口にされた三文字に、やっと、のぼせ上がった頭が冷えていくような気がした。……よかった。これでいいんだ。この欲情を抑えるにはもう自分の頼りない克己心だけではどうにもならない。赤司っちから拒んでくれないと、抵抗してくれないと、今まで我慢してきた数々の感情を無駄にしない為に――心の底からそう思っているはずなのに、彼に受け入れられなかったという事実が思考を上回っていく。自分の行為に応えてくれるのではと期待していたいい証拠だ。拒まれたことを、振られたことを、二秒経ってからその現実を反芻した。
 それでも最後の最後までオレは、好きな人に嫌われることだけを恐れた臆病者だったのだろう。
「うん、わかった。……ありがと」
 するりと赤司っちの体から手を離し、下手な笑顔を浮かべて告げる。
 礼を言う場面ではないとはわかっているが、考えもせずに口から零れ落ちていた。そして「嫌な思いさせてごめんね」と謝って彼の頭を優しく撫でると、何故だか泣きそうなくらい表情を歪めたように見えた。さながらそれを宥める図にはなっていたかもしれないが、失恋したのはオレの方だ。
 結局、床に落ちたままの水筒も拾わずにオレは教室を出て行った。
 踵を返した後も赤司っちはその場に残っていたらしかったけれど、振り返ることもしないで階段を下りる。本来の目的も果たせなかった為、何をしに教室へ行ったのかと聞かれれば振られに行ったと答えなければならないだろう。こんなの初めてだ。まさかオレが恋愛で失敗する日が来るなんてと、半端に冷静になる。
「……っ、……あーあ……」
 二階まで下りて誰の気配も感じなくなった瞬間、頬が濡れたような感覚に漸く自分は泣いているのだと理解した。視界が滲んで足が進まない。立ち尽くした途端、堰を切って涙が溢れ出てくる。
(泣くな、泣くんじゃねーよ……)
 かっこ悪いだろ、そう思ったが、この涙腺は言うことを聞いてくれそうにない。
 止め処なく落ちていく水滴が見るに堪えない己の姿を嫌でも突き付け、覚束ない足取りで壁に寄り掛かってずるずるとしゃがみ込んだ。腕で目元を覆ったがそれでも止まらない。寧ろあの人の前で泣き出さなくてよかったと思うべきなのだろうか。なんでこんなに涙もろくなってるんだ、たった一つ、恋が叶わなかっただけで――そう言い聞かせてからついには嗚咽が漏れ始め、いよいよ何も考えずに号泣した方がすっきりしそうだと思わざるを得なくなった。
――苦しい。消えていたはずの感情が蘇り、ぎりぎりと胸を締め付ける。
 十四年生きてきたうちのたった六ヶ月の恋。何もかもが終わったような気分だ。本気で好きだと自覚した日からは毎日が楽しくて嬉しくて幸せで、そして苦しかった。時にはあの姿を視界に入れることも嫌になった。正直、オレに告白をしてきた今までの女子達をある意味で尊敬し、どうして振られるかもしれないという可能性に怯えないのか不思議でたまらなかったことを思い出す。
 拒否されたらと思うとどうしても怖かった。
 拒まれるくらいなら何も知らないまま、友人のままでいいから近くで笑っていてほしかった。友達の距離を続けるくらいなら振られた方がマシ? 格好つけてそんな発言をした過去の自分が馬鹿に見えて仕方がない。笑わせるなよ。オレだけの特別な人になってくれたらと、何度もそう考えたけれど、性別から見たってあの人の性格から見たって無理なものは無理なんだ。諦める努力云々の前に最初から望みがないと心の片隅ではわかっていただろう。今更だけどさ。
(はは……、こんなに苦しいなら、好きになんなきゃよかったっスわ)
 涙と共に乾いた自嘲が零れる。何が駄目だったのか、どこで間違えたのか、そもそもオレは赤司っちにどれほどの期待を寄せていたのか、全ての思考が混ざって頭の中はごちゃごちゃしていた。
 けれど性懲りもなく、ひたすらに好きだという想いだけが溢れ続ける。振り向いてほしい、好きになってほしい。オレだけを見てほしい。なんて未練がましいんだろうと思えば思うほど欲深くなっていき、掻き消すようにぐしゃりと頭を掻いた。
「諦められるかっつーの……」
 半年の恋心に終わりは見えず、手にはいつまでも僅かな熱が残っていて、震えた涙声に耳を塞ごうとした。それを許さないのは自分自身だ。結局、オレの心を占める感情は一つしかないのだから。
 失恋しても、望みがなくとも、どれだけ、遠い存在であっても。
――ただ君を、好きでいたい。

 頭の隅から足の先まで支配してくれるこの恋に、オレはどうしようもなく夢中だった。

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