それはいつも通り午前最後の授業を受け、いつも通り意味のない教師の無駄話を聞き流しながら、いつも通り古典の問題を解いていた時だった。二年ではあるが試しに大学の入試問題をやってみるかという趣旨に沿って一つ、古文を読み切り、全て選択式の解答を埋める。十五分で終わらせられれば上々らしいそれを十分以内で済ませた僕は、頬杖を突いて窓の外に目をやっていた。晴天だ。梅雨明けはもう少し後と今朝の予報で耳にしたが、昨日までの雨が嘘のように青い空が広がっている。
 こうも眩しい太陽を見ると、思い出すのは彼だった。髪色も、目の色もそうだけれど、やっぱりあの笑顔が一番太陽に似ている、と思う。
(……会いたい)
 ふと、確かに脳裏に過った言葉を掻き消すように瞼を伏せる。最近はそう感じることが以前より増えていた。一度触れ合ってしまえば離れ難いし、数ヶ月、数週、数日会えないだけですぐに嘆いている自分がおかしくてしょうがない。僕はいつからこんな風になってしまったんだと、内心で苦笑する。
 それもこれも全部、彼のせいだ。
 黒板の上に掛けられている時計に視線をやれば、授業自体は五十分のうちちょうど三分の二ほどが経っていた。そして再度見直しをしようと問題用紙に目線を落とすと同時に――視界の端を、掠めた色。
 一瞬だけ手が止まる。が、初めはただの見間違いだろうと、大して気にもしなかった。実際、最後列の窓際の席に座っている自分から見て廊下は遠い。扉の方を見ても次の瞬間にはその色もその姿も見えるわけがなく、錯覚か幻覚かわからないがいい加減重症すぎると溜息を吐き出すほかなかった。いくら一ヶ月会っていないからって、たかが一ヶ月じゃないか。意識し過ぎている頭を自嘲したが――しかし、そのまま顔を上げていると教室の前方、開放されたもう一つの扉の先に見えた光景は疑いようもなかった。今、廊下を歩いていた彼は、あいつは。
「…………え」
 ぽろ、と右手に持っていたシャーペンが床に落ちて小さく音が鳴る。
 そのまま瞬きを一回、二回。
――いや、いやいやいや。待て。落ち着け。
 いくらなんでもあり得ない。だってここ京都だし、今日平日だし、来るなんて一言も――否、あいつが予告なしに来たことは今までにも何度かあったが――でも校内にいるはずがないだろう。しかも僕と同じ洛山の制服だった。紛れもなくここの生徒だ。違いない。落ち着こう。とりあえずシャーペン拾おう。
 床に右手を伸ばして掴む時、あまりに混乱していたらしくバランスを崩してしまいガタン、と椅子が音を上げた。倒れはしなかったが、周囲の視線が若干集まる。問題に集中しているところすみませんと心中で謝って体勢を戻すが、頭の中からさっきの一瞬が消え去ってくれなかった。本当に見間違いだったか? 廊下を歩いていた姿はもう教室からは見えず、疑問と僅かな期待がぐるぐると渦巻く。
「……せ、先生」
 そして気付けば自分の口は勝手に動いていた。教卓で授業の最初にやった単語テストの丸点けをしている教師を呼ぶ。後ろの席からであった為に多少声を張り上げる形となり、また周りがこちらに注目せざるを得ない状況が少し恥ずかしかった。
「赤司、どうした?」
「あの……ちょっと、トイレ行ってきていいですか。おなか痛くて」
 こんなベタな嘘をついたのは初めてだ。言い出しづらいんだな、こういうのって。
「おー、センターの時はそんな余裕なくなるから気を付けろよー」
「はい……」
 苦笑いを浮かべつつ席を立ち、そそくさと教室を後にする。解き終わっている古文の見直しなど既に忘れ切っていた。トイレに行くと言ってからこの階のトイレと彼が歩いていった方向が正反対であったことに気付き、しまった、と思ったが、構わず追いかける。
 自分の目を疑いはしたものの、確かに彼だっただろう。制服が違っていてもあの横顔にあの背丈、あの髪色、人違いではない確信は持っていた。ただ想いが募り過ぎたあまり幻覚が見えていたというのなら、それはもうどうしようもない。
 二年生の教室がほとんど収まっている一直線の廊下にその姿はなく、突き当たりを曲がる前には自然と歩調も速まっていた。掻き消したはずの願いが思考を占めていく。会いたい。会わせてほしい。その一心で追い求め、曲がった先で足が止まった。
(……、居た……)
 はあ、といつの間にか乱れていたらしい呼吸を整えると、期待していた心臓がわかりやすく跳ねる。――やっぱり、その着ているはずのない制服でも、後ろ姿は変わらない。出会った時より一段と伸びた身長、意外としっかりした背中、さすがそういう仕事を続けているだけある長い足も、そして太陽に似た眩しい髪も、全て。
 僕が、恋をし続けているひとだ。

「っ……涼太!」

 歩みを進めている彼の名を口にする声がほんの少し震えた気がした。それでも向こうの耳には届いたらしく、ぴた、と立ち止まって振り返る。
「――赤司っち」
 一ヶ月以上見ていなかった笑顔で呼ばれた瞬間、涙腺が緩みかけたことには知らないふりをした。感情を落ち着けようとしたところでやっと視界も開けたが、幸い他の教室はどこの扉も閉まっていて、自分達の会話は聞こえていないことにほっと胸を撫で下ろす。授業の邪魔にはなっていないだろう。
 茫然と立ち尽くしている間にも二人きりの廊下に、びっくりしたー、と笑う涼太の声が響いた。
「び、びっくりしたのは僕の方だよ……なんでこんなところに、」
「会いに来たっス」
 遮られてはっきりと言われた言葉に目を見張ったが、実に端的な表現は状況を理解するのに十分だった。
「この間、赤司っちが海常に来てくれたから」
「いや、あれは……、確かに行ったが……」
 だからと言ってお前がこっちに来る理由にはならないだろう、なんて言い返しは無粋だったかもしれない。「会いたいから会いに来たらだめ?」僕の返事などわかっているくせにあえてそう聞いてくるのだからタチが悪いと思った。否定できずに押し黙ると、こちらに近寄って満足そうに目を細めている。
 五月下旬、自ら学校を休んで海常高校に忍び込むという思い切った行動を起こした日を振り返れば、その理由がただ涼太に会いたかったからだと、誤魔化しようもなく記憶に残っていた。事実、こうして会えたことに驚きよりも嬉しさの方が勝っているのだから。正直に言えば理由も経緯もどうだっていい、ただ目の前で笑っていること、名前を呼んでくれること、傍に居ること――そんな些細な幸福に気付けたのは中学を卒業し、離れ離れになってからだ。
「……学校は?」
 涼太は口を開こうとせず、僕からの質問を待っているようだった。現状を納得したとは言え混乱しているのはわかっているのだろう。一ヶ月と少し前に、逆の立場で彼に質問責めをされたこともよく覚えている。
「サボったわけじゃないっスよ。今日と明日、京都で撮影があるから学校に休む許可も貰ってるし、部活も大丈夫」
「大丈夫って……仕事があるなら余計にこんなことをしている場合じゃないだろう」
「撮影は夕方からっス」
「そういう時はいつも午後から休んでたじゃないか」
「えーと……それはまあ、ほら、赤司っちだって会えて嬉しいでしょ?」
 はぐらかされた。が、確かに喜んでいる以上、僕に咎める権利はなかった。以前は本業を疎かにして恋愛に現を抜かすことを酷く非難していたが、自分が海常にお邪魔して以来、その考えすら薄れていっていることがある意味恐ろしい。絆されすぎだ、と心中で意味のない戒めをする。
「……そうだね。嬉しいから、これ以上は何も言えないな」
 観念してそう呟くと涼太は顔を綻ばせた。けれど抱き締めようとしたのかキスしようとしたのか、腰に回すように伸ばされた腕に右手を添えて制止する。両側は壁であり誰も見ていないとは言え、さすがにここは廊下だと抑える理性までは崩れていない。
「ただし一つだけ。その制服はどうしたんだ」
 行動を阻まれ一瞬眉を寄せた涼太もその問いに今度は目を泳がせた。相変わらず、いろいろな表情を見せて飽きない奴だ。
「僕のじゃないよな?」
「……赤司っちの身長があと十五センチあれば、」
「うるさい。どうやって手に入れたのか聞いてるだけだよ」
「…………」
「一、買った。二、借りた。三、自作。どれ?」
「いやまぁ三番はないっしょ……オレ裁縫は得意じゃないし」
「じゃあ一か二だな」
 僕が言いたいことなどもう察しているのだろう。ぐ、と言葉を詰まらせた涼太は気まずそうに視線を下げているが、それでも腕を離そうとはしないのだから強情だ、と思う。しかし言い逃れられるとも思っていないらしく、躊躇いがちに「……一番っス」と返された。
 全く皺のない新品さから見ても、大方予想はついていたが。露骨に溜息を吐き出してしまうのも仕方がないだろう。
「やっぱり……。お前最近、ほんとに金銭感覚狂ってきてないか……?」
 こればかりは許すことも見逃すこともできないのだ。こめかみを軽く押さえて口にすると涼太も自覚はあるのか、ぎくりと肩を強張らせている。
「だ……だって洛山の制服、着てみたかったんスよ」
「だからって買い揃えなくてもいいだろう。僕のを貸すことは無理でも、別に言ってくれれば玲央や永吉から借りたり、」
「オレがそれを着たいと思うんスか?」
「……思わないが」
 こんな案で妥協するわけがないとはすぐにわかったものの、そう言わずにはいられなかった。
――端的に言って、彼はここ最近、金遣いが荒くなっている。物を買うにしてもどこかへ行くにしても、多少それが値が張るものであったところで特に気にする様子もなく支払ってしまうのだ。中学の頃にモデルという職に就き、仕事をこなし、確かに周囲の同級生よりそういった方面で余裕があったのは明らかだ。が、高校生となって親による抑圧も減り、精神的な自立も促されている今、涼太は以前にも増して自由に――悪く言えば後先考えずに――惜しみなく金を使うという悪癖が付き始めているように思う。
「涼太、お前の希望を無下にするわけじゃないけれど、物を衝動買いするのはやめろと何度も言っただろう。制服だって一式揃えたら安くないはずだ。もしこの間、僕が海常へ行ったことが原因なら、謝るから――」
「赤司っち」
 ゆっくりと、けれど容赦なく間に挟んできた呼び声で、反射的に口を噤んだ。嫌な予感とまでは言わない、しかし一度機嫌を損ねさせると誰が想像するよりも面倒な性格になるのは昔から変わっていなかった。
「……オレ、赤司っちの謝罪を聞く為に来たわけじゃないよ」
 頬を包むように両手を添えられ、覗き込んで優しく口づけられる。まるで言葉の先を掬い取るかのようなキスに、抵抗できる隙はない。
「これ欲しかったのは前からだし、海常の制服着てくれたのもすげー嬉しかったし、あんたが気に病む必要は全然ない。……衝動買いしたことなんて今までに一度もないから、それだけはわかって」
 ね、と眉を下げて笑みを浮かべられては文句の一つも言えなかった。そもそも自分は彼の制服を無許可で拝借するという行為に出てしまったのだから、本来は人道を説く資格など全くないことも理解している。ただ、涼太の言葉にどうしても頷けない理由があったのだった。
 それを口にしようか迷っていると――不意に、校内中に響き渡る鐘の音。
「あ、授業終わった?」
 その台詞ではっと我に返った。まずい。すっかり忘れていたが僕はさっきまで古典の授業に出席していたのだ。いや、それよりも先に、彼をどうするかだろう。
「ちょ……涼太、期待はしてないが来校許可証は?」
「え?」
 なんスかそれ、とでも言いたげな顔をされ考える暇などなかったわけで。
「……何でもない。とりあえず隠れるぞ」


 彼の手を引っ張って階段を下り、別の棟の空き教室へと走って向かう。午前最後の授業が終われば全校生徒が食堂へ行ったり購買に足を運んだりと往来が激しくなる為、誰にも見つからないように涼太を隠すには全力疾走して隣接した棟まで駆けて行くしかなかった。なんでそんな急いでるんスか、と後ろから声を張り上げて聞かれ、お前自分がモデルだってわかってるのかバカ、と階段を駆け下りながらつい大声で言い返してしまう。
「騒ぎになって不法侵入がバレたら面倒だろ!」
「えっ、変装して授業とか受けたかったんスけど」
「……そのやる気と度胸はどこから湧いてくるんだ。そうなったら僕はもう他人のふりするからな」
「ひどっ」
 どこがだ。酷くも何ともない、当然の話だと一蹴する。
 そして一階に辿り着く最後の階段を一段飛ばしで降りようとした瞬間、通路の奥から足音が聞こえてきた。やばいと思って反射的に足を止めると止まり切れなかった涼太に後ろから突撃されたが、なんとか転倒を耐えて壁際にぴたりと寄る。しぃ、と人差し指を立てて口元で示した。
「……先生?」
「ああ」
 声を潜めて身を縮こまらせている間に、教師はこちらに気付かず通り過ぎて行く。恐らく三年の進路担当か、あまり見たことのない顔だ。
 その後は特に人影も見当たらないまま空き教室へと連れることができ、誰の目にも涼太を映さず、まるでいつの間にか閉じ込めてしまったような感覚に一瞬鳥肌が立ったのは気のせいじゃないだろう。大層な理屈は並べたが単に独り占めしたかったのかもしれない。恐らく本来はあり得ない時間、あり得ない場所で二人きりになっているせいだろうが、授業を放り出した自分を咎める気にすらなっていないなんて我ながら信じられなかった。会わなければ会わないほど抑えが利かなくなっている。非常にらしくない。
「――赤司っち? 大丈夫スか?」
 呼吸を整えながら聞かれ、はっとなった。
「あ……悪い、大丈夫だ」
 静まり返った室内に響く声。とにかく必死だったせいでなんだかんだ最後まで手を繋いでいたことに気付いたのは教室の扉を閉めてからであり、赤司っちの手あったかいね、と言われて途端に恥ずかしくなる。おかげで、別に教室が暑いわけでもないのに、手を離してすぐに窓を一つ開けた。
 柔く吹く風に止められていないカーテンが靡いている。涼太が並べられた机の合間を縫って歩いているとは足音でわかったが、気恥ずかしさから後ろを振り返ることができない。
「ここの教室は普段、使ってないんスね」
 ふと、前の黒板まで辿り着いた彼がチョークの乗った桟に視線を落としながら呟く。埃が溜まっているのだろう。窓の傍で校庭の様子を眺めていた僕も体を翻し、硝子に寄り掛かりながら視線を向けた。
「去年まではこの棟も使われていたんだ。でも今年の新入生の人数が少なくてクラスも減ったから、いくつか教室が余ってしまって」
「あーなるほど……ていうかこの学校広すぎない? オレすごい迷ったんスけど」
「……さっきうろついてたのは僕を探していたからか?」
「他に誰がいるんスか」
「だったらメールをくれればクラスとか教えたのに」
「それじゃサプライズになんないでしょ」
 ま、結局そっちから見つけられちゃったけどね。涼太はそう笑って黄色のチョークで黒板の端に何か書いたようだった。それがちょうど背中と重なって見えず、自分も窓から体を離して彼の近くへ寄る。
「……サイン?」
 写真集などに記すような英字表記ではあったが、紛れもなく涼太を表す文字だ。
「うん。洛山来た記念」
 満足そうに笑みを深められる。まさかこんな風にこの高校で彼と笑い合える日が来るとは思っていなかったが、きっと僕が海常に行った時も、涼太は同じように思っていたのだろう。「……あーあ、オレも洛山に入ればよかったなあ」チョークを置き、天井を仰ぐようにしてぽつりと零す。手持ち無沙汰になるとズボンのポケットに手を突っ込む癖は中学の時から治っていないようだ。
「心にもないことは言わない方がいいよ。涼太は海常に進んで正解だった」
「って言われるとは思ったっスけどね……赤司っちだって洛山に来たことを後悔してないんでしょ?」
「もちろん」
 嘘はつかずに答えれば、柳眉を下げて苦笑している。
「じゃあ……、海常と洛山が二分で行き来できればいいのに」
 あっさりと変えられた望みは唐突なものだった。しかし僕の頭にはなかった発想に、思わず声を上げて笑ってしまう。
「それもう同じ敷地内じゃないか」
「だから良いんスよ。ずっとあんたの傍に居れる」
「……あんまり一緒に居ると飽きるかもしれないぞ?」
「心にもないことは言わない方がいいんじゃなかったの」
 間髪を容れずに返された一言にほんの少し目を見張り、涼太を見やった。すると全く自信の揺るがない視線と交差し、やっぱり昔の方が可愛げがあったと思わざるを得ないのだ。前はこんなに口達者じゃなかったはずだというのに。
「赤司っち、相変わらず嘘も冗談も下手っスね」
 心底満足そうに告げられては返答も思い浮かばない。涼太に口で負けることが付き合い始めた時よりも格段に増え、その度にこうして噤むしかないのが正直なところ悔しかった。いい加減、図星を突かれても躱せるようになりたい。――否、僕もそれなりに口は上手いつもりだが、どうも彼の前だと上手に取り繕えないのだった。
「かわいい、赤司っち」
 全然嬉しくない。
「……昼食は? まだ食べてないんだろう」
 結局、話題の転換が一番手っ取り早かったわけで。踵を返して尋ねると、学食で食べるつもりだった、などと言っている。だからどうしてお前は隠れもせずに普通にここで過ごす気満々だったんだ。
「赤司っちはいつもどうしてるんスか?」
「ほとんど学食だよ。でも今日は購買で買った方がいいだろうな……」
 顎に手を当てて考えを巡らせた。
「涼太、ちょっとここで待っててくれるか? いったんロッカーに戻って財布を取ってくるから少し遅れるが、僕が買ってくるよ」
「え、ごめん」
「構わない。ただし絶対にこの教室から出るなよ」
 絶対、という部分に力を入れて忠告すると簡単に頷いているが本当に大丈夫だろうか。疑う気持ちも半ばのまま、彼を残して空き教室を後にした。そうして自分のクラスが収められた棟に戻るとまず友人に体調を心配され、何事かと思ったもののすぐに思い出す。そうだ、そういえば自分は腹痛を訴えて教室を抜け出したのだと。すっかり忘れていた上に全力で走っていたとはまさか言えず、心配かけてごめんと適当に濁すほかなかった。
(……ほらやっぱり、あいつ以外の前なら嘘も冗談も通じる)
 机上には古典の教科書や筆箱がそのまま放置されていたが、解いた問題用紙だけは回収されたらしい。教材を片付け、ロッカーから鞄ごと持って購買へと向かう。あとで古典の教師には一言謝ろうと考えながら、二人分のパンをいくつか購入した。さすがに付き合って数年、彼の食事の好みは大方わかっているからどれがいいかは聞いていない。加えて購買横の自販機でパックの麦茶と紅茶も。前者が僕の飲み物だ。
――さて戻るか、と飲み物も購買の袋にまとめて入れた時、遠くで僕を呼ぶ声が聞こえた。
「征ちゃん!」
 聞き慣れた声音だ。彼らとは休み時間に会うことも多い為、特に驚きもせずに顔を上げる。すると向こうの廊下からいつもの三人が駆け寄ってきた。
「玲央、今日は購買なのか?」
「そうなの、小太郎が購買がいいってうるさくて」
「だって新商品まだ食べれてねーんだもん! ていうか赤司も購買って珍しくない? しかも量多いし」
「いっぱい食った方がいいぞ、赤司はちっせえからな」
「あんたみたいなゴリラと一緒にしないで、征ちゃんはこれくらいで十分よ! ……あら、でも本当にたくさん買ったのね」
 中身を覗き込んで意外そうに告げられ、僕は笑って「一緒に食べる人がいるんだ」と答えた。が、それを聞くなり「征ちゃんに買わせるなんて」と言い出してしまい、しまった、と言葉を改める。
「いや、買わされてるわけじゃないから、落ち着け玲央」
 公衆の面前で騒がれたら面倒だと思ったが、玲央のある意味で目立つ性格は校内中で知れ渡っている。他の生徒達もまたかという目でこちらを見るばかりであり、逆に恥ずかしい。
「一緒に食べる人って? 彼女?」
 そして小太郎は小太郎で思ったことをぽんぽんと口にするタイプだ。その発言に考えはほとんどない。が、何故か僕の身の回りのこととなると敏感に聞き取る玲央がまた騒ぎ出し、悪循環もいいところだった。興味のない永吉は既に購買の品物を選び始めているというのに。
「か……彼女!? 彼女できたの征ちゃん!?」
「違う。違うから大声を出すな」
「じゃあ彼氏だ!」
「小太郎は何が言いたいんだ? え? あんまり勝手な発言ばかりしていると僕も怒るよ」
「せ、征ちゃん……彼氏……できたの……」
「玲央もふざけて真に受けたふりをしてるんだよな?」
――と、白を切るのもなかなか大変なのだ。涼太とのことは玲央達には言っていないし、この先も特に知る必要はないだろうと思っている。ただの友達だよ。わざとらしく溜息をつきながらそう言い、彼らとはそこで別れた。
 彼氏という表現が適切かはわからないが、その恋人が校内に居ると知ったらどんな反応をするだろうか。少しの悪戯心も心の片隅で芽生えたものの、さすがに実行に移すことはしなかった。
 僕だけの涼太で十分だ、なんて言ってやらない。


 本や財布を収めた鞄に加えて購入したパン、飲み物を入れた袋をぶら下げて再び別の棟へと足を運ぶ。そしてそこで目を見張ることとなった。玲央と小太郎の会話で何も問題なく誤魔化せたことにほっと安心していた僕は――まさか、今度はこっちで問題が起こっているなどとは微塵も思っていなかったのだ。
 あれほど、あれほど教室から出るなと言ったのに。
「き……黄瀬涼太!? なんでここにいるの!?」
「えっ、本物?」
「モデルの黄瀬君だよね!? すごい! 生で見ちゃった!」
「サインくれませんか!?」
 ああ、あんな光景をこの目で見たのは久々だ。
「いや、ちょっとあの、サインとかは今日は……あ、」
 僕が戻ってきたことに気付くなり、「赤司っち!」と思い切り助けを求められる。おかげで彼を取り巻く女子の視線もいっきにこちらへ集中し、何故涼太は空き教室から勝手に出ているのか、自分としては呆れを通り越してパンを投げ付けたいくらいだった。モデルの黄瀬君の顔面目がけて。
 しかし内心で舌打ちをしている間にも、涼太が手を合わせてごめんと口パクをしている。ここで僕が見捨てたら本当に大変なことになってしまうだろう。夕方の仕事にも支障が出てくるかもしれない。仕方がない。後々のことを考え、女生徒の合間を縫って涼太の前に立ち、なるべく優しく笑顔を浮かべて口を開いた。
「すまない、彼と話したいのはわかるが、今は控えてくれないかな。僕の友人なんだ」
 という台詞一つでいっきにざわつく。
「え……赤司君、黄瀬君と友達なの?」
「ああ」
「じゃ、じゃあアドレスとか知ってる!?」
「知ってるけど教えるのは無理かな」
「ていうかなんで洛山の制服?」
「コスプレが趣味なんだよ、彼」
「ちょ、赤司っち……」
 でたらめを口にしたら後ろで小さく抗議が聞こえてきたが、知ったものかと話を進める。こうでもしないとこの場が収まる気配はないのだ。
「前からこの学校に興味を持っていたみたいでね、今日は少しだけ体験に来たんだ。気に入ったら転入も考えているそうだが……君達がサインを求めたり、勝手に写メを撮ったりすると二度と来れなくなってしまうだろう? だからこのことは他言無用だ。先生にも言わないでくれ。僕と黄瀬涼太と君達との秘密、ね」
 正直、こんな適当にも程がある即興の口実でどうにかなるとは僕が一番思っていなかった。が、想像以上に女子は簡単――いや、この言い方は語弊がある。本物のモデルに会えたという高揚感が彼女達の判断力を鈍らせているらしく、取り巻いていた数人の女生徒はものの見事に全員納得して解散した。
 そして静まり返った廊下に二人きりとなり、ゆっくりと振り向けば彼は完全に身を縮こまらせている。その額には多少の冷や汗も浮かんでいるようだ。
「……涼太?」
「は、はいっス……」
 腕を組み、口角を上げて睨み付けた。言い訳を聞かせてもらおうかな、と。説教はその後にしてあげようという僕の優しさに感謝すべきだ。


「――『僕の学校生活が見たかった』?」
 女生徒達に目撃されてしまった以上、ずっと別棟に居るのも良くないだろうと思い場所を変えることにした。ただ他に見つかりづらい教室というのもなかなか無く、考えた末に屋上へ向かったのは賭けだった。普段使われない別棟の屋上が開放されているとは知らず、ギィ、とドアを開ければ誰も居ない最上階が広がる。
 少し埃っぽくもあったが、すっきりとした晴天の下、緩やかに吹く風は気持ちが良い。そんな穴場に辿り着いてフェンスの近くに腰を下ろし、昼食を口にしながら彼の弁解を聞いていたところだった。お惣菜系のパンをあまり好かない涼太にはカレーパンを買ったが、文句もなくおいしいと食べているのでその点に関してはほっとしている。
「……うん。だってその為に来たし」
「ただ購買に行ってただけじゃないか……」
「ただ、って。オレはもう一年以上、赤司っちの学校生活見てないんスよ」
「それはそうだけど」
 要するにこっそりと抜け出して僕の尾行をして学校生活の様子を見たかった、ということらしいが、お前は保護者かと言いたい気分である。それも過保護だ。教室を出た瞬間にたまたま通路を歩いていた女子達に見つかったのだろう。見られればああなることは身をもってわかっているだろうに、そこまでして行動を起こす理由に匹敵するとは思えなかった。
 パックの麦茶にストローを差し、口を付けて飲んでいると隣に座っている涼太も紅茶を手に取る。「赤司っちはなんでそこまでしてって思ってるのかもしんないっスけど」――いつからか、涼太は時々僕の心を読んでくるようになった。少し心臓に悪いからやめてほしい。
「でも、不安なんスよ」
 僕がまだ怒っていると感じているのか、視線を落としながら続けられる。あまり見ない涼太の様子を意外に思いつつも、顔を上げて言葉を待った。
「会いに来たって、物をあげたって、……あんたが心変わりしない保障はないでしょ」
 しかし一際トーンを低めて呟かれた台詞に目を丸くし、唖然としてしまう。
 何を言われるかと思えば。
「……なんだ? 浮気を疑ったのか?」
「う、浮気っていうか……だって赤司っち洛山の先輩達とすげー仲良いし、割と誰にでも笑顔振り撒いてるし、女子に対してはいっ……つも優しいし!」
 驚くほど空白を溜めて『いつも』を強調されるほど僕はそうなのだろうか。眉を顰めて固まっていると、彼は何がどうなって開き直ったのか「相変わらず天然タラシなんだよあんた!」と訴えてくる。意味がわからない。
 先輩達というのはバスケ部の人間の中でもレギュラーの皆を指しているのだろうが、それを言うならお前だって同じじゃないか。と、口にしようとしてやめる。お互いに不安を植え付けたところで仕様がないし、信じているからここまで付き合ってこれたのだ。涼太もそれは理解しているはずなのに――という主張は、次の台詞によって掻き消された。
「赤司っちを疑ってるわけじゃないんスよ。つーか寧ろ、心のどこかで疑おうとしてる自分が嫌で、確かめに来たっていうか……」
 しどろもどろではあるがしっかりと意思を伝えようとする唇が、僅かに震えているように見えた。彼自身も恐れているのかもしれない。離れ離れの日々を過ごしているうちに、いつかこの関係が終わってしまうんじゃないかと。
 言葉が続かずに黙ってしまった彼の名をそっと呼ぶ。そして右手に持っていた飲み物を置き――その両肩を、アスファルトへと押し倒した。
「……え、あ、赤司っち?」
 動揺している涼太が起き上がる前に下腹部の上に跨れば、いよいよ向こうも肘を付いて慌てている。
「ちょっ……ど、どうしたの」
「涼太」
 相手の制止を無視し、しゅる、とネクタイを解いた。それから黒シャツの第二ボタンまでを外し、首元のチェーンを引っ張る。銀の鎖の先に下げられたそれが姿を現すなり、彼は目を見開いて驚いていた。
――普段はチェーンに繋いでシャツの中に隠しているその指輪を、プレゼントした張本人がわからないわけがない。
「……え……、それ……」
 中学を卒業してすぐ、僕が京都へ来る前に涼太がくれたものだった。シンプルなシルバーのリングに、『Ryota.K』と刻まれている。自分の名前とかほんと死ぬほど恥ずかしいんだけど受け取ってくれませんか、と稀に見る真っ赤な顔を俯かせながら、やけに早口に言われたあの瞬間はずっと忘れていない。
 けれど、僕も心から嬉しいのに恥ずかしくて、常にネックレスとして持っていると言ったことはなかった。
「……部活中はさすがに外しているが、お前から貰った大事な指輪だ。いつもこうして身に付けてる」
「校則、き……厳しいんじゃないの」
「だからバレないようにするのに大変なんだ」
 眉を下げて笑い、太陽の光を反射して輝く指輪を撫でる。思えばこの時からだった。彼の金遣いが荒いと言えるようになってしまったのも、僕達が離れてから、物を贈ってでも繋ぎ止めたいと涼太が強く思うようになってから。
「お前が一度も衝動買いをしたことなんてないというのも、ちゃんとわかってるよ。でも僕は涼太に貰ったものは何でも嬉しいんだ。値段のつかないものでも、会いに来てくれるだけで幸せだ。逆に高価な物を貰ったら……本音を言えば、断れる自信がない。だからあんまりお金は掛けないでほしい」
 本当は自分が思いやりを持ってきっちりと拒めばいい話なのかもしれないが、それはどうしてもできなかった。値段も価値も関係なく、彼から貰ったものなら何でも喜んで受け入れてしまう。もちろん、気持ちも想いも同様に。
 今まで素直に言わなかったから彼の不安を掻き立てたのだろう。一言一句を丁寧に告げ、最後に「僕はずっと涼太一筋だ。心変わりなんかしない」と伝えると、彼は両腕で目元を覆ってしまった。
「涼太、泣いてる?」
「……泣いてないっス」
「なんだ、お前も嘘つくの下手じゃないか」
 ふふ、と笑みを零していると、いきなり背中に腕を回して抱き寄せられる。新品の制服を着た彼の胸から速まった心拍が聞こえた。
「好きだよ、赤司っち」
 ひどい涙声。瞼を伏せて微笑んだ。


ビッグウィリーよ、君の望むままに / 2013.07.05
(07.04 - pixiv上に公開)
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