地上四十五階建てのビル、帝光出版社。社長室が収められた四十三階より上の立ち入りは基本的に禁止され、この四十三階自体に足を踏み入れられる人間もかなり限られている。その為、パソコンと向き合ってかたかたとキーボードを打つ音が響く中、不意に聞こえてきたノック音が誰によるものかも大方予想がつくのだった。
「何だ」
 顔を上げて端的に入るよう促すと、ドアが開いて奥から姿を現す。案の定、最もこの部屋に来る可能性が高い男――真太郎の名を口にした。「どうした? わざわざ来るなんて珍しい」普段は社内であってもその場に居なければ電話での連絡がほとんどだ。
「来客なのだよ。時間は取れるか?」
「今? 僕に用があるのか」
「ヨウセンだ」
「ああ……わかった、通してくれ。ここでいい」
 画面を一つ閉じながら告げた言葉に彼は驚いたようだった。社長室に客を招くことなど滅多にないからだということはもちろん理解しているが、
「応接室より見晴らしが良いだろう?」
 ブラインドを開けたままの背後を尻目に言えば、反論する気もなくなったらしい。結局、僕の指示に逆らったことなど今までに一度もないのだ。ドアが閉まって客人を呼びに行った真太郎の性格も、もう十年以上の付き合いとなれば手に取るようにわかる。
 そして暫く経って再び、コンコン、と扉を叩く音。今度は客人も共に居る為に「どうぞ」と柔らかく口にした。すると真太郎も形式張って失礼しますの一言を口にしながら開け、客人を先に入らせる。
「――久しぶり。赤司君」
 相手がヨウセンの人間だと知った時点で、彼だろうということも察していた。
「お久しぶりです、氷室さん」
 席から立ち上がって軽く会釈をし、仕事机の前にある黒色の応接用ソファーへと座ってもらう。それから自分もセンターテーブルを挟んでその正面に腰を下ろすと同時、真太郎に向けて小さく右手を上げた。合図を受け取った彼が礼をして部屋を出て行くのを横目で確認し、だだっ広い室内に二人きりとなる。
「わざわざ来て頂いてありがとうございます。僕がそちらへ行ければよかったんですが」
「気にしなくていいよ。俺もアポなしで訪ねて会えるか不安だったんだ」
「大体居ますよ。あそこに座っているだけで社長は務まりますから」
 さっきまで自分が鎮座していた椅子に目をやれば、氷室さんも同様に視線だけを動かした。しかし彼の視界はその奥の景色を拾ったのだろう。見晴らしがいいね、と言われる。「利点はそれだけです」その為に呼んだのだ。
 すると彼は目を細めて僕を見やる。
「……今の姿も合ってるが、ロスに戻る予定はないのか? 君は人の上に立って命令を下すことよりも、本当は自ら動く方が好きだろう。あれだけの実力を持ってるんだ」
 こんなところに座っているだけで満足するような人間ではないと、そう指摘されたのは帰国して初めてだった。
(当然か……)
 向こうでの自分を知っているのは、日本では彼くらいなのだから。
「……悪くないですよ、書類に目を通して判子を押すだけの生活も。父が育てた優秀な社員のおかげで経営安全率も売上高も、僕が何もせずとも上がっていく」
「落ちるのは視力くらいって?」
「ええ。この間眼鏡を買おうと思ったんですが、似合わなかったのでやめました」
「意外だな。ちょっとは童顔がマシになりそうじゃないか」
「怒りますよ」
 気にしてるんです、これでも。滅多に口にしないような台詞を躊躇いがちに言えば、あはは、と声に出して笑われた。取材者としての経験も豊富だからか、相変わらず会話上手だ。
「アメリカで髪を切った時よりは大人びて見えるよ。大分伸びたね」
「勝手に切ると知人がうるさくて」
「レオ・ミブチだろう? まだ彼専属のモデルを続けてるのかな、昔みたいに。学生の頃から変わってなさそうだ」
「モデルなんて言い方はやめてください。ただの練習台です」
「『ミスター』に選ばれた自分を少しは認めろって」
「あまり口外しないでほしいんですが」
「ああ、失敬」
 彼の発言を制したことにはもちろん意味があった。そろそろだろうと思ったところでちょうど、僕より若い男性社員がお茶を二つ持ってくる。社長室など入った経験のない平であった為に、がちがちに緊張してコップを持つ手も僅かに震えているのが見て取れた。礼を言った氷室さんもおかしそうに笑っている。厳かな雰囲気にさせないよう真太郎が指示したのだろう、上手く配慮してくれたものだ。
 聞かれたくない話だとわかったらしい彼もそれ以上は好きに言わず、社員が退室するとすぐに本題へと移った。当然、『TiPOFF』についてだ。
「立案書に少し追加要素があって、昨日ファックスを送ったんだが……」
「どうして敦に頼んだんですか」
「……だよね。今朝、緑間君から連絡が来たよ」
 敦がよく表裏を間違えて送ってしまっていることもわかっているのだろう氷室さんは苦笑し、恐らく原本と思われる立案書を鞄から取り出した。提示されたそれを受け取って、ぱらぱらとページを捲る。
「コンセプトはこの間打ち合わせをした通りでいいと思う。で、割付に関してだ。こっちで好きにやっていいということだから勝手に進めているが、実際に写真ができて仕様の変更があるなら早めに連絡がほしい」
 お茶を口に運びながら、要項のみを端的に。
「わかりました。オーディションも終わったので直に確定します。そうですね……週末までには」
「待ってるよ。それと結局、何人になりそうなんだ? 専属モデルは」
「撮影が終了した段階で二人の落選は決定しました」
「……あえて落ちた方を言うなんて、君は変わらないな」
 少し揶揄の気持ちがあったのか、小さくそう零した一言を僕は聞き逃さなかった。「落ちた方ではなく、落とした方です」取り違えてしまわないよう付け足すと、彼は一瞬目を見張り、それから笑って「赤司君のそういうところは嫌いじゃないよ」と胸の位置で両手を上げて降参だと示す。何とも思っていないくせによく言う人だ。
 彼が所属しているヨウセンは東京郊外の編集プロダクションであり、帝光出版とも初期に契約を結んで以来、何かと頼りにしている企業である。数年前までは秋田を拠点に東北地方で活動していたものの、当時、女性編集長として国内でかなり注目を浴びていた荒木雅子が時代の変遷に伴い首都へと社を移転させた。しかし彼女が海外の――確かニューヨークだったか、向こうで一流と称される出版社にスカウトされ、一時ヨウセンは衰退しかけた。が、それで終わるわけがない。彼女が以前から目を付けていた在米日本人編集者・氷室辰也を帰国させ、ヨウセンに入社という契約のトレードを実現させたのだ。
 そして結果はすぐに出た。勢いを失いつつあった間もヨウセンを支え続けた岡村建一、福井健介に加え、中国から研修に来た優秀な留学生・劉偉もそこへ混ざり、いよいよヨウセンは今、隆盛に赴いている真っ只中だ。昨年、僕の父と反りが合わずに実力があるにもかかわらず我が社で燻っていた敦を引き抜いたのも、恐らく彼らの算段だろう。
「今回の仕事は本当に楽しみにしてるんだ。アツシも珍しく張り切っててね、モデルへのインタビューに自ら行きたいなんて言い出した。きっと君が居るからだな」
 心底満足そうに氷室さんは話す。
 真太郎と敦は同期だった。どうせ帝光に来るのなら二人と働いてみたいというのが僕の本音ではあったものの、なんだかんだ敦自身、ヨウセンに不満はないようなので口にしたことはない。だからこそ彼の方からそう思われているのなら、僕も素直に嬉しい。
「『TiPOFF』は必ず成功させます」
 目を逸らさずにしっかりと断言し、その後も詳細について話し合った。自信はある。人材が完璧だからだ。そんな、今更わかり切ったことを口にするまでもなく、午後二時過ぎに氷室さんが来てから既に一時間が経とうとした頃。内容も詰まってきたところでそろそろと彼が立案書を鞄に仕舞った。
 もちろん僕は、話はこれで終わりだと思っていた。――ところが相手は椅子から立ち上がらず、代わりにファイルの中に収められていた何かを出す。口角を上げ、仕事中に見せる笑みを浮かべた氷室さんの表情に、自分は無意識のうちに眉を顰めていただろう。嫌な予感がしたのは言うまでもない。が、すっとテーブルに置かれたそれに視線を落とし、僕は久々に己の目を疑ったのだった。
「……最後に、これについて聞いてもいいかな?」
 初めは一枚に見えたその写真は何枚も重なっていたらしく、彼が右手で扇状に広げると五枚の図が並ぶ。
――絶句した。わけのわからないままそれらを凝視し、けれども上手く、言葉が出てこない。
「…………」
「何故これを、って顔だな。うちが週刊誌の依頼も受けていることは君も知っているはずだよ」
「……ええ。でも、……正直、全く理解が追い付きません」
 喉の奥がいっきに乾き、しかしお茶を飲む気にもなれなかった。声が掠れる。目を逸らしたい光景なのに、あまりに衝撃的な写真を目前に瞳も動かないのだ。
(は、はは……、)
 心中で苦し紛れの笑みを零すものの全く笑える状況ではない。さすがにこれは、冗談だろう。
 氷室さんが見せてきたのは夜の写真だ。真っ暗な夜中、自宅の周辺に建っている錆びれた街頭のみがぼんやりと明かりを灯す中、家のドアの前、そこに写っていたのは。

「――これは紛れもなく君と、そして黄瀬涼太の写真だ」

 改めて口にされ、顔から血の気が引く気がした。見ればわかる。黄瀬はサングラスを掛けてはっきりと顔が写されているわけではないとは言え、あの金髪にあのスタイル、疑うまでもなく彼だ。対する僕もこの赤髪は嫌でも映えるし、服も、鞄も――黄瀬の右手首に掛けられた自分の鞄も、否定できる余地がない。
「どういうことなのかな。まあ俺としては君が今世間で注目を浴びているイケメン人気モデルにお姫様抱っこされてても、そのまま自宅で何をしていようとも、この写真さえあれば仕事にはなるわけだから構わないんだけどね」
 どうもこうもない。
 濁すことなく指摘された言葉に、今度はかあっと血が上った。最悪だ。何故もっと配慮しなかった。黄瀬ほどの人気があればマスコミが終始尾行しているのは当然だというのに、馬鹿か、僕は。覚えていないなんて言い訳は物的証拠の前では通用するわけもなく、押し黙ってしまったことによって沈黙は肯定だと捉えられてしまう。それからせめて前者だけでも認めてしまえばよかったとひどく後悔した。『自宅で何をしていようとも』この部分を、否定すべきだったのだ。
「変わらないんだね、赤司君」
 厄介なことに彼は、海外での僕を知っているのだから。変わらない、先ほどとはまた別の意味を含んだその一言が胸に刺さる。
「……黄瀬は……、彼は、違います。僕が付き合わせたんです」
 気付けば俯いてしまい、相手の目を見れない。
「別に弁解を聞きたいわけじゃない。アメリカと違ってこっちじゃ同性愛なんて認められてないんだ、例えこの写真が週刊誌に載ったところで大した効力はないさ。寧ろこんなものを公開したら、黄瀬涼太のファンにまたマスコミがいい加減なことを、って叩かれるのがオチだよ」
「それでも黄瀬自身に被害は行きます」
 芸能人にとって週刊誌に載ること自体、その内容が良かろうが悪かろうが影響は及ぶ。男同士の悪ふざけだと報じられても勘繰る奴はいくらだって湧いて出るということだ。僕は一般人に名が知れているわけではないからほぼ関係ないが、編集者の書き方によって黄瀬や所属事務所のイメージは大きく変わってくるだろう。そして『TiPOFF』が始動した今、オフィスクオーターの評判は我が社にもダイレクトに伝わる。――全く、芳しくない話だ。
 ちなみに今朝、君のアパートから彼が出てきたシーンもあるよ。と、そう付け足してもう一枚写真を提示されてしまい、最早逃れようもなかった。
「さて……どうする? 俺はあんまりパパラッチのような真似はしたくない」
 ここまで来て彼の意図などわかり切っていたのだ。氷室さんは黄瀬と僕のゴシップ写真をそれらしく仕上げて世間を騒がすなんて野暮なことはしない。問題はそれをどう利用するかにある。
 今日はこれを見せる為に来たんだな、とやっと納得した。
「……いくらでも検討しますよ」
 顔を上げて相手を見据え、内心で舌打ちをするほか自分の失態による苛立ちを抑える術はなかった。ビジネスとなれば気は緩められない。
「そうだな、じゃあ……『TiPOFF』のヨウセンに対する報酬を吊り上げるようにお願いしたら、どこまでいける?」
「当初の二倍まで」
「さすが」
 申し分ないね、と笑った彼は全ての写真を僕に渡した。
「判断が的確で助かるよ。君と黄瀬涼太の熱愛記事を書くのも新鮮だったかもしれないけど」
「冗談じゃありません」
 鞄を持ってソファーから立ち上がり、帰り支度をする相手に向かって間髪を容れずにそう返す。取引は終了した。利害の一致を求め、金を動かす。業界など所詮はその繰り返しだ。
 昨晩の自分達が写されたそれらを手にしたまま社長室を後にし、氷室さんを見送るべくエレベーターに向かって並んで歩く。近くのエレベーターが四十階で止まっていた為にすぐに乗ることができた。
 四十三階より上は立ち入り禁止なのだから当然、エレベーター内に僕達以外の人影はない。そして一階へと降下する最中、扉の上に示された階数のランプがどんどん下がっていく様子を見上げながら彼は口を開く。
「でもあんな凡ミスをするなんて、君らしくないな。黄瀬涼太との出会いはそんなに刺激的だったのか? ……周りも見えなくなるほど」
 そう疑問を投げ掛ける時にちょうどこちらに瞳を向けられ、僕の目と合わせた両眼は想像以上に真剣だった。
「……酔い潰れれば、周りなんて見えません」
 視線を逸らし、瞼を伏せて答える。我ながらひどい屁理屈だ。
「ああ、あの時寝てたのか、赤司君」
「覚えてないんで多分」
「それじゃあ彼も酔っ払いの介抱に必死だったのかな。お姫様抱っこまでして」
「そこばっかり掘り返すのやめてもらえますか」
 いっそ知りたくなかった事実でいじられるのを耐え、一階に着いたところで開くボタンを押したまま氷室さんを先に行かせる。ロビーに居た人間達は僕の姿を見るなり頭を下げ、道を開けた。
 そして最後に、じゃあまた、と足を踏み出した彼は振り返ってこう告げるのだ。
「赤司君。お節介だったら悪いが……君の腕が落ちる前に、君はロスへ戻るべきだと思う。どんな職であれ、海外で張り合える日本人は貴重なんだ」
――ああ、一体、今日の本題はどれだったのだろうか。『TiPOFF』の割付か、黄瀬との写真か、今の助言か。いい加減、自分にはわからなくなっていた。ただ在米の編集者として実績を積んできた氷室さんだからこそ、ロスで今と違う仕事をしていた僕にその台詞を向けられるのかもしれない。
「……ご心配なさらず。視力は落としても、腕前は落としません」
 頭を下げて返答すれば、彼は「ならいい」と眉を下げて笑い、去っていく。
 ロビーに残された僕は一人、頭の中で交錯する黄瀬の言葉と氷室さんの言葉をひたすら反芻した。社長になりたくてなったわけじゃない、ロスへ戻るべきだ、その二言が重く心に響いているのがなんだかおかしかった。帝光出版で成果を残すと決めて帰ってきたというのに、周囲に認められなくてどうするのだ。四十三階からずっと左手に握っていた例の写真を見やる。
 僕を自宅に送る途中でこんな経緯があったことなど黄瀬は伝えてこなかった。もちろん言いづらいにも程があるし、自分が黄瀬の立場でも口にしないだろう。が、易々と抱きかかえられるくらい体格差があったかと内心で苦笑する。
「……いつまでも浮かれているわけにはいかないな」
 知らず知らずのうちに己にしか聞こえない声量で小さく零れてしまっていた。思わず、脳裏にずっとちらつく黄金色の輝きを振り払うように、びり、びり、と写真を破く。もう必要がない。けれど生ぬるい熱と消えない羞恥を僕に与えていったことなど、黄瀬はきっと、気付いてもいないのだ。
 周囲の社員が立ち尽くす僕を遠巻きに見ている。仕事をしながら、それぞれの役目を果たしながら、業界に埋もれていく人生を選んだのは僕自身だ。作った朝ご飯を誰かにおいしいと言われるささやかな幸福に浸ってしまったら、こんな世界もう怖くて、二度と戻れない予感がした。



2013.06.27
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