ばたん、と脱衣所の扉を閉めて大きく息をつく。やってしまった。昨日のことは酒のせいにすればまぁ許されるだろうとは思っていたが、シラフであんな行動に出てしまったのは自分でも驚きを隠せない。いや、でも、と考えを巡らす。
「忘れてる方が悪いだろ……」
 深く溜息をついて項垂れた。確かに明日になったら忘れていないだろうかと昨晩はそう思ったし、だから心置きなくあれやこれや出来たのだと言ってもいい。けれどいざ何もかも覚えていないとなると、正直対応に困る。いっそ俺が不法侵入の末に強姦したと容疑を掛けられてもおかしくなかったはずだが、その点だけは向こうが自分を責め出したので助かった。……というよりは、俺が自分のことを棚に上げてあんたから脱いだ、誘ったのはそっちだ、なんて逃げ口上を並べたせいだろうと思うと、少し申し訳ない。
 しかしあれだけすっきりと記憶喪失できるなんてある意味羨ましいとも思った。要するに家に着いてから目を覚ましたあの時も結局は酔っていたということだ。二段階で騙されたような気分である。とは言え覚えていないことに衝撃は受けたものの、全てアルコールが原因だとわかった途端、僅かな安堵とショックが綯い交ぜになったのも事実だった。
「あーあ……全部なかったことにされそ」
 小さく呟いてから、らしくないらしくないと首を横に振る。さっさとシャワーを浴びよう。先ほど着たばかりの服をもう一度脱いで籠に畳み入れ、腕時計とピアスも外して棚の上に置いておく。ジーンズのポケットに入れていたスマホはその隣に並べ、浴室のドアに手を掛けた。
 シャワーの出始めの水は頭を冷やすのにちょうどよく、最初に洗顔をして髪から順に洗っていく。疲労に相まって睡眠時間が足りていない為に、気を張っていないとどこでも眠れてしまいそうだ。
 浴室は狭くもなく広くもなく、普通に一人暮らしをするには十分のサイズだろう。きゅ、とシャワーを止めて端に配われているシャンプーやコンディショナーに目をやれば、どれも一つだけでなく数種類あることがわかった。香水の件を参考にする限り、恐らく試作品や新商品は出来る限り自分で試しているに違いない。そしてぽたりぽたりと雫が落ちる中、その数の多さには目を見張らざるを得なかった。リーズナブルで親しみやすいと評判の品から反面、匂いや手触りに拘った一流ブランドの新作まで、全て開封した状態で並んでいる。
(これ……使っても大丈夫かな……)
 最初は体を水で洗い流すだけのつもりでいたが、職業柄、こういったヘアケア類にもやはり興味があるのだ。一つ一つ手に取って裏の成分表や売り文句を見比べていると、不意に浴室の向こう、脱衣所のドアの開閉音が耳に入り肩が跳ねた。黄瀬、と一枚の扉を隔てて声が聞こえてくる。もちろんポリスチレン樹脂のパネルで相手の姿はぼやけて見えるが、あの赤髪は目立つばかりだ。
「タオル、ここに置いておくから」
「あっ、はい。ありがとっス」
「じゃあ、」
「あ、あのっ」
「ん?」
 脱衣所を出て行こうとする影を咄嗟に呼び止め、引くに引けなくなってしまった。「あの、これ……シャンプーとか、使っても平気っスか?」迷った末に躊躇いがちに尋ねると、浴室の中で多少声が反響する。
「ああ、どれを使っても構わないよ。いくつか商品化してないものも混ざってるが、品質に問題はないから安心してくれ。……あ、でも、もし匂いが残るタイプが苦手なら、一番右端の二つはおすすめしないな。あと肌触りを楽しみたいなら、左から三番目の……」
「紺色のやつっスか?」
「そう、それ。そのシャンプーが今夏商品化予定として最も推しているものだ。よかったら使ってみてくれ」
 しっかりと販売サービスまでされてしまい小さく苦笑した。本当に職業病だなあ、と。そう考えている間に脱衣所の扉も閉まったらしく、再び静寂が訪れる。
 せっかくなので、最後に奨められた一押しのシャンプーを使うことにした。二回プッシュして髪に溶け込ませると、言われた通り肌触りはとても良い。ふわふわと軽く泡立ち、匂いも清涼だ。俺は専門家ではないし他との詳しい違いなどはわからなかったが、第一印象としては、これなら何度も使いたいと思えるものだった。そう伝えたらあの人は露骨に嬉しそうな顔はせずとも、きっと内心で喜んでくれるのだろう。
――時々、彼が出版社の社長であることを忘れかける。仕事の幅があまりに広い為、普段、とても本だけを編集しているようには思えないのだ。俺の鞄もここにあるシャンプーも全て赤司グループが生み出したブランド品。今はたまたま帝光出版の社長という名目で自分と接しているだけで、本来は数多のジャンルを彼は網羅している。あの小さな頭にどれほどのデータが入っているのか。それは誰の想像をも絶するはずであり、寧ろ社長に就いた経緯から察すると今の立場を本人は望んでいなかった可能性も高い。
 桃っちはあの人のことを、『赤司征十郎はアメリカじゃあ指折りのクリエイター』だと言った。しかし何を作っていたのか、海外で何を専門としていたのか、俺は知らないままでいる。
(ミブチさんと同じ学校だったんだよな……)
 じゃあメイク科を含む専門の別カレッジで活躍していたとか? ぱっと思い付いたのがそれだったが、ミブチさんが専門卒であるのかさえ知らないし、そもそも中学や高校時代の同級生ということもあり得るかもしれない。いい加減な憶測をするのはやめようと思い直す。
 一通り洗い終えてシャンプーをお湯で流していると、ふと背中にピリ、と痛みが走った。同時に今までの思考もシャットダウンされ、眉を顰めて肩甲骨のあたりに手を伸ばしてみると。
「……あー……」
 見えない位置ではあるが、昨晩のことが記憶に蘇りすぐに理解したのだった。確かに痛かったら爪を立ててもいいとは言った。じゃないと唇を強く噛んで耐えようとするからだ。が、想像以上にくっきりと引っ掻いた痕がついていそうな直接的な痛みを感じ、はあ、と溜息が零れ落ちるのも仕方がない。猫か。どうせ痛くないわけがないのだから最初からやめておけばよかったのにと、俺が思うのはさすがに無責任だろうか。
 多分、多分だけれど、社長はきっと男が相手も初めてではなかった。いくら酔っていたとは言え、自ら女役になるだなんて台詞があんなにさらりと出てきたのだ。その時点で恐らく普通、もっと簡単に言うならばノーマルな性癖ではない気はしていたが、行為を進めるうちにそんな推測は確信へと変わっていった。やたらと積極的であったり、慣れていたり、ゴムを付けようとしていらないとねだられた時はさすがに焦ったというのに、それで向こうは覚えていないと言うのだから始末に負えない。咄嗟に、昨日はたまたま持っていなかった、なんてくだらない嘘をついてしまった身にもなってみろ。
 まあ要するに何が言いたいって酒を飲んだからかは知らないが、一度スイッチの入った社長サマはとんだ淫乱でした、おしまい、というわけである。口にしたらきっと俺の命はない。
 髪も体も洗い、床タイルを大雑把に水で流して浴室を出た。そして先ほど置いてくれたタオルで拭いて下を履き、時間を確認しようとスマホを手に取ればメールを一件受信していたことに気付く。時刻は七時ジャスト。メールの送信主は桃っちだった。
『昨日はごめんね、大丈夫だった?』
 実に彼女らしい本文の始まりだ。オーディション中、精神的にあまり余裕のなかった俺に社長の見送りを任せてしまい悔いている様子が目に浮かぶ。その先は今日の打ち合わせについて確認すべき要項が簡単にまとめられ、こちらが本題でもあるのだろう。昨晩の出来事をまさか桃っちに知らせるわけもなく、大丈夫っスよ、と返信の最初に打ち込んだ。どのあたりが大丈夫なのかは自分でも正直よくわからない。
 首にタオルを掛け、打ち合わせに関する了解の返事も続けて記す。寝坊だけはしないように気を付けよう。着替え終えて腕時計を付け、返信を済ましたスマホをポケットに入れた。
「シャワーありがと……って、うわ、すげーいい匂い」
 脱衣所の扉を開けた瞬間、ふわりと鼻孔をくすぐった香りに思わず言葉が出てしまった。程よく甘い匂いの正体を探ろうと視線を動かせば、カウンターキッチンで調理をしているらしい社長の姿が視界に入り驚く。
 対面式のキッチンはフルオープン型であり、こちらに気付いて顔を上げた彼と目が合った。
「ああ、出たのか、黄瀬。簡単なものしか作れないが……よければ朝食、食べていかないか?」
「え、いいんスか?」
「帰ってすぐ寝たいだろう。でも空腹の状態で仕事をするのは良くないからな」
 そう言ってローテーブルに出来上がった皿を並べていく。最初に漂っていた匂いはフレンチトーストからだったようだ。こんがりと焼けたそれはとてもおいしそうで、野菜を添えられたスクランブルエッグも食欲をそそる。至って王道な朝食の献立ではあるが、俺がシャワーを浴びている十数分で二人分の朝食をぱぱっと作ってしまう料理の上手さは少し意外だった。自分も一応は一人暮らしをしているわけだから全くというわけではない。が、この人は本当に何でもできるんだなと、運ぶのを手伝うことさえ忘れてぼんやりと思っていた。
 すると最後に温かなスープを持って箸を置いた社長が、俺の方に目を留めてじっと見てくる。なんだろうと思わず身を強張らせた瞬間、髪、と呟かれて漸く我に返った。
「あっ、ごめん! ちゃんと拭いてなかった」
 首に掛けていたタオルを咄嗟に手に取る。きちんと乾かしていなかった為に床を見れば何滴か雫が落ちていて、自分の家とは違うんだからと今更な反省をした。しかし怒られるかと思いきや、彼は伏し目がちにこう口を開く。
「いや、水も滴るいい男だと思ってね」
 床に腰を下ろしながら淡々と告げられ、上手い返事が出てこない。相変わらず自分が褒めたい時は少しの恥ずかしげもなく褒めるし、不意打ちだし、その一言一句で俺の思考回路がどれほど崩されるかわかっていないのだ、この人は。
「ほら、冷める前に早く食べよう」
「あ……う、うん」
 どうせ今の言葉もただ頭に浮かんだ感想を述べただけなのだろうと思うと妙に悔しい。さっき肌に触れた際にズボンから出したシャツの裾も丁寧に仕舞われていて、キスなどなかったかのようにもういつも通り振る舞われている。手強い、と思ってしまっている内心に苦笑した。
 髪を拭いてからタオルは脱衣所の籠に戻しておけばいいという指示に従った後、社長の向かいに座った。いただきます。手を合わせて口にする。まさか社長の手料理なんて食べられると思っていなかった為に少しの緊張を覚えたのは否めないが、まずスクランブルエッグを一口、それだけで無駄な緊張も解けてしまうのだった。
「……おいしい」
 ぽつりと素で出てしまった感想が相手にも聞こえたらしく、ふふ、と笑みを零される。
「ありがとう。そんな大層なものは作ってないがな」
「でも俺こんなふわふわに作れないっスよ。一人暮らしだけど、好きで料理もしないし」
「いつから一人暮らしなんだ?」
「中学卒業と同時だから……まだ十年経たないかな」
 昔を偲ぶように視線を斜め上にやってそう答えると、社長は驚いたような顔をした。随分早く独り立ちしたんだな、と。
「親が放任主義だったんスよ」
 もう暫く会っていない両親を思い浮かべながらフレンチトーストを口に運ぶ。割と甘さは控え目だが、それもきっと栄養バランスなんかを考えているのだろう。キャベツやトマトなどの野菜のおかげで彩も良い。シャワーを浴びる前は閉まっていたカーテンも開けられ、窓から差し込む朝日が本日の快晴を示していた。
「じゃあ生活能力は十分ということか」
「いやそういうわけでも……部屋汚いし、人は呼べないっス」
「綺麗にしてる暇がないんだろう? 別に客人もてなして接待とかそんな仕事じゃないんだから、一人で食べて寝られれば、海外でも問題なくやっていけるよ」
「か、海外?」
「可能性の話」
 いきなり飛躍した内容に理解が追い付かないが、この人はどこまで未来を見据えているのだろうか。可能性の話だと言われても、あまりに現実味のない予想だ。
 そこで会話が途絶え、気まずくなる前にと俺の口は勝手に動いていた。
「……社長は、なりたくて社長になったわけじゃないんスよね?」
 聞くなり相手が一瞬目を丸くしたのを見て、しまった、と思う。普通に疑問形で尋ねればよかったものを、何故既にわかっているとでも言うような口振りで確認を取ってしまったのだ。図々しい失言を慌てて取り消そうとしたが、それよりも早く彼は聞き返す。
「そう思うか?」
 笑って、試すような表情が脳裏に焼き付いた。しかしこちらが言葉に詰まったのがすぐにわかったのだろう。
「……いや、すまない。今のは僕の意地が悪かった」
 カップに注がれたオニオンスープに息を吹き掛け、冷ましながら謝られてしまう。自分は普通に飲める熱さだったことを思うと猫舌なのかもしれない。
「確かにこんなに早く帰国する予定はなかったから、不本意という部分もあるにはあるが……いずれは父の後を継ぐ為に、帝光出版のことも視野に入れていたよ。帝光は赤司の家が唯一自ら手を下している会社だからな」
「……でも、他にもいろんな会社を見てるんスよね、あんな膨大なデータを管理してるくらい」
 そう言うと彼は目線を上げ、それから何を指しているのか把握したらしい。昨日、俺を驚愕させるに十分だった寝室のファイルの数々だ。あんなものがずらりと並んで圧倒されないわけがなく、全て責任を以て指導しているのだと思うと背筋が震える。ところが数百の量に怯んだ昨晩を思い返していると、社長はプチトマトを食べながらあっさりと暴露するのだった。
「ああ、あれはダミーだよ」
 と。
「……えっ?」
「中は適当に数値を並べた偽物の文書だ」
 待て、意味がわからない。
「に……偽物? あれ全部?」
「ん」
 そ、そんな馬鹿な。目を見開いたまま固まってしまう。なんで、と口にもできないくらい衝撃を受けていたが、トマトのへたを皿の端に置いた彼は淡々と説明を始めた。
「ロスに行く時、空き巣に入られたら困ると思ってね。なんとなく作ってみたんだ」
 なんとなくって。そもそも海外で暮らすのに部屋を離さなかったのか。その分の家賃は、と思ったがそんな金に苦労する人ではないし、いろいろと突っ込みどころが多すぎて頭は混乱するばかりだった。そして口を衝いて出た言葉は。
「……ひ、暇だったんスね……」
 という返答が精一杯である。どこらへんが空き巣対策のつもりなのかよくわからなかったものの、盗まれても偽造したデータだから問題ない、ということなのだろう。
(だったら何も置かなければよかったんじゃ……)
 いや、これ以上考えるのはやめよう。だんだん社長が頭良すぎてちょっと馬鹿に思えてきた。
「え、じゃあ、仕事は基本的にあのパソコンしか使わないんスか?」
「大体はな。僕も全部を把握しているわけじゃない。ちゃんとしたデータは父の本邸で管理してるよ」
――本邸。
 実家とは言わないのか、言えないのか、ほんの一瞬余計な考えが頭を巡る。
「……そっちには帰らないんスか」
 そのせいで変に間を空けてしまったのが悪かった。俺の単純な思考など簡単に読めるのだろう彼が、眉を下げて息をつく。
「お前には関係のないことだから、気にしなくていい」
 何故こんなところで暮らしているのかという勝手なお節介を、こうも困ったように宥められてはあまりに情けなかった。何も返す言葉が見つからず、自分の失態に肩を落としたまま箸を進める。その後の会話はなかった。「ごちそうさまでした」少し経ってからほぼ同じタイミングでお互いそう口にすると、俺の皿を見た社長が残さず食べてくれてありがとう、と微笑んだ。
「あ、洗い物は俺がやるっス」
「いいよ。座ってて、」
「だめ」
 あんたが座ってて、と肩を押して戻らせる。朝食を作ってもらって洗い物までさせるわけにはいかない、この家の主じゃないとは言え、こんなに世話になる予定ではなかったのだから。
「……じゃあ、お言葉に甘えようかな」
 俺がシンクの前に立って蛇口を捻ったところで漸く諦め、頬杖を突いて一息入れたようだ。その様子を横目に、かちゃ、と皿を手に取って洗剤を使い洗っていく。
「あ、社長もお風呂入ってきたらどうっスか? 会社行く前に入るでしょ?」
「ああ、でも黄瀬が帰ったらにするよ。さすがにお客さんの前ではちょっとな」
「お客さんって……ほぼ不法侵入っスけどね……」
 自分は招かれた人間ではないし今更そんな意識も要らない気はしたが、社長なりの配慮があるらしい。
「そういえば、どうやって家に入ったんだ? 鍵が掛かっていただろう」
 触れないようにしていた話題を投げられて言葉に詰まる。けれど正直に吐露するしか術はなく、「偶然、アパートの上の階に住んでる人が通りかかって」と本当のことを話した。青色の髪をした男性に声を掛けたら、勝手にあなたの鞄を漁って鍵を見つけてくれました。人の鞄を無断で探るなんて常識的に云々と怒られる可能性も考えていた為に、そう言ってどんな反応が返されるか少なからず身構えた。が、予想に反し、彼は目を見開いて全く違う部分に食い付く。
「――大輝と会ったのか」
 いきなり挙がった人名に、俺は首を傾げた。
「上の階の人の名前っスか?」
「そうだよ。……覚えておくといい、あいつもこの業界じゃ第一線の人間だ。きっとまた会う日が来る」
 『青峰大輝』だ、とソファーに移りながら告げられ、初めて聞いた名を脳にインプットさせた。社長が言うくらいだから相当な実力派なのだろうけれど、この広い業界で自分が知っている人間などごく僅かだ。今は一つ一つの出会いを大切にしていくしかない。まさか昨日会ったあの人がこちらの世界で名の知れた人間だったなんて、思いもしなかったが。
「ただ、まあ……大輝と仕事をするにはお前の努力と、運も重要かもしれないな」
「運?」
「成功しなきゃ駄目だってことだ」
 瞼を伏せて続けられた一言は想像以上に重みを持っていて、一瞬、皿を洗う手が止まる。冷水が指先に掛かるが、視線を上げてこちらを見据えたその目と目が合いはっと我に返った。いい加減この人の前でわかりやすい態度を取るのはやめようと、そう決意したばかりだったというのに。
「……別に、今から深く考える必要はないさ。お前はまっすぐ前だけ向いて突き進むのが似合ってる」
 そう口にしながらソファーの後ろ、部屋の隅に設置された引き出しから社長は何かを取り出したようだった。棚の上には電話機とカレンダーとメモ帳、ボールペンが置かれている。そして最後にカップを水で流し布巾を洗っていたところで、彼が手に取ったものの正体は煙草だったことがわかった。
 恐らく無意識だろう。相変わらず足を組んでソファーに深く座り、ズボンのポケットに入れていたらしいライターで火を付けようとする様子を黙って見てしまう。するとこちらの視線に気付いたのか、珍しく慌てた素振りで俺の方を見やった。
「あっ……わ、悪い。家にいると、つい癖で」
 この人の中でしていいことといけないことの基準は大方人前か否かだ。俺が何も言っていないのに咄嗟にライターを仕舞って煙草を握り潰そうとするものだから、自分の口も知らず知らずのうちに動いていた。
「大丈夫っスよ! 俺、そういうの全然気にしないから」
 洗い物を終え、布巾を絞ってから声を掛けた社長の方へと足を進める。そしてソファーの肘置きに軽く腰掛け、ちょっと意外だったけど、と笑えばやっと気を許してくれたようだった。せっかくここまで打ち解けたのだから、俺の前でまで気を張る必要なんてないんだ。
 彼は口を噤んで暫く煙草と睨めっこをしていたが、やがてもう一度ライターを取り出し、今度はちゃんと火を付けた。灰皿はいつの間にか昨日寝室で見かけた位置からリビングに移動している。吸い殻の本数は昨晩と変わらず、多分シャワーを浴びている間にこちらに持ってきたのだろう。煙草を持つ細長い人差し指と中指は陽に焼ける機会もないのかとても白く、けれど健康的だとも思った。
「……煙草の匂いとか、平気なのか? お前は吸わないんだろう」
 手元をじっと見詰めていたのが気まずく思われたらしい。とんとん、と灰を落として話を振られ、俺も顔を逸らした。
「吸わないけど、いちいち気にしてらんないっスよ。先輩とかタメでも喫煙者のモデル仲間は多いし」
「ふうん……健康には人一倍気を配っていそうだけどな」
「そんなんお互い様。社長だってただでさえ多忙なんだから、肺まで殺しちゃだめっスよ?」
「はは、肝に銘じておくよ」
 曖昧に流された気がする。割と本気で忠告したつもりだったのにと口を尖らせた。「社長って結構適当なところあるよね」真面目で思考がお堅い性格は否定しないが、時々ずれているところがあるというか、そこが面白いというか。しかし出会った日からの言動を思い返しながら呟くと、こう返事をされてしまう。
「そうかな。僕はお前が予想していたより頼りになりそうで驚いたよ」
 ふ、と煙を吐き出して、笑いながら。
「言葉遣いを抜きにしても礼儀は正しい。空気を読むのも上手いし、意外と年上との付き合い方もわかってる。それに実力の世界で揉まれてきたからか、根からの負けず嫌いであることは自分が一番理解しているだろう? その打たれ強さと揺るがない意志が八方美人にさせてないところも良いと思うよ。あと何より、優しいしね」
 べらべらと喋り通してこちらを見た社長の瞳だけでは本気なのかからかわれているのかわからず、僅かに俯いて右手で口元を隠した。まさか真に受けて喜んでいるなどとは気付かれたくなかったのだ。
「……そんな褒めたって何も出ないっスよ」
「本当のことを言ったまでだよ。照れてるのか?」
「照れてなんか、……あーもう、帰る」
「あははっ、わかりやすいな、黄瀬は」
 全く嬉しくない発言と共に面白がるような笑い声。何を言っても勝てない気がしたので無駄な抗議はやめ、立ち上がって寝室の鞄を取りに行こうと扉を開けた。
「……でもあんまり優しすぎると、付け込まれるぞ。僕みたいな奴に」
 その瞬間、自分の後ろから急に真剣な声色が聞こえ、思わず手も足も止まってしまう。振り返っても社長はこちらを見ていない。ソファーの上部から窺える真っ赤な後頭部だけではどんな表情をしているかなどわからず、ゆらゆらと漂う煙とのコントラストが印象的だった。
「……付け込むなんてそんな卑怯な手、使われた覚えないんスけど」
 見当違いもいいところだと、はっきり告げる。
「あんたいつだって真正面からぶつかってくるから、調子狂わされんだよ、俺」
 社長のような立場であればいくらだって姑息な方法は考え付くだろうが、それを一切好まないこの人だからこそ、自分は紛れもなく惹かれているのだと思った。俺の言葉をどう捉えたのかは知り得ない。しかしほんの少し煙が揺らめき、空気が震え、そして「……物好き」という小さな反論が耳に届くのみだった。


 社長の自宅は意外と駅に近く、その駅も俺の家の最寄りから二駅しか離れていないらしい。帰る際に道順を教えられ、玄関まで見送りをされる。今度会う時はオーディションの合否が出ているだろうな。最後にそう言われ、サングラスを掛けてアパートの扉が閉まった午前七時半ごろのこと。
 向かいにはまた別の家が建っているものの付近に店や公共施設は見当たらず、人通りも多くはない道だ。とても閑散としている。おかげで、アパートから数十メートル離れた位置に停車している藍色の車がやけに目立つのだった。――否、少しも注視しなければ何ら違和感などないが、俺の視覚はどうしてもそういうことに敏感になってしまっている。職業病と言ってもいいだろう。
(あの車、確か昨夜も……)
 小さく舌打ちをした。人気女優が相手というわけでもないし恐らく大丈夫だろうが、『赤司』の表札を一瞥し、厄介なことにはならないようにと願った。



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