現状を説明しようと思う。
「…………」
 言葉も出ないが説明しようと思う。
 いや、僕も何がどうなってこんな状況に陥っているのかさっぱりわかっていないけれど、とりあえず一つずつ整理していかないことには先に進めないのだ。先、というのはまずこのベッドから降りたいわけだが、左隣にある障害のせいで身動きが取れなくなっている。残念ながら右を向いても壁しかない。物理的に八方塞がりである。
 見る限りここは自宅だろう。が、何故この部屋に自分とそしてもう一人が居るのだろうか。おかしい。僕は一人暮らしだ。他人を家に呼んだ経験もなくはないが宿泊を許しているのは玲央や小太郎、永吉などのアトリエのメンバーか、あとは付き合いの古い真太郎と敦くらいだった。少なくとも昨日今日で親しくなったような人間を招けるほど自分は寛大じゃない。――はずなのに、これでは説得力の欠片も見受けられないだろう。
「……んん……」
 茫然としていたところで例の左隣にのさばっている障害からくぐもった声が聞こえ、大袈裟なまでに肩が跳ねる。目を覚ましただろうかと恐る恐る顔を覗き込むが、まだその左右整った瞼が持ち上がりそうな気配はない。
 何度も顔を確認したけれど、人違いではないらしい。いや人違いでも充分怖いが。どこから見てもさすが完璧な顔立ちをしている、などと感動している場合ではなかった。
(起こすべきか……)
 なんて考えを巡らせるまでもなく、何が何でも起こして詳しい事情を教えてもらわなければならないだろう。そもそも最大の疑問は今の自分にあるのだ。布団から出られないのは半ばこれが原因でもあり、いくら眠っているとは言え他人が居る中でうろつけるような格好はしていなかった。なぜ。なぜ僕は今。
「服を着てないんだよ……」
 心の底から頭を抱える。何なんだこれは。裸で寝るとかロスでもしなかったし正直自分の下着が床に落ちているのが不可解でしかないしなんか腰のあたりがすごく痛いしそれ以上に問題はお前だ黄瀬涼太。
 なぜお前も服を着ていない!


Mr.Perfect / Scene 02 - A part


 あれから何回か起こそうと決意はしたものの、易々と実行に移すことができなかった。仕方がないので話を聞く前に服を着るかと、彼の上半身を跨ぐようにして手を伸ばしてみたが当然届くわけもない。そんな体勢でもぞもぞと動けば相手も目を覚ますというものだ。やはり一枚の布団で寝ているこの状況を恨むほかなく、「ん……もう朝か……」なんて呟きながら体を起こす隣の彼から少し身を引いてしまった。
「おはよーございます」
 しかし目をこすりながらも、きっちりと挨拶をされれば。
「あ、ああ……おはよう……」
 反射的にそう返すしかない。彼は何一つとして現状を疑問に思う様子もなく、頭を掻いて欠伸をするほど落ち着いている。なかなかわけがわからないが、こんなに困惑しているのはまさか僕だけだと言うのか? 思わず眉を顰めて壁際に寄ると、あ、と何かを思い出したかのように黄瀬は口を開いた。
「体、大丈夫スか?」
 ……は?
「え、あ……まあ……?」
「よかった」
 曖昧に返事をしてしまったが、それに対して寝起きのふにゃりとした柔らかい笑顔を浮かべられ息が詰まった。どういうことだ。まるで動揺している自分の方がおかしいとでも言われているかのような展開である。けれど唖然としているこちらを余所に彼は顔を覗き込み、そして――あろうことか、その形の良い唇を唇へと近付けられる。
「い、いやいやいや待て。ちょっと待て」
「へ?」
 思わず手の平で黄瀬の口を覆うように押さえたものの、その距離僅か五センチ。近い。近すぎる。こうして間近で見ると尚のこと彼の美形ぶりがよくわかるが今はそんなことはどうでもいいのだ。
「な……何をしようとしている」
 行動を阻まれ少し眉根を寄せた黄瀬は、僕の問いに首を傾げた。「キスだけど」そして平然と告げられた一言に頭の中が真っ白になるとはまさに今だった。これでもおかしいのは彼じゃなく僕だなんてありえないだろう。気付いたら朝になっていて、お互い何も身に纏っていなくて、挙句謎の言動をされ、いくら自分の頭の出来が人並み以上だという自負があるとは言えさすがに理解が追い付かない。
「……状況を説明してくれないか」
 手を離し背中に冷や汗を感じながら小さく言うと、思い切り顔を顰められる。そんな反応をされてもわからないものはわからないし、率直に言えば通報したっていいくらいの現状だ。自分が裸じゃなければの話だが。
「説明って、今更何をするんスか」
「だ、だってなんでこんな……いや、大体キスって、……わかってるのか。僕もお前も男だぞ」
「あー……そりゃ俺は男相手はあんたが初めてだって言ったけど、まぁ結局寝ちゃったし、もう気にしてないっスよ。つかキスも昨日散々したじゃん」
「……は?」
 日本語で喋ってくれ、と言いたいところだが残念ながら僕は母国語はもちろんのこと英語もフランス語もイタリア語からスペイン語、中国語、ドイツ語まで一応全て話せる程度の語学力は持っているはずだった。しかし甚だ理解に苦しむ。
――寝ちゃった?
「だ……誰が」
「え、誰が? 俺と社長が、っスけど……」
「……冗談だよな?」
「いや、さっきから何言って…………、えっ、ちょっと待って、まさか」
 次々と口にされる想定外の発言にいよいよ頬を引き攣らせたところで、黄瀬は驚いたように目を見開いた。そうだ、最初からそういうリアクションをしてほしかったんだ。お前だって意味がわからないだろう。――と考えたがしかし、彼は非難めいた声で「覚えてないんスか」と言うのみだった。やはり僕がおかしい、そんな雰囲気で。
「覚えてないって……な、何をだ……」
「昨日のことっスよ。飲み終わって俺がここまで送った……時はまだ寝てたから知らないか。えーと……だから簡単に言えば、ここで目覚めてあんたが自分から脱いだこととか」
「え」
 思考回路が停止し瞬きも忘れて固まるほかなかった。黄瀬の説明は衝撃的だとかそんな言葉で片付けられるものではなく、できれば聞きたくなかった、というよりは全く以て信じられない事実である。
「あ、まぁ別にセックスする為に脱いだってだけなんスけどね」
 いや何のフォローにもなってない。
「……嘘だろう……」
「嘘じゃないっスよ! え、ていうかマジで覚えてないの? ほんとに?」
 確認を取ってくる相手など構わず、ベッドの上で茫然とする。この状況を作り出したのがまさか自分自身だったなどと、いくら反芻しても疑うことしかできなかった。もちろん僕だって、その可能性を少しも考えていなかったわけではない。何せ現状が現状だ。揃いも揃って互いの服が床に散らばっていれば余程馬鹿なことをしていなかった限り予想できる展開はおよそ一つ。ただ認めるまでには至らなかっただけで。
「ちなみにどのへんから忘れてるんスか」
 黄瀬も信じられないと言った風にそう尋ねてくるが、恐らくそれは僕が昨晩の出来事を覚えていないことに対してであり、事に及んだといういきさつについては納得しているようだった。
「……昨日はまずオーディション撮影があっただろ」
「そうっスね」
「それで黄瀬と再会して、撮影が始まって、お前は調子が悪くて」
「いやそこらへんは飛ばしていいから」
 撮影が終わった後、と催促されるままに記憶を辿る。
「玲央と小太郎と……桃井と、黄瀬と飲みに行って、撮影の話を少しして、僕は……湯豆腐を食べて……」
「で?」
「…………」
「あー……」
 流れる沈黙が痛々しい。久々に行った店で湯豆腐が相変わらず絶品だったことまではしっかりと覚えているのだが、肝心のその後が微塵も思い出せないのだ。記憶喪失にでもなったかのようにすっぽりと抜け落ちてしまっている。これでは自ら脱いだなんて耳を疑いたくもなる事実を否定することもできず、俯いて絶句した。
 そんな自分を横目に、「じゃあ結局、あの時も酔ってたってことでいいのかな……」と黄瀬は独り言を零している。が、『あの時』がいつを指しているのかさえ僕にはわからない。ただし『あの時も』ということは、つまり自分は彼を誘った時点で既にアルコールを口にしていて箍が外れたのだろう。一緒に飲んだ他の四人が酒を頼んでいたことは覚えているし、そこで何かが起こったらしいとは予測がつく。
「えーっと……とりあえず服着る?」
 気まずそうにそう言って布団から出た黄瀬は下着だけ履いていたようだ。しかし当然上下の服は乱雑に投げ捨てられ、ふと見やれば机の横に置かれたごみ箱には丸められたティッシュがそこそこの数捨てられていた。大方の事情を理解したあたりからなんとなくそんな気はしていたが、自分の体が特にそれらしいもので汚れていないのは、恐らく彼が事後処理をしてくれたからだろう。
 いくら記憶にないとは言え、いい加減受け止めなければならない。そしてあまりに情けない現状と相手の気遣いを前にし、湧き上がるのは罪悪感だけだった。
「……すまなかった」
 ジーンズを履き終えてベルトを締めている黄瀬の方に体を向けて謝ると、彼は振り向き、そして慌てたような声を上げる。
「えっ……ちょ、な、なんで土下座!?」
「覚えていない奴に言われても説得力に欠けるとは思うが……ビジネスで付き合っている人間に対して僕は最もしてはならない過ちを犯した。それもまだ契約も樹立していない段階で、ろくに信頼関係も築けていないというのに……いや、そんなことは関係ないな。とにかく今回の件に関しては全て僕の責任だ。不快な思いをさせてしまって、本当に申し訳なかった。どうか許してくれないだろうか」
「はい……?」
 思い付く限りの謝罪の言葉を口にすれば随分とまとまりのない陳謝になってしまっていた。もっと上手く言えないのかと自分自身に腹立たしさが込み上げるが、彼は変わらず混乱しているような口振りだ。
「いや許すも何も、なんでそんな大層な話になってんのか……と、とりあえず頭上げて! ほら服も着て! 昨日のことは俺もあんたも酔ってたんスから、ね!」
「だが酔っていたからと言って、許される行為では……」
「大丈夫だから! ていうかそんなこと言ったら実際、手出したのは俺の方っスよ」
 黄瀬は決して僕を責めようとしない。しかし責任の所在を曖昧にすることを好まない自分としては、彼の優しさに甘えるわけにはいかなかった。そうしてベッドの上でシーツに額を合わせること数分、相手からも何も言われなくなった時。不意にぎしりとベッドが軋み、黄瀬が僕の顔の横に右手を突いたのだとわかった瞬間だった。
「――っ!?」
 突然、左耳に感じた湿った感触に息を呑む。ひ、と喉の奥を詰まらせて思わず体を起こすと、黄瀬が至近距離で口角を上げてみせた。「やっと顔上げた」舌を出してそう笑う様子に漸く耳を舐められたのだと理解する。同時に押さえた耳元から羞恥が伝染したかのように、首より上が少し熱い。
「やっぱり耳、弱いんスねえ」
「……お前が僕を抱いたのか」
「手出したのは俺だっつったでしょ。もちろん合意の上っスよ?」
 こちらの反応を面白がっている黄瀬を見て、大真面目に反省している自分が途端に馬鹿らしく思えてしまった。それから暫く逡巡した後、はあ、と目を瞑って浅く溜息を吐き出す。
 布団の上に置かれた服を手にし、白シャツに腕を通しながら彼の方を見上げた。
「……男を抱くなんて、お前も相当酔ってたんだな」
 僕が言えたことではないが。ボタンを留めて呟くと、黄瀬は一度瞬きをしてから露骨に視線を逸らした。そして「まあ、そうかもしれないっスね」と口にされた一言はあからさまに返答を濁されたのだろう。けれどそれが何故だかは思い当たる節がなく、深く突っ込むこともせずに下まで留め終える。
「社長は頭痛かったりしないっスか?」
「……頭より腰が痛い」
「あー、あはは……」
 笑って誤魔化している黄瀬をわざと睨むように言い、下着とズボンを履こうとベッドから立ち上がる時に覚えた違和感はやはり下腹部から来るものだった。事後処理はきちんと成されているが、どうにもこうにも、腹のあたりがいつもと違う感じがする。
「女性とは寝ないのかな」
 着替え終えて左手首に腕時計を付けている彼にそう尋ねた。すると当然、なんでそんなことを聞くのか、とでも言いたげな顔をされる。が、僕の目を見て言わんとしている内容を把握したらしく、気まずそうに押し黙ってしまった。察しの良い奴は嫌いじゃない。
「……き、昨日はたまたま持ってなくて」
「経験がないならまだしもそういうわけじゃないんだろう。感心しないな」
「んなこと言われたって……本当はこんな予定じゃなかったんスからね? 大体中に出してって言ったのはそっち」
「わかったもういい言わなくていい」
 これ以上は墓穴を掘るだけだ。せっかく遠回しに確認を取ろうとしたのに平気で身も蓋もない発言をする黄瀬を遮り、そして昨晩の最早自分とは思えない自分を恨むほかなかった。彼によれば昨日はたまたま避妊具を持ち歩いていなかったらしいのでつまるところナマでされたわけだが今更どうしようもない。自分が女じゃなくてよかった。僅かな腹痛にも耐えよう。
「黄瀬。お前今日、仕事は?」
 スーツの上とネクタイは畳んでベッドに置いておく。やっと人前に出られる格好になったところでそう聞きながら、壁に掛かっている時計にも目をやった。ちょうど六時半。何があっても決まった時間――早朝六時には必ず目が覚めるから寝過ごした心配はしていなかったが、幾度か欠伸を噛み殺している黄瀬はまだ眠いのだろう。何時にここへ着いたのかわからないもののきっと日付は変わっていたと思うし、それから行為に及んだというのなら数時間しか寝られていないはずだ。
 仕事に支障が出るとそれこそ申し訳なくなる。その心配に気付いたらしい彼はへらりと笑った。
「今日は午後から打ち合わせしかないから大丈夫っスよ。社長こそ仕事でしょ? 時間平気?」
「僕は最悪八時に出れば間に合う。そうだな……、一度家に帰るか?」
「あ、うん。ちょっと寝たいし」
 だろうな、と苦笑する。
「じゃあ風呂に入ってから帰れ。今お湯入れるから」
「えっ」
「モデルが風呂に入らず外をうろつくわけにはいかないだろう。……というか、洗いたいんじゃないか? 体」
 そう言い切り、寝室を出てダイニング横の浴室へ向かおうとすると、後ろから咄嗟に「シャワーだけでいいっスよ」と主張する声が聞こえた。また気を遣われている。湯を張るのにそんなに時間は掛からないと伝えようとしたが、同時にそうではないのだということに気付かざるを得なかった。ああそうか、長居したくないよな。一人納得しながら呟いたのが聞こえたのか、彼は僅かに首を傾げ眉根を寄せた。
「長居したくないって……ちょっと待って、なんか変な風に捉えてない?」
「……は? だから、嫌なんだろう。望んでもいない人間に性行為を強要されて、そんな家からさっさと出て行きたいのは当然だ。……違うのか?」
 疑う余地もない正論を述べたはずだったが、僕の返答を聞くなり黄瀬は言葉を失ったように見えた。開いた口が塞がらない、そんな表現が正しいような素振りである。
 彼は盛大に溜息をつき、それからがしがしと頭を掻いてこちらに視線を戻す。そして一歩二歩と近付いて真正面に立たれ、不覚にもほんの少し身を引いてしまった。そう真剣な表情をされては身長差も相まって気圧されるのも仕方がないだろう。
「あんたさっきから勘違いしすぎ」
 きっぱりと断言してきた黄瀬を見上げると、その両眼には先ほどまで微塵も見えていなかった不機嫌さがちらつく。
――勘違い?
「確かにまあ、きっかけを作ったのはそっちだけど、手出したのは俺だって何度も言ったよね? それがなんで強要になるんスか。本当に嫌ならこんな会話しないで勝手に出て行くし、そもそも誘われたところでセックスなんてしねえっつーの」
 普段より心なしか低い声であまりに躊躇わず言ってくるものだから、想定外だった僕は何も返すことができない。ただ口が勝手に「でも、」と動いていた。その先の台詞などろくに考えられていないというのに。
 しかしそう反論しかけたのが尚のこと彼の憤りを増幅させたらしい。いきなり左手で腰を引き寄せられ、驚く間もなく唇を奪われる。
「ッ……!? 黄……」
 瀬、と呼ぼうとすれば口を開けた拍子に舌を割り入れられ、重ねられた体温にぞわりと肌が粟立った。顔を離そうにも顎を掴まれてしまいそれも叶わない。
「んん……っ」
 黄瀬の言い分を信じるならば昨晩自分達は何度も口づけを交わしたらしいが、僕は覚えていないのだ。当然、彼とキスをしたのはこれが初めてにしか思えない――はずだった。ところが相手の不規則な舌の動きに応えられている自分が不思議でたまらない。歯列をなぞられるのは生理的に好かないというのに、押し返そうとしてもあっさりと唾液を吸って呑み込まれる。
 芯から溶かすような深いキスに目が眩む。正直に言って黄瀬はとても上手い方なのだろう。最初は抵抗していた自分の体からだんだんと力が抜けていくのがわかり、いよいよ抗う術がなくなってしまっていた。それを見計らっていたかのようにタイミング良く、せっかくズボンに入れていたシャツの裾を引っ張られ、熱っぽい左手に脇腹をゆっくりと撫でられる。
(く、そ……っ)
 その慣れた手つきが信じられないほどにいやらしく、唇を解放されないまま微かに腰が震えた。
 同時に、フラッシュバックする感覚。断片的ではあるしどうしてあんなことになったのかはやはり思い出せないが、確かに自分は昨日、黄瀬とのセックスに溺れていた。気持ちいいとよがっていたのだ。心のどこかでは否定していた事実をまざまざと突き付けられ、ひどく恥ずかしくなる。
「は、あ……」
「……ほら、どうっスか? ちょっとは思い出した?」
「っ……、思い出したくなかったよ」
 嚥下し切れず零れた唾液を袖で拭い、沸騰しそうな脳内を無視して睨み付けた。すると彼は満足そうに笑みを深め、
「シャワー借りるね」
 そう言って額に軽く口づけて寝室を後にする。もう機嫌は直ったらしい。取り残された僕は静まり返った一室で暫く立ち尽くし、徐々に熱が引いていくのを全身で感じた。冷静になればなるほど向こうのペースに呑まれていることを思い知り、しっかりしろ、と自分を叱咤するほかない。
 しかしどうしようもなくなって溜息をつきながらベッドに腰掛け、そのまま天井を仰ぐようにして寝転がる。ここまで羽目を外したのは久々だ。右腕で目元を覆って記憶を巡らせた。
(久々……)
 彼が相手ではない。とうに捨てた初めてなど、遠い日の思い出としてもう大分薄れている。
 黄瀬は朝食を食べていくだろうか。わからないがどちらにしろ自分の分は作る必要があるし、材料もある程度なら残っていたはずだ。彼が出てくる前に作ってしまおう。気を取り直して体を起こし、まずは浴室にバスタオルを持っていかなければと思い立った時だった。
 ふとベッドの脇に置かれていた二つの鞄が目に入り、一つは黄瀬のものだということもわかる。昨日言ったように我がグループが海外で売り出しているブランド品だ。それは全く構わないのだが、問題はその中にあった。鞄のファスナーが開いていて、偶然見えてしまった物体に目を見開く。
「……あるじゃないか」
 無意識のうちに零れ落ちた一言。しゃがんでかさりと取り出せばご丁寧に封まで切られているが、中身を出すまでには至らなかったらしい。何故使わなかったのか、彼が自ら付けなかったのか僕が必要ないと言ったのかは知り得ないが、良くない予感がしたので考えるのをやめた。
 そして多少の気まずさを感じながら、何事もなかったかのように、たまたま持っていなかったことになっているコンドームを元あった場所に戻すのだった。



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