新入部員の昇格テストを幾度かに亘って行い、漸く全中へ向けて体制が落ち着いてきた帝光中バスケ部は今日も今日とて遅くまで練習を続けていた。最終下校時刻も迫る中、青峰との1on1に夢中になり最後まで残っていた黄瀬が漸く部室へ戻る。人影の少ない部室の窓から見える景色は既に暗い。六月と言えど部活が終わる頃には日も沈みかけ、更に梅雨入りをしてここ数日の天気の悪さには黄瀬も億劫になっていた。雨はあまり好きではないのだ。
「そういえば黒子っちって、手品が得意なんスか?」
 びっしょりと汗を掻いたTシャツを脱ぎながら口を開く。唐突な話題は後ろのベンチに座っている黒子へと投げ掛けられ、バッシュを仕舞っていた彼も顔を上げた。誰に聞いたんですか、と普段と変わらず抑揚の乏しい声が室内に響き、否定はされない返答に黄瀬は目を輝かせる。そしてタオルで背中を軽く拭いてから制服に手を通した。
 手品など、実際には滅多に見ることができない。
「青峰っちっス! 前すごいの見せてもらったって」
「別に言うほどすごくはないですけど……簡単なものしかできませんし、得意というわけじゃありませんよ」
 黄瀬の期待を裏切ることになる予感がした黒子は早めに現実を伝えようとしたが、あまり関係はないらしい。要するに見せてほしいと言いたいのだろう友人を前に、既に着替え終わっていた黒子は溜息をつきつつベンチから立った。すると二人の会話が聞こえていたらしい紫原が、「えーなになに、黒ちん手品すんの?」と近寄ってくる。
「あんまりギャラリーがいるとやりづらいですね……」
 困ったように呟きながらも、何か披露しなければこの話題に終わりが見えないこともわかっていた。
「黄瀬君、ちょっとそのタオル貸してもらえませんか?」
 黒子が指差した先には練習中に黄瀬が使用していたスポーツタオル。「これっスか?」どーぞ、と手渡して黒子の前に立ち、種も仕掛けもありませんとお決まりのフレーズを口にする彼を見た。
 今の今まで黄瀬が持っていたタオルに何かを仕掛けることは到底できず、黒子は自分の両手を上げてこちらにもトリックはないということを示す。
「一回しかやらないので、ちゃんと見ててくださいね」
 左手にタオルを被せ、三、二、一。
「わっ……え、すご、お菓子出てきた!」
 ばっと反対の手で布を取れば、黒子の左手に握られたキャンディーとチョコレート、そしてキャラメルの包みに紫原が大きく目を見開く。その隣の黄瀬も、あまりにスムーズに成功した黒子の手品に瞠目し驚きを隠せないようだ。
「……と、まぁこんな感じで、僕にはこれくらいしかできません。あ、タオルお返しします。ありがとうござい」
「すっげー黒子っち! えっ、なに今の、どうやってやったんスか!?」
 礼を言い切る間もなく途端に食い付いてきた黄瀬に、黒子は少し身を引いた。
「どうって……」
「やり方、教えてほしいっス!」
「いや教えたら意味ないでしょう」
 嫌です、と一刀両断した黒子を気に留める様子もなく、戻ってきたタオルをあらゆる方向から観察している。先ほどまで見当たらなかったはずのお菓子が果たしてどこから出てきたのか、興味津々と言った様子だ。一方紫原は手品によって現れたお菓子を嬉々として見つめていた。全く甘いものには相変わらず目がない。
「黒ちん、これ食べれる?」
「大丈夫ですよ。紫原君にあげます」
 その返事にありがとうと喜び個包装から中身を取り出すと同時、がちゃ、と部室の扉が開いた。青峰が戻ってきたようだ。そしてその後ろに見える赤司と緑間の二人は今度の試合のことで主将、副主将としてミーティングに参加していた。
「まだ残っていたのか」
 手品で盛り上がっていた三人に向かって言った赤司に、すみません、と黒子が謝る。早々に帰ろうとしたものの、しかしロッカーを開けて着替えを始める主将に構わず話し掛けたのは黄瀬だった。
「今、黒子っちがすごい手品してくれたんスよ!」
「手品?」
「お、テツ、あれ見せたのか? すげーよな」
「青峰君が黄瀬君に余計なこと言わなければこんなことにはならなかったんですが」
「見て見て、黒ちんがお菓子出してくれたんだー」
「お前はお菓子だったら何でもいいのか……」
 嬉しそうにチョコレートを頬張っている紫原に呆れたような声を零した緑間も制服へと着替え、結局いつも通りこのメンバーで帰ることになりそうである。一軍の人間はほとんどが毎日遅くまで残っているが、赤司にもう時間だと言われるまで自主練を続けるのは彼らくらいであった。下校時刻を過ぎて教師に注意されたこともしばしばある。
 赤司が下を履き替える際に少し前屈みになると、ちょうど三センチほど開放していた窓から風が吹いた。その時ふと、ベンチに座っていた紫原がそれに気付き口を開く。
「赤ちん、なんかいい匂いすんね」
 いきなり指摘された言葉に赤司も顔を上げ、目をしばたたかせた。モデルをやっている黄瀬や女の子らしい身だしなみに気を配っている桃井とは似ても似つかず、コスメなどには微塵の興味を持っていない為、特に心当たりがなかったのだ。だが紫原は今チョコレートを食べているし、その甘い匂いじゃないのか、と言い掛けて口を噤んだ。「たまに女子がつけてる香水っぽい匂いする」と付け足されて漸く思い浮かぶ。
「ああ……多分、バラの匂いじゃないかな。今朝、いつもより長く世話してきたから」
 紫原が感じたのはローズなどの香水のことだろう。ベルトを締める手をいったん止め、手の甲に鼻を寄せてそう答えた。
 僅かだがやはりこれはバラの匂いだ。自分でも全く気付かなかった上、一日過ごして大分薄れてきている匂いを敏感に感じ取った彼の鼻の良さに赤司は驚いていた。
「バラを育ててるんですか?」
「育てているというか……家にバラ園があってね」
 あっさりと口にされた返答に、本人以外が揃って目を丸くする。家にバラ園。すごい台詞である。
「はー……ほんとに赤司っちの家って何があるかわかんないっスね」
「馬も飼ってんだろ? 城かよ」
「少し離れた敷地で管理しているだけだから、別にオレの家に全てがあるわけじゃないさ」
「そういうことじゃないのだよ……」
 どうせその敷地だって赤司家の一部なんだろう、とは誰も言わなかった。彼が日本有数の財閥の息子であることは全員知っていたし、聞くだけ野暮だ。何より赤司自身、自分の家について多くを語ることはあまり好いていないともわかっている。
 バラ園の話もほどほどに、赤司がブレザーを着てネクタイを締める頃には六人とも制服姿となっていた。忘れ物がないか確認しながら、下校時刻に間に合うよう急ぎ足で部室を後にする。
「あれ、赤司っちは一緒に帰らないんスか?」
 しかし黒子達を追って出ようとした黄瀬が、ロッカーの前で立ち止まっている赤司に気付き振り返って尋ねた。
「ん? ああ、オレは戸締りをしていくから、先に帰ってていいよ」
 淡々と答えられてしまい、それくらい待ってるのに、と思う。主将として日々多忙な赤司と共に帰れる機会は極めて少なく、今日こそと考えていた黄瀬にとってその言葉は嬉しいものではなかった。が、口にするよりも早く先に行っていた青峰に大声で呼ばれてしまい『待ってていい?』の一言が喉の奥でつっかえる。
「ほら、みんなと一緒に帰れ」
 決して怒らず、寧ろとても優しい口調で促されては抗えなかった。躊躇ったものの、彼の言う通りにするしかなさそうだ。
「……じゃあまた明日」
「あはは、そんな拗ねたように言うなよ。明日は一緒に帰るから」
「絶対っスよ」
「ああ。じゃあな」
 珍しく笑顔が見れたからいいとしよう。黄瀬はそう自分に言い聞かせ、赤司を一人部室に置いて外へ出て行った。ただ同時に、彼の様子がいつもと若干違うように感じたのも確かだった。何故だか心配になって廊下の途中でもう一度振り向いたが、ざあざあと響く雨音によりそれ以外の音が聞こえにくくなっている。先の見えない真っ暗な一本道が、一瞬、ひどく恐ろしく見えた。
「――黄瀬! 早くしろって、下校時刻過ぎるぞ!」
「あっ、はいっス!」
 背筋を這い登った悪寒を振り払うようにし、みんなが待っている昇降口の方へと走り出す。赤司もすぐに帰るはずだ。黄瀬は自分の思い過ごしであることをひとえに願ったが――彼の悪い予感というのは、およそ外れてはいなかったのかもしれない。
 最後に黄瀬が去り部室の扉が完全に閉まったその直後、赤司の表情は打って変わって真剣なものとなっていた。
 部室の隣に繋がっているシャワールームのドアが数センチ開いている。明かりも点いていないその一室に向かって赤司は目を細め、おい、と低く問いかけた。

「……いつまでそこに隠れているつもりだ?」

 しんと静まり返った空間でよく響いた声に、返事はない。だが赤司は気付いていたのだ。部室に入った時点で、シャワールームの中に誰かが居ることを。それは恐らく生徒でも教師でもなかった。正体の見当もつかないまま、他の部員を早々に帰すことだけを考えていたのである。
 本来ならば教員を呼ぶべきところだろうが、赤司にその考えはなかった。この時間、ほとんどの教師は校門の周りで生徒が屯しないように指導をしているか、あるいは職員室でそれぞれ仕事に没頭している最中だ。そして職員室のある本校舎とは別の棟である為に距離があり、赤司がここを離れる間にきっとその人間は好きに行動できてしまうだろう。只事ではないと感じ取った彼は主将として大事な部員を巻き込まないよう細心の注意を払い、自ら声を掛けるという行動に出た。それはいくら赤司征十郎とは言え、中学生故の思考の甘さが原因だと言ってもいい。
「中学校に不法侵入などして何が楽しい。それもシャワールームに籠るだなんて、まるで変態だな」
 顔も容姿も見えない人間に対し、強気に嘲笑する。そしてキィ、と扉が開こうとした瞬間、安い挑発に乗ってくれてよかったと赤司は内心でほんの少し安堵した。
――しかしすぐにそんな考えも消え、奥から現れた姿に息を呑むこととなる。

「……ひどい言い草だな。僕はお前に会いに来たのに」

 聞こえてきたのは、同じ声。似ている、では済まされないほど同様の声質に、赤司は目を見張って言葉を失った。そしてシャワールームから出てきたその人間は自分と同じ赤髪、ほぼ変わらない身長、体型、僅かに大人びた顔、だが認めたくないくらい、自分にそっくりだったのだ。
 唯一異なっている点と言えば、『僕』という一人称のみである。
「……な……」
 眉を顰めたまま思考も上手く働かず、そんな赤司を見て目の前の男は笑っていた。その笑い方さえ自分と同じようであり、あまりの不気味さに唇が戦慄く。
 想定外だった。ただの不審者であるならば昔習った護身術で多少はどうにかなるだろうと踏んでいたし、最悪自分の家に仕えている警備に繋がる防犯ブザーを使えばすぐに呼び出すことも可能だ。目出し帽でも被っているような人間が相手ならば容赦はなかった。だがこれでは、何も行動に移すことができない。
「……だ……誰だ、お前……」
 やっとのことで口を動かすと、先ほどまでの果敢な言動はどこへ行ったのやら、あからさまに声が震えてしまう。
 まさか認めたわけではない。自分が二人などありえないからだ。どれだけ己の鏡のような人間であっても、ドッペルゲンガーなんて非現実的なことを信じていない赤司は茫然とするほかなかった。
 そんな心境も構わず彼は一歩足を踏み出し、約三メートルの距離を置いて赤司の前に立つ。
「――僕はお前だよ、赤司征十郎」
 目を逸らさずに告げられた一言に寒気がした。思わず後ずさってしまい、赤司は最早せり上がる恐怖に潰されそうになっていた。膝に力を入れることさえ苦しく、空間が捻じ曲がったように呼吸ができない。
「何を、言ってるんだ……ふざけるな。意味がわからない」
「わかるだろう。お前は認めたくないだけだ」
「認める……? はは……、自分にそっくりな人間が目の前にいることをか?」
「違う」
 いっそ笑うしかない状況に頬を引き攣らせたが、鋭く否定してきた男は反対に笑みを消して口を開く。
 その射貫くような視線に赤司は気圧された。
「未来の自分が目の前にいることを認めろ、と言っているんだ」
 打ち付ける雨音が脳裏に響き、それと混ざって耳に届いた台詞。命令口調の一言は普段の自分ととても似ていて、頭の中がおかしくなりそうだった。でも、違う。認めるな。こんなくだらない冗談に騙されるな。危険信号を発した脳は相手の雰囲気に呑まれないよう、深呼吸をして意識を保とうとする。
 足の指に力を込めてしっかりと立ち、赤司は相手について深く知ることを決意した。でなければいつまで経っても現状は変わらないだろうと感じたからだ。
「……ああ、不法侵入がバレて苦し紛れの言い訳がそれか? 随分と必死だな。今なら正直に言えば教師には言わない、通報もしない。だから無駄な演技をしていないでさっさと本当のことを吐いたらどうだ? 頭が悪く見えるぞ」
「こんな予感はしていたが、本当に頑固だな……いや、驚かせたことは謝るよ。でも過去の僕がそこまでひねくれてるとは思いたくないんだ。危害を加えるつもりはない。ただお前と話がしたいだけだから、素直に信じてくれ。こうも警戒されては近付くこともできないだろう」
「未来から自分がやってきた、なんて狂った話を根拠もなく信じると思うのか。つまらない冗談に時間を割かれるのは好きじゃないんだ。それくらいわかるはずだよ。……本当にお前がオレなら、尚のこと」
「ふうん。根拠、ね……。じゃあ今、中三だよな?」
「ああ」
 ここで自分の個人情報とも言える質問に嘘をつかず頷いたのは賭けだった。眼前の男の言うことを信じるなら、次に口にされる発言も予測できていたのだ。何せ相手は、自分自身、なのだから。
「――中三の六月ならちょうど身長が百七十を超えた頃だろう。この間の身体測定で密かに喜んだはずだ。それと将棋、囲碁は既にできるがチェスは中三になってから覚え始めた。唯一、父親ができないからな。今はわからないだろうが、もう少し経ってから反抗期だったんだと理解するよ。だから強制的に習わされている華道にも茶道にも嫌気が差しているだろうし、六月……ああ、この間、華道の師匠に叱られたばかりじゃないか? 集中できてないって。お前、苛立って初めて花を折っただろ。確か百合の花だ」
 饒舌に喋り出した男の話は寸分の狂いもなく今の自分を表していて、赤司は恐怖も困惑も越えて感動した。その様子にもう一人の赤司征十郎は満足したのか、口角を上げて更に捲し立てる。
「だが小さい時から見てきたバラ園だけは放っておくことができずに今でも毎日世話をしている。……さすがに花を折った次の日はサボったがな。ちなみにバラの花言葉なんかも覚えていると思うが、その上でお前はある一つの『夢』があるはずだよ。多分、もう知っている頃だ。その『夢』の為にお前はバラ園を捨てられない。あと、……心の片隅で、高校に行ってからもバスケを続けるべきか迷い出した時期だったな。父には高校までならと言われているが、将来その道へ進むことは赤司家の次期当主として許されていないから……未練がましくなる前に辞めた方がと思い始めたんだ。まあ、一年後にどうなっているかは言えないけれど――どうかな? 未来の自分の見解は」
「……全部合ってるよ」
「よかった」
「一つだけ。オレの嫌いな食べ物はわかるか?」
「今も昔も紅生姜だけだ」
「その理由は?」
「亡き母の好物が紅生姜で、一時期そればかり食事に出されて正直すごく飽きたから」
「……正解。父の手の者じゃなさそうで安心した」
「母を愛している父さんにはただ味が好みじゃないと言ってるからな」
「母さんを貶すとうるさいんだよ」
「知ってる」
 ふ、と互いに笑い声を零し、空気が大分和らぐ。こんなに自分のことをわかる人間に出会ったのは当然初めての経験だった。
 まだ完璧に信じられているわけではない。だが頭では徐々に理解し始めた赤司は自分の順応性に驚きつつも、未来からやってきたと言う己に自ら近寄った。それはつまり、彼の存在を認め、狂った話だと馬鹿にした正体を受け入れたということである。
「……それで? お前はいつの時代から来たんだ」
 見たところ二十代くらいだろうと判断しながら尋ねると、彼は肩に掛けていた鞄から何かを取り出して赤司の前に提示した。免許証のようだ。
「悪いがこれくらいしか身分証明できるものを持っていない」
 そう言って示された欄には『平成36年01月20日まで有効』と書かれていた。恐らく免許の更新に関する記しだろうけれど、まだ所持しているわけもない赤司には見慣れない字面であった。しかし二〇一三年の現在から見て、平成三十六年――つまり二〇二四年の文字にはひたすら違和感しか覚えない。生年月日は当然同じであり、住所も変わってはいなかった。
「僕は今、二十三歳だ。九年後のお前だよ」
 その目に嘘は見えない。信じるほか、なさそうだ。
「わかった。さっきオレと話がしたいと言っていたな。時間は平気か? オレもお前に聞きたいことができた、どこか寄って行こう」
「ああ、大丈夫だよ。……もう帰る必要もないしな」
「え?」
「いや、こちらの話だ」
 聞き取れなかった最後の一言がどことなく重要な部分だったように思えたが、眉を顰めている間にもそれどころではなくなった。廊下の方から足音が聞こえてきたのだ。「まずい、教師だ」咄嗟に十四歳の赤司が言い、ぱちん、と部室の電気を消して鞄を持つ。この状況で誰かに見られるのはあまりに不都合すぎる。どうする気だ、ともう一人が小声で聞いた。
「窓から出よう。裏門なら指導もないから抜け出せる」
「傘は?」
「折り畳みを持ってる。お前は持ってないのか」
「未来の六月十四日の予報は晴天だったんだ。さすがに九年前の天気までは覚えてない」
「たった一本折った花の種類は記憶してるのに」
「後悔したんだよ」
 短く答えると同時、先に未来からやってきた赤司の方が窓を開けて外へと出た。部室は一階である為、危険はない。ただ雨に濡れた靴の裏で滑らないよう慎重に飛び降り、少しずれたところでしゃがんで次を待つ。この位置なら二階のベランダが屋根となって雨に当たることはなかった。
 そして後からもう一人が窓の桟に足を置いて飛び越える瞬間、ああ、そうだ、と未来の赤司が口を開くのだった。
「さっき言い忘れたが、お前が涼太に恋をしていることも僕はちゃんと知ってるよ」
――なぜ、今、言う。
 唐突なカミングアウトに、ずる、と足元が滑って思い切り踏み外した。見事に着地失敗だ。アスファルトの上に盛大に尻餅をついてしまい、格好悪いどころの話ではない。痛い。
「大丈夫か?」
「……いやおかしいだろ言うタイミングが」
 全く勝手な言動をしてくれる未来の自分を恨めしく思いながら抗議すると、たった今出てきた部室の方から扉の開閉音が響き息を呑んだ。教師が来たのだろう。「あれ、今、声が聞こえたような……気のせいか。ん? バスケ部が戸締りをしてないなんて珍しいな」窓の近くでそう呟くのが聞こえ、二人は壁に張り付き身を縮こまらせる。呼吸を止め、教師が去ってくれることだけを祈って。「まったく、あいつらはいつも帰るのが遅いし、明日注意しておくか……」がちゃん、と窓の鍵を閉める音が耳に届き、いっきに脱力した。
「明日、確実に説教されるな」
 苦笑して現主将の方を見やれば返ってくるのは溜息だ。
「適当に流しておくよ。それより……」
「涼太のことか? 聞きたいなら、あとでゆっくり話そう」
「……そうじゃなくて、その呼び方」
 躊躇いがちに呟かれた言葉に、え、と九年後の赤司は目を見開く。それから何のことだか察し、口元を手で押さえて吹き出すように笑うのだった。
「ああ、悪い悪い、黄瀬って呼んだ方がよかったな」
 未来の自分に嫉妬するなどとなかなか可愛げのある一面に顔を綻ばせて頭を撫でると、容赦なく手を払われてしまった。しかし拗ねたように口を尖らせているものだから尚のこと微笑ましく、「少女漫画みたいだぞ」と思わず口にすると、仕返しと言わんばかりに全力で頭を叩かれた。痛い。


 上履きのままであったことをすっかり失念していた赤司は、裏門へ回る前に最も人通りの少ない渡り廊下に向かった。昇降口の鍵は閉まっているが、警備が終わっていない廊下だけはまだ開錠しているのだ。そこから忍び込んで靴に履き替え、外で待たせていた未来の自分のもとへと戻る。そうしてうまいこと誰にも見つからずに学校を抜け出した赤司と赤司は今、実家近くのファミレスに来ていた。何が悲しくて自分と相合傘なんてと言わずにはいられなかったが、実に順調である。
 あまり人目につくのも良くないだろうと最初は家で、と考えたものの、客人として招くにはさすがに不自然だ。だからと言ってまさか未来のあなたの息子ですと馬鹿正直に暴露できるわけもなく、門前払いにされる前に場所を変えようという話になった。家には友人と部活のことで話がある、そう理由付けて連絡し、傘を畳んでファミレスの椅子に腰を下ろしたところだ。よく似た兄弟だと思われているのだろう。周囲の視線が僅かに集まる。
「……で、オレに話したいことって?」
「先にお前が気になってる質問を消化した方がいいと思うが」
 メニューをテーブルの中心に置き、視線をそれに落としながら淡々と返された。迷いはしたものの、相手がそう言っているのだ。聞いてしまえと幼い赤司の方は腹を括り、おしぼりの袋を開けながら尋ねる。
 彼に聞きたいことなど最初から決まっていた。
「――どうやって、過去に来たんだ」
 手を拭きつつ、周りに不審がられないよう声を潜めた。普段こう言った場所で食事を取らない赤司としては二人掛けのテーブルは少々狭く思えたが、一人は公には紹介できないような人間だ。これくらい端に居てちょうどいいのかもしれない。
 SF小説は嫌いじゃないが、それが現実となると話は別である。あまり突飛なことは言わないでくれよと願いながら、返答を待つと――「タイムワープは信じるか?」全く予想通りの展開だった。
「……信じたくなかったよ」
「過去形か。理解が早くて何よりだ」
「いや、でも……やっぱり信じられない部分もある。たった九年でそんなことが可能になるのか?」
「無理やり可能にさせたからな」
「お前が?」
「ああ。別にいきなりタイムワープができるようになったわけじゃない。時間歪曲に関する研究は昔から……それこそアインシュタインが相対性理論を発表した一九〇〇年代から成されていたし、タイムマシンを題材にした最初の作品は一八八七年エンリケ・ガスパール・イ・リンバウの『時間遡行者』だ。つまり人々はそれほど古くからタイムワープに興味を持っていた。興味と根気強さを持ってその研究が続けられれば、ある時ふとしたタイミングで今まで少しも信じられていなかったファンタジックな妄想は現実になるんだよ。テレビだって携帯だって同じようなものだ。“別の場所に居る人間と同じ瞬間に同じ映像を見るには?”“遠くに居る人間と直接会わずに会話がしたい”――そんな興味が膨れ上がって研究対象となり、二つは開発された。研究を続けてきた人間の間ではテレビも携帯も大成だったが、何も知らない一般人からすれば突如出てきたファンタジックな物体に信じられないと思ったはずだよ。今のお前と同じようにな。……現代にないからタイムワープが異常に見えるだけで、実際は何かが開発されるたび、成功するたび、人間は現実としてそれを信じるところから始めてきたんだ。だからタイムワープが世間的に可能になって五年も経てば、お前タイムワープしたことないのかよ、なんて話題が、お前スマホ持ってないのかよ、と全く似たような雰囲気で広まるのさ」
「…………メニューを頼もう」
「あれ、難しい話だったか? 割と簡単にしたつもりだったんだけど」
「関わらない方がいい気がした」
「それは賢明」
 タイムワープについて流暢に語った赤司のにっこりと笑った顔から目を逸らし、テーブルの隅に設置されたベルを押して店員を呼んだ。間もなくして茶髪の女性店員がお伺い致します、とやってくる。
「ビーフシチューオムライス」
 しかし何も考えずに二人揃って口を開くと見事なまでに同じものを頼んでいて、あ、となるわけで。
「はい、そちらをお二つでよろしいですか?」
「……パクるなよ」
「は? 先に頼んだのは僕の方だ」
「同じ人間だとこういうところまで被るのか……九年経っても思考が変わらなくて嫌だな」
「僕が成長していないみたいに言うのはやめてくれ」
「そうじゃないか」
「あの、お客様、ご注文は……?」
「あ、それで大丈夫です」
 と最後に返した一言でさえ綺麗にハモってしまい、お互い溜息をつくほかない。店員には余程仲の良い兄弟か、あるいは最早双子だと思われていてもおかしくないだろう。時々自分に兄弟がほしかったと嘆いたこともあったが、ここまで意志疎通できてしまうなら逆にいらないな、と同時に考えるのだった。まあ今目の前に居るのは兄弟でも双子の片割れでもなく、紛れもなく自分なのだが。
 女性店員が去った後に少しの沈黙が流れた。しかし不思議と気まずさはなく、それは相手が相手故に余計な気遣いをする必要がないからだということもすぐにわかった。
「他に聞きたいことは?」
 ふと未来の赤司がそう促し、首を横に振って「もうないよ」と静かに答える。
「未来については聞こうとしないんだな」
「恐ろしくて聞けない」
「そうか。じゃあ、言わないでおこう」
 目を伏せて納得したようだった。本当は気になることなど山ほどあったが、いざ知ろうとすればひどく怖い。少なからずこれから九年間は何があってもオレは死なない――既に表れていた最も端的な未来が何よりも、十四歳の赤司を恐怖させたのだ。生死の問題ではなく、ただ目の前の人間は自分の知りようもない先の世界を体感しているのだと思うと、背筋が震える。
「……未来の話はもういい。お前の話を聞くよ」
 それを相手に悟られないよう話題の転換を試み、テーブルに置かれていた冷水に口をつけた。わざわざ過去の自分に言いに来るくらいだ。余程大事な話があるのだろうと身構え、単刀直入に言っていいか、という問いに静かに頷いた――が。
「じゃあはっきり言わせてもらう。お前、黄瀬と結ばれたいとは思わないのか?」
 吹き出すところだった。水。
「ッ!? げほ、げほっ……な、なに言って、」
「……面白いくらい動揺するね」
「〜っ、からかうな!」
「九年前の僕ってこんなだったかな……」
 頬杖を突いてまじまじと見てくる未来の自分はなかなかタチの悪い性格をしていると、今更気が付く。いっきに顔が熱くなるのを抑えるように赤司は水を飲み直した。
「……黄瀬とのことは、お前には関係ない」
 なんて台詞が通用する相手ではないことはもちろんわかっている。
「同じ人間なのに関係ないわけがないだろう。そんなに恥ずかしいか?」
「恥ずかしいも何も……普通に考えて男同士なんて認められたものじゃないんだ。……結ばれたいだとか、思うだけ無駄だよ」
 見ての通り、赤司は黄瀬のことが好きである。しかし募った想いを伝えることなく今の今まで抱え込んできた赤司にとって、友人以上の関係を望む気にはなれなかった。現状で十分。そう言い聞かせてどれくらいが経つだろうか。しっかり顔は赤らめているくせになかなか素直になれず、友達のままで満足しようとする臆病さに二十三歳の赤司は苦笑した。やっぱり僕とお前は同じだ、と。
「お前は未来のことを聞きたくないと言ったが、一つだけ言わせてくれ。これを伝えなければ僕がお前に会いに来た意味がない」
 真剣な目つきをしながらもやけに穏やかな口調でそう告げられ、少々面食らってしまう。ところがその先に続けられた一言はもっと衝撃を与えた。
「……告白、した方がいい」
 彼は少し寂しそうに笑って。
「告白? ……まさか、黄瀬にか?」
「他に誰がいるんだ」
「いや……」
 動揺を隠せず眉を寄せて視線を逸らすと、後悔しないように、と向こうは呟いた。だがそれでも何と返せばいいのかわからず押し黙った時、ちょうど店員がビーフシチューオムライスを二つ持ってくる。ことん、と音を立ててテーブルに並べられ、彼女が去る前に未来の赤司は食後にアイスコーヒーを一つと頼んだ。コーヒーの味を苦いと思ってしまう十四歳の赤司には飲むことができず、ほんの少し驚くと同時に、そこで初めて互いの違いを感じたのだった。
「……お前もまだ、黄瀬のことが好きなのか」
 熱々のおいしそうな料理からいい匂いが漂う。練習で消化してとてもお腹はすいていたはずなのに、スプーンを持つ手が進まない。
「お前が、自分が一途だと思うならそうだろうな」
「だったら自分で伝えればいいじゃないか。何も、オレに頼まなくたって……」
「言ったろ。僕とお前は同じだって」

――結ばれたいだとか、思うだけ無駄。

 先ほど自ら口にした台詞が、赤司の脳裏に過った。
「僕じゃもう手遅れなんだよ」
 諦めたように微笑を浮かべる様子が尚更悲しく見え、いよいよ言葉に詰まってしまう。九年経っても懲りなく想い続けていることは意外と簡単に納得できたが、それが告白もしないままひたすら片想いを続けた結果なのだと思うと、どうしようもなく胸が苦しかった。
 黄瀬と出会って一年が経ち、赤司の初恋はほぼ一目惚れに近かったのだ。未来を知りたくないと主張した過去の己を遮ってまでそれを伝えようとしたのは、ずっと隠し通してきた意地を、いずれ悔やむことになるからだろう。事実、彼は後悔している。男同士だからの一言を盾にして傷を恐れた自分を守り、友達として、遠くから黄瀬を見詰めるだけだった日々のみを残して。
「……片想いを続けて十年だ。笑えるだろう」
 何に笑えと言うのだろうか。
「じゃあ、例えば……、例えばオレが告白をしたとして、お前の未来はどうなるんだ」
 話を聞くばかりだった赤司は顔を上げ、眼前の自分と向き合って尋ねた。
「お前は黄瀬に何も言っていないんだろう。それじゃあオレが今、告白したら、未来が変わるんじゃないのか。お前はそれを望んでるのか? 自ら言わずに、こうやって過去に飛んできて、後悔する前の時間ごと変えようとして――本当に、それしか方法はなかったのか?」
 言い続けているうちに、だんだんと語気が強まっていく。何故こんなにも熱くなっているのか赤司は自分でさえわからなかった。
「……未来については聞かないと言っていたはずだが」
「そうやってまたはぐらかす」
「はぐらかしてない。僕はお前に幸せになってほしいだけだ」
「自分の幸せもろくに願えない奴が何様だ」
 浴びせられた発言に、九年後の赤司はあからさまに眉を寄せる。
「それはお前だろう。だから助言をしに来たんだ」
「助言? 逃げてきただけじゃないのか」
「いい加減なことを言うのはやめてくれ。僕はひたすら研究を重ね、タイムワープを成功させ、お前に会いに来た。過去の自分と向き合って、後悔させないように。だから逃げてなんかない」
「……違う」
「違わない。お前と向き合う為に僕がどれほど努力したか、」
「――違う! お前が向き合わなきゃいけない人間は、オレじゃない!」
 胸の奥底から沸々と感情が込み上げ、それは怒声となって表れた。いきなり膨れ上がった声量に周囲の目は一瞬二人へと集まったが、怒鳴った赤司が少し乱れた呼吸を整えている間に何事もなかったかのように視線は散らばる。机の上で握った拳は怒りに震えていた。
「……お前だって、」
 訴える唇が戦慄く。
「お前だって……、幸せになるべきなんだ。……絶対に」
――俯いて零れた小さな一言が、未来からやってきた赤司征十郎の目を見開かせた。まさかこんな風に否定されるとは思っていなかったし、何より、自身の頬を伝う一筋の涙が信じられなかったのだ。感化されたのか。幼い自分が絞るようにして吐き出した台詞に、僕は。言葉も出ずに茫然とし、目を丸くしたままゆっくりと瞬きをすると、透明な雫がぽたりと流れ落ちた。
(……でも、それでも、もう遅いんだよ……)

 この恋心は終わりにしなきゃいけないんだ。与えられた未来に抗えず、手遅れだとわかっているからこそ、場所も意思も構わず視界が滲んでしまう。

「なあ、『赤司』。……その台詞、九年経っても同じように言えるか?」
 あえて名で呼び、同じ人間でありながら自分達は別々であることを強調させた。これから成長して、待っているのがどんな未来であろうと、幸せになるべきだと、なりたいと、彼は言えるだろうか。まだ大人になるということを何も知らない子供の自分に、赤司は溢れ出る涙を無視して笑い、聞く。しかしそれはほぼ自嘲に近い笑みだっただろう。
「――ああ。言ってみせるよ」
 返ってきた力強い言葉が鼓膜に響いた。あまりにはっきりと宣言してくるものだから、相手も誤魔化せないほど涙声であったことについては、知らないふりをしてやった。
 過去の自分がここまで真っ直ぐな奴だったとは覚えていなかったが、その根本にはいつだって黄瀬への恋心があったことをまざまざと実感するのだ。ひたすら夢中だった。あの笑顔に、あの声に、あの男に――長いようで短い十年を全て奪っていった黄瀬は、赤司がずっと恋をしていることを知らない。赤司もまた同様に、未来に生きる黄瀬が恋心に溺れ死んでいこうとしていることなど予想もしていなかった。
 代わりにもうすぐ十五歳となる過去の黄瀬に――未来の赤司は、会いに行こうとしていた。


To be continued.
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