オレはきっと、赤司っちを殺したのだ。


 二〇二二年六月十三日、赤司征十郎が姿を消した。
 定期的に開催される大学院の研究発表会を終えた夜だった。研究発表会は十一日から三日間に亘って静岡にて行われ、都内の院に通っていた赤司はその前日から会場近くのホテルに泊まっていた。ホテルには他の学会の人間も同様に宿泊していたが、赤司の希望によって彼のみシングルの部屋を取ったそうだ。些細なことではある。しかし個人の要望をいとも容易く呑んでもらえるほど、赤司は学会の中で、否、大学を含む院の中でも非常に大きな存在となっていた。教授に買われ、業界からは目を留められ、学位を得た暁には引く手数多の将来が彼を待っているはずだった。
 ところが結論から言うと、数日前から赤司の姿を見た者がいない。十三日の夜。研究発表会が無事に終わり東京へ戻るのは翌朝となっていた学会のメンバーで、軽く飲みに行かないかという話が挙がった。隣室で体を休めている赤司も誘ったが、「僕は遠慮するよ。今日は早く寝たい」と申し訳なさそうに彼は答えた。付き合いが悪いとまでは言わないが、羽目を外すことを嫌う赤司らしい返答であった。東京帰ったらもっかい打ち上げするから、その時は来いよ。扉が閉まる前、普段、赤司と共に研究を進めることの多い男がそう声を掛けると、赤司は右手を上げて小さく笑ったようだった。恐らく、考えておくよ、という意味だろう。異変はない。いつもの、いつもと変わらないあいつだった。
――それが最後に赤司を目撃した人間の言葉である。
 学会の参加者は赤司を除く全員が飲み会に出席していた為、彼らがホテルに帰り着くまでの数時間は一人残らずアリバイがあるのだった。そして就寝するまで自然と同室の人間と二人ずつで行動を取っていた赤司の友人達に、今回の件について関わることはできそうにない。そもそも赤司征十郎が突如姿を消したのは他者による危害、殺害、拉致などが原因ではなく、赤司自身が望んで起こした行動である――そう見解を示したのは赤司財閥とも縁の深い一部の警察だ。
 十四日の早朝六時、東京へ帰るべく七時二十分にチェックアウトを予定していた参加者のほとんどが七時にロビーへと集合した。しかし真っ先に待機していそうな赤司が一向に姿を現さない。七時四十分までは皆一様にそこで待っていたものの、いよいよ不審に感じざるを得なくなっていた。何せ赤司が約束の時間を過ぎたことは今までに一度もなく、まさか寝過ごしたなどと、そんな悠長な考えが通じるような相手ではなかった。電車の時間も迫り、赤司の隣室に宿泊していた二人の男が八階までエレベーターで上って様子を見に行くことにした。その時点で既に何回も携帯に電話は掛けたが無機質な着信音が響くだけである。「赤司。おい、赤司! 居るんだろ!」「おーい、まだ寝てんの? 電車行っちゃうよー」募る焦燥感を揉み消すように、他の客の迷惑も考えずにどんどんと扉を叩いて声を張り上げた。
 しかし全く、応答はない。携帯も繋がらない。カードキーがなければ室内に立ち入ることはできず、悪い予感がした彼らは顔を見合わせ、咄嗟に従業員を呼び事情を説明した。友達が、友達が部屋から出てこないんです。血の気が引いて口にする様子はさながらサスペンスドラマのようであった。まだ寝ているのではないのでしょうか。違うんです、なんか、嫌な予感がするんです。お願いします。鍵を開けてくれませんか。大学院の、大切な仲間なんです。お願いします。
 異様なまでに必死な形相を浮かべて訴える男達を前に従業員も何事かと思ったのだろう。ホテルの受付を通し赤司の部屋へコールしたもののやはり反応はない。そして紛れもなく赤司征十郎の友人であることを学生全員の身分証明書により提示し、院に連絡を取って許可を得、部屋の扉を開けるまでに至った。八時十五分のことである。乗るはずだった電車の発車時刻はとうに過ぎていた。赤司の実家や京都にある分家にも電話を掛けたが、本人からの連絡は一切なく、ホテルの扉を開錠させる件については許諾してもらうことができた。
 緊張した面持ちでホテル側が管理しているスペアキーを使い、扉を開ける。嫌な予感は的中した。
 部屋中、ホテルの隅々まで、研究発表会が開催された会場や三日間のうちに彼らが足を運んだ場所全て、どこを探しても――赤司征十郎は居なかった。
 赤司が最後の一晩を過ごしたと思われる部屋に残されていたのは、カードキーと持参した歯ブラシや洗顔セット、パジャマなど宿泊の為の必需品、そして彼の研究題材『タイムワープ』つまり『時間歪曲』に関する紙面のデータのみであった。そのほか財布や免許証、携帯、実家の鍵は赤司が静岡で持ち歩いていた鞄ごと見当たらず、二度とホテルに戻ってはこないだろうことはほぼ明確であった。部屋の中は荒らされた痕跡もなく、彼が自ら出て行った、そう考えるのが最も正しい状況だ。しかしそこで問題が一つ生じた。十三日の午後七時から十四日の午前八時までの間、ホテルのあらゆる場所に取り付けられた監視カメラのどれにも、赤司が映っていないのだ。八階の廊下、エレベーター内、ロビー、計百以上は設置されているそれに一度たりとも姿が見えない。異常である。窓から飛び降りようにも内側から鍵は掛けられていたし、何より赤司が宿泊した部屋はおよそ地上三十二メートル。その一室から一歩も出ていない、あるいは出られないはずなのに、本人だけが跡形もなく消えている――まるで神隠しのようだと、誰かが言った。
 学会の人間は赤司の研究資料を代わりに持ち帰り、大学院に戻ってからずっと事情聴取を受けている。ちなみに赤司自身が手を付けたタイムワープの資料は、発表時に使用した数十枚の原稿を収めたファイルのみが置き去りにされ、その根本のデータを記録しているUSBについては彼の鞄同様、発見されていない。(二〇二二年六月十七日午後九時現在・警視庁の調べより一部抜粋)


「まだ見つからないんスか」
 ソファーに浅く座った客人に、黄瀬はコーヒーを淹れながら驚くほど落ち着いた声色で言った。もっと騒ぐかと思っていたが、少し見ない間に人が変わったかのようである。お前にとっては大した問題ではないのか、衝動的に喉元まで出かかった台詞を、緑間はぐっと堪えた。そんなわけがないのだ。自分だって何一つ解決していない現状に苛立ちと焦り、そして不安が募り、まともな思考を維持する方が難しいくらいなのだから。
 顔を上げれば向かいに腰を下ろした黄瀬の目元が、とてもモデル業で生活しているとは思えないほど酷いことになっているとわかった。散々泣いたのだろうし、眠れないのだろう。頬も少しこけている。落ち着いているように見えるのは既に涙が枯れてしまったからなのか。
「昼夜構わず、捜索は続けているそうだ。だが、やはり……」
 緑間は首を横に振り、途方に暮れた様子で言葉を濁す。
 赤司征十郎が居なくなってから五日が過ぎた。中学時代に赤司と出会い、彼と最も親しく付き合いの長い友人と言えるであろう黄瀬、緑間、青峰、桃井、紫原、黒子の六人に事件のいきさつを知らされたのは十四日の夕方だった。彼らならもしかしたら心当たりがあるかもしれないと、警察の方から連絡が入ったのだ。もちろん、赤司が研究発表会の為に静岡へ行っていたことさえ知らなかった六人に、赤司の行方など知り様もなかったが。
 初めは静岡と大学院の付近、赤司の地元、そして彼がバスケ部のコーチとして時々訪れていた帝光中の周囲のみを捜索していた警察も、今や京都や更に西の方まで捜すほどとなっていた。その裏には当然、赤司財閥による金の動きが欠かせなくなっている。
「すまない。……本当は、今日はお前を祝う為に来るはずだったのだよ」
「なんで緑間っちが謝るんスか。いいんスよ、オレの誕生日なんて。それより……赤司っちのお父さんは平気なんスか?」
 いつも通りの持て成しをすることで正気を保とうとしているのか、それを淹れた黄瀬さえ、テーブルに置いたコーヒーカップに視線を落とすのみだった。
「いや……、正直なところ、そろそろ限界だろう。赤司財閥の跡継ぎが行方不明になったという報道を阻止する為に、マスコミの相手も警察の相手も同時にやっているのだからな。精神的にも体力的にも参って当然なのだよ」
「赤司っちが家に迷惑かけたことなんて今まであったのかな」
「……恐らく初めてだ」
「遅すぎる反抗期っスね」
 冗談を飛ばすことでしか、会話も成り立ちそうにない。
「携帯もまだ繋がらないんスよね……って、オレもさっき掛けたばっかだけどさ……」
 その呟きが再び空気を重くさせた。ソファーに放置されていたスマホを手に取って発信履歴に目をやり、黄瀬は眉根を寄せる。一日三十回以上は六人全員が電話を掛けたりメールを送ったりしているものの、音沙汰はない。無意味だとわかっていても、それくらいしか彼らに出来ることはなかった。一般市民の勝手な捜索は警察の方から禁じられているのだ。それでも暫く黒子と紫原は捜しに行くと言い張り、そんな二人を緑間は必死に止め、黄瀬はただただ放心し、桃井は号泣し続け、彼女を宥めていた青峰も自分の無力さに陰で涙を流した。
 彼ら六人が平静を取り戻し始めたのも、せいぜい昨日あたりのことである。
「……それで、黄瀬。話というのは?」
 緑間は今、黄瀬が一人暮らしをしている神奈川のとあるマンションへと来ていた。六月十八日、二十四歳の誕生日を迎えた黄瀬を祝いたい気持ちは山々だったが、当然の如くそれどころではない。二時間前に黄瀬の方から話がしたいと連絡が入り、本日当直の医師でなかった緑間はすぐにここへと向かったのだった。元々、一ヶ月前より誕生日を祝福するべく数年ぶりに会うつもりでいたのだ。
 本題を催促され、黄瀬は一口も減っていないコーヒーカップを持って席を立つ。そのまま椅子の奥に置かれた棚へと足を進めながら、緑間に背を向けて彼は喋り出した。
「――緑間っちはさ、オレが赤司っちに友達以上の感情を抱いてたこととか、知ってるじゃないっスか」
 微塵も躊躇う様子なく口にされた一言に、相手は言葉を詰まらせる。問いかけではない、黄瀬は確認を取ったのだ。唐突な内容に眉を顰めるほかなかったが、緑間は意図を読めなくとも「ああ」と頷きを返した。事実、黄瀬の言い分を否定することはできないのだった。何せ中学二年の時、オレ、赤司っちのことが好きなんスけど、とそんな相談をしてきた記憶は今も薄れていない。
「結局、告ってもないんスけどね。……片想い続けて十年とか笑えるでしょ」
 顔は見えないが、半ば自虐的にそう零す黄瀬に声も掛けられなかった。
 しかし、何がだ、と緑間は思った。何が笑えるのだ。黄瀬が今も赤司に恋愛感情としての好意を寄せていることに正直驚きはしたが、同時に納得している自分もいたし、その真っ直ぐな想いには純粋に感動すら覚える。ただ黄瀬は、十年の間ずっと、一方的な片想いだと思ってきたのだろう。その点だけは馬鹿な奴めと内心で悪態をついた。今はとても、言える状況じゃない。
 黄瀬はそれ以上自分の恋について話すことなく、受話器やメモ帳、幾つかの写真立てが並ぶ棚にカップを置き、すぐ下の引き出しを開けた。そしてチャック付きの透明なポリ袋を取り出し、緑間に中身を見せるよう振り返った。
「……? 何なのだよ、それは」
「オレの日記っス。中三の時の。今朝、五竜の滝から発見された」
 淡々と告げられた情報に、目を見開く。五竜の滝――静岡県裾野市、黄瀬川にかかる滝だ。赤司が泊まったホテルからそう遠くなく、そして今日の朝七時、部屋になかった赤司の私物の一部が見つかった場所である。
 滝の中に落とされていたものは財布と免許証、鍵、タイムワープのデータが収められたUSB、加えてそれらを入れていたとされる鞄の五つであることは緑間の耳にも入っていた。全て剥き出しの状態で捨てられており、防水機能のついていなかったUSBはデータが飛んでいたそうだ。只今復元できるかどうか修理を試みている最中であり、他の私物については警察の方で厳重に保管されている。
 私物が水中から発見されたと知った瞬間、もしかして赤司も、という恐ろしい考えが頭を過ったが、幸か不幸か五竜の滝からも黄瀬川全域からも、夕方五時の現時点で赤司自身が見つかってはいない。
「日記……? 何故、そんなものが……」
 緑間は眼鏡のブリッジを持ち上げてポリ袋に入れられたそれを凝視した。クリーム色のシンプルな表紙の、厚さ五ミリほどの本である。
「それがオレにもよくわかんなくて……確かに昔ちょっと日記をつけてたことはあるし、中身見たら絶対オレの字だしオレの日記なんスけど、高校の時に全部捨てたはずだったんだ」
「中が見れるのか」
「この袋のまま落とされてたから、水に濡れてないんスよ」
「……よく警察に持って行かれなかったな」
「オレの事務所が珍しく躍起になってた」
 簡潔な返答になるほどと緑間は合点がいった。黄瀬と赤司が友人であることは中学の全中や高校のインターハイなどを通して多くの人間が知っている。そして黄瀬は現在世間で注目を浴びる人気モデル、つまるところ事務所としては何としてでも失いたくない存在なのだ。だというのに行方不明者の私物と共に黄瀬涼太の私物まで発見されたなどという報道がされてみろ、先は手に取るようにわかる。どれほどの金で交渉したのかは知り得ないが、黄瀬の手元に戻ってきてよかったと言うべきなのかもしれない。
 しかしそれにしても、本来あるはずのないものが、水中に落ちていた。更に赤司本人か、もしくは赤司を連れ去った誰かが捨てたと考えるのが妥当である。不可思議な現象を示されソファーに座ったまま押し黙って思案していると、黄瀬は引き出しへと日記を戻した。
「……でもこれさ、もし赤司っちに中読まれてるんだったら、ほんと困るんスよね」
 苦笑しながら零した言葉の意味は緑間にも察することができる。思うままにプライベートを曝け出した日記を他人に覗かれるなど誰だって嫌なものだ。何が書いてあるのかはわからないが、特に黄瀬は赤司のことが中学の頃から好きだった。単純に考えて、本人に見られたくない文章が書いてある可能性は高い。――とは言え本当に『困る』理由がそれだけなのかは、緑間からすれば知る由もないのである。
 落ち着いてきたところで喉を潤そうかとコーヒーカップを持とうとした時、不意に黄瀬がこう言った。「まあ、もう関係ないけど」、と。独り言のようであった。だが緑間の耳にはしっかりと届き、その呟きに顔を顰める。全く黄瀬らしくない発言だ。そして現状に相応しくない言葉に少なからず憤りに近いものを緑間は感じたが、今度はしっかりと緑間の目を見て続けられた黄瀬の台詞に、そんな感情を覚える暇もなくなった。
「緑間っちは、優秀なお医者さんなんスよね。今までいくつもの病気を治して、命を救って、人を助けてきた。白衣も似合ってるしさ、オレ、すごい尊敬してるんスよ」
 日記を仕舞った引き出しから何やら別の物を取り出しているらしいが緑間の位置からではよく見えない。しかし何の脈絡もない話を淡々としてくる黄瀬が、既にどこか危うく感じていたのは確かだった。
――そもそも黄瀬は、何故こんなにも冷静なのだろうか。
 青峰や黒子、紫原、桃井も大分情緒が安定してきてはいるが、黄瀬の平静さは何か一線を越えているように思えた。それはほぼ緑間の直感でしかなかったが、長年の友人であるからこそわかる。泣き喚いたあまり疲れているのかもしれない。だから声のトーンも普段より低いのかもしれない。だが――関係ない? 言うわけがあるだろうか。あの黄瀬が。赤司のことを誰よりも想っている、黄瀬涼太が。
 緑間はそこで漸く、己の口の中がからからに乾いていることに気付いた。
「おい……黄瀬、お前……何を考えているのだよ」
 手が震えそうになるのを抑えてカップをテーブルに置き、黄瀬の背中に問う。全部全部杞憂であることをひたすらに願ったが、振り向かずに返ってきた答えにさあっと血の気が引いた。
「……ごめん、緑間っち」
 その一言が全てだったのだ。
 緑間とは反対に、棚の上に置かれていたコーヒーカップを黄瀬は手に取る。そして逆の手には引き出しに入れていたらしいそれが、握られていた。
「まっ……待て、黄瀬」
 事態は最悪だ。
「――ねえ緑間っち」
「おい、待てと言ってるだろう! 馬鹿な真似はよすのだよ!」
「結婚を前提にお付き合いしてくださいって告白さ、どう思う?」
「は……? 知らん、なんでもいいから落ち着け! 後追い自殺なんて、洒落にならないッ!」
「後追い自殺……? 違うよ緑間っち、赤司っちは自殺なんてしてない。そんな人じゃない」
 緑間には黄瀬の左手にある小さな物体が何だか、医学に携わっているからこそわかっていたのだ。
(ま、さか……っ)
 嫌な汗が全身から噴き出る。立ち上がって声を荒げ止めようとするものの、黄瀬は聞く耳を持たない。「オレ、やっぱり赤司っちのことが大好きっス。ずっと片想いだし、もう失恋してるのかもしんないけど、それでも、」黄瀬の口から一つ一つ大切に紡がれる言葉が緑間の足を縛り付けた。動けない。止めなければ、止めなければならないのに。
 そしてやっと大事な友人の方へ振り返った彼の表情は今にも泣き出しそうなくらい歪んでいて、しかし無邪気に笑って、こう言うのだった。

「――あの人のいない世界なんて、オレには考えられないんだよ」

 その瞬間、緑間は理解した。黄瀬は冷静だったのではない。涙が枯れたのでもない。ただ、腹を括っていた。覚悟していたのだ、こうすることを。
 自ら命を、絶つことを。
 頭の中が真っ白になって茫然とするほかなかった緑間を前に、黄瀬は目を瞑って左手に握っていたそれを己の喉へ、コーヒーと共に流し込んだ。間もなくして意識を失い床に倒れた彼の目尻には涙が溜まっていたそうだ。緑間が予測できていたものは前者のみであったが、黄瀬涼太が一息に飲み込んだものは即効性且つ致死量の毒薬と――渡す相手を失ったエンゲージリングだった。


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