やめろ、と言うことしかできなかった。今まで同じ部活で共に汗を流し、信頼し、感動を分かち合い、そして卒業した後も今度はライバルとして真正面から向き合ってきた、大事な大事な友人だ。何年経とうとその関係が変わることはない。そんな、一生大切にしなければならない友人から、突然キスなんてされては。
「や、め……っ、涼太! んっ、」
 わけがわからなくて首を横に振るもののすぐに捉えられてしまう。唇を固く結んでもこじ開けて舌を割り入れられ、信じられないほど深い口づけに目が眩んだ。酸素が欲しい。脳がそう伝えて大きく息を吸おうとすると、尚更噛み付くような荒々しいキスに腰が引ける。しかしそれは後頭部に回された右手と腰を引き寄せる左手に阻止され、徐々に力が抜けていくと同時に自分の立場がどんどん不利になっていくことを嫌でも実感するしかない。相手の口腔も湿り、漏れ出る吐息が鼓膜に響いた。ぎゅっと瞑っていた目に涙が浮かぶのを感じながら瞼を少し持ち上げれば、涼太の細められた熱い視線と絡み合う。
――こんな顔を、するような奴じゃなかっただろう。「んっ……や、嫌だ……っ」もう何が何だかわからず、キスの合間にひたすら嫌だと繰り返すのみだった。情けない。けれども自分を支配していた感情はほぼ恐怖に近く、相手の見たこともない表情にどくどくと脈打っている心臓が許せなかった。
「……赤司っち」
 そんな優しい声で呼んだことなかっただろ、と服を掴んでまともにできもしない抵抗を続けながら思う。いつも明るくて、感情的で、無邪気に笑う涼太はどこへ行ったのだと、今になって責める気持ちが湧いてきた。知らない、そんな風に笑んでみせるお前も、そんな風に落ち着いた声色で僕の名前を呼ぶ口も、僕が見てきた涼太じゃない。
 呼吸もままならず、十七歳となった彼に抱き締められていよいよ息が詰まる。ずっと自分より幼く思っていた人間が途端に大人びて見えた。身長差だって中学の時から大して変わっていないはずが、腕の中にすっぽりと収まってしまったせいで意識せざるを得なくなる。
「……好き、好きだよ。赤司っち」
 何を言われているのか、理解が追い付かない。
 深夜の日付が変わった駅のホーム、まさか終電を逃すなんて思わなかったのだ。さっき通り過ぎた電車に乗って東京駅に行かなければ、家には帰れないというのに。
 二人きりの駅は辺りも真っ暗で、もう古くなっているのか時々点滅する安っぽい蛍光灯の周囲に虫が集っている。それなりに広いところだがここは校外だ。ひどく静かな空間で、唇には確かな熱が残った。女性ともろくに経験がない自分にとって彼のキスはあまりに衝撃的で、唇を重ねられた瞬間に驚いて手から滑り落ちた鞄がコンクリートの上に転がったまま、拾うこともできやしない。
「泣かないで」
 茫然としていたところでその一言は我に返らせるのに十分だった。
「な……泣いてない」
「泣いてるっスよ。ごめん、怖がらせたね」
 苦笑して涙を拭われ、触れた肌がびくりと大袈裟に反応してしまう。そして見れば、涼太の人差し指には自分の瞳を滲ませた水滴が乗っていた。キスをされて泣くなんて当然初めての経験だ。
「謝るくらいなら……どうして、こんなこと……」
 そう口にしているうちに目線は下がっていき、俯くと同時に一滴の涙が頬を伝った。どうやら余程ショックだったらしい。しかしそれが友人だと思い合っていたはずの人間から口づけられたからなのか、もしくはまるで別人のような態度で接せられたからなのか、僕自身わからなかった。ただ困惑し切った頭では相手に答えを求めるしか術はなく、せめて涙声にならないようにと鼻を啜る。好きだから、と紡がれた言葉を認めることが、どうしてもできない。
「ずっと好きだったんスよ、あんたのこと。だからキスしたの」
「…………」
「信じられないって顔してんね」
 当たり前だろう。つい数分前まで、そんな気があるだなんて微塵も知らなかったのだから。
「赤司っちがオレのことを大切に思ってるのはわかってるっス。友達として近くで笑ってくれるし、楽しそうだし、相談にも乗ってくれるし、……オレが『話があるからこっちに来て』って言えば、ちゃんと来てくれるし」
「……こんな話だとは、思ってなかったけどな」
「だってこうでもしないと、いつまで経っても気付いてくれねえんスもん」
「気付く、って……」
「ずっとって言ったでしょ。中学の頃から好きだった」
 顔を覗き込むようにして額を合わせられてはその視線からも逃れられず、知る由もなかった告白に喉の奥が鳴る。いい加減涙腺は治ってくれたが、涙の痕はなかなか乾かない。
 一週間前の土曜日、久々に涼太から掛かってきた電話の内容はよく覚えていた。突然、やけに真剣な声色で神奈川に来てほしいと言われ、時間的な余裕がなかった為に最初は断るつもりだったものの向こうが引かなかったのだ。お願いしますと何度も繰り返し、挙句『赤司っちにしか話せない』と付け足されれば心配もする。しかし何か重大な事件でもあったのかと来てみれば今日一日、ただ一緒に過ごすだけだった。最初は水族館へ行き、次は映画を見た。どちらも彼の提案だったが、それらしい話もされずにありきたりなお涙頂戴のラブストーリー映画を見ている間は、こうして来てやったのに何故話を切り出さないのかと、とにかくそのことばかりが頭を占めていた。
 そして僕は実家で一晩過ごすことにはなっていたが、映画を観終わった九時を過ぎても涼太は帰してくれなかった。「終電まで」そう言って二十四時間営業のファミレスに連れて行かれ、他愛もない会話をするだけ。いよいよ焦れて話があるんじゃないのか、とも聞いたけれど、曖昧に濁されて終わりだった。
 もしかしたら既に解決したのかもしれない。あるいはただ自分と遊びたかっただけなのかもしれない。それにしては卑怯な口実だとは思ったが、大切な友人の為と思えばなんとなく許せてしまったのだった。結局、駅まで見送ると言われて本日最後の電車がホームに姿を現し、手を振って「じゃあ、」と乗ろうとしたところで腕を掴まれた。
 あとは見ての通りだ。確かに、僕にしか話せない内容だろうな。
「帝光の時は我慢してたっていうか……望みもないと思ってたから、黙ってたんスけどね。でも高校入ってさ、赤司っち、洛山の人たちとすげえ楽しそうにしてんだもん。妬けちゃった」
 眉を下げて笑う表情はやっぱり昔と同じじゃない。少し、大人っぽくなった。
「だからこっちに呼んだのか」
「うん」
「お前の気持ちは、わかったが……何があっても僕は明日、京都に帰るよ」
「赤司っちの帰る場所はこっちでしょ? ねえ」
「今は違う」
 はっきりとそう告げると、そこで初めて涼太は顔を歪めた。依然として僕を抱き締めたまま肩口に額を乗せ、首筋に柔らかな髪の毛が掛かってくすぐったい。あの頃、何度か触れたこともあるその髪だけは変わっていないようで、密かに安心している自分がいた。
「……いつになったら戻ってくんの」
 しかし耳に届いた声は驚くほどに焦がれていて、やっと、僕は好意を寄せられているのだと心の底から理解できた気がした。――だったら向き合わなければ、大事な友人を傷つけることになる。
「まだわからない。大学も決めてないからな」
「オレのことはどう思ってる?」
「好きだよ、友達として」
「……ひどいなあ」
 顔を上げずに呟く涼太がどんな顔をして僕の答えを聞いているのかはわからなかったが、心なしか涙を流しているように感じ、目の前の頭をゆっくりと撫でた。そのまま一瞬肩を震わせた彼を抱き締め返す。卑怯者は自分の方だ。真摯に想いを伝えてきた相手を振っておきながら、与えられる優しさに付け込んでいる。中学の時から好きだったと言われ、こんなに嬉しいことはないというのに、邪魔をしているのはくだらない自尊心だった。
 赤司っち、とくぐもった声が聞こえてくる。
「ん?」
「今だけ、……今だけ、全部吐き出していいっスか。これ言ったら、ちゃんと赤司っちの友達に戻るから」
 顔を埋めたままでは聞き取りづらくもあったが、ああ、と頷いて先を待った。涼太のこの体温も、声も、笑顔も、全て好きだったが、それが愛に代わる日は遠く来ないだろう。
「……多分、一目惚れだったんスよ。出会った時から好きだった。仲良くなりたかったし、初めて話せた時はマジで嬉しかったし、あんたを好きだって自覚すんのも早かった。でも全然、びっくりするほど、赤司っちって鈍いんスよね。なんでも知ってるくせにほんっと恋愛だけは駄目。疎すぎ。鈍感。オレが懐いてる理由もわかってなかったでしょ。普段どんな目で見てたのかもさ。正直言って、……引かれること前提で言うけど、オレ、赤司っちのことそういう目で見てたんだ。そういう目っていうのはもちろんキスしたいとかセックスしたいとか、抱きたいって何度も思ったしほんとぶっちゃけると処女も欲しかった。まあ、そもそも何回もあんたで抜いたしね。知らないところで自分をオカズにされてて気持ち悪いとは思うけど……こんな風に好きになったのは、赤司っちが初めてだったんスよ。高校行けば新しい出会いもあるかなーとか思ったけど、まぁ見事に無理だったっスわ。オレの中であんたの存在が大きすぎて他が何も見えねーの。だからできれば、これからも好きでいさせてほしいっス。……って、まじで重いね、オレ。あはは、これじゃオレが振ってきた女と大差ねーわ……。でもほら、生まれて初めて失恋したしすげーショック受けてるんスよ? わざわざ来てくれてありがと。終電、乗せらんなくてごめんね。キスも、無理やりしてごめん、怖がらせて。……ほんとにごめん。でも、好きだよ赤司っち、好き、……好き、大好き。ねえ、なんでオレじゃないの?」
 お前がそんなに謝る必要なんてないだろうと思った。赤裸々に話し始めて半分を過ぎたあたりから、彼は号泣していた。抱き締める力を一層強くし、しゃくり上げ、まるで試合に負けた時のような泣き方だった。僕はと言えば、止め処なく溢れ出る思いの丈に気圧されて何も言うことができない。
 ただ止まったはずの涙だけが、再び視界を滲ませる。
(涼太のことは……、)
 好きなのに、好きなのに友人から一線を越えられない。されるがままにキスを受け入れておいて笑える話だった。何が大事な友人を傷つけることになる、だ。もうずっと涼太を傷つけることしかしていなかった自分に、どうして彼の涙を拭うことができようか。
 彼以上に僕を愛してくれる人間など、この先出会うことはないだろう。二十年も生きていないがそれだけは確信を持てた。――だってだからこそ、結ばれるのが怖かったのだから。
「……ごめんね、涼太」
 ひどく幸せな愛に溺れてしまう未来が恐ろしかった。なんでオレじゃないの、お前はそう言ったが、寧ろなんで僕なのだろうか。それがわからないうちの幼い愛に呑み込まれることを拒み、きっと帰郷して後悔している僕をいつか迎えに来てほしいと、最低な望みを心中で押し殺しながら僕は目を瞑った。


もう君にあげられる魔法はない / 2013.06.05
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