赤司っちに初めてキスの日のことを教えてあげたのは中学三年の五月だった。オレ達が付き合い始めたのは中二の秋だった為、その日が恋人同士になってから一度目の五月二十三日だったのだ。
 キスの日というのはバレンタインやクリスマスのように世界中で知られている行事ではない。オレも女子が会話していたのをたまたま小耳に挟んだだけであり、当然、赤司っちは聞いたこともないどころか「黄瀬が勝手に作った日じゃないのか」と酷い疑われ様をされる始末である。オレが勝手に作った日って。
「ち、違うっスよ! 世間的に! 恋人の間では大事な日っス!」
 慌てて説明をすると、眉を寄せたままではあるがどうにか納得してくれたらしい。
「それで? 今ここは朝練が終わった部室なわけだがこんな誰が来るかもわからない状況でオレからキスをしてほしいとか言うんじゃないだろうな? 断る」
「わあ、理解が早くて助かる……」
 泣いていい? と、半年付き合えばお互いの言動も大分把握できるようになってきたが、まさかここまで一刀両断されるとは思っていなかった。あまりの辛辣さに本当に涙が出てきそうだ。確かに無闇に鍵を掛けることを禁じられている部室では、まだ朝のホームルームも始まっていないこの時間、誰が出入りをするかはわかったものじゃないけれど。
「……だめっスか」
「だめだ」
「どうしても?」
「どうしても」
 こうなったら赤司っちは意地でも自分の意見を譲らない。残念だが諦めるしかないだろうかと、溜息をつきながら自分に言い聞かせた時だった。
「……黄瀬。オレが嫌だと言ってるのは、オレからキスをするということだよ」
 ロッカーの方を見つつ、ネクタイを締めて淡々と一言。一瞬その言葉の意味がよくわからなかったが、十分に反芻してからはっとなる。「えっ、え、じゃあオレからだったらいいんスか?」なんだその急なデレは、と嬉しい文句を心中で並べた。そのままイエスともノーとも返されないので沈黙は肯定と受け取り、こちらを見ようとしない赤司っちの顔を覗き込むようにして唇を近付ける。が、しかし急なデレ期はそう上手いこと発動されないらしい。
「……なんスかこの手は」
 いきなり手の平で口を覆うように思い切り押さえ付けられ、声も吐息もくぐもってしまう。まだ何かあるのかとオレも思わず眉根を寄せると、赤司っちは優雅に笑みを浮かべてこう言うのだった。
「ただし、オレの隙を狙ってこい」
 ……随分楽しそうっスね恋人様。
 練習後の赤司っちの左手は体温が高いのか想像以上に温かかく、それが離されて漸く彼の望んでいる遊びを理解した。けれどオレとしてはキスを止められたことがただ不満で、口を尖らせている間にも赤司っちは部室を去っていく。楽しみにしてるよ、なんて愉快そうに言い残して。ああ失敗した。
「今もっかい引き止めてキスすりゃよかった」
 隙だらけだったじゃん、と後悔の念が一人きりになった部室に溜息となって零れた五月二十三日AM七時十五分。
 キスの日、一年目。


 あの後、オレは赤司っちの言われた通り隙を狙って何度かキスをしようと試みた。昼休みに周囲から他人が消えたことを確認し、食べ終わって教室へ戻ろうとする赤司っちを呼び止める。そして振り返ったところで――という計画はさすがに露骨すぎたようで、一歩後ろへ下がってかわされたり。それでもめげずに廊下でその愛しい姿を見つけたら、あーかしっち、と背後から腕を伸ばす。が、これも声に出したのが原因で、寸でのところでしゃがまれて抱き締めるまでには至らなかった。「場所を考えろ」そう言ってすたすたとどこかへ行ってしまう。
 黒子っちのように誰にも気付かれず近寄れる技術が自分にあったなら、と望まざるを得ない。これほどまでに影の薄さを求めたのは初めてだ。部活が始まる前、メニュー表とにらめっこしている赤司っちにそろそろと忍び足で近付いたけれど。
「バレバレだよ」
 ですよね。
 さすがに練習中にキスをするなどという余裕はない。いつも通り死に物狂いでメニューをこなし、放課後の部活が終わった頃には窓から夕陽が差し込んでいた。用具を片し、モップを掛け、自分達が着替え終えた時にちょうど他の部員が部室を出て行った。朝と同じように二人きりになった為にこれはチャンスだと目を輝かせる。
 しかしまあ、当然オレがそう企んでいることを言い出しっぺの赤司っちが気付いていないわけがなく、再び挑んでもきっと難なく避けられてしまうだろう。そこでいっそ正々堂々頼み込んでみたらどうかと根本から手法を変えてみることにした。ちゅーしたいですお願いします、とジャージを畳んでバッグに入れている赤司っちに頭を下げると、少し驚いたような目線がこちらに向く。最早プライドも何もあったものではないが気にしたら負けだ。
「諦めたのか?」
「……だって赤司っち、全然隙ないんスもん」
 別にどのような手を使ってもいいのならこんなゲームはとても簡単である。今ここで腕を掴んでロッカーに押さえ付けて強姦紛いな行動に出ればハイ終了。……なーんて作戦もなかったわけではないが、それはへたをすれば今後のお付き合いに支障が出てくるかもしれないのでやめておいた。
「じゃあオレの勝ちだな。今日は一緒に帰ろうか」
 稀に見るご機嫌な表情にかわいいとか思っている場合ではない。
「えっ、ちょ、キスは」
「諦めたんだろう。残念だったな、キスの日にキスできなくて」
「そう思ってるならしてくれたって!」
「ほら置いてくぞ」
 オレの言い分は見事に丸無視され、小さな勝利を得て嬉しそうな赤司っちは早々に部室を出て行ってしまう。こんな酷い恋人でいいのかと思いつつも向こうから帰りを誘われるのはかなり珍しく、慌てて自分も鞄を持って後を追った。
 そして夕焼けが綺麗な通学路の途中、真っ向から頼み込めばしてくれるだろうという安直な幻想は打ち砕かれ、やはり隙をつくしかないのだと心に決めるほかなかった。赤司っちはもうオレが挫折したものだと思っているらしいが、残念ながら負けず嫌いには定評があるのだ。大体、『諦めたんだろう』の一言に頷いた覚えはない。
 他愛ない会話を繰り広げ、赤司っちの頭からキスの日という単語が抜けるように話を逸らしていく。
「そういえば青峰には勝てたのか?」
「え? いやー、まだ勝てねえっスわ。というか最近あの人、部活に来ないこと多くなったし……」
「そうだな……。注意はしてるんだが」
 この人からバスケの話をされたらもう大丈夫だろうと、隣を歩きながら導き出した自分の判断は正しかったらしい。「赤司っち、」恐らく部活のことで脳内がいっぱいな恋人の名を呼び、「ん?」とこちらを見上げた瞬間に後頭部に手を回して唇を寄せる。
「ッ!」
――結果、全力で頭叩かれました。
「い、ってえええ!」
「なっ……わ、悪い……条件反射で」
 条件反射で!?
「もー! どんっだけオレとキスするの嫌なんスか!」
「っ、おい、路上でそんなことを言うな馬鹿っ!」
 顔を真っ赤にして訴える赤司っちは単純に恥ずかしかったのだろうが、オレとしてはここまで抵抗されるとさすがに堪えるというもので。叩かれたところを手で押さえながらしゃがみこむと、その様子に少しは不安でも覚えてくれたのか赤司っちから焦った声が上がる。
「き、黄瀬」
「……すげー傷ついたんスけど」
「すまなかった。……キス以外なら、一つだけ言うことを聞いてやるから」
「じゃあ今からオレの家来て」
「無理だ」
「早速言ってること違うじゃないっスかぁ……」
「言い方が悪かったな。オレにできる範囲で、だ」
 家に来るのだってできる範囲でしょ、と思ったが、未だにオレの家族と会うのは緊張するだとかで赤司っちがこんな風に拒むのは今に始まったことではない。それに今日は姉も両親も早く帰ってくると言っていた為、面倒事になるのは目に見えていた。
「……じゃあ、寄り道して帰ろ」
 不貞腐れたような言い方になってしまったのは不覚だった。しかしこの言葉には「いいよ」と素直に頷いた恋人に免じ、先ほどの盛大なる拒否は許してあげることにする。立ち上がって、自宅とは別の方向へ。
 結局、赤司っちの家で定められた門限の時間までは二人で過ごしたものの、どうしても公衆の面前では嫌がった為にキスはできなかった。肩と落としつつも明日仕返しをすればいいかと思い直したところで家に着き、夕飯を食べてからさっさと寝る準備をする。いつも通り明日も早い。長風呂の次女が漸く出てきたので続いて入浴し、出てきた頃には時刻は既に十一時を回っていた。
 濡れた髪をタオルで拭きながら自室に戻る。この時点でキスの日のことなどもうすっかり忘れていたが――ベッドに放置していたスマホを手に取ると、一通のメールを受信していたことに気が付いた。
(……赤司っちから?)
 珍しい、部活の連絡事項だろうかと画面をタッチしながら予測を立て、そして記されていたのは。
『XXX』
 ……は?
 題名もなければ本文もこの三文字のみである。意味がわからず、誤字にしては不可解な字面だ。迷いに迷ったがとりあえず無視をするのは良くないと思い、『どういう意味っスか?』と正直に返した。するとベッドに腰掛けて二分ほど経った後、送り主から返信が届く。
『調べろバカ。オレはもう寝る』
 容赦のない文面に驚き、慌ててネットで検索をかけた。英字が三つ連続しているだけだというのに意味などあるのかと中三のオレには全く知りようのない単語だったわけだが、苦労せず出てきた検索結果に目を丸くする。
――これはさすがに、予想外なんスけど、恋人様。
「なんっだよそれ……!」
 XXX=キスの印なんて知らねえよ! と心の中で叫びながら、あまりの言動のかわいさにぼすん、と枕に思い切り顔を埋めた。
「……もーほんと……勘弁して……」
 これをどんな気持ちで打ったんだろうとか、調べろバカは多分とてつもない照れ隠しだったんだろうなとか、いろいろと考えが止まらずにオレも恥ずかしい。首から上が熱いのは風呂に入ったばかりだからということにしておこう。今度こそ返信に困る羽目になってしまったが、愛しい恋人を想って。
『おやすみ。大好き』
 送信先の名前の部分に、ちゅ、とキスをして送った。


 ◇


 付き合ってみてわかったことがある。それは意外や意外、赤司っちは恋人同士の行事にはなかなか敏感であるということだった。バレンタインやクリスマスはもちろんのこと、オレの誕生日も、そして些細な記念日まできちんと覚えているらしい。恐らくそういう関係になった以上、世間で設定された恋人らしい行事の対応は自分の義務だとでも思っているに違いない。だからあの日、赤司っちがあんな形でオレを喜ばせようとした理由も後から理解した。
 キスの日の話を初めて持ち掛けた時だ。オレは『恋人の間では大事な日』と言ったのである。初めからあんな作戦を実行しようとしていたのかは知り得ないが、恐らくずっと気に掛けてはいたのだろう。随分かわいいことをしてくれたものだと、あの一通は保護メールとして今でも保存してあったりする。
 そしてできれば今年こそちゃんとキスしたかった――なんて本音は胸の内に仕舞っておくしか術はなく、一度目のキスの日から、一年。
「今年も無理っスねえ……」
 高校一年生となったオレ達は、今や直接会うことさえ困難となっている。海常の制服に着替え終え、部屋の壁に掛けられたカレンダーを見やって溜息をついた。赤司っちは覚えているだろうか。メールしようかなと思い至った瞬間、一階のリビングから「涼太ー! あんたそんなのんびりしてていいのー?」と長女の声が聞こえてきてはっとなる。時計に目を向ければ既に朝練の開始時刻まで一時間もなくなっていて、さすがに焦って部屋を出ようとしたら箪笥の角に小指をぶつけて死ぬかと思った。「いってえ……」地味な衝撃に苦しみつつも入部して一ヶ月強、遅刻をするなど言語道断だ。鬼のような主将にまた蹴られる。
 ばたばたと階段を下り、ダイニングに行くと既にテーブルには朝ご飯が並べられていた。悠長に食べている時間がなかった為に立ったままパンを手に取ると、行儀が悪いと父親に注意されたので椅子に腰掛ける。この場にいないもう一人の姉はまだ寝ているか、もしくは彼氏の家にでも泊まっているのだろう。つまらないニュースばかりが流れるテレビはちっとも面白くなかった。
「涼太、牛乳飲む?」
「あ、うん」
 台所にいる姉が飲み物を用意している間に、玄関の方から母が戻ってくる。ごみを出すついでに新聞を取ってきたらしい。おはようと挨拶をしてパンを口に詰め込むと、ポストの中身も確認してきた母親がオレの前に一通の手紙を差し出した。
「なにこれ」
「涼太宛ての手紙。赤司征十郎くんって……中学のお友達よね?」
「えっ」
 うそマジで。ごくんとパンを飲み込んで慌ててそれを受け取り、封筒を裏返してみるととても達筆な字で確かに赤司っちの名前が記されていた。
(て……手紙って)
 二ヶ月前に向こうが京都へ行ってから、メールや電話でのやり取りはあったがこれは初めてだ。
「母さんハサミ取って」
 想定外にも程があり、オレはよく考えもせずに家族がいる前でそれを開ける行為に出ていた。手を拭いてから中を切らないように封筒の端を慎重に切っていると、姉が頼んだ牛乳をコップに入れてオレの前に置いてくれる。同時に次女が寝起きの酷い顔で「おはよー」と巻いたばかりの髪を掻きながら階段を下りてきて、なんだ彼氏の家じゃなかったのか、と頭の片隅で思った。そういえばこの間別れたとか言ってたっけな。
 丁寧に開け終えたところで半分に折られた一枚の紙を取り出すと、なんだか緊張でほんの少し手が震えた。何が書いてあるのだろう。――と、渇いた喉を潤すべく牛乳を一口飲んでその手紙を開いたのが間違いだったのだ。
 十五行ほどの文章よりも、まず目に入ったのは最後の最後。赤いそれ。
(……えっ!?)
 あまりの衝撃に咳き込んでしまい、口に含んだ牛乳を吹き出す結果となった。
「ちょっ……きったない! 何なのいきなり!」
「げほ、げほっ、だ、だってこれっ」
「手紙がどうかしたの?」
「うわ、ちょ、勝手に見んなバカ!」
「もー何でもいいからさっさと拭いてよバカ弟!」
「バカってなんだよ!」
「あんただってバカって言ったじゃない!」
「はいはい喧嘩しないの」
 姉とは特段仲が悪いわけではないが、起きたばかりで低血圧な次女をキレさせると面倒臭い。仲介役になってくれたもう一人の姉に新しい布巾を貰い、テーブルの上に飛散した牛乳を拭いた。とりあえず手紙を汚さなかったことに安堵しつつも頭の中は混乱し切っている。全ては左手に握られた手紙にマークされたそれが原因であり、再び『XXX』だろうかと安易に期待していたオレが浅はかだった。
 赤司っちは、やる時は徹底的にやる人だ。
「ごちそうさまっ」
 大雑把に拭いた布巾をシンクに投げ入れ、コップに残された牛乳などすっかり忘れて階段を駆け上る。それからばたん、と自室の扉を勢いよく閉め、鞄に入れていたスマホを手に取った。
 こんな朝早くに電話して出てくれるかなと不安を覚えつつも、今すぐあの人の声を聞きたい。着信履歴から赤司っちの項目を選択し、待つこと三コール。もしもし、と耳に届く落ち着いた声音に、ほっと胸を撫で下ろす。
『涼太?』
 赤司っちは高校へ行ってからオレ達の呼び方を変えた。
「おはよ、赤司っち。朝早くにごめんね」
『構わないよ。おはよう、どうしたんだ?』
「いや、どうした、って……」
 わかってるでしょ、ともう一度手紙に目をやって続ける。何回見てもこれには驚くしかない。まじまじと観察したところで、イラストや柄ではないリアルさに目を丸くするほかなかった。すると言葉も出てこないこちらの様子を察した赤司っちが、ふふ、と実に楽しそうに笑い声を零す。きっとオレからお望み通りのリアクションが返ってきて喜んでいるのだろう。
「……口紅、つけたの?」
 仕方なく、躊躇いながら小さく尋ねる。
 手紙の最後――赤司征十郎より、と書かれた横にあったのは真っ赤なキスマークだった。それも本当に赤いルージュを塗った唇を押し付けたような、今のご時世では滅多に見ることもない熱烈なキスの印。
 まさか本当に口紅を塗ったのだろうかと、そこが気になって電話を掛けたのだった。
『つけたよ、指にね』
 しかし通話口の向こうから返された一言は予想外なもので、「指?」と聞き返す。すると赤司っちは嬉々とした声色で種明かしを始めた。
『中指と人差し指の腹に、唇の形になるよう口紅を塗ったんだ。それでぺたっと押しただけ。最初は口に塗ろうかとも思っていたが……いざやろうとするとなかなか勇気が必要でね、でも綺麗に出来てるだろう?』
 はあ、なるほど。巧妙なやり口に思わず感嘆してしまった。
『騙された?』
「……そりゃあもう。つーか覚えてたんスね、キスの日のこと」
『もちろん。喜ぶかなって』
「じゃあ今度会う時はほんとに唇に口紅つけてほしいっス」
『どうして?』
「絶対エロいから」
『切るぞ』
 鋭くそう言い返され、苦笑しながらごめんごめんと謝った。が、九割くらいは本心なので赤司っちには是非その口紅を取っておいて頂きたいところだ。「ありがと」キスの日のことを覚えていてくれて、わざわざ手紙を送ってくれて、といろいろな意味を込めて告げると、どういたしましてと一言。
 通話を終えてからちゃんと手紙を読み、バスケのことや学校の調子はどうかとまるで親のような内容に笑いつつも、最後に『二ヶ月会っていないだけなのに寂しいよ』とやけに素直に書かれた言葉に胸が締め付けられた。可愛らしいキスマークに自分の唇を軽く重ねてもう一度ありがとうと呟く。そして部屋を出ようとすると、完全に舞い上がっていたのを咎めるかのように再び箪笥の角に足の小指をぶつけて今度こそ死にそうだった。何なんだこいつは。
 キスの日、二年目の朝である。


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