タクシーの運転手は全く会話を繰り広げようとしないタイプの人間だった。一般人と関わる時は『黄瀬涼太』であることを極力バレないようにするべく、そっちの方が断然良しと言えるだろう。が、今回に限っては車内に流れる沈黙がまた痛々しく、原因は当然何も知らないままに寝続ける隣の社長サマにある。
 本来はこんなに軽々しく食事に行くことさえ許されないような相手だ。どこぞのお伽噺ではないが実際、身分違いだと表現しても過言ではない。そう考えると今になって自分は凄まじい経験をしたのではと恐れ多くなるけれど、それもこんなあどけない寝顔の前では気が抜けてしまうというもので。
(……あ、埃)
 ふと、赤い髪に紛れた糸くずが目に付いたので取ろうと右手を伸ばした。こうやって、簡単に触れることもできるのだ。特に何も考えずにそのまま髪を撫でる。すると一瞬睫毛が震えたのが見え、我に返ってぱっと手を引いた。この状況で目を覚まされたら事情を説明するのが面倒になることはわかり切っている。
 店から大分離れて大通りに出ても、さすがにこの時間では車の走る数も少ない。運転手にあの紙を渡したはいいが、到着したらどうしようかと半ば不安を覚えながら考えを巡らすばかりだった。向かっているのは世界中に名が知れている豪邸である。昼夜問わず厳重な警備を誇っているだろうし、いや不法侵入をするわけではないけれど、俺が非難を浴びせられる可能性だって十分にあるだろう。例えば門前にSPが並んでいて捕らえられたりしたら? そもそもこの人の家の人間にはどう説明すればいいんだ。誤って酒を口にし見事に酔い潰れましたと馬鹿正直に説明して信じてくれるものなのか?
 着いてからのことをミブチさんと葉山さんに聞いておけばよかった。今更、悶々とシミュレーションを繰り返していたところで、「到着しましたよ」と車内に響く運転手の声。そして自分の左横のドアが開く。ずっと下を向いて考え事をしていた為、今どこにいるのか、周囲の景色を暫く見ていなかった。
――横を見れば目を見開くような豪壮な邸宅が建っている。ごくりと唾を呑み、意を決して顔を上げた、が。
「…………え?」
 たっぷり数秒固まった後、自分の視界に飛び込んだ光景に、予想していたのとは全く別の意味で驚かざるを得なかった。ぱちぱちと何度か瞬きをして、首を傾げる。
「……あれ、ここじゃないっスよね?」
「え? いえ、住所の通りですとこちらですが……」
「いやいや、……え、まじスか?」
「はい」
 迷いなく頷いたタクシーの運転手の言葉に驚愕する。そんな馬鹿な。だって、これ。

「ふ、普通のアパートじゃん……」

 しかも初めて一人暮らしを経験する大学生がなるべく家賃の低い部屋を選んだとでも言うような外観である。ちょっと待て、俺の中で膨らんでいた赤司邸の姿はどこへ行った。豪華な門もなければSPだって一人も居ない。冗談だろうと思ったものの、よくよく記憶を掘り返してみるとミブチさんも葉山さんも、『赤司邸』だとは一言も口にしていないことに気付く。まさか、全部俺の妄想でしかないと言うのか。
 つまり葉山さんが赤司の家に行きたくないと言っていたのは。
(単に面倒だっただけかよ……っ!)
 頭を抱えたくなって当然だ。原因は自分の早とちりだったと判明したわけだが、勝手に騙された気分に陥り深い溜息を吐き出した。そりゃあこの人の自宅に帰そうが俺の家に泊めようがどっちでもいいよなとこめかみを押さえていると、「お客さん?」などとついに不審がられてしまう。
「あ、すいません……今降ります」
 いやでも本当にここで合っているのだろうか。社長が一人暮らしをしている可能性を全く考えなかった自分が悪いのは認めよう。けれどせめて高層マンションの最上階だとか、馬鹿でかいお屋敷だとか、そういう、漫画やドラマに出てきそうな展開をどうやら俺は期待していたらしい。さすがに自分でも馬鹿に思えてくる。
 いっきに脱力しつつもスタイリストに頂いたお金でタクシー代を払い、全ての荷物を持って自分が降りてから反対側へと回った。もう一人が熟睡していることを察した運転手が社長の方のドアも開ける。
 呼んで目を覚ますだろうか。
「しゃーちょーお、あんたの家着いたっスよ。ほら起きて」
「ん……黄瀬……?」
「そーです黄瀬です。起きないとこのまま置いてっちゃうよ」
「やだぁ……」
 やだじゃねーよ起きろ。と、酔っ払いに言ったところで無意味だ。案の定再び眠りに落ちる様子にいい加減耐性もついてくる。
「はぁ……もう、今回だけっスよ」
 葉山さんがやったようにおんぶをするべきかと思ったが、車の席で寝ている状態から背負うのは難しかった。仕方がない。彼の背中に左腕を回し、反対の手を膝裏に差し入れる。そのまま車内から降ろすように持ち上げ、運転手には「ありがとうございました」と簡単に礼を告げた。
 何が悲しくて同性をお姫様抱っこしているのかわからない。が、大して重くは感じないのが救いと言えるだろうか。自分より身長の低い葉山さんが軽々と背負う様子からもなんとなく予想はしていたが、社長はその背丈に対してなかなかの痩身だ。そして自分はプロポーション維持の為にオフの日にはトレーニングを欠かさず行っている。筋力にはそれなりの自信を持っている俺にとって、彼を抱き上げるのは想像以上に容易かった。
 タクシーが走り去り、自分達だけとなった夜道を歩けば右手首に掛けた二つの鞄が揺れる。一瞬、ふわりと漂う柔らかな匂いが彼の首筋につけられた香水であることはすぐにわかった。
(どの部屋なんだろう……)
 見たところアパートは二階建てであり、特に新しくも古くもない平淡な外装だ。とりあえず一階の端から表札を確認していく最中、夜風に当てられて酔いの回っている頭が程よく冷やされる。
「高田……、織原……」
 声に出して一つ一つ追うと、三つ目の扉の横に記された『赤司』の字。
――本当にここなのか。
 まだ疑いは晴れない。同姓だけれど全く別の人間の家ですと言われれば素直に納得してしまうだろうし、そうでなくとも信じることができなかった。何故こんなところに住んでいるのか。俺に抱えられたまま夢の中な社長に尋ねる術もなく、眉を顰めるばかりだ。こんなことを言うのは失礼かもしれないが、金に困っているなんてありえないし、もっと立地の良い場所にも暮らせるはずだろう。住宅街からも外れた地で閑散とした雰囲気に包まれ、ただひたすらに彼に対する謎と興味が尚々深まっていくのを感じた。
 とは言え本当に一人暮らしかどうかまで疑い始める始末である。窓から明かりは漏れていないものの、もしかしたら兄弟や親戚がいて、この家の中で就寝しているという可能性だって無きにしも非ずだ。
「どうしよ……」
 暫く悩みに悩んだが、いつまでもドアの前で立ち尽くしているわけにはいかなかった。ずっとこの体勢では腕にも疲労が溜まるのも時間の問題であった為、ここは早いところ覚悟を決めてしまおうと彼の背中を支えている左手を少し伸ばし、恐る恐るインターホンを押してみる。
――反応は、ない。思わずほっと息をついてしまったもののいよいよ万策尽きたと言ってもいい(大したことはしていないが)。当然、ドアノブに手を掛けたところでどこぞの刑事ドラマでもあるまいし鍵が掛かっていないなんて話はなく、やはり社長に開けて頂くしかないんじゃないのか。そう思ったけれど一つ引っ掛かる。
 タクシーから降りる時はアパート暮らしということが衝撃的すぎて忘れていたのだ。葉山さんに、酔いが醒めるまでは起こさない方がいいと言われたことを。
「……あーもう! どうしろっつーんだよ馬鹿」
 マジでこのまま置いてくぞ、なんて小さく口にした時だった。
 不意に、カン、カン、とアパートの階段を上る足音が耳に届く。
「だーかーら! 昨日は悪かったっつってんだろ。今度奢るから許せって、テツ」
 まるで只今の自分と同じように半ば自棄になった口調でそう喋る声が聞こえてきた。反射的に顔をそちらに向ければ、スマホを右耳に当ててアパートの二階へと向かいながら通話している男の姿。左手にはコンビニ袋と思しきものがぶら下げられ、ジャージにパーカーというラフな格好をしている。
「……え? 緑間? 別に誘うのはいいけど……来るかなー。俺あいつと暫く会ってねーし」
 とても面倒臭そうな対応をする様子から、同い年に見えたのはほぼ直感だっただろう。
「おー、まぁ何でもいいわ。……おう、わかった、じゃあ悪ィな。また連絡するから」
 そこで通話を終えたらしく、再び辺りに向こうの靴音のみが響く。こちらには微塵も気付いていないようだ。そしてもうすぐ上り切るというところで、自分の口は勝手に動いていた。
「あっ……あのっ!」
 社長の家が本当にここで合っているのか、確かめるなら同じアパートの住人に聞くのが手っ取り早いと脳が判断したらしい。自分から一般人に話し掛けるなんて言語道断だが今回は状況が状況だ。思ったよりも大きな声を張り上げてしまい、呼び止められた青年は「あ?」と足を止めて階段の柵越しに俺の方を見た。
「い……いきなりすいません。あの、赤司さんの家って、ここ……なんスかね……」
 インターホンまで押しておいてこれで違うなんて言われたら穴に埋まりたいが。ミブチさんが書いてくれた住所を疑うわけではないけれど、確認は取っておきたかった。するとその男は眉根を寄せて口を開く。
「そうだけど……、って……」
――赤司?
 自分が抱きかかえている人間の姿を視界に捉えるなり、彼は社長の名を呼んで階段を下りてきた。初めは全く興味もなさそうだったはずが、行動の豹変ぶりに俺も目を見開いてしまう。
 そのまま驚いたような表情を浮かべてこちらへ向かってきた男は、赤司征十郎をまじまじと見てこう言い放つのだった。
「こいつ……生きてたのかよ」
 は?
「……え? ……どういう意味っスか?」
「あー……いや、なんかどっかで野垂れ死にしたのかと思ってた」
「な、なんで」
「数年前にふらっと姿消してそれっきり全然連絡寄越さねーから」
 久々にこの顔見たわ、と言っている割には随分あっさりした反応である。というか初対面の俺にそんな情報を漏らしていいのかと今更考えていると、青色の髪をした彼は社長から自分の方へと視線を移した。同時に男をお姫様抱っこしているというこの状態を不審がられるのでは、と身構えたが。
「……お前、赤司に酒飲ませたのかよ」
 理解が早くて助かる。
「いや、俺が飲ませたわけじゃないんスけど……間違えて飲んじゃって」
「ふーん……散々だったろ」
「はは、見ての通りっスよ」
 この人もいわゆる犠牲者のうちの一人なのだろうか。そう思った瞬間、ずきりと心臓が痛んだのは、きっと気のせいだ。
「入んねーの?」
 送りにきたんだろ、と言われてはっとなる。
「鍵、閉まってて……」
「は? 鍵? んなもんこいつの鞄の中にあんだろ」
「そ、それはそうっスけど」
 まるで俺の言動がおかしいとでも言うかのように言い切られ、少々面食らってしまった。「赤司の鞄どっち?」手首に掛けたままの二つのそれを指して尋ねられたので社長のものを示すと、何の躊躇いもなく中身を漁り出す様子に唖然とする。赤司グループのご令息の私物をこんな風に扱える人間は、世界中を探してもなかなか見つからないだろう。
 けれどこちらが呆気にとられている間にも彼は部屋の鍵を探し出し、ほら、と扉を開けてくれる。これで一安心だ。たまたま視界に入った通行人に声を掛けた結果だが、自分はかなりラッキーな出会いをしたのかもしれない。
「助かりました。ありがとうございます」
 両手が塞がっていてサングラスを取れない。社長を抱えている為に頭を下げることもできず、代わりにきちんと敬語を使って礼を告げる。すると踵を返す直前、「おう」と褐色肌の男は笑った。
「まさかこんなところで、モデルの黄瀬涼太クンに会えるとは思ってなかったわ」
 ……なんだ、バレてたのか。
 せっかくなら俺も名前を聞いておけばよかったな。と、少しの後悔を覚えるうちに彼は去っていき、それを確認しながらおずおずと赤司家へ足を踏み入れた。
「お邪魔しまーす……」
 真っ暗な室内に反響する己の声。兄弟や親戚が居るのではという推測はやはり外れたようで、誰からの返答もなく静まり返っている。とりあえず鍵を閉めて手探りに電気のスイッチを探し当て、ぱちん、と明かりが点いたそこには予想も立てていなかった彼の自室が広がった。
 右側にキッチン、奥にテーブルとソファーが設置され、アパートの外観に反して中は意外とスペースがある。十畳間程度だろうか。内装は至ってシンプルだ。テレビは置いてあるがそれ以外の娯楽品はなく、必要最低限の物しか所持しない主義なのだろう。
(つーか……)
 今になって『これって不法侵入じゃね?』という疑心が心の中に渦巻き、その場に若干立ち竦んでしまったもののまずは彼をベッドに寝かさなければ。気を取り直して足を進め、一つ扉を開けると寝室が。どうやら1DKらしい。ベッドの隣に置かれた黒のデスクを通り過ぎ、シーツの上に彼を寝かせて靴を玄関へと持っていく。鞄はベッドの脇に置いておくことにした。それから社長に布団を掛け、一息ついたところでふと、ベッドサイドの机上に置かれた銀の灰皿に目を見開く。
「……煙草……」
 吸うんだ、と思わず呟いてしまう。灰皿の中には七本程度の吸い殻。いつのものが残っているのかは知り得ないが、酒は飲めないくせに喫煙者とは驚きだ。全くそうは見えないどころか健康には人一倍気を付けていそうだというのに。しかし部屋全体にそのにおいは残っていない為、消臭はきっちりやっていることがわかり、ネクタイの件も考えればきっと家の中でしか吸わないのだろうと思った。
 そこから視線を移すと、デスクの上のパソコンは電源が付いたままスリープ状態を保っているらしい。ディスプレイの端にびっしりと付箋が貼られている。何時にどこへ連絡、メールの受信履歴、忘れないようにここでチェックをしているのか、この人の多忙ぶりが見て取れるものだった。ボールペンや資料と思しきプリントも、机の上ではあるが非常に散乱している。
 生活感のある部屋と言えばそうだろう。しかし先ほど手助けしてくれた青髪の男はこの人と数年ぶりに会ったという口振りであり、まるで社長がここに帰ってきていないかのようだった。海外から戻ってきて一ヶ月弱は経っているはずだが、あまり帰宅はしないのだろうか。もしくはあの人自身、仕事か何かであまりアパートには戻っていない可能性も高い。そんな憶測を勝手に考えていたところで、次に目に留まったのは右側の壁にずらりと並ぶ本棚。
「……すっげ……」
 人の家を許可なく観察するなんて悪趣味だとは思ったものの、その書架に余すところなく詰められたファイルの数々に息を呑むほかなかった。背表紙には誰でも聞いたことのあるようなブランド名の企業報告書、何年度予算、実績データなど、二百は優に超えるであろう分厚いファイルが整然と並べられている。それは今や彼が赤司グループの中心人物であることをまざまざと表していた。無意識に本棚に手を伸ばしかけたが、触ることなどできない。ただただそれらの前に立ち尽くし圧倒され、もしかしたら自分は今、社長のプライベートよりも重要な、絶対に見てはいけないものを見ているのではとさえ感じた。
 恐らくここが仕事部屋なのだろう。暫く茫然としていると、本棚横の二、三箱ずつ積み上げられている十弱の段ボールがこの部屋を狭くさせているのだと理解する。一番上の大きな段ボールの蓋が開いていた。本当は見るつもりなんてなかったんだ、なかったのに。
(え、これ……)
 さすがに、自分が過去に表紙を飾ったファッション誌があれば、意識はそちらへと向く。
 瞠目したがしかし、心底驚くのはその後だった。箱いっぱいにぎっちりと収められた雑誌を一つ一つ引き抜いてみると、なんと全てに俺が写っているじゃないか。それも最近のものだけでなく、一ページのみの自分でも忘れたような撮影から、モデル業に就いて初めて載ったファッション誌まで、言ってしまえば黒歴史とでも表現したい過去の活動が一から保管されている。
「うわ、すげえ分析してある……」
 そう口に出してしまうのも仕方がなかった。早くも夏のコーディネートを取り上げた最新のメンズ雑誌。自分が占めているページに付箋が張られ、開いてみれば数枚の用紙が挟まれていた。その紙には他人では読解も難しいような走り書きで、衣装の合わせ方に始まりアクセサリーが似合っているか否かや、メイクの評価、俺に相応のスタイリングであるかなどの解析結果が記されているのだ。こんな風にファッション誌を読む人間も珍しい(というか普通はありえない)。ただ、いろいろと批評もある中で『表情◎』と書かれていたことには少し気恥ずかしくもなった。
 とても熱心に調べ上げられている様子から、嫌でもわかる。これは社長による『黄瀬涼太』のデータだ。
 そして一度気になってしまえば手は勝手に動き、段ボールが閉められていないのをいいことに他の雑誌にも目をやった。するとどうやら『TiPOFF』専属モデルとしてオファーしたモデル全員を同様に分析しているらしい。当然海外ファッション誌も多く揃えられ、十人のデータ収集にどれほどの時間を費やしたのか見当もつかない。
――今更、出版社の社長に何がわかるのか、と一時の情動で口にした自分を恥じた。この人は誰よりも、何よりも、ファッション業界に身を置く者として全力を尽くしている。
 それを理解した途端、急に消沈する気分が馬鹿馬鹿しい。社長に認められ、食事をし、不本意ではあったが自分が送ることとなり、何故かもうこの人と近しい存在であるなどと俺は自惚れていたのだ。ところが見てみろ。やっぱり彼は、住む世界が違う。同じ業界に居ても、自分とでは天と地ほどの差がある。
 帰ろう、そう胸中で呟く。
 このアパートと自分の家までの距離は相変わらず掴めていないが、少し歩けば最寄り駅にでも着くだろう。頭を冷やす為にもその方が良い。そうして手に持っていた雑誌を仕舞うと同時、段ボールの隅に一冊、ファッション誌とは違うものが目に入った。
(……スケッチブック?)
 煤けた茶色の表紙に、『TiPOFFデザイン案・黄瀬』と書かれている。
 どういう意味だ? デザイン案? なんで俺の名前? 瞬時に数々の疑問が脳裏を駆け巡ったものの、既にこの部屋を出て行こうとしていた為に中を覗くまでには至らなかった。鍵は閉めてからポストに入れ、介抱した旨をメモにでも書いておけば大丈夫なはずだ。そう結論付けて踵を返そうとした、その瞬間――。

「これだけ人の部屋を漁っておいて、勝手に帰るつもりか?」

 突如聞こえてきた声に、びくりと肩が跳ねる。刹那、空気が固まったように耳に届いた言葉の咀嚼に手間取った。が、この場に居るのは自分ともう一人だけであり、ゆっくりと振り返るしかない。
「い……」
 口の中が乾いている。
「いつから……起きてたんスか」
 必死に思考を動かしての問いだった。ぐっすりと眠っていたはずの彼はいつの間にかベッドに腰掛けるように座っていて、再び、足を組んでこちらを見上げていたのだ。
 びっくりした。びっくりしすぎて、心臓が止まるんじゃないかと。
「今さっきだよ。目を覚ましたら自室で驚いたが」
「……そ、んな……ていうか、え、酔っ……て、ないの?」
「さあ? どうかな」
 動揺のあまりまともに喋ることもできない自分とは反対に随分はっきりとした声色でそう言われ、浮かべられた笑みにまさかと思う。先ほどまで人が変わったかのようにいかにも酔っ払いと言った態度であったのに対して、今はその片鱗も見られない。仕事中と同じように、強い視線を持って両眼にこちらを映している。彼の瞳に映し出された自分の表情はひどく引き攣っていた。
 きっと言い分からして眠っていたことは事実なのだろうが、信じたくない結論を、脳は導き出そうとするのだった。「酒、飲めないんスよね……?」それは最早そうあってほしいという願いだっただろう。
「飲めないんじゃなくて、飲まないだけだ」
 しかしそんな願望も空しく淡々と返された一言で全てを振り返る。そして気付いた。確かにこの人は――自ら『飲めない』とは、ただの一度も言っていない。
「誰も信じてくれないけどな」
「そりゃ……、上手すぎでしょ、演技」
「別に演技じゃないよ。酔ってなきゃあんなことはできない」
 あんなこと。へえ、キスをしたというのはわかっているのか。
「頭は痛いし、記憶も薄れてるし……少し寝たから意識ははっきりしてきたが……やっぱり酒は得意になれないな」
 浅く溜息をつきながら独り言のように零している。じゃあどこまでがアルコールのせいと言えた行為だった? そう聞こうとしたものの寸でのところで思いとどまり、代わりに手招きをされたので近寄ると。
「う、わっ!?」
 いきなり右腕を掴まれ、ぐい、と思い切り引かれたことによりベッドになだれ込んでしまう。抵抗する暇などなかった。重力に従って倒れた時には社長を組み敷くような体勢となっていて、さすがにこれには苦笑いをするしかない。
 酔いが醒めるまで起こさない方がいいと言われた意味を漸く理解できたような気がしたが、勝手に目を覚まされたのだから俺のせいではないだろう。
「……どーいうお誘いっスかね」
「聞くなんて無粋だな。香水までつけたのに」
「まさかそんな合図だとは思ってなかったんスけど……」
「いい匂いだろう。我がグループ筆頭のコスメブランドが開発している試作品でね、媚薬効果があるんだ」
「…………」
「…………」
「……嘘でしょ?」
「うん、嘘」
 笑えない冗談はやめてくれ。
「俺、男相手になんてしたことないっスよ」
 これで社長が女なら何の葛藤もなくあっさり頂いていたことだろうが相手は紛れもなく同性だ。幾度も言った通り自分にそんな趣味はない。……はずだったが、俺の下で微笑を浮かべる彼が色めいて見えるのだからもう抗いようもなかった。車内で美人だと認めたあの時から、既にそこらの女よりも容姿の評価など断然高かったのだ。
「……いいよ。僕が、女役になってあげる」
 自分の影で暗くなりつつも頬を僅かに紅潮させるそれさえ演技だと言うなら心底感心せざるを得ない。その言葉を聞いてついに眩暈がした俺は、もしかしたらこの人より自分の方が酔っていたんじゃないかと、全部全部酒のせいにして二度目のキスをした。帰ろうと決意した数分前の意識は一体どこへ消えてしまったのだろうか。勝手にリードされるのは癪だったので手首を掴んでシーツに押し付け、口を開けるようにと舌で下唇を軽くなぞる。
「ん……っ、ふ……」
 生温かい吐息を零しながら薄く開いた唇を割って互いの舌を絡ませ、一回目にされた時とは比べものにならないほど深く長く口づけた。全身が熱に浮かされている。酸素が足りなくなり眉を寄せる相手にここまで興奮している自分を、心の中で嗤うのが精一杯なくらいに。
 おかげで優しくする余裕も、ましてや今更やめようだなんて自制もない。
「ねえ……なんで、そんな演技したんスか」
 呼吸もままならず肩で息をしている様子に気を良くしながら耳元に唇を寄せる。その大きな瞳が潤んでいるのは酔っているからなのかキスをしたからなのか、まあ両方だろう。
「だから、演技じゃ……」
「ない、って言うなら、質問変える。俺のこと好きなの?」
 明日になれば綺麗サッパリ忘れている、この期に及んでそんな一言を信じて尋ねた台詞だった。社長もなんだかんだアルコールはしっかり回っているようだし、今なら何を聞いても許されるような気がした――なんて、虫が良すぎるか。
 どう答えられるだろうと思ったが、彼は小さく首を横に振るのみで。
「……なんだ、残念」
 笑って誤魔化すように再び唇を重ねる。瞬間、ふと脳裏にミブチさんと葉山さんの会話が過った。

――黄瀬ちゃんに征ちゃんを任せたら何するかわからないじゃない!
――いやまぁそれもそうだけどさ、確実にレオ姉に任せた方が赤司の貞操が危ないっしょ。

――ちょっと小太郎、本当に……。
――まあまあ、いいでしょレオ姉。物は試しってことで。


――ま、君がとーっても理性の強い人間なら、話は別だけどね。


 ああなるほど、やっと合点がいく。あの二人がどこまで予測できていたのかわからないが、どうやら俺は試されていたらしい。特に葉山さんはひとえに楽しんでいたのだろう。もしそうならば見事に負けだ。白旗だ。理性だって自分でも驚くほど崩れているし、昼間の約束など既に効力を成していない。『征ちゃんのこと狙ったら私が許さないわよ』俺はこれにどう返したのだったか。
(確か肝に銘じるとか、言ったっけな……)
 けどまあ『征ちゃん』がこんな風に煽ってくるとは思ってなかったんスよ、と心の中でヘアメイクアーティストに言い訳をする。バレたら殺されそうだとも思った。
 額、瞼、頬とキスをして首筋に鼻を近付けるとやはりあの香水の匂いが脳を刺激し、今なら本当に媚薬効果があると言われても納得できてしまうだろう。そう考えているのが読まれたのか、彼は目を細めて口角を上げる。「手を、放してくれないかな」小さく請われたのでずっと押さえ付けていた両手首を解放すると、そのまま自らネクタイを解く姿に思わず見惚れた。まさか緩めるどころではなく自分で外してくれるとは予想外だ。
「何?」
「いや、俺が脱がしてもいいかなって思ったんスけど」
「そういうのは恋人にしてやれ」
 ふふ、と何がおかしいのやら笑みを零される。
「……冗談。芸能人はスキャンダル起こさないように毎日必死なんスよ」
 そんなものいるわけないでしょ、と溜息をつけば、それもそうだなと一言。ここまでくれば最早演技か否かなどどうでもよくなっていたが、さっき彼が首を振って否定したことに対して、俺はフラれたのだとは少しも思っていなかった。ただこの人の中で自分を好きだと認めたらいけないと理性が働いたに違いない、そう心に根付いた自信が消えなかったのだ。
 何せ俺は、相手の想いを無視したことはあっても、失恋というものはまだこの人生において一度も経験していないのだから。
「じゃあ、お前に好意を寄せた人間はかわいそうだね。どう頑張っても振り向いてもらえな、っ……ん」
 いつまで経ってもその口がべらべらと余計なことを喋っているので、シャツの下に手をすべり込ませて温かな肌を撫でる。
「この話はもうおしまい。……集中して?」
 一際甘く囁けば恍惚として吐息を漏らす表情にぞくりとした。集中しろと言い聞かせたのは恐らく自分へだっただろう。さもなくば俺まで言うべきではない台詞を口にしてしまいそうで、お茶を濁す為に行為に夢中になろうとした。
 あんたに振り向くも何も俺はもう、と確かに一瞬浮かんだ言葉を否定するように、ただひたすら、掻き消すように。



2013.05.19
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -