本日はいろいろと驚くべき事件が起きたが、さすがにこれを越えるものはない。再会できた人間の正体が業界切っての社長だったことよりも、海外の有名デザイナーに絶賛されたことよりも、今の状況の方が何倍も理解が追い付かなかった。
 視界いっぱいに真っ赤な髪色と伏せられた睫毛が広がる。首に回された腕によって相手の体温が伝わり、その熱さは少し火照った頬からも見て取れた。こんな風に酔うタイプを実際に目にしたのは初めてというか、寧ろ絶滅危惧種じゃないのかと固まった思考は余計なことばかり考えてしまう。だってそうだろう。いくら悪酔いが過ぎるとは言え、俺の名前は呼んでいたのだから目の前に居るのが誰なのかは認識できていたはずだ。その上で男にキス、なんて。
「ん……」
 触れるだけの口づけは数秒のものだった。ただその二、三秒がひどく長く感じられ、ゆったりと離れていく唇の柔らかさが理解したくもないこの現状を嫌でも突き付ける。酒のせいなのか潤んだ瞳に見詰められ、何を言うこともできず、生温かい吐息に眩暈がしそうだ。
 わけがわからず茫然としていると、傍観者である三人のうちの男がそれぞれ呟いた。
「せ……征ちゃん……」
「あーあ……」
 恐らくミブチさんと葉山さんはこの人のこんな姿を過去にも見たことがあるのだろう。だったらなんでもっと必死に止めてくれなかったんだと理不尽な文句を内心で吐く。大体、これでは桃っちも社長の趣味を勘違いするんじゃ……。
「き、きーちゃん、そういう趣味だったの……?」
 なぜ俺。


Mr.Perfect / Scene 01 - D part


 キスをやめた彼は、それからなんと俺に抱き付く始末。ぎゅう、という効果音が似合うほどに腕の力が強まり、こちらは全く身動きが取れない。思い切り体重を掛けられているのでとりあえず倒れないよう後ろに右手を付いて支えるが、行き場を失ったもう片方の手は空中で固まったままだった。
 心臓がうるさい。それが良い意味なのか悪い意味なのかは自分でもわからず、密着している相手に心音が伝わらないようにとだけ願う。そしてここまで近付かないと気付かない程度ではあるけれど、俺も知らないような香水をほんの少し肌につけていることには驚きを隠せなかった。初めは髪から漂うシャンプーの匂いかと思ったがこれは違うだろう。鼻孔をくすぐる香りは首筋のあたりが僅かながらも最も強く、甘すぎないすっきりとした匂いを心地良く思うと同時にはっと我に返る。何をやっているんだ、俺は。
「……あ、あの……」
 やっと口を動かすことができたものの相変わらず言葉は出てこないまま、動揺ばかりがいつまでも残った。しかし向こうもただ寄り縋るだけで喋ろうとはせず、俺の肩に額を当てて静止している。まさか、とだんだん感付き始めた状況を躊躇わず声に出したのはスタイリストで。
「寝たんじゃない?」
 ……そんなことだろうと思いました。
「悪酔いって……こういうことだったんスね」
 耳を澄ますと静かな寝息が聞こえてきてさすがに溜息をつくほかない。かと言って無理やり引き剥がすこともできず、若干体勢を直す拍子に宙を彷徨っていた左手は結局、彼の腰に手を回す結果となった。が、この状況で今更誰も咎めるような素振りもない。社長が飲んだウーロンハイを桃っちの方に移動させた葉山さんも呆れ顔だ。
「そ。簡単に言えば酒乱、酷い時はただのキス魔だから」
 赤司の唯一の欠点じゃないかなあ、と頭を掻きながら続けられる。
「本人はわかってるんスか?」
「全然。俺とかレオ姉が教えてあげてるから自分が飲んだらどうなるかは知ってるけど、朝になったら綺麗サッパリ忘れてるもん」
 なるほどそれはタチが悪い。俺が生まれて初めて男にキスをされたという事実はやった本人の記憶にないままなかったことにされるのか。酷い話だ。
 こちらに体を預けたまますやすやと眠っている彼の全身はかなり温まっていて、本当に酒に弱いことがよくわかる。昼間、ピアスの件を確認する際に耳に触れた指先の冷たさが嘘のようだった。
「まぁでも、今回はすぐ潰れたから良い方だよ。犠牲者も一人だし」
 犠牲者って。
「おーい、レオ姉? マネージャーさん? 大丈夫?」
 一周回って冷静になってきた自分に対し、目の前の二人はすっかり固まっている。しかし葉山さんの声によってだんだんと状況を咀嚼し始めたらしい。まずは桃っちの誤解を解かねばと、手元に戻ってきたウーロンハイと俺達の方を交互に見ながら唖然としている彼女に向かって口を開いた。
「も、桃っち、これは違うっスからね? 俺は全くそういうんじゃないし、多分社長も違うだろうし」
「え、あ、うん……そ、そうだよね……」
「ちゃんと信じてる!?」
 そりゃあこんな状態で説得力はないと思うが。これはもう社長ご自身から否定の言葉を頂かないと無理な気がするけれど、どう足掻いてもこの状況だ。寧ろ彼の隣に桃っちが座らなくてよかったと言うべきなのかもしれない。
 ただもちろん彼女も展開からしてアルコールのせいだとわかっていないわけではないようで、「私のウーロンハイが原因だもんね……」と必死に平静を取り戻そうとしている様子に内心で謝った。
 そしてヘアメイクアーティストの方は本格的に落ち込んでしまっている。
「やっぱり私が隣に座ればよかったわ……」
 そう嘆いて机に突っ伏すミブチさんの周囲には負のオーラが漂っていて、本来被害者であろう俺もいよいよ申し訳なくなるしかなかった。なぜ自分が罪悪感を覚えているのかわからないが、明らかに責められてもおかしくない空気である。
「な、なんかすんません……」
「いいのよ……黄瀬ちゃんが謝ることじゃないもの……」
 とてもそうは思えない。
「ていうかなんでレオ姉、赤司の隣に行かなかったの?」
 葉山さんが零した不意打ちの発言は俺も疑問に思わざるを得ないものだった。恐らくこの人は酒が入ると誰彼構わずそういう行為に出るのだろうが、せめて酒癖を知り尽くしているミブチさんが隣に居れば何かしら対処はできたかもしれない。しかし俺と桃っちに社長の横を奨めたのは紛れもなく彼であり、その理由を聞くと漸くヘアメイクアーティストは顔を上げる。
 そのまま溜息をつき、征ちゃんね、と躊躇いがちに続けられた一言に俺は目を見張った。
「黄瀬ちゃんの前では緊張してるみたいだから、こんなことには絶対にならないと思ったのよ」
「……え、緊張?」
 どこが? とまで口に出さなかったのは我ながら偉いと思う。ミブチさんの言葉は理解に苦しむ内容だったが、何故かそれを聞いた葉山さんも納得しているようだった。
「あーそっか、珍しくネクタイ緩めてなかったね、赤司」
 結局どうしようもないまま俺の腕の中で眠り続ける彼に視線をやりながらそう呟いている。そのことが何を表しているのかわからず、「ネクタイ?」と聞き返す自分と桃っちの声が重なった。するとスタイリストが少し驚いてから説明を始め、俺達はそれに耳を傾ける。
「見たことない? 赤司さ、休憩中とか仕事終わったらちょっとネクタイ緩めんの。多分無意識だと思うけど」
「無意識じゃないわ。本当に気を抜く時にしかしないって自分で言ってたもの」
「あ、そーなんだ」
 抱き付かれているこの体勢では相手の首元が見えないが、確かにそんな様子は一度も目にしたことがない。とは言え先日会ったばかりでまともに言葉を交わしたのなんて今日が初めてだ。まだまだお互い知らないことだらけで、彼について一つ知るたびに興味深くなっていく自分が不思議だった。
「飲みに行くってなってもその癖が出てないんだから、すごい気張ってたんだろうなー」
「多分ね。でもそれでお酒の匂いにも気付かないなんて……相当疲れてたのよ」
 二人の見解には何も言えなかった。雲の上の存在であるあまりこの人に対して緊張や疲労など考えもつかなかったが、所詮は同じ人間で、同じ年数しか生きていない同じ男で、自分と違うところと言えばその境遇くらいだ。そしてそれは本人が望まずしてなったものでもある。どれほどの苦労を以て業界を統べているのか安易に予測を立てることさえ恐れ多いけれど、きっとそう思うこと自体が見当違いなのだろう。
 まっすぐに前だけを見据える視線も、伴ってすらりと伸びる背筋も、仕事中は何度も目を眩ませた。しかし今は左腕一つで収まってしまうほどに小さな背中をしている。抱き締めたままでいる必要もなかっただろうが、なんとなく離すことができなかった。都合良く、他の三人も状況からして仕方がないと思っているようで特に突っ込んだりはしてこない。
 とは言えこんな姿勢で寝続けると体を痛めてしまう心配はある。どうしたものかと悩み始めたところで、彼が少しだけ目を覚ましたらしい。
「……んん……」
「社長? 大丈夫っスか?」
「うー……」
 顔を覗き込むようにして具合を窺ったものの意識がはっきりとしないのか、明瞭としない声を零すだけだ。それから腕が疲れたのだろう、抱き付くのをやめにしてただ寄り掛かってくる様子に、状態が改善されたどころか悪化したことになる。
(えぇ……)
 ぐりぐりと肩口に額を押し付けてきたかと思えばまた寝てしまった。もう駄目だ。諦めよう。
「ちょっと、あの、この人どうすれば……」
 とりあえず傍観を決め込んでいる三人に助けを求めようと見れば、揃いも揃って目を丸くしていた。そしてびっくりした、と呟く葉山さん。
「いくら酔ってるからって、赤司がここまで他人に甘えてるのなんて初めてじゃない? ねえ、レオ姉」
「征ちゃんの抱き心地の良さを知ってるのは私だけだったのに……!」
「あ、だめだ聞こえてない」
 彼らはしばしば会話が噛み合っていないことがある。
「きーちゃんすごいね、酔っ払いの介抱もできるんだ」
 更にさっきまで困惑していた桃っちさえそんなことを言い始めてしまい、全く嬉しくない上にこれが介抱と呼べるものなのかわからなかった。今まで仕事絡みでいろいろな人間と飲んではきたもののここまでの酒乱もなかなか居ない。よくアルコールによって引き起こされる酒癖はその人の本来の姿などと言われるが、彼の場合は本当はどうなのか、知る術もない。
「んー、でもどうしよっか。とりあえず赤司だけでも帰さないとねー」
 ていうか今何時? と言った葉山さんに、桃っちが腕時計に目をやりながら零時半ですと返す。既に日付が変わっていたとは。自分だって撮影の疲れも残っているのに何故だか眠気を感じないのは、恐らくイレギュラーな事態に思考が落ち着いていられないせいだろう。
 これはボトルをもう一本開けることなくお開きだろうか、そう考えたところで、いきなりミブチさんが何かに気付いたように慌て出した。
「た……大変」
「どうしたんスか?」
「帰り、どうしましょう」
 その一言に一同はっとなる。唯一酒を飲まない予定だった人は見ての通りであり、他も全員飲酒してしまっているのだ。そして俺達が乗ってきたのはミブチさんの車である。
「征ちゃんが運転するはずだったんだけど……」
 それどころではない。
「俺とレオ姉はここからホテルまで徒歩で行けるよね?」
「ええ。でも……そうね、桃井ちゃん、悪いけど帰りはタクシーでもいいかしら。タクシー代は私が出すから」
「えっ、そんな、大丈夫です!」
「ううん、こっちのミスだもの、払わせて。黄瀬ちゃんも大丈夫?」
「あっ、はい。すみません」
「で、問題は……」
 四人の視線が一点へと集中する。その先に居る社長は何も知らないままに相変わらず熟睡していて、起こそうにも反応が返ってくるような状態ではないだろう。まさか置いていくわけにもいかないし誰かが一緒に連れて帰るしかない。そこまで判断した時点で当然、俺も桃っちも彼と仲の良い二人のうちのどちらかがその役になると思っていた――のだが。
「じゃあ黄瀬と一緒に帰ればいっか!」
 あれ?
「えっ、え? 俺スか?」
「うん。だって俺、赤司の家行きたくねーもん」
 あっさりとそう言い切った葉山さんを前にして理解に手間取るほかなかった。なぜ俺なんだ。いや、酔っ払いと言っても相手はもう寝ているだけだし、特段扱いが面倒臭いというわけではない。が、一緒に帰るとなると話は別だ。そもそも葉山さんの言葉から察する限り、『赤司の家』というのは要するに『赤司グループの邸宅』だろう。そんなの俺だって行きたくない。
「ま、待ってください、なんで俺が……」
 やんわりと、しかし明確に抗議の声を挙げたけれど。
「そうよ小太郎! 黄瀬ちゃんに征ちゃんを任せたら何するかわからないじゃない!」
 この人も大概何を言っているのかわからない。
「え、あの、どういう意味スか」
「いやまぁそれもそうだけどさ、確実にレオ姉に任せた方が赤司の貞操が危ないっしょ」
「は!?」
「失礼ね! 私は征ちゃんの許可なくそんなことしないわ!」
「嘘だー、酔ってたからセーフとか言いそうじゃん! 一緒に居て止めなかった俺が怒られんのやだし。というわけで頼んだ、黄瀬!」
 こちらの言葉は一切無視され、力強い呼びかけと共に満面の笑みでそう話を振られて思わず顔を引き攣らせた。今のやり取りの中で咀嚼できた部分が一つもないのは自分だけでなく桃っちも同様だったようで、あっけらかんと二人を見ている。大体、俺が彼に何をするかわからないという点について『それもそうだけど』ってどういうことだ。そこはしっかり否定してくれ。せっかく桃っちの誤解を解いたばかりなんだから余計な発言はしないでほしい、と思う。
 頼まれたところでちっとも承諾したくなかったが、しかし相手は仕事で深く関わる人間であり年上だ。ここまで押しが強いと反論できる空気でもなくなっていた。
「ちなみに黄瀬の家ってどこらへんなの?」
 躊躇いなく尋ねられ、××区です、と馬鹿正直に答えてしまう。すると葉山さんはぱっと明るい表情を見せ、
「なんだ、赤司と近いじゃん!」
 そう返された瞬間、ああこれは諦めるしかないなと心の中で肩を落とすしかなかった。
「ちょっと小太郎、本当に……」
「まあまあ、いいでしょレオ姉。物は試しってことで」
 事情はどうあれ唯一止めてくれそうだったミブチさんに対し、スタイリストは無邪気に笑い掛ける。物は試し? 何の話だか見当もつかないが、葉山さんとアイコンタクトを取ったミブチさんは深い溜息を吐き出した。そして目を伏せて「……わかったわ」と言い、いよいよ俺の希望は全て絶たれたのだった。
 頑なに拒んでいる理由としては、とにかく赤司邸に行きたくないというのが先立っていた。何度も言う通り実際、社長自身はそんなに大変ではないのだ(何せ爆睡してるだけだし)。寧ろこれだけ周囲が騒いでいても微動だにせず眠り続ける様子には最早感嘆を覚え、俺の腕の中はそんなに眠り心地がいいのかとさえ思うほどである。静かな寝息と共にほんの少し上下する肩に視線を落としながら、どんだけ疲れてたんだよ、と心中で呟いた。
 一方、何やら腹を括ったことによって落ち着いたらしいミブチさんは残っている料理を少量摘まみつつ、隣に座る桃っちに向かって口を開く。
「桃井ちゃんと黄瀬ちゃんは家が近いのかしら」
「あ、いえ、正反対の方向です」
「あらそうなの? じゃあタクシー二台呼んだ方がいいわね」
 そこまで気を遣われると逆に申し訳ない。が、俺達が返事をする間もなくミブチさんは個室の扉を開け、店員を呼んでいるようだった。タクシー二台お願い、とそのまま小さく告げ、再び席に戻ってくる。
「実渕さんの車はどうするんですか?」
 桃っちが心配そうに尋ねた。
「一晩ここに置かせてもらうわ。昔はこんなことよくあったから、あの店主なら多分大丈夫」
 眉を下げて笑う彼の言葉で、余程この店と交友が深いのだとわかる。しかし以前にも経験があったなんて尚のことこの人の悪酔いぶりが際立つが、普段の冷静沈着な態度からは考えられない今の様子に少しの安堵を覚えているのも事実だった。ここまで来るともういっそぐっすり眠って休まればいいと、三人の目を盗んで彼の背中を撫でてみる。とても手触りが良く、質の優れた生地が高価なスーツであることを十二分に表していた。
 それから数分、タクシーが一台到着したとの連絡が入り、先に俺と社長を帰らせようという話になる。同時にこの後は赤司邸に行かなければならない、そんなプレッシャーが脳内を占め始めた。するとさすが、毎日自分と一緒にいる桃っちは些細な表情の変化にも目敏く気が付いたらしく、「彼の家に一晩だけ赤司さんを泊まらせるのは駄目ですか?」と二人に聞く。ミブチさんと葉山さんはその言葉に顔を見合わせた。
「あー、別に黄瀬さえ良ければ全然いいよ! 明日になって事情説明すれば赤司も納得すると思うし」
 とは言われたが、実のところそれこそあまり気乗りしない。
「……いや、ちゃんとこの人の自宅まで連れていくっスよ」
 悩んだ末にそう結論を出した。自分の家が割と目も当てられないほどに整理できていないというのもあるし、何より普段は一人暮らしであるがたまに姉が勝手に出入りするのが一番の原因だった。何度やめてくれと言っても聞かないのだから仕方がない。何故か俺の家の合鍵を持っている二人の姉はいずれもアパレルブランドショップの店員だ。姉弟揃ってファッション関係の仕事に就いている為、赤司グループに関してはもちろん向こうも知っているし、その上でもし鉢合わせた場合に社長がこんな状態では面倒になることは確実である。
 大人しく赤司邸に返した方がいいだろう。自分も少し酔いが回ってきているのがどうにも嫌だったが、今更文句を並べられる状況ではない。大丈夫っス、と口にしたその一言が、己に言い聞かせているようにも感じた。
「そう? 悪いわね、黄瀬ちゃん。征ちゃんのこと頼んだわ」
「はいっス」
「よしっ、じゃあ帰るよ赤司!」
 席から立ち上がってこちら側に回ってきたスタイリストが、全く意識の覚める様子もない彼の頭をぽんぽんと叩く。当然はっきりとした反応など返ってこないが、葉山さんは構わず社長を引き剥がして「ほんっと相変わらずだなー」と笑いながら背負った。おんぶをされたことによって漸く彼の寝顔なんてものが見える。あんなに意志の強い瞳が閉じられただけで、少し幼いとも言えるような表情に心なしかほっとした。
 そしてやっと乗せられていた体重がなくなり、自由な行動が許されるようになった俺も自分の鞄と彼の荷物を持って立つ。その間に、ミブチさんが机の端に置いてあったアンケート用紙と鉛筆を手に取った。この店の雰囲気についてや店員の対応はどうだったか、などの希望制アンケートに答えるのかと思ったが、紙の裏に別の事項を書いているらしい。それが何なのかこちらの予測も立たないままに葉山さんに手渡している。
「あ、桃っちはここでいいっスよ」
 ふと俺達を見送るべく同じように席を立とうとしたマネージャーに、そう声を掛けた。タクシーの二台目はまだ到着していないのだ。でも、と彼女は口にし掛けたが、こちらの目を見てわかったと言い直す。これだけで意思の疎通ができるのは本当に有難い。
「じゃあ私も桃井ちゃんと居るわ。小太郎、あと頼んでいいかしら」
「おっけー、見送ったら戻ってくるよ」
「すみません」
「いいのよ。それより黄瀬ちゃん、昼間私が言ったこと忘れてないわよね?」
 にこ、と柔らかな口元に反して全く笑っていない目に、十時間以上前の台詞が嫌でも思い出された。あの時はもう控室に戻っていた桃っちが、何のことだかわからず首を傾げている。
 まさかそんなはずないだろうと心中で馬鹿にしつつも、もちろんっスよ、と俺は答えた。
 そうして自分と葉山さんと、彼の背中にいる社長がそのまま外へ出ようとしたところで奥から店主に話し掛けられる。もうお帰りですか、なんて。
「いやー、とりあえずこいつだけ。まあ見ての通りで……久々にやっちゃいました」
 苦笑する葉山さんに、相変わらずですねえ、と社長の方を見ながら店主も笑うしかないようだ。なんとなく予想もついていたのかもしれない。
「是非またいらしてくださいね」
「はい」
 自分も会釈を返し、タクシーが待っている駐車場へ向かう途中、そういえばと隣を歩くスタイリストに話を切り出した。
「社長も左ハンドルで運転できるんスね」
 本来帰りはこの人がミブチさんの車の運転席に座る予定だったのだ。なかなか見ることもできない左ハンドル式に慣れているという事実に、その話を聞いた時から気になっていたことだった。
 アルコールで火照った全身にひんやりとした冷気は気持ちが良い。柔く吹く夜風が前髪を揺らし、まばらに浮かぶ星を見上げながら葉山さんは口を開く。
「そりゃあできるよ。海外生活長いからねー」
 赤司はレオ姉より全然運転うまいよ、と付け足されて少し驚いた。ミブチさんの運転はとても手慣れているもので十分だと思っていたが、それ以上に上手いとは。あんまりそういうイメージは持ってなかったな。
「いつか、赤司とアウトバーン行ってきなよ」
 ぼんやりと考えを巡らす俺に目線のみを向けながら、葉山さんは八重歯を見せて笑う。
「アウトバーンって……ドイツのっスか?」
「それそれ、速度無制限の道路。車にもよるけど二百五十キロは普通に出すよ、こいつ」
「二百五十!?」
「三年前だったかなあ。あれは俺も死ぬかと思った」
 いや死ぬだろ。安全運転極まりないように見えてそんな豪快さを兼ね備えているのかと恐ろしい話を聞いたような気分だ。酒癖の件も加えて、この人はいちいちギャップが凄い。
 そう感心しているうちにもミブチさんのミニバンを通り過ぎ、駐車場の一番隅に停車しているタクシーへと向かった。こちらの姿を捉えた運転手がドアを開ける。「赤司ー、大丈夫? 今から黄瀬と帰るんだよー」社長を背中から下ろしながら喋る葉山さんの声に対し、んん、と不明瞭な相槌が奥の椅子に座らされた彼の方から聞こえてきた。けれど整った睫毛は伏せられたままだ。
「赤司の家でいいんだよね?」
「あ、はい」
「ん。じゃあこれ」
 その言葉と共に渡されたのは一枚の用紙。表には未回答のアンケートが印刷されていて、先ほどミブチさんが書いていたものだとすぐにわかった。そしてぺらりと後ろに返すと、一つの住所と思しき文字が並ぶ。
「それ、運転手に渡せばわかると思うから」
 赤司邸の所在地だろう。自宅と同じ区ではあったがもちろんこれだけではどこだかなど知り得ない。自分の家の周辺に豪邸なんかあったかな、と記憶を辿っていたところで、葉山さんがもう一つ俺の手にあるものを乗せた。見ればそれは一万円札で、タクシー代だと言われてしまう。
「えっ、あ、すみません。ていうか俺も飲み代……」
 慌てて財布を取り出そうとしたが、簡単に制されてしまった。
「いいよ、ここは俺らが持つから。どうせ俺とレオ姉はもうちょっと飲んでくし」
「いや、そういうわけには」
「黄瀬も意外と頑固だよなー。酔った赤司の相手で十分だって!」
「……あのキスで二万っスか」
「犠牲者代」
 でしょ、と片目を瞑って笑う葉山さんに言葉も出ない。
「あはは、冗談冗談。結局レオ姉も黄瀬に聞きたいって言ってたこと何も聞いてないしね、それくらいもう認めてんだよ」
 飲みに来る前、確かにミブチさんは『俺に聞きたいことがある』と言って自分達を誘ったのだと思い出す。しかし後半ほとんど桃っちと化粧品について盛り上がっていた彼とはあまり会話をしていない為、葉山さんの言う通り自分にそれらしい質問など全くされなかった。認めているとは、何をだろうか。心の底では気になったが「ほらほら」と背中を押されてタクシーに乗り込む形となり、その疑心が晴れることはない。
「じゃ、お願いします」
 タクシーの運転手にそう挨拶をするスタイリストを横目に、俺は鞄に仕舞っていたサングラスを掛ける。閑散とした闇に包まれた深夜では車内も暗く、四十過ぎの男性運転手はこちらの正体に気付いているのかも定かではないほどだ。黄色い声が上がるわけでもないしどうにかなるだろう。そう思っていると、ドアが閉まる寸前、最後に葉山さんは思い出したようにこう言った。
「あ、そうだ。一つ助言だけど、明日になって赤司の酔いが醒めるまで、起こすのはやめた方がいいと思うよ」
 いつでも変わらない屈託のない笑顔が、この時ばかりは先の予感を嫌なものへと変化させる材料となっていただろう。
「……ま、君がとーっても理性の強い人間なら、話は別だけどね」



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