オフィスクオーターから車で二十分ほど要し辿り着いたそこは、大通りから一つ外れた道に粛然と建っていた。戦後より続いている個人店だそうだ。密やかに雑誌で取り上げられることはあるがそこまで有名というわけではないらしく、知る人ぞ知る居酒屋だと聞いている。店主の人脈が業界内で広く影響し、それこそ一部の芸能人の間ではすっかり常客となっている人間も居るだとか。俺はそもそも誰と遭遇するかもわからない都内の飲み屋をあまり選ばない為に初めてその看板を目にしたが、落ち着いた雰囲気はかなり良い。
「東京で飲むのは久しぶりねえ」
「あれ? レオ姉、一月に仕事でこっち来たんじゃないの?」
「来たけど全然遊ばなかったのよ。黄瀬ちゃんにも断られちゃったし」
 わざとらしく刺々しい口調でそう付け足され、数ヶ月前の記憶が自然と蘇る。あれは一度目にミブチさんと仕事が重なったファッション誌の撮影の時だ。まだ彼の性格に耐性がなく(今でもあるとは言えないが)、とても飲みに行けそうなノリではなかったのでやんわりと断ったのだった。そして確か、その代わりに連絡先を交換したはず。
「いやー、ほら、あの時はまだ俺も緊張してたんで……」
「だから今日はいっぱい飲ますわよ!」
 適当に濁した返答に勢いよくそう断言され、あはは、と笑みを浮かべながらミブチさんと葉山さんを先頭に店内へ入る。すると若い店員が顔を出し、「予約した実渕です」の一言を聞いて一度奥へ戻っていった。それから店主と思しき人間がやってきて、二人と挨拶を交わしている。
 恐らく彼らも常連なのだろう。物腰の柔らかい六十前後の店主は破顔して自分達を招き入れた。どうも、と俺も軽く頭を下げるといらっしゃいと返すその表情で、大方この店の評価は決まってくる。『黄瀬涼太』を前にして少しでも客商売の姿勢を崩さなければ何度でも来店するが、驚いたり喜んだり、酷ければ握手やサインを求められたり、完全なるプライベートな時間にそういう扱いをされるのは好きじゃなかった。もちろんこれは自分の我儘でしかないけれど、俺だってモデルである以前に一人の人間なのだ。接待でもないのなら、飲む時くらいは仕事のことを忘れたい。
 その点に関しては、この飲み屋はとても高評価と言えるだろう。店主がちっとも表情を緩ませていない。しかし俺がそういった人種であることを察していないわけではないようで、さすが、多くの芸能人を持て成しているだけはあると図々しくも心のうちで感心した。
「お世話になります」
 そして別の店員が俺達を案内しようとする中、自分の一歩後ろを歩いていた赤色の彼が微笑してそう言う。久しぶりですねえ、と店主は笑った。一際嬉しそうだ。赤司グループの人間が眼前に居るとわかっているのか、そんなことは把握のしようもない。だが同じ業界に生きていないからこそ、この人も柔和な笑みを見せ、普段の息詰まるような堅い声色ではないのだろう。
 案内された個室は六名席の座敷であり、掘りごたつのように足が伸ばせるタイプだった。
「どう座る? 適当でいい?」
「私達はそれで構わないけど……桃井ちゃんはどこがいいかしら」
「あ、私どこでも大丈夫です」
「そう? 黄瀬ちゃんは?」
「俺も全然、どこでも」
 靴を脱ぎながら答えたところで、とりあえず僕は端がいいかな、と社長が意見を主張したことに少し驚いた。それが何故なのか理由を知らなかった俺は、ミブチさんと葉山さんの二人が納得している様子に疑問符を浮かべるのみである。
「あー……そうね、征ちゃんは。じゃあ小太郎そっち詰めて、征ちゃんは向こうの奥でいい?」
「ああ」
「で、えーと、慣れてる私が入口に近い方がいいだろうから……黄瀬ちゃんと桃井ちゃんは征ちゃんの隣に座ってくれる?」
 合理的な提案に反論もなく頷いた。が、桃っちはマネージャーであるという性質上、余程のことがない限り自分より前には行かない。必ず俺の斜め後ろで待機し、移動中でも隣に並んだり率先して進むことなどあり得ないのだ。それは要するにこの場において、自分が座らなければ桃っちも腰を下ろさないということを表していた。
 そしてこうやって悶々と思考を巡らせている間にも赤司征十郎は奥に行き、その隣が空席となる。もちろん俺がそこに座ればいいわけだが、つまるところ再び車内と同じ並びだ。しかも今度は一人分のスペースもない。
「きーちゃん?」
 数秒行動が固まって立ち尽くしたものの、桃っちの声ではっとなった。いやいやいや、隣に座るくらいどうってことないだろう。何を躊躇っているんだと我に返り、肩に掛けていた鞄を下ろして彼の横に座る。
 同時に相手の視線が一点を見詰めていることに気付き、その対象に自分も目をやって理解した。彼がじっと見ていたのは俺の鞄だ。車の中では暗くてわからなかったのだろう。「そういえばこれ、赤司グループのブランド品っスね」恐らく脳内で考えているに違いない台詞を口にすると、ぱっと顔を上げて感嘆される。
「ああ……驚いた、そのカラーは日本では発売してないから」
「先輩のつてで貰ったんスよ」
「へえ、良い先輩がいるんだな」
 一応、『TiPOFF』の主宰が帝光出版だと知って今日の撮影の為に選んだのだった。なんとなく媚を売るような真似だと思わなくはなかったが、今となってはどうでもいい話だ。そんなことよりも彼の興味を引けた結果の方が喜ばしい。ほんの少し、緊張も和らいだ。
 俺達が簡単に言葉を交わしている間に桃っちも黒色の座椅子に腰を下ろし、ミブチさんの隣に葉山さん、葉山さんの前に社長が座って俺、桃っちと続く形で漸く落ち着いた。
「最初は生でいいかしら」
 店員にオーダーを頼もうとするミブチさんの質問に肯定で返す。しかし全員同じかと思いきや、「征ちゃんは何にするの?」と一人だけ特別に聞いている様子に俺は首を傾げた。そして想定外の返答が寄越される。
「僕はウーロン茶でいいよ」
 淡々と耳に届いた一言に、え、と目を見張る。
「飲めないんスか?」
 自重も配慮もなく素で聞いてしまっていた。厚かましかっただろうかとすぐに内心で後悔したが、その思いが顔に出ていたらしく、彼はくすりと笑う。
「意外だったか?」
「あ、いや……ちょっとだけ」
 そうは言ったものの実際のところ全くの予想外だ。店主とも仲が良いみたいだし、ミブチさん達と飲みに来る様子も慣れているように見えたのだから。しかし下戸ならば自主的に端に座ろうとしたのも納得する。誰だって、シラフで酔っ払いに挟まれたくはない。
「昔は私達と一緒に飲んで克服しようとしてたのよね」
「でも毎回毎回、悪酔いするか一瞬で潰れるかのどっちかだったよなー。何故か人前で吐きはしないのが唯一の救いだったけど」
「悪酔い……って言うと?」
「あ、それ聞くんだ? いやー、赤司は酔うと……って、痛い痛い! 言わないから! 言わないから足踏まないで赤司!」
 いきなり何かと思えば机の下で攻防が繰り広げられていたらしい。いい笑顔を浮かべて無言で葉山さんを制しているところを見る限り、相当聞かれたくないようだ。露骨に隠されるとそれはそれで逆に気になるというのが人間の性分だが、あまり深く突っ込まない方が良いだろう。絡み酒とかかな、と心のうちのみで勝手に妄想を膨らませていると「失礼致します」と扉が開く。
 そして注文通り生ビールが四つにウーロン茶が一つ、そして五人分の通しも運ばれ、全員の手にグラスが渡った。乾杯、声が響く。
 オーディション撮影の時はまさか数時間後にこうなるとは微塵も思っていなかった。更に言うなら、自分が生きているうちに、あの赤司グループのご令息と食事なんてことも。
(人生何があるかわかんねーなー……)
 ぼんやりと考えながら早速ごくごくと半分ほど飲んでしまい、そこで友達と来ているわけじゃないことを思い出す。優雅さの欠片もなかっただろう。が、「良い飲みっぷり」とミブチさんが楽しそうに笑ったのでほっと息をついた。アトリエRAKUZANの人達はこういう面では本当に接しやすくて助かる。
 なんとなしに社長を視界の端に捉えると、透き通ったグラスに口元を添えているシルエットはやはり整っていた。綺麗な人――などという単語が再び脳裏に過ったせいで、自分でも理解できない変な意識を振り払うよう、もう一口ビールを飲む。
「さてと、じゃあ何食べましょうか」
 この後の注文はテーブルに備え付けられているパネルで選ぶらしい。和風建築な店内、奥床しい小物に比べ、電子的なタッチ式のパネルのみが妙に浮いてしまっている。とは言え文明の利器だ。ミブチさんが手に持ちピ、ピ、といくつか操作してから料理の画面になり、自分と桃っちに見せるようにそれを渡された。
「俺は何でもいいっスよ。……あ、でもホルモン食べたいかも」
 実を言うと仕事もすっきりと終わり空腹状態がかなり続いていたわけで、羅列したメニューの数々に口内は唾が溢れる。チーズ系も刺身もおいしそうだし、あれもこれもと思わず口に出して選んでいると、不意に葉山さんが意外そうに言ってきた。カロリーとか全然気にしないんだねー、と。
「もしかして全く太らないタイプ?」
「いやあ、そういうわけでもないっスよ。ちょっと走れば落ちるってだけマシなんスけど……割と食べたものがすぐに影響するんで、撮影の前日は控えるし」
 へらりと笑って答える。が、何言ってるのと鋭く口を挟んだのは桃っちだった。
「きーちゃん、前日でも直前でも普通にたくさん食べるじゃない!」
「ちょ、桃っち」
「栄養バランス考えてって注意してるのにファーストフードとかよく行くんですよ。でも全然太らないの。嫌味ですよね」
 俺を無視してミブチさんに同意を求めている。せっかく誤魔化したのに無駄になった! と焦っていると、右隣からくすくすと笑い声が聞こえてきた。見ればこの人はまた自分と桃っちのやり取りが面白いらしい。まるで初めて会ったあの日のようだと思いつつ、どうにか話を逸らすべく努める。
「しゃ、社長は何か食べたいものないっスか」
「僕?」
 パネルを提示して尋ねた。「征ちゃんはもう決まってるわよね」常連なら当然かと納得したが、この人の好きそうな食べ物は予想がつかない。
「僕は湯豆腐がいいな」
 だからこそその返事に驚かざるを得なかったわけで。
「湯豆腐……好きなんスか?」
「うん」
 意外だ。というより、この場合どんな料理を挙げられても目を丸くしていたことだろう。何せ赤司グループの情報ではなく、彼自身について何かを知ったのはこれが初めてだった。好物は湯豆腐、ふうん、なるほど、と心に覚えさせておく。
 結局、湯豆腐に加えて桃っちのリクエストでサラダを、俺は最初に目に付いたホルモンを、あとは葉山さんがカマンベールチーズフライを食べたいと言ったのでその四点で注文を確定した。
「桃井ちゃんはちゃんと気を付けてるのね」
「あはは……私はすぐ太っちゃうんで、せめて野菜から食べないとなって」
「いや桃っちもいっぱい食べたってそんな影響しないじゃないっスか」
「きーちゃんは黙ってて」
「ええっ」
「まぁ全然太らない人間に言われても嫌味でしかないだろうな」
 社長の容赦ない一言が突き刺さるが、嫌味なんかではなく本当のことだ。女性の話に合わせるのは得意な俺でもダイエットに関しては相変わらずよくわからない。あんまり細身すぎるのはどうしても不健康に見えてしまい、そこまで気にする必要はないだろうと思うわけである(そんなことを口にしたら殺されそうなので黙っているが)。
 桃っちの食生活について詳しくはないけれど、一緒にご飯を食べに行くとヘルシーなものを頼もうとする様子には見慣れていた。
「でもあんまり極端に制限すると、肌荒れしちゃうんですよね」
 溜息をついてそう零す桃っちに斜め向かいのミブチさんが口を開く。
「あら、じゃあお化粧品を変えてみたらどうかしら? ダイエット中でもビタミンと脂質をきちんと摂って、肌荒れしにくい……というか、自分に合ったコスメを使えば随分良くなるわよ」
「本当ですか?」
「もちろん。よかったら今私が持ってるもの、紹介してあげるわ」
 そう続けて常に持ち歩いているらしいメイク道具の一部を鞄から取り出したミブチさんに、桃っちは爛々と目を輝かせた。彼女もプライベートともなれば普通の女性であり、化粧品や美容には単純に興味があるのだろう。ミブチさんはその点ではプロ中のプロだ。楽しそうな表情を見て、この二人は意気投合しそうだなと眺める。
 そして俺もやっと全ての緊張が解け、感じないようにしていた疲労感が嫌でも体を支配し始めた。ふう、と小さく息をつくと隣から話し掛けられる。
「かなり疲れているようだな」
 何故この人は他人の内情がすぐに見抜けるのだろうか。
「二年ぶりのオーディションだったからか?」
「え、なんで知ってるんスか」
「オファーをしたのはこちらなんだ。そのくらい知ってて当然だよ」
 そんなに情報が筒抜けでいいのか、と思ったけれど自分のマネージャーも似たような手法を使っている為に口にはできなかった。
「お疲れ様。大変だったろう、周囲もトップレベルのモデルばかりで」
 主宰に労わられるとは変な気分だ。俺も酒が回る前にと、あの時の礼を告げる。この人が居なければ自分が失敗に終わっていたことは必至だった。撮影中にその姿を視界に捉えた瞬間は調子が崩れるあまり内心で舌打ちもしたが、最後の最後まで彼の言葉に助けられたとは、自分が一番よくわかっている。
 感謝してもしきれず、しかしありがとうございましたと言っても、彼は眉を下げて「あんなのは助言のうちに入らないよ」と笑うだけだった。
「苦境を乗り越えたのは黄瀬自身だ」
 グラスの縁を指でなぞりながら穏やかな声で微笑を浮かべる横顔に、ほんの少しの間、釘付けになる。
「……まあ、誰かさんが勝手に用意したピアスもなかなか様になっていたしな」
 ところがその一言には引っ掛かりを感じ、ピアス? と聞き返した。すると彼の視線の先、生ビールを飲んでいたスタイリストがぎくりと肩を強張らせる。
「だ……だからあれは絶対合うと思ったんだって! 赤司に言わず付け足したことは謝るから、そんな怒んないでよ」
「怒ってない。ただ衣装は全て英国調で、という事前の打ち合わせはどこへ行ったんだと思っただけだ」
「ごめん。でも確かにあのピアスはパリシックだけど、別に浮いてはなかったでしょ」
「僕の目ではすぐにわかるほど目立っていたけど?」
「赤司の目は肥えすぎなんだよ……」
 間髪を容れずに返される言葉の数々に、葉山さんはがっくりと項垂れている。そして英国調という単語で大方の内容は理解できた。二人の会話から察するに、恐らく『あのピアス』とは俺が今日の撮影で使用したイヤーロブのフープピアスのことを指しているのだろう。本当はヘリックス、つまり耳朶ではなく耳輪上部の位置にもと提案されたのだが、ピアスホールは両耳に一つずつしか開けていない。その場で開けるにしてもあまりに突貫工事であった為、結局二つのピアスのみのコーディネートで撮影は行われた。
 真正面から向き合ったあの時に彼が俺のピアスに手を伸ばしたのは気まぐれではなく、どうやら確認を取っていたらしい。与えられたままに付けた自分はパリシックだったなんてわかっていなかった。なるほど、衣装自体はクラシック調で揃えられていたが、あれだけ別のルーツだったのか。
(……ん?)
 初めに違和感を覚えたのは、彼らの話を理解した瞬間だっただろう。
 何故、この人は俺に用意されたコーディネートを予め知っているような口振りで――『事前の打ち合わせ』の内容は、どこで聞いたんだ?
「料理、来たわよ」
 小さな、しかし確固とした疑問はミブチさんの合図によって遮られる。机の上に頼んだ注文が並べられ、社長の前にも湯豆腐が置かれた時にはそんな疑点は頭の中から消えかかっていた。たまたま知っただけだろうと、今はまだ、その程度にしか思わなかったのだ。
 料理はどれも量がちょうど良く味も絶品。これだけつまみが美味しければ酒も進むというもので、一杯目の生ビールはあっさりと飲み干した。もちろん俺だけではなく他の三人も同じだったようだ。自然と次はどうしようかという話になり、一人だけ飲めない人間に少し申し訳なく思っていると、僕のことは気にしなくていいよ、と心を読まれてしまう。
「黄瀬ちゃん、焼酎は好き?」
 パネルを使って飲み物を選択しているミブチさんに不意にそう尋ねられ、社長への返答をする前に「あっ、はい。好きです」と言ってしまっていた。
「ならボトル頼みましょ!」
「えっ、全部飲めるかわかんないっスよ」
「これだけ人数いればすぐだって! 俺もレオ姉も飲み始めると止まんないしさ」
「まぁもし飲み終わらなくてもキープしてもらえばいいわ」
「じゃあまた来るってことっスか」
「何よ、不満?」
「あははっ、まさか」
 米、麦、芋のどれがいいかと聞かれたので迷いなく最後を選ぶとミブチさんは少々目を見張って、癖があるのも全然平気なのね、と呟く。今更だが自分はかなりの上戸だ。焼酎なら芋焼酎くらい濃厚なものが好みであり、五十度超えのウイスキーもワンショットならストレートで飲めないことはない。とは言え五、六十ともなると香りよりもアルコールの方が強くなってしまう為に、大抵は水かお湯で割るけれど。
 仕事に影響しないよう調節はするものの、家の冷蔵庫には缶酎ハイもビールも常にある。日本酒よりは焼酎の方が好きだった。自分がここまで左党となってしまった理由は二十歳になったばかりの頃の生活が関係しているのだが、今はあまり思い出したくない過去だ。
「あ、私ウーロンハイ頼んでもいいですか?」
 そう言った桃っちにミブチさんは頷いて注文を終えたようだった。社長はまだウーロン茶が半分以上残っていたのでドリンクは頼まず、陶製のれんげに一口サイズの湯豆腐を乗せて少しずつ食べている。熱いのが苦手なのか、ふうふうと息を吹き掛けている様子をなんとなく可愛いと思ったのは不覚だった。
 その後も化粧品を並べて美容について賑やかに語らっている桃っちとミブチさん。まるで女子会のように二人だけの空間と変化しつつあり、自然、真ん中で分かれてこちらは三人で会話を繰り広げるようになる。この業界においてトップの地位に端然と佇む赤司グループの人間を前に幾度となく緊張を覚えてきたが、いざ本人と話してみると意外にも威圧感は緩和されていった。というよりは寧ろ、彼の方が気を遣ってくれているのだろう。俺が萎縮しないようにくだらないと笑い飛ばせる話題を持ち掛けては冗談を交え、そこで漸くこの人も自分と同い年の、普通の男であることを実感した。
 注文した焼酎はほとんどロックで飲み、たまに加水させてほどほどに注ぐ。ここに着いてから一時間半は経っただろうか。ボトルの中身は既に残り僅かとなっていて、キープ云々の前にもう一本開けることになるかもしれない、と思う。徐々に酒も回ってきて気分が明るくなり、理性はきちんと残っているが思考力は少なからず落ち始めていた。それは酒を口にしていない一人を除き全員が同様の感覚だろう。ふわふわと、浮かれてきている。
 そしてそういう時に――事件は起きるのである。
「あれ? 私のウーロンハイは?」
 ふとそう呟いた桃っちは、先ほどから実際に手の甲に化粧水を塗ったりしている為にミブチさんの隣へと移動していた。つまり俺と赤司征十郎が並ぶ隣には誰も居ない。そんな状況の中、テーブルに犇めく多くの料理を全員がそれぞれ好きに摘まんでいたのだ。自分が取りやすい位置に皿は動かし、そのせいでグラスもいろいろと移動していたことに、誰一人として気付いていなかった。
「このへんに置いたと思うんだけど……」
 桃っちの右手が宙を彷徨う。俺もミブチさんも、そして葉山さんさえ彼女の飲み物の行方がわからなくなっていた。隅々まで探したもののそれでも見つからず、最後の最後でまさか――と周囲の視線が集中する。その先に見えた光景は、最も酒の飲めない人間が一つのドリンクを口にしている様子だった。
 机上にあるのは焼酎のグラスが三つに、ウーロンハイ、加えてウーロン茶だ。後者二つは見た目では区別がつかない。ここまで条件が揃ってしまえば、あとは最悪な事態が起こっていることを想定するまでだろう。
「……せ、征ちゃん、今飲んでるのって……それ……」
 もしかして、とミブチさんが恐る恐る聞こうとしている内容が嫌でもわかってしまい、いっきに四人の頭が冷える。彼の右手にあるものがウーロン茶なのかウーロンハイなのかは飲んでしまった本人にしかわからないが、どのくらい残っていたのかなどの量を把握している桃っちが慌てているところを見る限り、恐らく信じたくない方で当たっていた。
 しかし本人は気付いていないようだった。いや、きっと気付けないのだ。もうアルコールが彼の脳内を犯していて、ことん、と机にグラスを置く動作は随分緩慢になってしまっている。
「だ……大丈夫っスか?」
 あまりの様子の変化に不安を覚え、顔を覗き込むようにして声を掛けた。すると同時に葉山さんが「わ、馬鹿、離れて黄瀬っ」と身を乗り出して俺の行動を制止する。が、それよりも早く、彼がこちらに向いたのだった。
「ん……、黄瀬……?」
 小さく唇を動かしながらとろんとした目で見上げられ、息を呑んだ。いや酒回んの早すぎ、とかほんとに弱いのか、とか瞬間的にあらゆる独り言が頭を駆け巡ったが、何も言葉として発することができない。上気した頬も絶妙な角度で首を傾げる動きも俺としては想定外もいいところであり、何故この数秒間でそこまでの酔い方ができるのか不思議でたまらなかった。だがそんなことは今はどうでもいい。ちょっと、ちょっと待ってくれ。
(こ、れは、ヤバいって……)
 相手の雰囲気に気圧されて後ろに体を引いたが、それが相まってもう一度擦り寄るように、今度は肩に手を置かれてそのまま首に腕を回され、いよいよ意味がわからない。
「え、ちょ……しゃ、社長?」
 どんどん近くなる距離に思わず引き攣った声が漏れる。テーブルを挟んで反対側に居る三人の様子など、把握する余裕もなかった。けれどまぁ大体予想はつくというものだ。彼のことを溺愛しているミブチさんは血の気が引いていることだろうし、だから離れろって言ったのにと葉山さんは頭を抱えているだろうし、桃っちはとにかく唖然としているに違いない。
 俺だって信じられなかった。さっさと突き放せばいいものを、ふ、と眼前で微笑んだ仕草が妙に色っぽく感じて唾を飲み込む始末なのだから。明らかに動悸は速まっている。
 くそ、この酔っ払いが、と漸く割に合った文句を思い浮かべられていた頃には、もう遅かったのだ。
「ま、って」
「黄瀬」
「っ……」
 数センチ離れていた唇が誘うように零の距離感へと変化する。これが全てアルコールのせいだと言うのなら、酒癖が悪いにもほどがあるだろう。さすがに理性も思考も停止しかけている。大手企業の社長に、つい先日出会ったばかりの人間に――いや、何より同い年の男に、キスをされる日が来るなんて。



2013.05.06
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