「よしっ! 飲みに行くよ、きーちゃん!」
 事務所を出るなり桃っちが振り返って拳を上げる。その表情は嬉々として満面の笑みだ。しかし彼女の一歩後ろを歩いていた俺は、長かった一日が漸く終わりを迎えてほっと息をついていたところであり、いきなりの誘いに二つ返事で了承することはできなかった。
「い、いや桃っち、俺明日も仕事……」
「大丈夫よ! 明日は打ち合わせしかないし、大体きーちゃん二日酔いとか全然しないタイプじゃない」
「それはそうっスけどー……って、わかったわかった! 行くから!」
 返事を渋っていると思い切り腕を掴んで強行突破を試みられ、つい勢いで言ってしまう。確かに俺はある程度の量を飲んでも翌日には全く響かない体質である為、断る理由としては早く帰って寝たい、くらいのものだった。が、桃っちもいつもならこんな日に飲みに行こうだなんて滅多に言わない。俺の体調管理を誰よりも気にしている彼女が何故ここまで上機嫌なのか、それは間違いなく社長に褒められたからだ。
 上からの評価を得られて浮かれる現象を無闇に否定する気も起きず、「どこのお店にしようかなあ」と楽しそうな桃っちを見てそれ以上は口を噤むことにした。サングラス越しに見る街中はもう夜も深まっている。そしてちょうど背後に建つ事務所から帰宅する社員が出てきて、お疲れ様です、と挨拶をした時だ。不意に着信音が鳴り響き、まだ店の件で悩んでいる様子の桃っちを横目に、たった今届いたメールを確認した。
 受信ボックスを開くと同時、その送り主の名に驚く。なんだかんだ向こうから連絡が来たのもこれが初めてであり、意外とメールの文面はあっさりしてるんだな、と思いつつ内容を把握。「桃っち、」歩き出そうとした彼女を呼び止めてこう尋ねた。
「飲み会の人数、増えても平気っスか?」


Mr.Perfect / Scene 01 - C part


 『TiPOFF』のオーディション撮影は自分の番が終われば帰ってもいいことになっていて、俺達は撮影が終了した十二時半過ぎには控室に戻っていた。その後メイクルームへ行き衣装をスタイリストに返却、メイクを落とした後に備え付けのシャワールームを借りて髪も洗う。撮影中に少しも崩れなかったヘアも水に濡らして櫛で梳けば簡単に元に戻った。そうしていつも通りの姿となったところで時刻は既に三時ほどを差していただろう。手の空いてそうなスタッフ数人に簡単な挨拶を済ませ、自分達はスタジオを後にした。俺がメイクなどを落としている間、桃っちは控室で別の仕事をしていたらしい。
 そして普段電車で通勤しているマネージャーを助手席に乗せ、車を回してオフィスクオーターへと向かう。確か桃っちは免許を持っていないわけではない。が、ほぼペーパードライバーに近いのだろう。事故なんて起こしたら洒落にならない芸能人に運転を制限する事務所はなかなか多いが、俺達の場合は逆だった。大抵のことは何でもこなせる桃っちも、料理と運転だけは正直見られたものではないのだ。確実に俺が走らせた方が早いし安全。事務所に着いたところでハイブリッドの愛車は厳重に警備が成されている地下駐車場に留め、上の人間に挨拶へ行った。
 その時点で桃っちはもうご機嫌だっただろう。それもそのはず、スタジオを出る際、撮影はちょうど五人目が休憩に入ったところだったらしく、俺達の姿を見たデザイナーの一人がわざわざ声を掛けてきたのだった。自分の記憶が正しければ彼はニューヨークで名を馳せる大手ブランドの出身であり、初老を迎えたくらいの見た目をした品の良い男性である。そんな人間に外国語で話し掛けられ、俺はとても戸惑った。語学には長けていない。というか中学の時から『なんで日本人が英語なんてできなきゃいけないんだよ』とか言ってしまうタイプの学生だったおかげで勉強の出来はお察しの通りだ。相手の言葉が理解できずにあたふたしていると、助け船を出してくれたのはやはり桃っちで。
 流暢な英語を口にしてデザイナーと会話を進ませる様子を茫然と眺める。さすが名門大学卒、などと思いながら隣で立ち尽くすこと数分、二人は名刺交換をし、最後にデザイナーが自分に向かって右手を出してきたので握手を交わすと、男性はスタジオ内へと戻っていった。
「な……何て言われたんスか?」
 様子を見る限りではそんなに悪い話をしているようには思えなかった。しかし会話の内容は全く把握できなかった為、自分達以外に人影のない廊下で一歩後ろから恐る恐る尋ねる。
 もしも文句を言われていたのだったりしたらどうしようかと身構えたが、そんな心境も余所に、桃っちは明るく笑顔を浮かべて振り返った。
「きーちゃん、大成功だよ!」
 その一言と輝きに満ちた双眸を前に理解が追い付かず、「は?」と素っ頓狂な声が零れる。
「さっきの撮影、素晴らしかったって!」
「……え……」
 唖然とした。思いも寄らない言葉に目を丸くして頭の中で幾度も反芻し、けれど何も返すことができない。指先まで力が抜けるような感覚だ。
「ここまで魅力のある日本人モデルは初めて見た、正直侮っていたのが申し訳ないくらいだ、今度は是非うちの服も着てほしい、って言ってたんだよ」
 続けて捲し立てられた桃っちの一言一句がぼんやりと脳裏に反響する。思考が固まって全く動いてくれない。そして暫く咀嚼できずに何回か瞬きを繰り返していると、口を開けたまま言葉が出てこない俺の眼前で桃っちがひらひらと右手を振った。
「きーちゃん、大丈夫? 聞こえてる?」
「あっ、うん、えっと……そ、それ、本当っスか?」
「こんなことで嘘つくわけないでしょ。本当だよ、やったね!」
 いや正直やったねとか言うレベルではない。試験官であるデザイナーに褒められ――更に『今度は』ということは、つまり彼は今回自分が着用した衣装を作ったデザイナーではないことを表している。推薦してもいないモデルに対し、向こうから声を掛けてくるなんてありえるのか。
 確かに後半の撮影で成功した自信はあった。帝光出版のあの人と会話をした後は驚くほど気分が軽くなったし、モデルの調子が良ければ自然とカメラの切り方も早くなる。最初の段階では百五十カットを目指していたところ、結局百七十を超えたとカメラマンから聞いて自分でもびっくりしたくらいだ。カット数から判断すれば恐らく自己最高記録だが、とは言え合否が出たわけではない。あまり自惚れるのは良くないだろうと、調子に乗らないよう気を付けていたのだが。
(……うわ、うわー……ちょっと待って……)
 こんなに上手い話があっていいのだろうかと疑ってしまうほど、本音を言うと、嬉しすぎる。
「ふふ、泣いてもいいんだよ」
「な、泣かないっスよ! まだ結果も出てないし!」
「なぁんだ」
 そう笑う桃っちを見てよっぽど顔に出ているのだと自覚し慌てたが、この感じは久しぶりだった。オーディションを受け、誰かに認められ、心の底から喜びが湧き上がる。世間の人気を得るまでの自分は、日々そのことだけを糧に仕事に励んでいた。もちろん連続する失敗に苛まれた経験もある。けれど二十歳にもなる前は一つ合格する度に涙を流していたことを思い出し、まるで初心に帰ったように、しかし気恥ずかしさから今は涙腺を抑えることに必死だ。
「最初の三十分は作戦のうちだったのか? とも言われたけどね」
「あはは……」
 痛いところを突かれてしまい誤魔化すように笑む。桃っちはおどけているが、目も当てられない前半についてはいろいろと反省しているのだ。もし機会があれば助言を与えてくれた彼にも礼を言いたいと思っている。
 また会えるだろうか。仕事がなければ会ってくれなさそうだ、と考えを巡らせていると、思い出したように桃っちが左手に持っていた一枚の紙を差し出してきた。受け取って視線を落とせば、先ほどデザイナーから頂いた名刺。彼女へ渡すと同時に俺の分もくれたのだろう。
「普段はフリーのデザイナーみたいだけど、一応企業と契約はしてるのね」
 シンプルな名刺を見ながら桃っちがそう呟く。大きな文字で主張されたデザイナーの名の下に、それらしき単語が記されていた。
 『IRIS VILLAGE』――アイリス・ビレッジ、無意識のうちに読み上げる。
「んー……なんか聞いたことあるような、ないような……」
「私も彼が昔所属してたブランドはわかるけど、ここはよく知らないわ。でも彼自身は超有名デザイナー。そんな人間と契約を結べたっていうことは過去の業績か、未来の期待か……」
「でも老舗じゃなさそうっスよね」
 完全に相手を分析する仕事の顔付きへと変化した桃っちは、俺の言葉に無言で頷いた。つまり後者、未来に期待されるような人材が揃っている企業ということである。
 この業界に身を置いている以上、海外ブランドの有名どころについては創業から変動、改革、あるいは倒産までそれなりに押さえているつもりだ。が、この先関わっていくのは大手のみとは限らない。いい加減自分も知識を増やさなければと心に刻むものの、手元に資料がない今の時点では何を言っても憶測になってしまうだろう。
「これについては俺も調べとくから、とりあえず事務所、行かないっスか?」
 黙々と考え込んでいる桃っちにそう声を掛けると、彼女はやっとデータの世界から戻ってきたように普段通りの笑顔を見せた。


 スタジオから事務所までは一時間弱で到着し、社長室を訪ねる前に廊下でばったり会った先輩モデル達に挨拶をする。『TiPOFF』の話は自分と桃っち、そして一部の上司にしか知らされていないが、俺が何らかのオーディションを受けてきたということは広まっていたらしい。お疲れという言葉と共に、ちゃんと合格してきたんだろうな、と笑いながらも圧を掛けてくる様子は見慣れたものだ。一緒に飲みに行くことはよくあるし昔から頼りにしている先輩方だが、オフィスクオーターの上下関係はそれなりにはっきりと位置付けられている。そういう環境だからこそ、自分は世渡りが上手くなったのかもしれない。
 社長室へ行く旨を口にすると先輩のうちの一人が「社長なら今出てるよ」と教えてくれた。けれど夜には帰ってくるそうだ。一歩下がって話を聞いていた桃っちがそれを耳にするなり「きーちゃん帰って休んでる? 報告なら私がしておくよ」と提案してきたが、疲れているのは彼女も同様である。いくらマネージャーとは言え自分のことを全て任せる気にはなれず、社長が戻ってくるまで俺も残ることを言い、先輩とはそこで別れた。
 事務所には多くのファッション誌が揃えられている。過去に帝光出版によって発刊された雑誌も余すところなく保管してあり、数冊を手に取って読みながら暇を潰した。やはり海外のアパレルに比重を置いているのは創設当時からのようで、今日の試験官として顔を出したデザイナーが関わった作品も少なくない。俺も何度か帝光出版発行のファッション誌に写ったことはある。が、どれもその号のみの特集という形であった為、深く接したことは今までに一度もなかった。
「桃っちは帝光出版のこと、よく知ってるんスか?」
 視線を上げ、向かいの席でノートパソコンを開き仕事している彼女にそう尋ねる。あそこには『テツ君』が居るらしいからきっと詳しいだろうと思ったが、意外にも彼女はすんなりと頷かなかった。
「ううん、表面的なデータしかわからないわ。『TiPOFF』の話が来るまでは就活の時にミドリンがご執心だったから、そのついでに調べたくらいで」
「ミドリン?」
「あ、大学の同級生なんだけどね」
 名前だけでは相手が男なのか女なのかさえ判断できなかったものの、桃っちの口からは初めて聞く呼び名だ。そうなんスか、と相槌を打ったところで会話が途絶える。作業に集中している時の彼女はあまり口を動かさないし、俺は俺で目の前のファッション誌を夢中になって読み込んでしまっていた。ふとしたタイミングで軽く言葉をかわして沈黙が流れ、それを繰り返している間に日は沈んでいく。
 事務所に着いて数時間は経過しただろうか。スタジオを出ると同時に桃っちから貰ったコーヒーを飲み干し、雑誌を片付けつつ席を立った。そして部屋の隅に置いてあるごみ箱へ空き缶を捨てに行くと、ちょうど窓の外に社長の車。目当ての人物が戻ってきた旨を桃っちに伝え、「じゃあきーちゃんの功績、報告しに行かないとね」という一言に笑い返してマネージャーと最上階の社長室へ向かった。
 アイリス・ビレッジについて上には何も告げていない。桃っちと車内で話し合った結果、一応『TiPOFF』の合否が出るまでは本件以外のことを口外しない方がいいだろうと取り決めたのだ。その為、撮影の情報と手ごたえのみを簡単に並べ、とても機嫌が良さそうに頷く相手の様子に安堵する。前半に関してはまさか失敗しましたなんて馬鹿正直に口にすることなどできなかった。慎重に言葉を選んで濁してしまったが、結果が伴えば問題はないだろう。つまるところ自分は合格できると遠回しに豪語したわけであり、これで落ちたら本当にどうしようもない。
「よくやった」
 けれど社長は確かにそう言ったのだった。報告も程々に息苦しいこの部屋から去ろうとした時だ。実際に撮影を見たわけではないというのに恐らくこちらの表情だけで判断したのだろう、俺は一瞬目を見開き、同時に彼にはまるで結果が見えているようだと内心で感嘆する。伊達に長年この事務所を経営し、多くのスーパースターを生んではいないらしい。
 最後に桃っちと並んで頭を下げ、社長室を後にする。
「お疲れ様。長い一日だったね」
 完全に自分達しか居なくなったところで彼女はそう言った。その言葉を咀嚼しながら閉められた扉に背中を預け、胸の内に溜まっていたプレッシャーや疲労を全て吐き出すように深く息をつく。やっと、今日が終わったのだ。
「桃っちもお疲れ。はー……もう暫くオーディションは遠慮するっス」
「勿体ない。いくらでも仕事はあるんだよ?」
「えぇ……いつからそんな鬼マネージャーになったんスか」
「脱ゆとり教育、なんてね」
 勘弁してください、と口には出さず苦笑した。
 自分と同じく桃っちの顔にも多分の疲労が窺えたが、それでも社長の上機嫌さが移ったかのように満足げだ。いろいろあったけれど結果オーライということでいいだろう。そうして鞄からサングラスを取り出し、大きく伸びをしながら事務所を背後に、冒頭に戻る。


「でも驚いたわ。実渕さんからお誘いが来るなんて」
 しんしんと夜が更ける中、人通りの少ない路地で桃っちが呟く。何度かメールでやり取りをした後、ミブチさんが迎えに来てくれるそうなので待機しているところだ。向こうのおすすめの店に連れて行ってくれるらしい。明日の打ち合わせには事務所が契約しているタクシー会社を利用しようと思い、自分の車は一晩地下駐車場に置いておくことにした。
 本当は事務所の前まで迎えに行くと言われたのだが、あそこは大通りに面している為、人目に付きやすい。目元を隠しているだけの俺は完璧に変装ができているわけではないし、一つ角を曲がったこのあたりは大分閑散としている。十五分で着くから、と返信が来てからもうそろそろその時間になるだろう。
「そうっスね。あー、緊張する……」
「実渕さんも葉山さんも年上だもんね」
 その通り、たかが一歳差、されど一歳差だ。何より葉山さんは今回の仕事で初めて関わった人である。二人揃ってお堅い人間ではないことが唯一の救いといったところであり、しかしオーディションとは別の意味の緊張を覚えながら深呼吸をしていると、奥の曲がり角から一台の車が姿を現した。
「あれかな」
 桃っちが指を差しながら口にする。煌々と輝くヘッドライトが夜道を照らし、自分達の前に停車したそのミニバンで間違いはなさそうだ。サングラスを外して鞄へと仕舞った。
「お待たせしてごめんなさいね」
 運転席のドアが開き、中からメールの送り主が降りてくる。
「いえ、全然。こちらこそ誘って頂いてありがとうございました」
 真っ先にマネージャーが口を開いて礼を告げた。実際、このくらいの待ち時間がなければ心の準備もできなかったのだと思うと、申し訳ないがここで落ち合うこととなってちょうど良かったのかもしれない。
「わざわざ迎えに来てもらっちゃってすみません、ミブチさん」
「いいのよ。どうせお店と方向は一緒だったし、それに……いろいろ聞きたいこともあるしね」
 そう言うなり彼は目を細めて俺の方をじっと見据える。その目力の強さに加え、聞きたいことの中身が思い当たらず言葉に詰まらせた。けれど何を返す間もなく、後方のパワーウィンドウがゆっくりと下がる。
「お疲れー、二人とも!」
「葉山さん、お疲れ様っス」
「お疲れ様でした」
 慌てて頭を下げれば「そんな堅くならなくていーよ、もう仕事は終わったんだから」と笑われてしまう。が、そう簡単に姿勢を崩すこともできず、やんわりと苦笑するのみに留まった。
 そして窓から顔を覗かせるだけの葉山さんが、身を乗り出すようにしてミブチさんに声を掛ける。
「レオ姉、あんまり黄瀬のこといじめちゃ駄目だよ」
 ……え、俺? いじ……え?
「いじめないわよ!」
「どーだか。男の嫉妬は醜いぜー」
「もうあんたは黙ってなさい」
「あ、あの……俺、なんかしたっスか?」
 恐る恐る尋ねると、葉山さんはいつもと変わらない明るい笑顔でこう答えた。
「んーん、気にしないで気にしないで、ただの私怨だから!」
「私怨!?」
 尚更何をやらかしたのか気になるだろ。とは言えメイクルームで会った時は全く問題はなかったと思っていいだろうし、撮影中も彼らとは顔を合わせていない。自分がミブチさんに対して失態を犯したような場面はないはずだと焦って思考を巡らした。
 ところがそんな思案も束の間、ばたん、と車のドアが開閉する音が聞こえてくる。車道側の助手席から人が降りたということはわかったものの、車高のせいでその姿は視界に入らない。誰が乗っていたのか考えながら口を噤んでいると、後ろから回ってこちらへと向かってきた人物に俺は目を見張った。
「疲れてるところいきなり呼び出して悪いな、黄瀬、桃井」
 暗闇にもしっかりと映える、あの赤だ。
「え……な、なんで、あんたまで居るんスか」
「は? 玲央から聞かなかったのか?」
 どういうことだ、聞いていない。最初に届いたメールには『今から私とスタイリストと飲みに行かない?』の一文しか記されていなかった。それからスタイリストが葉山さんを指していることは確認を取ったが、この人の名前なんて一度も挙がらなかったのだ。
 まだ慣れない関係である為に、そのことに妙に安心したような、けれども心なしか残念にも感じたような、複雑な感情を押し殺していたというのに。
「……玲央?」
「だ、だって征ちゃんがあんまり嬉しそうに黄瀬ちゃんに会いたいなんて言うから」
「早速嫉妬してんじゃん」
 理解が追い付かない。眉根を寄せている彼に対し焦って弁解を並べているらしいミブチさんも、その様子を呆れ顔で見ている葉山さんの言葉も。ただこの聴覚は都合良く、俺に会いたいという部分だけ聞き取ってしまう。そして茫然としながらもわかりやすいほどに喜ぶ心臓が我ながらおかしく、緩みそうになる口元を引き締めた。
 当然、自分と同様に桃っちも驚きを隠せていない。すると一歩俺達の方へ近寄り、申し訳なさそうに眉を下げて彼は謝る。
「連絡が不十分だったようですまない。僕も同席して構わないだろうか?」
「えっ、全然大丈夫っスよ! ね、桃っち」
 急に俺だけが舞い上がっているのではと感じてしまい、慌てて桃っちにも話を振った。「もちろん!」と頷いた彼女を見てほっと表情が和らいだのは相手だけではなく自分もだ。俺だって仕事とは別に会ってみたいと思っていなかったわけではないが、あまりに露骨に起伏する感情はまるでうぶな恋心のようで、まさか認めることなどできなかった。違う、俺は撮影の時に助けてもらった礼を言いたくて、だから会いたかったのだ。それ以外に意味なんてない、と。
「玲央にはアトリエに帰ったらヘアメイクの課題を追加するからな」
「え、いや、征ちゃん、私帰っても仕事が」
「言い訳は認めない」
 きっぱりと断言した態度からしてミブチさんには相当ご立腹らしい。
「まぁまぁ二人ともそのへんにして、早く行こうよ。俺おなかすいちゃった」
 我慢の限界とでも言うようにそう促すスタイリストを見やり、ミブチさんが俺と桃っちを車に乗るようドアを開ける。恐らくレディーファーストなのだろう、後方から車が来ていないか確認しながら桃っちを助手席の方に案内し、その間に葉山さんはミニバンの三列目へ移動した。すると必然的に残された俺ともう一人が二列目のベンチシートに座ることとなり。
(まさかの社長さんと隣……)
 いや、三人掛けのシートでお互い両端に座った為に一人分の距離はある。が、こうなるとは予想だにしていなかったのだ。少しは緊張もするだろう。
「じゃ、予定通り私達おすすめの飲み屋でいいかしら」
 エンジンを掛けたミブチさんのその言葉にはっと意識を戻され、お願いします、と桃っちと共に返せば緩やかに走行し始めた。それと同時に乗車してから感じていた違和感を口にする。
「左ハンドルなんスね」
 停車していた時は車の中にまで目が行かずに気付かなかったものの、助手席に座った桃っちも同じく気になっていたらしい。「私、初めて見ました」運転席を観察する目はきっと興味の色に満ちていることだろう。
「パリはこっちが主流だからね。帰国しても右に直すよりこのまま左側通行に慣れた方が早かったのよ」
「へえ……じゃあこれ外車っスか?」
「外車っていうか逆輸入車。大変よ、修理もメンテナンスも国内のディーラーじゃほとんどやってくれないから」
 大袈裟に溜息をついて説明され、海外で長く暮らすとやはり日本での生活が不便に思うこともあるのかと考える。俺も左ハンドルを実際に目にしたのは初めてだ。運転席の真後ろに座っている自分から見てもこれでは追い越しや右折が怖く感じるが、慣れさえすれば本来と大差はないのかもしれない。
「レオ姉は右でも普通に運転できるんだから変えればっていつも言ってんのにさー」
 不意に後部座席から顔を出した葉山さんがそう口を挟む。
「この車、車高制限もよく引っ掛かるじゃん」
「うるさいわね、これくらい大きい方がメイク道具を乗せるのに便利なの。大体あんたとか永吉の荷物も積んでやってるんだから文句言わない!」
 その言葉を聞いて首だけ後ろに向けると、なるほど、葉山さんの座る脇にいろいろな物が積み上げて置いてある。彼らがアトリエRAKUZANの京都支部から来ているとは知っていたが、どうやら新幹線などは利用していないらしい。確かにこの荷物を車を使わずに全て持ってくるのは大変そうだ。
 それから葉山さんが免許を持っていないことだったりパリの交通事情だったり、いろいろと話は飛んだ。けれど一向に赤髪の彼は喋ろうとしない。俺の隣に着座して数分、窓の枠に頬杖を突いてずっと外を眺めている。つまらないのか疲れているのかわからないし、できればどちらであってほしくもなかったが、なんとなくそっちが気になってつい盗み見てしまっていた。物静かな人だ。自分とは正反対とも言えるほど落ち着きを纏った雰囲気が、やけに印象に残る。
 暫くミブチさんとの会話に混ざることも忘れてまたしても目を奪われていたのだろう。ふと、景色から視線を外して自分の方を見た両の瞳に息を詰まらせた。
「何かな」
 小首を傾げて尋ねられる。気付かれないように見ていたはずが普通にバレていたらしい。あ、いえ、なんでもないです。周りに聞こえないくらいの声量でしどろもどろに答えると、明らかに動揺している様子からか小さく笑われてしまった。
 それが自分の失態を見抜かれたようで心なしか恥ずかしくもなり、今度は俺が過ぎ去る光景に目線を向けて意識を逸らす破目に。少し俯けば垂れた前髪のおかげで視界が狭まり、調子を取り戻せ、となんとか己に言い聞かせた。毎度毎度こちらのペースを崩されていては堪らない。
 事務所周辺の地理はそれなりに理解しているつもりだったが、今この車が走っている道はさっぱり知らなかった。恐らく大路の渋滞に巻き込まれない為に裏道を選んでいるのだと思う。閑静な住宅街はなかなか入り組んでいて、一人では来ることができないだろうなと考えた時だ。
「あ、征ちゃん!」
 いきなり運転席から声が上がる。何事かと反応したのは俺だけではなかったようで、呼ばれた張本人も一瞬驚いたのがわかった。
「何だ、玲央」
「足! 組んだらダメっていつも言ってるじゃない」
 バックミラー越しに背後の状況が目に入ったらしく、思った以上に必死な形相でヘアメイクアーティストは訴える。その一言に「何かと思えば、そんなことか……」と半ば呆れながら呟いた彼は言葉通り足を組んで座っていて、俺から見れば特に違和感はなかったが。
「大事なことよ。せっかく良いプロポーションなのに骨盤が歪んだら勿体ないもの」
 彼の言い分は理解できた。こういう職に就いている以上、体型については昔から厳しく指導されている。足を組むという姿勢は背骨の歪みに繋がり、腰回りのバランスが崩れやすいのだ。とは言えどうしても治せない人間も居るあまり、モデルの中でも整体院に通い、骨盤矯正を行うよう助言を貰ったという経験談は少なくない。
「やっぱり体勢とか気にするんですね」
「もちろん。桃井ちゃんも素敵な容姿なんだから、気を付けなきゃ駄目よ」
「レオ姉それセクハラ発言」
「玲央なら許される気もするがな」
「なっ……人聞きが悪いわね、セクハラじゃなくて美容に携わる者として当然のことを言ったまでよ!」
 三人のやり取りに俺も桃っちも笑ってしまい、その間にもミブチさんは嘆かわしそうに言葉を続けた。
「もう、征ちゃんには学生の頃からずっと注意してるのに、全然治さないんだもの……本当に勿体ない」
 学生時代より友人ということはこの二人は仕事で知り合ったわけじゃないのか、と少し意外に感じる。あまり反りが合うようには思えないが、それだけ技術面や実力で信頼し合っていると判断していいのだろう。
「だから言われた通り右足と左足を交互に替えて組むようにしてるじゃないか」
「それでプラマイゼロになったわけじゃないのよ! せめてもの対策ってだけで!」
「十分だ」
 目を伏せて言い切った口振りに容赦はなく、きっとこんな会話を今までにも繰り返してきたに違いない。業界の中では有名人であっても芸能人ではない彼が自分のスタイルに拘ろうとしないのはわかるが、溜息を零して肩を落としたミブチさんはそれでも諦め切れないらしかった。
「私が過去に出会った一般人の男性で、征ちゃんほど綺麗な子は見たことないんだから。絶対に維持するべきよ。ねえ、そう思うでしょ、黄瀬ちゃん」
「えっ」
 だからと言って俺に話を振ることはないだろう。
「え、と……」
 これは間違いなく同意を求められてる。が、一体どれを指しているんだ。今のプロポーションを崩すな云々か、骨盤の歪みにおける知識についてなのか、それとも、彼以上に綺麗な人は見たことがないという言葉か。あるいは全部なのかもしれないとコンマ二秒の間にあらゆる思考を巡らせた。けれど結論には辿り着かない上、なんだこの俺の返事に全てが掛かっているみたいな空気は。
「いや、まあ、俺は専門医じゃないしよくわかんないっスけど……でも、せっかく美人なんだから、とは……」
 思うかな。――と、結局深く考えないまま口を開いたら自分の頭でも予想していなかった台詞が零れた。目上の人間には賛同すべし、なんて思ってはいたが、別にここまで同調する必要はなかったはずだ。無意識のうちに吐いた一言がよくよく考えてみればなかなか恥ずかしいものだったんじゃないかと、一瞬流れた沈黙によって嫌でも実感する。
 最後の方で萎んだ声量や濁し方のせいで尚更生々しく聞こえしまい、穴があったらなんとやらとはまさにこのことである。
(……美人って……言った、よな、俺)
 反芻すればするほど口を衝いて出た言葉に我ながら衝撃を受けていた。文字にすればたったの二文字だ。しかし俺は今までに一度も、モデル仲間に対してさえ、お世辞ではなく声に出して他人の容姿を褒めたことなどなかった。なんとなくプライドが許さないというのもあったし、実際、心の底からそう認めた人間はかなり限られている。この人に関してだって、確かに初めて会った時から整った顔立ちだとは思っていたが、それにしても。
 唯一の救いは周囲が俺の発言に対して何ら違和感を覚えていないところだった。「ほらね!」と同意を得られたミブチさんは気分も上々、桃っちからも異論は返されないし、葉山さんに至っては特に興味がないようだ。自分の返事が特別浮いたわけではないことにとりあえず胸を撫で下ろしたものの、肝心の本人はどう感じたのだろうかと、ちらりと見やれば。
 再び窓の方を向いてしまっていた為に表情は窺えず、相変わらず足を崩そうともしない。ところが髪の間から覗く左耳が少し赤くなっているのは、多分、気のせいでも錯覚でもないだろう。
 意外な反応に少々面食らったがそれ以上に、相手の羞恥が自分に移ったかのようにたちまち顔が熱くなるのが否が応でもわかる。
(なんか言えっつーの……)
 俺だけが恥ずかしい思いをしたみたいだ。全く理不尽な文句を胸中で零しながら、その後はもう、二人の間に流れ続ける生ぬるい沈黙を耐えるしかなかった。



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