運動神経が良いのは昔からだった。百メートル走では常に学年一のタイムを叩き出し、運動会の時には当然のようにリレーの選手に選ばれ、水泳だって四種目全てが完璧だったし、鉄棒は空中前回りもグライダーも余裕、跳び箱では軽やかに八段を跳び、球技においては何であってもチームメイトに頼られない日はなかった。小学生の頃には既にそういった面が学校中に知れ渡っていた為、幼い女子にはよくある『スポーツができる男子が好き』というパターン通りに人気を得ていたわけだ。
 とは言え中学に上がると途端に顔も重視される。が、それこそオレからすれば大した問題ではない。案の定モデルの仕事を始めたことが噂になったあたりから注目度はぐんと伸び、持ち前の明るさと女の子への優しさやら何やらを組み合わせれば向かうところ敵なしとはまさにこのことである。どこへ行ってもちやほやされ、もちろん男子に妬まれた経験はあったが女子が味方をしてくれる(というか勝手に庇ってくる)おかげで特に苦しんだ覚えはなかった。一部の同性を除いては普通に男友達もできたし、目上の人間に気に入られるくらいの処世術は心得ている。家もごく普通の一般家庭だ。そして何より、半年前に入部したバスケ部においても早くもレギュラーの位置を掴み取り、オレの人生は順風満帆に十四年が過ぎようとしていた――はずだった。

 ところが近頃どうもおかしい。

「はい、えー、付属語の品詞には活用できる助動詞と活用できない助詞がありー」
 間延びした喋り方で授業を進める国語の教師は、この一時間が生徒にとってどれほど退屈なものであるかわかっているのだろうか。隠れて手紙交換をしている周囲の女子や科目の違う塾の宿題をこっそり広げている友達、机に突っ伏したまま夢の中な男子生徒も、全く見慣れた光景だ。右隣を一瞥すれば紫原っちも堂々と棒付きの飴を舐めている始末。まさか教卓から見えていないわけではないだろうが、注意しても無駄だということは同時に理解しているらしい。
 かく言うオレも先ほどからずっと窓の外を眺めていて、文法事項が連なった黒板になどろくに興味を持っていなかった。俺が気になってやまないのは校庭の様子だ。国語は嫌いだけれど、この時間――水曜の二限は好きである。理由なんてたった一つ、体育の授業を受けているあの人の姿を見れるからだ。
(赤司っちのクラスはもう陸上なんだ……)
 グラウンドの隅に備え付けられている体育倉庫の周囲で、陸上競技に必要な器具を出している数十人の影が目に入る。俺達のクラスは体育が月曜にあり祝日と重なることが多く授業が潰れやすい為、まだ前の単元のテニスが終わっていない。もちろん自分はテニス部の同級生のプレーを見て一瞬で習得できてしまったわけだが、先週までの記憶を辿る限り赤司っちはテニスもほぼ完璧だった。それも俺のようにコピーをしているのではない。恐らく自分で教科書を読んでコツを掴み結局試合においても勝利してしまう凄さは、三階のこの教室から幾度となく目にしている。きっとああいう人が本物の天才なのだろう。
 右手でくるくるとシャーペンを回しながら目的の人物を探した。これだけ距離が遠いと見つかりづらいと思われるかもしれないがそんなことはなく、あの真っ赤な色はどこに居たって映えるのだ。
――見つけた、と不覚にも口元が緩むのを隠すべく、ペン回しを止めて頬杖を突く。
 幅跳び用の砂慣らしを終えた後、きょろきょろと辺りを見渡してそれから駆け足で倉庫の方に向かう赤司っち。話し掛けた相手はクラスの女子だ。多分、特別に仲が良いというような関係ではない。けれどその見知らぬ女生徒はハードルを両手に一個ずつ持っていて、かなり歩きにくそうにしていた。
『一つ持とうか?』
 とか、そんなことを言ってるんだろうなあ、と考える。当然自分の憶測でしかないが、赤司っちと一人の女子の様子を見る限り勝手なアフレコは少なからず当たっているようだった。
『えっ、いいの? ごめんね』
『謝るようなことじゃないよ。これ、結構重いし、女性が多く持つのは大変だろう』
『あ、ありがとう』
 みたいな会話をしているに違いない。赤司っちは女の子に対してはやたらと紳士的で、ほら早速、今の二人を目撃した他の女子達が遠巻きに騒ぎ立てている。一部では赤司様なんて呼ばれていることを本人は知っているのだろうか。
 勉強もスポーツもオールマイティーに完璧、かと言ってそれを自慢げに言い触らしているわけでもなく、ただ自分のやるべきことを淡々とこなす。その上で超強豪と呼ばれる我が帝光バスケ部の主将を担い、家は代々続く豪邸らしい。加えて容姿も申し分ない美形ぶりだ。オレがファンに持て囃されるような人気の得方とは違う、彼には彼だけの整然とした魅力があるのだろう。
 そう思い始めたのはつい最近だった。席替えをして窓際の一番後ろの席になり、こうやって赤司っちを目で追う回数が増えてからだ。初めはただの暇潰しだったつもりが、次第にいろいろな感情を覚え出した心臓は忙しなく動くようになっていった。
 例えばあの人は、オレも知らないクラスの男子と話している時に意外と柔らかい表情を見せたりする。ああオレ以外の前でもあんな風に笑うのか――と、自分でもおかしいくらい幼稚な嫉妬が自覚のきっかけだっただろう。赤司っちなんてただの部活の仲間、友人、その程度の関係でしかないのに、どんな高望みだと自分の心を抑え付けることに必死だった。
 あの人はバスケ部だけの人間でもなければ、ましてやオレのものでもないのだ。
(順風満帆な人生、に、終止符……と……)
 男に恋をしたとわかった時点でオレの脳内を駆け巡った一言だった。
――あ、こっち見た。
 しかしイレギュラーな恋心に我ながら凹んだかと思いきや目が合っただけでこのテンションの上がり様である。救いようもない。準備をし終えて夏の日差しに目を眇めた赤司っちが、不意にオレの方を見上げることによって視線が絡み合う。
 何回か、今みたいに向こうがこちらを仰ぎ見ることはあった。オレが窓際の席だと知っているからだろう。そして自分もまさか一時間ずっと視界に収めているとは思われないよう、たまたま目が合った風を装う。そういう時は小さく笑ってひらひらと手を振るのが常だ。が、今日はなんとなく、方法を変えることにした。右手で指鉄砲の形を作り人差し指を赤司っちの方に向け、ばーん、と口パクしながら撃ってみる。もちろん周囲にはバレないよう最小限の動きで。
 するとそれを受けた赤司っちは一瞬面食らったように目を見開いた。そして何がおかしいのやら、珍しく口元を手で押さえながら笑いを堪えている。
(いやそんな笑うところじゃないんスけど)
 なんてひどい反応だ。そう突っ込みつつも、校庭に佇む赤司っちがなんだか嬉しそうに笑っているものだから、まぁいいかと思い直すのだ。


「黄瀬ちん気持ち悪いよ」
「はい!?」
 午前の授業が終わり昼ご飯の時間となった途端、食堂へ向かいながら紫原っちにそう言われた。何の脈絡もない悪口に、なんでっスか、と苦笑を浮かべる。
「だってさー、授業中、ずっとにやけてんだもん」
 そしてどんな返答が寄越されるかと思えばこれまた想定外の発言に息が詰まった。この人はお菓子のことしか考えていないように見えて、案外周りを注視しているのだ。授業中ずっとと言っても恐らく今日の二限だけだろうが、まさか馬鹿正直に認めるわけにはいかない。
「そ……そんなことないっスよ」
「あるよ。いつも何見てんの?」
 さすがに隣の席からはバレバレということか。
「何も見てないっス」
「見てる」
「見てない」
「見ーてーる!」
「見てないっス!」
 埒の明かない言葉の応酬を続けるうちに両者ともだんだんと声量が大きくなっていく。俺も紫原っちも一度自分の意見を主張するとなかなか引かない頑固者だ。結論から言えば紫原っちの方が正しいとは言え、自分にだって隠す権利くらいあるはずだろう。
 見てる、見てない、と全校生徒が自由に往来する昼休みの廊下にて、自分達の小さな口論が徐々に目立ち始めた時だった。
「どうしたんだ、二人とも」
 不意にそう声を掛けられ、言い合いがぴたりと止む。聞き覚えのありすぎる声色にオレは肩を強張らせた。そして恐る恐る振り返ると、廊下で騒いでいたからか不快そうに眉を顰めた彼がもう一度問い尋ねる。
「何かあったのか?」
 ええありましたよアンタのことでね。なんて独り言は内心で留めておき、そうしている間にも「赤ちん、」と名を呼んだ紫原っちが先に口を開いた。だが忘れていたのだ。紫原っちは基本的に、主将の前ではなんでもかんでも素直に話してしまうということを。
「なんか黄瀬ちんがね、ずーっとにやけてんの」
「ちょ、待って待って紫原っち」
 身も蓋もないし授業中という部分が消えたおかげでただの不審者みたいになってる。
「にやけてる?」
「ちがっ、違うんスよ! これには深いわけが……っていうかにやけてないっス!」
「何言ってんの。今日の二限とかさー、ずっと窓の外見て」
「ストップ! ストップ! お菓子あげるからそれ以上言わないで!」
 なんだこれは確信犯か。恐ろしい。「え、お菓子?」と目を輝かせ、漸く俺の話から意識を逸らした様子にとりあえずほっとした。それから今朝桃っちに貰ったキャンディーをポケットに入れていたことを思い出し、溜息を吐きつつ紫原っちに手渡す。桃っちに大感謝、というよりはお菓子様様だ。
 しかし問題が解決したわけではない。大声で言葉を遮ったはいいが、きっと『二限』は聞こえていただろう。その証拠に、ちらりと赤司っちの方に瞳を向ければ驚いたように丸くしたままの目と視線が絡んだものの、すぐに表情を変えて彼は控えめに笑った。はいはいバレてますよね。この人に隠し事をするのは相当難しいどころか自分にもできない。
「詳しくは知らないが、授業はちゃんと受けろよ」
 嘘をつけ、全部わかっているくせに。全てを悟ったようにオレの肩を軽く叩きながらそう言い、赤司っちは食堂へと向かっていく。触られたところが心なしか熱く、これは重症だと、改めて確認する必要さえなかった。


 近頃どうもおかしい、それは正確にはオレが赤司っちに恋愛感情を覚えたことじゃない。多分だ。多分だが、あの人はオレにそう想われていることを、わかっている。おかしいと思い始めた対象は向こうがこちらの内情を大方把握しているのだろうに何も言ってこない――その現状である。自分が態度に出やすいのか赤司っちが敏過ぎるのか、はたまたその両方が合わさったからなのかは知り得ないが、こんな片想いを黙認されるとは思っていなかった。
 オレだって勉強は苦手だが馬鹿ではない。順風満帆な人生を取り戻す為には一時的な気の迷いだろうと感情の処分が最も手っ取り早いと理解しているのに、相手に知られていてはどうしようもなかった。もちろん本人に確認を取ったわけでもないとは言え、誰が誰を好き、誰々くんは誰々ちゃんに慕われている、などの一言に始まり『付き合い始めた』だの『別れた』だの、あらゆる恋愛に巻き込まれてきた自分はなんとなく気付いていた。
 赤司っちはきっと、オレが行動を起こすのを待っている。
 ……いや、今のはちょっと話を盛ったな。半分くらいは自惚れないし願望だ。正しく言うなら、彼は次にオレが何をするのか、何を考えているのか、ただ楽しんでいるだけだろう。笑みを浮かべ、興味を持っているようなふりをして。自分が生まれて初めて本気で好きになった相手は清廉潔白に見えて実のところ随分とタチの悪い性格をしていた。男同士なんて気持ちが悪いと向こうから切ってくれれば、ここまでの苦労はしなかったのに。
「……半端に受け入れると、付け上がるっスよ、オレ」
 本人の前ではまさか言うことのできない独り言を零す。


 最近全然、目が合わないな。
 あれから二週間、昼休みに自販機で缶入りの紅茶を買い、校舎裏のベンチに座って休憩していたところでそう声が聞こえてきた。なぜ赤司っちはいつもいつも突然姿を現すのだろうか。神出鬼没にもほどがある。
 缶の縁から口を離して肩越しに後ろを見ると、「もしかして避けられてる?」なんて言いながらオレの右隣に座ってくるので、少し左に詰める。
「避けてなんかないっスよ」
「そうかな。その割には、水曜の二限がすごく退屈だけど」
 わざとらしく返された言葉に内心で舌打ちをした。赤司っちのことを特段避けているつもりはないが、あえて躱していた話題を持ち出す必要はないだろう。そりゃあ、あんな風にバレてしまって性懲りもなく見ていられるほど自分は単純じゃない。意識を逸らすことを意識し始めたオレは、あの国語の授業において二週連続で睡眠をとっていた。おかげで女の子に話し掛けているところも、軽やかにハードルを跳ぶ姿も、もう暫くこの目では見ていない。
 今の時間もいつもなら食堂でみんなと一緒に昼食をとるけれど、飲み物を忘れた時点でここで買おうと思っていた。それからちょっと椅子に座って足休めをしていただけであり、食堂に居るはずだったこの人から無意識に避ける行動を取っていた、なんてことでは断じてない。
 校舎裏というのは穴場だ。周りに自分達以外の人影は見当たらず、少し離れた渡り廊下で賑わった声が響いている程度である。そんな中でどちらともなく黙り込んでしまい、気まずい沈黙が流れ、オレは紅茶を飲み進めるしかなかった。
 すると不意に赤司っちが、前を見据えたままゆっくりと呟く。
「体育の時間、好きだったんだけどな。内緒の会話をしているみたいで」
 そう告げこちらに向いて笑う表情に、オレが何度心を悩ませたかわかっているのだろうか。赤司っちの言葉一つで簡単に舞い上がれる自分が憎くて堪らない。
「……ねえ、どこまで自惚れていいんスか」
 本人の目を見て聞く勇気まではなかった。紅茶をベンチの隅に置き、俯きながら尋ねる。自分から言ったら負けのような気もしたが、最初からこの人に勝てなどしないのだ。さっさと解決法を見つけてはっきりさせてしまおうと、ここまで来て思考は大分自棄になっていた。
 しかし赤司っちの返事はなく、まさかこの期に及んで何の話だととぼけるつもりじゃないだろうなと思ったオレは、お望み通り行動を起こすことにした。体の向きを変えて赤司っちに口づける寸前、鼻先が触れ合いそうなくらいの距離で止め、大きな瞳を覗き込む。その両眼に動揺の色は見えないのがまた腹立たしかった。まるでオレがこうすることは予測済み、そう言われているようで。
 お望み通りと言ってもキスをされたいと思っていたわけではないだろうが、自分からすればこの感情が成り立つ先にはこんな形しか存在しない。互いの息遣いが感じ取れるほどの距離感を保ったまま口を開くと同時、柔らかな風に吹かれた二人の前髪が少し絡む。
「……抵抗しないの?」
「まだ何もされてない」
「ふうん。じゃあ本当にキスしたら突き放すんスね」
 気圧されたらそれこそ負けだ。腹を探るように口角を上げたがしかし、常に一枚上手なのは相手だということを思い知らされる羽目になる。じゃあ、と鏡のようにオレと同じく不敵な笑みを浮かべた赤司っちの目はやはり楽しんでいた。
「もしオレがそれを受け入れたら、黄瀬はどうするつもりかな」
――どう、って。
 それ、はキスだ。必然的に考えざるを得なくなったキスの先が頭を過り、次の瞬間、思考も言動も停止した。意識しないようにしていたあれこれが嫌でも脳裏に浮かぶ。言い訳をするならばオレは普通の男子中学生であり思春期であり好きな人を前にすれば欲求なんてものは多くあるわけで、途端に弧を描いている相手の唇もいやらしく見えるのだからどうしようもない。瞬きも忘れて固まったオレを前に、ふふ、と赤司っちは顔を逸らして笑い声を零す。

「今、なに考えた? ……変態」

 そこまで言われて漸くからかわれていたのだと気付き、ひく、と頬が引き攣る音がした。
 彼は卑怯だ。
「〜っ、は、反則! 反則っスよそんなの……!」
「どうして? 先に仕掛けたのはお前の方だろう」
 何がおかしいのやらくすくすと笑っている赤司っちにこちらを見られるのが嫌で、距離を離して下を向くしかない。こんなはずではなかったのに。完全にしてやられた、と騒がしい脳内を余所に、赤司っちはベンチから立ち上がって歩き出そうとする。
 今の自分ではもう何も言い返すことができないだろうから、さっさとどこかへ行ってくれ。羞恥に苛まれながら内心で訴えたところで「黄瀬、」と名を呼ばれ、反射的に顔を上げると――数メートル先で立ち止まった赤司っちが、オレに向かって左手で指鉄砲の形を作っていた。
 覚えのありすぎる構えに目を見開くとほぼ同じタイミングで、片目を瞑って一撃。
「あの時の仕返しだ」
 そんな愉快そうな笑顔で言わないで。まるで本当に心臓を狙って撃たれたかのような感覚に暫く茫然として、相手が去ってからじわじわと彼の行動の破壊力に理解が追い付き始める。
(し……仕返しって、)
 何なんだ、本当に。自分がどれだけ可愛いことをしているかわかってるのか。赤司っちのウィンクなんて初めて見たし、いや重視すべきなのはそこではなく、結局あの人はオレで遊ぶだけ遊んで帰っていきやがった。あんな発言をするものだからあらぬことばかりが頭を占めていくこっちの身にもなってみろ。
 昼休みはまだ終わらない。気を紛らわす為に放置していた紅茶をいっきに飲み干し、座ったまま柱の横に設置されたごみ箱へとそれを片手で投げる。いつもの自分なら、バスケで身に付けたシュート力を発揮して絶対に外すことなく入れていた。が、冷静になろうとしても心の中はよっぽど動揺しているらしい。放った空き缶がゴン、と無残にもごみ箱の縁に当たって地面に落ち、そんな馬鹿なと衝撃を受ける。
 アスファルトの上を空しく転がる缶を見ながら、さすがに肩を落とすほかなかった。
「……オレは変態じゃねえっスよ」
 誰にも聞こえることなく霧散した一言はあまりに説得力に欠けるものとなり、これでは友人ににやけていると指摘されても何も言えないだろう。けれど五割は赤司っちのせいだと断言しても悪くないはず。
 もはや国語の授業などあってないようなものだ。とりあえず来週の水曜日には仕返しの仕返しとして、投げキスでもしてやろうかと心に決めるのだった。


ああ私だけのハート泥棒! / 2013.05.09
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