オレの恋人は意外と朝に強くない。今日は一緒に出掛ける予定がある為この時間には起きる、と朝の八時に携帯の目覚ましをセットしたのだが、結局自分が止めて赤司っちはまだ布団の中で丸まっている。おはようと挨拶をしても、んん、と不明瞭な相槌が返ってくるだけだ。
 遅くまで無理をさせてしまったからなかなか強引に起こすこともできない。とは言えこのまま放っておくと日が高くなっても寝続けるから、もう着替え終わってもいたオレは仕方なく「起きないと襲っちゃうっスよ」と耳元で軽く囁いてみることにした。五割くらいは本音の最終手段である。でもこれを言うと目をこすりながらもきっちり起きてきて、枕を投げ付ける元気があれば顔面を目がけて攻撃されるし、なければ不機嫌そうに眉を顰めて難詰を加え一蹴される。どうやら今日は後者のようだった。
「お前の性欲は一体どうなってるんだ……万年発情期にも程があるぞ」
「そりゃ好きな人が裸で寝てれば」
「……僕の鞄、取ってくれ」
「あれ、無視?」
 聞いてきたのはそっちなのになと思いつつ、言われた通り部屋の脇に置いてあった彼のそれをベッドの上へ移動させた。赤司っちがここに泊まる為にいろいろと持ってきたものだ。服なんて貸してあげるのにと何度も言ったが、向こうも向こうで「人様の物をそう何日も借りるわけにはいかない」の一点張り。おかげで大きな鞄には三日分の私服とパジャマとその他もろもろ洗面用具等、まるで修学旅行のようにお泊りセットが詰め込まれている。
 高校二度目のインターハイが終わり夏から秋へ移ろうとしている今の時期、まだ薄着で過ごせるというところが彼の荷物を軽くしているくらいだった。シンプルなジーンズに濃紺のポロシャツを合わせ、時々腰のあたりを手でさすりながら着替えている赤司っちを横目にいったん部屋を出る。親は居ない。しかし階段の途中で朝帰りをした姉と遭遇し、「帰ってくるの早くね?」「引っぱたいて帰ってきた」「またかよ」と特段知りたくもない姉の彼氏事情に呆れながら階下のリビングへ向かった。そしてキッチンで買い溜めしていたパンを適当に選んでいると、自室に戻ったはずの姉が涼太、と後ろから声を掛けてくる。「別に私は気にしないけど、あんた、お母さんとお父さんにはバレないようにしなさいよ」いつから気付いていたのだろうか。「姉ちゃん早く化粧直せば? そんな顔でオレのカノジョに会ってほしくないんだけど」こうなったら開き直りだと言わんばかりにそう口にしたが、私だって会いたくないわよ、と吐き捨てて階段を上っていく足音が聞こえた。気にしていないなどと、どの口が言うのだ。
「赤司っちごめん、遅くなった」
 部屋の扉を開けながら謝り、中心を陣取る四角いローテーブルに持ってきたパンを置く。既に着替え終わっていた赤司っちはベッドに腰掛け、静かに窓の外を眺めていた。
「涼太、いいよ。朝食は自分で買うから」
「だーめっスよ。ほら、賞味期限ギリギリだし消化したいから食べて」
 と、無理やり理由を加えて押し付ける。すると渋々と言った感じではあるが、礼を告げて一つ手に取った赤司っちに満足して自分もクリームパンを頬張った。
 それにしても、ゆったりと瞬きをする様子は相変わらず眠たそうだ。
「まだお目覚めじゃないみたいっスね」
「え、ああ……すまない、別にそこまで疲れているわけではないんだが」
「謝んなくていいっスよ! でもよくそれで中学の頃、一度も遅刻しなかったなって」
 嫌味などではなく純粋に口にすると、赤司っちは顔を上げてこちらを見る。
「洛山でもこんな感じなんスか?」
「そんなわけないだろ……。涼太の前だけだよ、気が緩むのは」
 しかも困ったことに治りそうにない、なんて告白されてはオレだって恥ずかしくもなるわけで。時々けろりとした表情で殺し文句を言ってくるこの人は、いい加減自分の発言のせいでオレがどれほど振り回されているか自覚をしろという話だ。
(はー、もう……疲れてないならほんとに襲っちゃうよ)
 気恥ずかしさから目を逸らし、頭を掻きながら内心で舌打ちをする。オレが常にこんなことを考えているとはきっと思っていないのだろう。万年発情期も洒落にならない。
 本当は、自分が京都へ行くつもりだった。しかし赤司っちと仲直りした去年――部活の方に何の連絡も入れず無断欠席をしたと知って以来、彼はオレが京都へ訪ねることを頑なに拒んでいる。どうせ自分の責任だとでも思っているのだろう。赤司っちがこちらへ来てくれることは嬉しいが、おかげで明日の部活を休みたいと言って許可をくれるわけもなく、自分が海常に居る間は一人で黒子っち達に会いに行くらしい。せっかくオレのところに来たのに、と口を尖らせて不平を並べたりもしてみたものの効果はなし。
「わがままを言うな。二人でいる時は何をしても構わないと妥協してやってるんだから」
「……赤司っち、随分寛大になったっスよね」
「誰かさんがすこぶる狭量だからな」
 間髪を容れずにそう言われてしまい、思い当たる節がありすぎて口を噤む。正座をすれば説教でも始まりそうな雰囲気だが、肩を縮こまらせたオレとは反対に赤司っちは眉を下げて笑った。不意打ちでそれは反則だ。
「ほら、今日は買い物に行くんだろう。明日部活があるなら早めに帰ってこないとな」
 どこから行こうか? あえてそう聞いてくる様子が楽しそうで何より。エスコートしますよ、とオレもおどけて笑った。


 家が厳しい赤司っちは、中学の頃から休日に都内で遊ぶなんてことはあまりしていなかったと聞く。習い事だか勉強だか詳しくは知らないが親のもとでいろいろと忙しくしていたらしい。そしてそれは高校生となった今でも変わらないようで、横浜の方をただぶらぶらと歩くだけでとても満足げだ。世間知らずというわけではないし(たまに天然みたいなところもあるけれど)、寧ろ教養は人一倍ある恋人が、自分の隣で海の近い景色を見ながら嬉しそうに喋っている。整備された綺麗な街並みよりも、そっちの方が断然オレの心を満たした。
 ウィンターカップの時にばっさりと切った前髪も大分伸び、もうその横顔は帝光中の時と大して変わりがない。柔らかな潮風を感じながら髪を耳に掛ける仕草が妙に色めいていた。
「赤司っち、ちょっとお茶しないっスか」
 人目に付くところで手を繋ぐと怒られる為、足を止めてそう話を切り出すと彼は振り返って頷く。信号を二つほど越えれば雰囲気の良いカフェがあると知っていたオレはそこへ案内することにした。しかしその旨を伝えながら再び歩き出そうとした――その時だ。
「……赤司?」
 不意に耳に届いたのは、自分の声でも赤司っちの声でもなかった。全く聞き覚えのない声音。オレはそれが誰であるのか見当もつかないまま後ろに振り向き、視界の真ん中で捉えた姿に眉を寄せる。知らない人だった。身長は高く、確固とした証拠があったわけではないけれど同い年には見えない。そして赤司っちの知り合いだろうかと今度は呼ばれた方に目を向けたが、そこにあったのは驚きつつも複雑そうな表情で。
「虹……村、先輩……」
 茫然と呟かれた名前はやはり聞いたことがなかった。が、この人が赤司っちにとって大事な人間であることは、ほんの一瞬窺えた喜びの顔ですぐにわかった。
 三秒にも満たない時間だったものの、この時から既に嫌な予感はしていたのだ。だって赤司っちがこんな表情を見せる相手は、とても限られている。
「おー、マジで赤司だったのか。遠くからじゃわかんなかったからよ。久しぶりだな」
「……お久しぶりです」
「反応うっす……もっと喜べって、四年ぶりか?」
「三年半です。嬉しいですよ、すごく」
 虹村先輩という男から目を逸らし、代わりに赤司っちの心底幸せそうな微笑みにずきりと胸のうちが痛み出す。それに加えて彼は先輩であり、そして最後に会ったのが三年と半年前。たった三つの事項で赤司っちとどういった関係であったのか、予想がついてしまった自分を恨むしかなかった。
「いきなり声掛けて悪かったな」
 こちらに瞳を向けながら告げられた一言に赤司っちは首を振ったが、寧ろ今の台詞は、オレに言われているような気がした。
「あ、彼は帝光の同級生で……虹村先輩が卒業した後にバスケ部に入部したんですが」
「知ってるよ。『キセキの世代』黄瀬涼太、この間のインターハイも大活躍だったろ。……じゃなくて、モデルって意味で知ってた方がよかったか?」
「……どっちでもいいっスよ。そんなことより光栄っス、帝光の元主将に名前を知ってもらえてて」
 場の空気を壊さない為に取り繕って笑みを浮かべると、オレの言葉を聞いた赤司っちが視界の端で目を見開いたのがわかる。『主将』という単語だけは口にしないよう気を付けていたのだろう。あの日のオレ達が、フラッシュバックするからだ。その気遣いを無駄にしたのは自分だった。
「惜しかったな、お前も。中一からバスケやってりゃオレが教えてやれたのに」
「あはは、嫌っスよ、すげえ厳しそう」
「トーゼンだ。主将になったらスパルタ指導しろよって赤司に言ったのオレだし」
「あーだから毎日毎日あんなキツいメニューだったんだ……。鬼みたいな練習だったっスよ。ね、赤司っち」
「えっ、あ、ああ……あのくらいやらせなきゃ、お前は伸びないと思ったからな」
「ひどっ!」
 らしくもなく動揺しきっている原因がオレにあることはもちろん理解している。今まで暗黙の了解として避けていた『赤司っちの初恋』の相手が眼前に現れ、また不機嫌になるのでは、また乱暴な行為に出るのではと、きっとそんな風に思っているはずだ。しかし実際もやもやとした感情を完全に無視できているわけではないが、それ以上に胸中では、彼をそう怯えさせている自分を許せない気持ちの方が大きかった。
「オレ達、今から喫茶店行こうと思ってるんスけど、虹村先輩も用がなければ一緒にどうっスか?」
 極力自然に見えるように笑顔で口を開く。
 それは本心から出た誘いなのか、はたまた気まずい空気になるのが嫌で咄嗟に言ってしまった言葉なのか、自分自身にも把握できないものだった。けれどいよいよオレの恋人は動揺を隠し切れず、
「りょ、涼太……」
 不安そうに名前を紡がれてしまう。自分はその呼びかけに微笑みだけで返したが、赤司っちが納得したようには見えなかった。それもそうだ。オレだってうまく笑えていたかわからない。
 雲一つない昼下がりにこうしてオレと赤司っちと、赤司っちの初恋相手は邂逅した。虹村先輩はこちらの様子を不審がることもなく黙って見ている。そして浅く溜息をついた後、じゃあお言葉に甘えるかな、と言った。彼の溜息が何を表していたのかは知る気も起きなかったが、オレが感じた嫌な予感なんていうものは、とっくに的中していたのだった。


 予定通りカフェに着いた後、四人掛けのテーブルに案内された自分達はオレの左隣に赤司っちが座り、赤司っちの前に虹村先輩が腰を下ろす形となった。最初はあまり晴れた表情をしていなかった赤司っちもメニューを頼んだ頃には徐々に普段の落ち着きを取り戻していて、向かい相手との話に花を咲かせている。先輩の大学がこの近くにあること、今日は友達と遊ぶ予定だったがドタキャンをされてどうしようかと迷っていたところだったこと、彼が今でもバスケをしていると知った赤司っちはとても嬉しそうに相槌を打っていた。
 時々オレにも話を振られたが、さすがについ数十分前に出会った人間、それも年上に対して馴れ馴れしくできるほどのコミュニケーション力は持ち合わせていなかった。――というのは建前であり、恐らく半分は自制と言ってよかっただろう。口を開いて望みもしない文句などを言ってしまっていたら、となけなしの理性を失うことを恐れていた。
 注文したミルクティーで乾きそうな喉を潤しながら二人の会話に耳を傾ける。赤司っちが監督や教師以外に敬語を使っている様子には違和感しか覚えず、これだけ口調の柔らかい彼なんて見たことがなかった。そしてオレがまだ赤司っちと出会っていない頃の日々を懐かしんでいるのだろう、ふとした時に覗かせる自分も知らない表情には、どうしようもなく妬けた。
「洛山って京都の高校だよな? こんなとこ居ていいのかよ」
 ブラックコーヒーを口元に運びつつ先輩は尋ねる。喫茶店はちょうど昼時ということもありそれなりに混雑していたが、多くが一人で来ているサラリーマンや主婦と言ったところで、比較的静寂に包まれていた。
「今ちょうど体育館の設備工事があって、部活が休みなんです。まあ体育館が使えなくとも練習はできたんですが……インターハイも終わって各部員それぞれ調整する時間がほしいと言うのでオフにしました。それで、僕は東京に会いたい友人が居たので」
「え、赤司っちオレのことは?」
「涼太には元から会いに来るつもりだったよ」
 部活があってもなくてもな、なんて言ってはいるが、あったら絶対に来ない。絶対に。悔しいくらい、赤司っちの中でバスケの優先順位が自分より下位になることなどありえないのだから。
「ま、仲が良さそうで何よりだ。友達できねえできねえってオレに相談しに来てた頃が懐かしいぜ」
「そんなこと言ってません」
「いーや言ってたね。泣きそうだったお前を優しく宥めてあげた優しい主将が健在で嬉しいだろ」
「思い出を美化するのやめた方がいいと思いますよ」
「美化じゃねーよ! ……ったく、相変わらずかわいくねーのな」
 “相変わらず”――頬杖をついて簡単に吐かれた台詞が重く突き刺さるのを感じた。オレの知らない赤司っちの姿を、声を、表情を、この人はいくつも目にしたことがある。そもそも赤司っちが初めて想いを寄せた人間は二つ上の彼だった。わかっていたくせに、何を今更この心臓は悲鳴を上げそうになっているのだ。
 時間が経てばあんな独占欲は勝手に消化されるだろうと、のうのうと思っていた。あれは若さ故の過ちだった? 笑えない冗談だ。この期に及んであの日から目を逸らしたがり、根拠もなく自分を信じて馬鹿を見ている馬鹿は誰だ。十五歳でも十六歳でも、十七となった今でも、蓋を開ければ愛情と欲が紙一重の差で渦巻いているというのに。
「あ……すみません、ちょっと電話出てきます」
 机の下でぎゅ、と握った両手に視線を落としたところで、赤司っちが突然そう言って席を立つ。はっとなって見やると「テツヤからだ」とオレに向かって小さく付け足した。多分明日のことだろう。急な出来事に何も言えず瞬きだけを繰り返したが、そのうちにも赤司っちは着信が鳴り響く携帯を持って喫茶店の入口のところまで離れて行き――虹村先輩と、二人きりにされてしまった。
(な……何を話せと……)
 途端、どちらも口を開かない沈黙が流れる。からんからん、と他の客が入店する音が小さな店内に反響した。
 何故この状況でオレと先輩を一対一にしたのだろうか。今の今まで内心敵意を剥き出しにしていたと言っても過言ではない人間を相手に世間話とは、ちょっと難易度が高すぎるだろう。赤司っちはオレがこの人に対してもう何とも思っていないと判断したのか? 心のうちを察するのは得意であるはずなのに、相も変わらず変なところで全く鈍い。
 とにかくこれ以上ないほどに気まずかった。彼の初恋云々を抜きにしたって初対面なのだ。身の上話をするわけにもいかずにひたすら目線を下げていると、表情一つ変わらない先輩の方から静寂を破ってくれた。
「お前ら付き合ってんのか?」
 が、あまりに直球すぎて面食らってしまう。
「……な、なんで」
「わかりやすいんだよ。お前よりあいつの方がな」
 椅子の背もたれに寄り掛かり、遠くで携帯を耳に当てている彼の後姿を一瞥しながら淡々と一言。赤司っちのことを『わかりやすい』なんて言える人を、自分は恐らく初めて見ただろう。
「その様子だと、オレと付き合ってたことも知ってるっぽいけど」
 しかしわざとらしく口角を上げてそんな風に言われれば多少頭に来るのも致し方がない。どうやらあの人の前で猫を被っていたのはオレだけじゃなかったようだ。
「……あんたのせいで破局寸前までなったっスよ」
「はは、マジで? そりゃ悪かったな。でも学べたろ、独占欲の強い男は嫌われるって」
「ええもう良い勉強になりました」
「の割に全然治ってねぇみてーだな」
 余裕そうに笑っているのが尚更イライラする。当たり前だ。この際開き直ってしまうと、寝ても覚めてもオレだけのことを考えていてくれなければ満足できないくらい、自分は勝手で面倒で欲深いという何とも厄介な三拍子が揃った男なのだ。そんな人間に好かれた赤司っちには我ながら心底同情してもいい。
 相手は先輩、帝光の元主将、と自分に言い聞かせなければ今にも余計なことを口走ってしまいそうだった。
「何歳だっけ」
 そんなこちらの心境も構わず不意にそう尋ねられ、「え? 十七、スけど……」と質問の意図がよく理解できないままに返す。オレ達が二個下であることはわかっていただろう。首を傾げていると、虹村先輩は十七か、と独り言のようにこう呟いた。
「……大人になったなあ」
 少し寂しそうな声色に聞こえたと言ったら、失礼だろうか。
「最初に会った時なんてまだ十二歳だったからさ、赤司すげえ小さかったんだよ。あの頃は可愛げもあったし」
「うわー……十二歳相手にとかなんか犯罪くさいっスね」
「おい。年上に対する口の利き方がなってねーぞクソガキ」
「大人になったって言ったじゃないスか」
「ガキはガキだ」
 どっちだよと思いつつも、確かにこの人から見れば年下は皆そういうものなのかもしれない。ちらりと視界の端に赤司っちを捉えるとよっぽど黒子っちと話し込んでいるのか、まだ戻ってきそうにはなかった。
「大体オレは未遂だっつの」
 虹村先輩が溜息をつきながら言う。ミルクティーを一口飲んだところでオレの耳に入ったその言葉は唐突なもので、最初は意味を咀嚼することができなかった。が、ごくんと甘ったるいそれを飲み込むと同時に脳が認識したらしく、気付けば目を見開いて聞き返していて。
「……え、未遂?」
 赤司っちとシたことないんスか? とまで口にしていたのはさすがに身も蓋もなかったと反省するが、思考が固まったまま動かない。
 だってつまり未遂ということは――あれ、え、マジで?
「あのなあ……半年前までランドセル背負ってたような奴相手にできると思うか? トラウマ植え付けて終わりだろ」
 呆れられている。オレはぱちぱちと目をしばたたかせ、漸くこの人と赤司っちがキス止まりだったということを理解した。その瞬間、過ぎ去ったあの日の会話が鮮明に蘇る。
(嘘……じゃなかったんだ……)
 一瞬にして最後まで疑心を抱いていたことを申し訳なく感じたが、それ以上に、オレとしか経験がないという事実を反芻して確実に喜んでいる自分がいた。ファーストキスを奪えなかったのは悔しいけれどまぁいいとしよう。処女喪失に比べれば、と場も考えずに緩みそうな口元を隠すように右手で覆い、少しだけ俯く。心なしか顔が熱い。
 でもじゃあなんであの時、赤司っちは居た堪れない風にオレから視線を逸らしたのだろうか。嘘をついていなかったとは言え、やっぱりそこがどうしても引っ掛かる。
 僅かに眉間に皺を寄せてそう考え込んだが、しかしそれも虹村先輩の淡々とした台詞によって消化された。
「まあ、あいつから誘ってきたことはあったけどな。……どこで知識を得たんだか」
――そのせいだったらしい。ああ、と嫌でも納得せざるを得なかった。
 赤司っちは、自分から先輩を誘ったという過去に後ろめたさを感じていたのか。
「中一で男に犯されてイイ思いなんてしないだろうし、オレと付き合ってたのも一時的な気の迷いだと思ってたから理性働かせて断ったのによ……結局変な男に捕まってんじゃねえか。あの馬鹿」
「誰のことっスか? 変な男って」
「どっかの片耳ピアスだよ」
「オレはイイ思いしかさせてないっスけど」
 そう言うと先輩がぴくりと眉を寄せる。やっと余裕を崩せた、とオレは口角を上げた。
「……もう一回破局まで追い込んでやろーか?」
「やってみろよ。何があっても譲らねえけどな」
 間違ってもここまできて身を引くような臆病者ではない。謙虚さなどあっさり忘れて煽っていたが、いや、目の前の男が恋敵であることを自ら宣言してきたのだから売り言葉に買い言葉である。
 そしてオレは確信した。赤司っちは嘘をついてはいなかったが、一つだけ間違っていたのだと。何が『付き合ってくれたのも仕方なく』、だ。
(……こいつもしっかりあんたのことが好きなんだよ)
 バスケや勉強に関しては誰よりも頭が良いくせに、色事となった途端、驚くくらい機微を感じ取れなくなる彼の性質に今回ばかりは感謝するほかなかった。例えばの話、虹村先輩が別れを切り出さず、オレとあの人が出会った時も二人が付き合っていたとしたら――認めたくないけれど自分は踏み込めなかっただろう。赤司っちはオレのものだと今この状況でも自信を持って言えるのは、あの人が先輩への想いを絶ってくれたからだ。まったく、不運なのか幸運なのかわからない。
 一つ確実なのは油断は禁物だということ。何度も、何度でも、自分に惚れ直してもらわなければ。そう考えていることを知ればきっと、赤司っちは呆れ顔にでもなるのだろう。
「すみません」
 ちょうど会話が途絶えたところで電話を終えたらしい彼が戻ってくる。一瞬オレ達のやり取りが聞こえていたのではと不安になったが、様子を見る限りそんなことはなさそうだ。元の位置に座ると同時に虹村先輩が席を立った。
「じゃあオレはそろそろ帰るわ」
 そう告げられるなり、え、と赤司っちが顔を上げる。
「もう帰るんですか?」
「悪ィな。友達からメール来てやっぱ遊べるって言うから」
「そうですか……」
 随分ご丁寧な嘘だと思った。どうせ露骨に落ち込む赤司っちを見て内心楽しんでいるに違いない。オレは足を組んで頬杖をつき、「また連絡するからよ」と赤司っちの頭を撫でている先輩を静かに睨み付けた。もちろん隣に座っている彼には気付かれないように。
 それから財布を取り出して伝票の上に二千円を置いた虹村先輩に、赤司っちは慌ててお札を返そうとする。奢ってもらうという単語が基本的にこの人の頭にはないのだ。しかし赤司っちより押しが強くなければ、あの頃も主将なんて務められていなかっただろう。
「後輩に払わせるわけいかねーだろ。大人しく受け取っとけ」
 その言葉で納得させてしまう。二歳差のハンデはなかなか大きいと実感するしかなかった。
「……ありがとうございます」
「おう。元気にやってるみたいだし、久々に会えてよかったわ。……あと、」
 言い掛けてオレに視線を向け、にやりと笑いながら先輩は口を開く。
「お前さ、オレに未練あるのはいいけど――あんまり度が過ぎると彼氏君が泣いちゃうぜ」
「っ!?」
 わざとらしく赤司っちの耳元で囁く態度に腹が立ち、雰囲気を壊すように、ぐい、と自分の方へ恋人の肩を引き寄せた。
「……何言ってんスか、あんた」
 誰が泣くって? オレとの関係はバレていないと思っていた彼の両目が見開かれ、あからさまに動揺しているその顔はすっかり赤くなってしまっている。かわいいけれど自分以外には見せないでほしい。
「先輩からの助言だ。有難く思えよ、黄瀬」
「誰も頼んでないんスけど」
「ちょ……ちょっと待て、二人して、何の話を……」
 状況把握が追い付いていない赤司っちに「ま、こいつに乱暴されたらオレのところに来いよ」と言い残して先輩は去っていった。乱暴などと嫌な思い出しかないというのに、最後の最後まで本当に好き勝手発言してくれる。もうしねえよ、と心中で悪態をついた。
「……手を離せ、涼太」
 店内から虹村先輩の姿が完全に見えなくなると、咎めるように小さく言われてしまった。しかし未だに羞恥の色に染まっているせいで睨まれても効果はなく、寧ろこのまま抱き寄せたいくらいだった。が、怒らせてもいいことはないとわかっているので渋々、赤司っちの肩から左手を遠のける。
「何の話をしていたんだ」
 オレとあの人を残しておいてその口振りはないだろう。わかってたんじゃないんスか、と瞳だけを向けて言い返した。すると大きく溜息をつき、彼は目を伏せる。
「……別に、ただ仲良くなってほしかっただけだよ。帝光の元主将と」
「無理っスよ。赤司っちの初恋相手と仲良くなんて」
「だからそういう話じゃなくて、」
「大体オレはあの人とバスケしてないっスもん」
 何かを言われる前にきっぱりと断言すれば、赤司っちは珍しく言葉に詰まっていた。いくら元主将だOBだと言われてもオレは関わったことがないのだ。それはまるで子供のような言い訳だと自分でも思ったが、紛れもなく事実であり、しかし後悔はない。
 さすがに呆れて物も言えないかなと流れた沈黙の中で思考を巡らせたものの、暫く経ってから意外にも赤司っちはこんなことを口にした。
「……どうして、中一からバスケを始めなかったんだ」
 初めて問われた疑問に目を見張って驚く。二年生の時に入部してここまで上り詰めた自分を褒めてくれることはあっても、もっと早く始めていればと、そう責められた経験は一度もなかった。一年分の差を埋めるべく毎日必死だったし、何より赤司っちも今更どうしようもない話をするような性格はしていない。オレがバスケを始めるのが一人遅かったことなんて、全く気にしていないと思っていた。
「さあ、わかんないっス。でも……もしかしたら、帝光で虹村主将と出会わない為かも」
 あの人と仲良くしてる赤司っちなんて見たくないっスから、とおどけると、困ったように笑みを浮かべられる。
 僕は主将と涼太が共にプレーするところが見たかったよと、言われた気がした。


リトル・プレスクリプション/2013.04.14
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