予定の時刻となり顔合わせを行った階に戻ると、入口のスタッフが名簿を確認するようにしてからドアを開けた。すると中に足を踏み入れると同時に自分の姿を目にした周囲が少しばかりざわめく。今回は普段世話になっている撮影会社とは異なっている為、皆が皆コーディネートを終えた『黄瀬涼太』に見慣れないのだろう。多くの視線が自分へと注がれるが、その注目に尻込みすることなく背筋を伸ばして息をついた。
 一人目のオーディションも終盤と言ったところらしく、連続してシャッターを切る音のみが響いている。予想通り厳かな空気だ。今居る位置からでは機材が視界を遮ってしまい、被写体となっているモデルの姿はよく見えなかった。
 まずデザイナーがどこに座っているのか確認しようと辺りを見渡す。が、それを見つけるよりも先に「きーちゃん!」と小さな声で呼ばれ、目を向ければ彼女が忍び足でこちらへ向かってきていた。
「桃っち」
「驚いた。遠くからじゃ全然わからないんだもの」
 やっぱり雰囲気変わるねえ、と上から下までまじまじと見ながら感心するように呟かれる。
「そうっスか?」
「うん。いつもの頼りなさが嘘みたい」
「そ、そんなはっきり言わなくても」
「冗談だよ」
 なんて桃っちはおどけているが、きっと半分くらいは本心なのだろう。頼りないという一言が引っ掛かって思い返してみたところ、記憶はすぐにあの日の会話を掘り起こした。どうやら自分はモデルとして働いている時しか高評価を頂けないらしい。「英国紳士?」首を傾げて尋ねてきた桃っちに、「そう見えれば成功なんスけど」と眉を下げて笑い返す。
「意外と来るの早かったっスね。社長に連絡は大丈夫なんスか?」
「もう済ませたよ。この仕事、絶対もぎ取って来いって」
「はは……」
 これまた軽く言ってくれる。落ちたら事務所に帰れないなと苦笑しつつ、葉山さんのスタイリングによって用意された黒のレザーグローブを丁寧に嵌め直した。両手にフィットした作りで違和感がなく、恐らく汗を掻いてもべたつかない素材が使われているのだろう。スマートな見た目のジャケットも実際に着てみると窮屈さは少しも感じない。ボトムスからコートまで同様に、さすがトップレベルと言われているだけあって出来は相当だ。
 今まで何百の衣装を身に纏ってきたからこそ、この服がいかに手間を掛けて作られたものかわかる。
「私、ここで見てても平気?」
 桃っちの再度確認してくるその態度はとても用心深い。本番前の俺への配慮を欠かさないよう気を付けているのだということは一目で理解できるし、やっぱりそういうところは誰よりも敏感な人だと思った。
「平気っスよ」
 そしてこちらの緊張感が伝わっては居づらくなってしまうことを考え、なるべく明るい声色で返事をする。正直に言うと控室で待機していた時よりもプレッシャーは重くなっていた。何年も続けてきた撮影と大して変わりはないのに、絶対に失敗できない、加えて少なからず自分にとって好条件と言えるわけではない衣装が精神を圧迫している感覚。二年ぶりのオーディションを目前に、どくどくと波打つ心拍数は一定ながらも速まっている。
 私物の腕時計は外してしまった為、壁際に寄ろうとした桃っちに時刻を尋ねた。十一時二十五分。端的に紡がれた言葉に「ありがと」と小さく返し、足を進めて現在撮影が行われているモデルがよく見える位置へと移動する。
 その瞬間、視界に飛び込んだ光景に目を見張った。
 驚いたのは継続的にポーズを決めている女性モデルに対してでも、ネイビーのカウンターチェアのみが置かれたシンプルなセットに対してでもない。再び、衣装だ。
「……コスメブランドの……看板モデル、だったんだよな……?」
 自分にしか聞こえない程度の声量で頭に浮かんだことをぽつりと呟く。その疑問はパシャ、パシャ、と程よい感覚で聞こえてくるシャッター音に全て掻き消された。
 今回最も期待されている彼女は化粧品の宣伝によって売れたモデルだ。雑誌や街中に張り出されたポスター、コマーシャルなどの映像においても、必然的に顔をアップにされることが多かっただろう。もちろん手タレや足タレと言ったパーツモデルではないから、全身での撮影も多く経験しているとは思う。が、上半身の魅せ方と下半身の魅せ方ではやはり異なる部分がある。今被写体としてライトを当てられているあのモデルは特に、桃っちのデータにもあった通り、バストアップショットが得意なはず。
――ところがどうだ。彼女の身を包んでいる服はクレープサテンのカットソーにボンディングサテンのスカート、共にライトグレーの無機質な色合いとなっていて、プリントもパターンも何一つとして施されていない。メイクに至ってはナチュラルという言葉が不似合いなほど最大限に薄められ、肌の色も意図的に白に近付けているのだろう。片サイドを耳にかけたショートヘアはあえて目を隠すように無造作な前髪を作り、そこまで見ればアンニュイなイメージを受けるのみだ。しかし問題は足元にある。
 シトロン色のミンクファーに覆われたスキニーヒールのパンプス。アシッド・カラーが効いた柑橘系の印象は、全身の中でそこだけがあまりにも浮いてしまっている。
(あれじゃあ靴に目が行くだろ……)
 俺は息を呑んだ。コーディネート自体はアクセントを活かした粋なものだが、それがあのモデルに合うかと言われたら易々と頷くことはできない。モデルというのは他人の瞳に自分の姿が映った時、ぱっと見た印象で全てが決まってくる。少なからず目の前の衣装で真っ先にインプットされる部位は足だ。今までの功績を嘲笑うかのように、彼女が売りにしてきた『顔』を無視している。
 その現実は俺に与えられた衣装が、自分の強みとしている『笑顔』や『爽やかさ』で通用しない、あるいは通用させないと暗に言われていることと共通していた。
 厳しい、心の底からそう感じる。
「終了です」
 瞬きをするのも忘れて茫然と立ち尽くしていると、不意に区切りを知らせる声が耳に届いた。そして我に返った時には撮影を終えた一人目のモデルがカメラマンに礼をしてから俺の横を足早に通っていく。ちらりと見えた横顔に安堵感は微塵も窺えず、僅かに眉間に皺を寄せ、とても自分の出来に満足しているような表情ではなかった。脳裏に張り巡らされたこちらの考察を彼女自身も痛いほど理解していたのだろう。靴を魅せる為だけのポーズを取ってデザイナーが満足するわけがない、が、どうやっても視線は足元へと注がれてしまう。一時間、それに悩まされながらオーディションとして自分を試されているというのはとても酷烈な状況だったはずだ。
――葉山さんには豪語してしまったが、俺はこの服を、この場で、この状況下において、誰もが満足するように着こなせるのか?
 チャンスは一度きり。何度も言う通り、失敗は許されない。
「黄瀬涼太さん、入ってください」
「はっ、はい。よろしくお願いします」
 胸中で渦巻いていた不安がみるみるうちに膨れ上がり、それは徐々に動揺へと変わっていった。落ち着け、冷静になれ、と柔く拳を握り締めながら自分に言い聞かせる。大丈夫だ。俺は選ばれてここにいるのだから、自信を失ってはいけない。
 そしてカメラの前に立ち、細く長く息を吐く。先ほどまで置いてあったセットは片付けられ、まずは真っ白なバックペーパーを背景に撮影が開始された。
「じゃ、黄瀬君は百五十カットを目安にいこうか」
 しかし男性カメラマンが軽々と口にしたその一言はなかなか過酷なものだった。慣れていないわけではないが、六十分で百五十カットというのはかなりハイテンポな撮り方だ。ポーズ指示が出たら瞬時にそれを理解し、形として見せ、一枚ずつ印象が変わるように表情にも変化を持たす必要がある。撮影に重要なのはもちろんセンスや直感的に体を動かす才能もだが、それと同じくらい頭の回転の速さも要求された。
 十カットほど撮り終えたところで少しずつ緊張は収まってくるものの、しかしそれは半ばそう思い込むことで撮影に集中しようとしているのかもしれないと、思考の片隅ではそんな風にも思えた。
 レンズに向けた視線がぶれる。その瞬間、今まで極力意識しないようにしていたデザイナーの姿がダイレクトに映り込む。機材の奥に並べられた数脚のパイプ椅子に鎮座した彼らは今回の試験官であり、日本人モデルがお目に掛かれることなど滅多にない人間ばかりだ。時折海外ファッション誌に顔を載せているデザイナーも居た。
 彼らの存在感は確かに大きく、この撮影を粛々としたものにさせている最もな原因であることに違いはない。とは言えデザイナーの前で披露というのは予め伝えられていた事項であり、今更そのことで重圧を覚えはしなかった。寧ろ良い緊張感に変わっていっていたのだ。視界の端に、あの色を捉えるまでは。
 まさか、と思う。「楽しみにしてるよ」なんて台詞から少しの予感はしていたが、まさか本当に。
――出版社の社長っていうのは、モデルの撮影まで見に来るものなんスか。
 心の中で恨めしく呟くほかなかった。何故こういう時ばかり俺の前に現れるんだ。信じたくない、だが疑いようもない。桃っちが立っているところからは恐らく死角になっているのだろう壁際に、背を預けて腕を組み、やはり見定めるような両眼で赤司征十郎が俺を見ている。
 言葉のない空間が、尚更彼の目力を強調させた。
 初めからそのつもりだったのだろう。でなければ普通は社内で仕事をしているような平日のこの時間に、わざわざメイクルームになんて顔を出すはずがなかった。関係者の一言でどこまでの立ち入りを許可されているのかは知らないが、赤司グループの人間だと言えばこんな撮影、簡単に足を踏み入れられるらしい。
(くそっ……)
 落ち着いていた心拍数があからさまに揺れる。向こうがこちらの視線に気付いたかはわからない。ただ一度視界に入るともうどうしようもなくて、これ以上俺を惑わせてどうするつもりだと内心で舌打ちをした。確かにもう一度会いたいとは思っていたけれど、何も今じゃなくたって。ただでさえあんたのことになると、俺は――と支離滅裂な思考は本心を紛らわすこともできず、しかし自分が置かれている状況を忘れそうになるほど単純なもので。
「黄瀬君、目線こっちに」
 鋭利な一言にはっと意識が戻される。まずい。今の数回のショットは確実に何も考えないで撮られていた。集中しろ。衣装を魅せろ。モデルなんて誰からも注目を浴びて当然の職なんだ、これしきのことで狼狽えるな。そう責め立てたのが逆効果だったのかもしれない。余計に頭の中は散漫としてしまい、ただひたすらあの人の瞳に俺はどう映っているのか、いくら否定しても気になったのはそんなことだった。
 そこから二十分、表面上ではポーズを取れても精神は追い詰められるばかりの撮影。これでは一人目のモデルのことを全く笑えない。英国調の雰囲気に合った表情を作れているとは到底思えなかったし、気分がノってくると自然と零れるような笑顔も、今はちっとも出てこない。正直だんだんと険しくなっていくデザイナー達の顔を見ることも恐ろしかった。
「よし、じゃあ五分休憩入れようか」
 スタッフと目配せしたカメラマンがそう指示を入れる。
「後半はあのガラステーブルをセットして撮影するから」
「……わかりました」
 人差し指で示された先にあったのは、直径一メートルほどの黒い丸テーブルと揃えられた二つの椅子だ。恐らく三十分は経過したのだろう。とりあえず心を入れ替える為にほっと息をついた。
 しかし何一つとして状況が変化したわけではない。あそこに並んでいるデザイナーのうちの誰かがこの服を作り、そして自分を推薦したのだ。俺はその期待に応えなければならないというのに、クラシックな衣装に対する苦手意識と『一番落とされる可能性が高い』というプレッシャーがその意志を邪魔していた。
「きーちゃん、大丈夫?」
 いったんセットから離れて奥に行き、備え付けの椅子に腰を下ろしたところで不意に話し掛けられる。見上げると、桃っちの心配そうな表情。彼女から見てもそれだけ体たらくだったということだ。「すんませんっス、みっともないところ見せちゃって」久しぶりに目にした撮影がこれでは申し訳なく、取り繕うように笑むしかなかった。
「緊張が解けてないの?」
「うん、まあ……もう何年もやってんのに今更緊張とか言ってる場合じゃないんスけど」
 なんだかんだここまで調子が狂っているのは自分でも久々で、だからこそ対処法を上手く見つけられていないのだろう。桃っちは慎重に言葉を選び何か返そうとしたが、彼女よりも先に「その通りだな」とどこかから声が聞こえてくる。
 もう驚きはしなかった。三十分の間、ずっと見られていたのだ。後ろを振り返ると案の定赤髪のその人が顰めっ面で立っていて、口を噤んで見詰め返す。彼がこの場に居ると知らなかった桃っちは目を見開いて驚いていた。
「随分と自分を見失っているようだが」
 仕事のことだからか、出会った時のように高圧的な態度でそう告げられる。
「……取り返してみせるっスよ」
「できるのか?」
「当然」
 何をむきになっているのかわからない。けれど嫌だった。彼に、この程度か、と見切られることだけは。募る焦燥感のせいで自分も刺々しい口振りになってしまっていることは否めず、何も言えずに黙っている桃っちには内心で謝った。
「諦めの悪いところは評価しよう。あれだけ苦戦していても心が折れてないことには正直感心した。……が、今のままじゃあ、不合格だよ」
 きっぱりと宣告された一言に、ぷつんと糸の切れる音がする。
「……出版社の社長サマに、何がわかるんスか」
 どうやら自分は思っていた以上に余裕がなかったらしい。何の考えもなしに気付けばそう言い返していて、明らかな反抗にさすがの桃っちも「き、きーちゃん落ち着いて」と慌てて宥めようとした。しかし口から出た言葉はもう戻らず、引き際もわからなくなっていた俺は撤回することなく向こうの返答を待つしかない。赤司グループを敵に回せば業界での居場所が無くなる。その恐怖も確かに感じたはずだが、不思議と彼はそんな卑怯な手には出ないという自信があった。
 はあ、と瞼を伏せてわざとらしく溜息をつかれ、そして相変わらず不機嫌そうな表情のまま一歩こちらに足を出して彼は口を開いた。
「なら出版社の社長として言わせてもらうよ」
 ぐ、と顔が近付く。
「今のお前は紙面に印刷しても絶対に惹かれない。何故かわかるか?」
「そ、んなの……この衣装を上手く魅せられてないから、」
「逆だ」
 双眸に籠った気迫に気圧され、俺は眉を顰めるくらいしかできなかった。言っている意味がわからず黙り込むと、右耳に付けたピアスに手を伸ばしながらこう続けられる。
「お前は衣装を魅せることを考えすぎなんだよ。単に服を紹介したいだけならカタログで十分だ。……身も蓋もない話だが、カタログなら芸能事務所と契約を交わさない分経費は浮くし、それでも売り方次第で相応の収益はきちんと得られる。ここだけの話、わざわざモデルを雇う必要があるのか僕はとても悩んだ」
 嘘偽りのない一言一句は自分を黙らせるに十分足りていた。が、このピアスに何かあるのだろうか。説得力に満ちた言葉とは裏腹に、質感や素材を確かめるように金属へと触れる手がどうしても気になってしまう。自然と耳朶にも当たった彼の指先は思っていたよりも冷たく、俺は身動きが取れなかった。
「だが本にした時、人間が着ることによって活きた服の方が買い手の目には止まりやすい。お前に『TiPOFF』の衣装を与えた理由なんてその程度だよ。居ても居なくても売り上げが変わらないなら落とすのは当たり前、我が社に貢献できない人材は必要ないからな」
「……じゃあ少しは信じてくれてたってことっスか? 俺なら赤司グループの戦力になれるって」
「おめでたい脳で何よりだ」
 にっこりと微笑む様は仰々しいが、漸く手を離した彼は表情を一変させ、射貫くような視線を以て言葉を紡ぐ。自分と向き合うその両眼には真剣故の憤りがありありと見えた。
 けれど「黄瀬、」と名を口にする澄んだ声はいつだって心地良く、俺の心にすっと響くのだ。
「苦手意識だとか緊張だとか……笑わせるなよ。お前はプロだろう、何があっても受かってみせろ。デザイナーの目が気になるなら見なければいい。他のモデルの結果なんてお前には関係ないんだから意識するな。……その衣装に不満があるなら、衣装に頼らず、自分だけで勝負しろ」

――『自分の魅せ方』なら、お前が一番わかっているだろう?

 赤司征十郎の言葉は一つ一つが容赦なく、遠慮もなく、しかしその分、飾った褒め言葉やリップサービスだってない。それが長年この世界で生きてきた自分にとって、とても新鮮だった。
 忘れていたようだ。この仕事で最も大切なこと。そして俺が今までモデルを続けてきた理由。アクセサリーが好きだからでも綺麗な服に身を包みたいからでもない、ただ自分の姿を最大限に魅せられる場所が欲しかった。そのチャンスを無駄にしていたのは俺自身だということを、この人は誰よりも早く、誰よりも正確に理解していたらしい。
 膝の上に置いた拳を、ぎゅ、と握り締めて唾を飲み込む。彼の言う通りだ。俺はプロであり、もう何年もこの職だけで食っていて、何を今更怯む必要がある。デザイナーには悪いが衣装のことなど二の次、俺は俺の好きなように撮らせてもらう。――半ば自分に言い聞かせるように口に出してそう宣言すると、彼はやっと満足そうな笑顔を見せた。
「デザイナーだって、お前のそういうところに惹かれたんだよ。きっとね」
 あ、この顔。いつもは固く結んでいる口元を緩めて自然に笑うこの表情を、自分は随分気に入っているらしい。
 肩を落として深呼吸をし、席を立つ。さっきよりも幾らか体が軽くなったように感じるのは勘違いなんかではなく、あらゆる重圧から解放された気分は想像以上にすっきりとしていた。
「桃っち、ごめん。もう大丈夫っス」
「えっ、あ、ほんと? よかった」
 俺達だけで勝手に進められた展開に状況把握が遅れているのだろう。慌てて笑みを浮かべた彼女はマネージャーとして常に尽力してくれている。そんな桃っちに自分が恩返しできることと言えば、更なる功績を残すのみだ。
「どうせやるならトップで通過して、表紙にも選ばれてみせるっスよ」
 と、隣に誰が居るのかも考えずに豪語してしまっていた。そして二秒経ってからとてつもない過ちを犯していたことに気付き、恐る恐る社長サマの方に目を向けると。
「……なぜそれを知っている?」
 案の定お怒りだ。
「い……いや、その……風の噂、で……?」
「ほう、風の噂で僕とデザイナー達とカメラマン、ヘアメイクアーティスト、そしてスタイリストしか知らない内密な情報を耳にしたわけか。面白いジョークだな。で、誰に聞いた?」
「……えーっと……」
 面白いって言ってくれてる割に全然通用してないんスけど!? これにはさすがの桃っちもフォローできないらしく、たらたらと冷や汗を流しながら刺すような視線からひたすらに目を逸らす。この人を本気で怒らせてはならない、そう学んだ瞬間だった。
 しかしこれはもう正直に言うしかないのかと観念しそうになったところで、ちょうどカメラマンに「黄瀬君、そろそろ」と合図を掛けられる。なんというタイミングだ。心の底から感謝しつつ彼に目線を戻すと、やはり本当のことを言うまでは仏頂面のままなのだろう、もっと笑っていてほしいという何とも不相応なわがままを感じて勝手に口が動いていた。
「俺が表紙に選ばれたらチャラってことでどうっスかね」
 顔色を窺うように言ってみると、ぴくりと反応して一際眉間に皺が寄る。が、それ以上こちらが妥協しないのを見てか伏し目がちに溜息をつき、首のあたりに手を置いて悩んでいるようだった。
 そして仕方ない、そう結論付けたらしい彼は、意を決したようにその両眼を自分に向ける。
「……わかった。この場であまり言及するとそれこそ誰かの耳に入ってしまうかもしれないから、お前の案には乗ってやろう。ただし表紙に選出されなかったらきっちり聞き出すからな」
 恐らくこう言ったハンデは好いていないに違いない。俺も聞いてしまったのは不本意だったが、この際本気で創刊号の表紙を狙うくらいの意気込みは十分だった。「これでトップ通過できたら俺ってダークホースかな」黒のテーブルが並べられているセットを横目におどけて話し掛けられるほど、いつもの撮影と同じくらいの余裕を取り戻している。すると赤司征十郎は再び奥の壁際へと戻ろうとしたが、俺の言葉を聞くなり振り向いて返答をした。
「いいや? 最初からお前にその可能性はあったよ」
 なるほどあんたはよっぽど俺を喜ばせるのが得意らしい。最後の最後で『一番落とされる可能性が高い』という不安を取り除いていったことに不覚にも笑いが零れる。計算済みなのか無自覚なのか知らないが、いちいち迷わずに告げていく台詞を聞くたび、自分は多くのことに気付き、多くのものを彼から貰っているのだろう。
(……やっぱ信じてくれてたんじゃん)
 再びカメラの前に立った瞬間に感じた空気は五分前のそれとは打って変わり、価値の高い衣装も、もう重荷にはならない。ここは自分を魅せられる舞台だと全身で理解したその時に、俺は俺の生き様を再確認した。


 ◆


 すっかり日も落ちて近くの陸橋がライトアップされた十時過ぎ、漸く全てのオーディション撮影が終了した。只今機材の片付けを行っているスタジオに結局自分も一日中居たわけだ。これはそろそろ電話がかかってくるかな、と他の関係者への挨拶を済ませていると案の定、ポケットに入れていた携帯が震える。
 ロンドンで名を馳せる著名なデザイナー相手に当然英語で断りを入れ、その場から少し離れて通話ボタンを押した。誰から掛かってきたのか確認もしなかったが予想はついているのだ。試しに「どうした?」と電話口に向かってあえてそう尋ねてみると、
『どうしたじゃない。今どこに居るのだよ』
 返ってきたのは呆れ半分、憤り半分と言ったところの声色。あまりにも思い描いていた通りの反応だったせいで少し笑みが漏れた。
「聞かなくても大方わかっているんだろう。真太郎が嫌いそうな場所だよ」
『……お前はいい加減、行き先を伝えるくらいの配慮を覚えるのだよ。そうやって、またいきなり海外へ行ったり』
「しないから大丈夫」
 相変わらず心配性だ。彼の言い分を遮って宥めるように言うと、少し経ってから大袈裟な溜息が耳に届く。そんなに困らせているつもりはないんだけどな。
「まだ社内に居るのか?」
 恐らくこの通話は真太郎の携帯から掛けられているものだ。単純な疑問を口にしたところ『ああ。少し仕事が残っていてな』とのこと。彼が今日中に片付けなければならない書類をこの時間になっても終わらせていないわけがないし、どうせ明日に回しても構わないものを全部済ませようとしているのだろう。その日の人事を尽くさない限り、もしくは僕がもう帰れと言わない限り、真太郎は労働基準法に反さないぎりぎりの時間まで残業をするタイプだ。残業手当などという話ではなく、本人がそういう気質なのだから仕方がない。
「あまり根詰めて体を壊すなよ。明日は僕も一日社に居るから、書類整理はその時にも手伝ってあげられる」
『副編の仕事を編集長にやってもらうわけにはいかないのだよ』
「はは、強情」
『お前には言われたくない』
 きっぱりと断言されて少し面食らったが、向こうに意図はないらしい。ところで、と簡単に話を変えられてしまった。
『一時間ほど前に白紙のファックスが数枚送られてきたのだが』
 それが本題なのだろう。今頃眉を顰めてその用紙と向き合っている姿がよく浮かぶ一言に、僕は確信を持って「敦だろ」と返す。真太郎もそう思いたくないだけで理解はしているのだ。
『……またファックスの表裏を間違えて送ってきたのか。本当にあいつは……』
「まあ、いつものことじゃないか。とりあえず電話をしてこないということは急用ではないだろうが……明日、朝一でヨウセンに連絡を入れてみろ。『TiPOFF』の話かもしれない」
『その件だが、まさかヨウセンに頼むとは思っていなかったのだよ』
「そうか? あそこは優秀な編プロだよ。数年前まで週刊誌の仕事ばかり請け負っていたのが勿体ないくらいに」
『最近はアーバンデザイナーや都市建築の特集に力を入れているらしいな』
「ああ。以前から信頼性の高さとセンスのある原稿で小規模ながらも有名な会社だったが、特に氷室さんが入ってからヨウセンは変わった」
 もちろん良い方向にな、と続ける。スタジオの窓から覗く外の景色は深い闇に包まれつつも未だに活発的であり、仕事帰りの疲弊したサラリーマンやOL、幸せそうなカップルに加えてこれから飲みにでも行きそうな大学生など、多くの人々が道を行き交いしていた。
 その後も少しの間仕事に関することを話し、切りのいいところでまた明日、と通話を切る。最後に「仕事熱心なのはいいがほどほどにすること」と釘を刺しておくのも忘れない。僕自身は彼の働きぶりを評価しているけれど、やはり査定や給料の為ではないかと勘繰る社員も少なからずいるのだった。そしてその反感は自分が真太郎を副編集長に推薦したせいで尚のこと膨れ上がっている為、どうにも責任は感じざるを得ない。
 携帯をポケットに戻して踵を返すと、もう機材の片付けも終えたスタッフがそれぞれ帰る支度を始めていた。一度は会ってみたいと思っていた海外ブランドのトップや、過去にパーティで知り合ったことのあるデザイナーとも久しぶりに交流できたので良い機会だった、と改めて思う。何よりもう一度黄瀬に会え、彼の撮影風景を見れたのはかなり大きな収穫だ。今回のみ特別に立ち入りができた自分とはこの先暫く会うこともないだろうし、もしかしたら二人で言葉を交わすのはあれが最後だったかもしれない。いくら契約を結んだ会社同士とは言え、やはりそこに一線は存在する。
 無意識にネクタイを緩めようとしたところで「征ちゃん!」と入口の方から名を呼ばれた。そして顔をそちらに向ければそれぞれ荷物を持って待っている二人の姿。ああそうだ、まだ仕事は終わっていない、とネクタイに掛けた手を外す。
「玲央、小太郎。お疲れ様、今日はありがとう」
 駆け寄って口にすると、二人からもお疲れと言葉が返ってくる。
「赤司ずっとここに居たの?」
「ああ、一応最初から最後まで撮影は見させてもらったよ。一人ひとり違ったタイプのモデルだからとても面白かった」
「私達もデータで見たけど……よくわかったわ。征ちゃんが黄瀬ちゃんを贔屓にしてる理由」
 途端に殊更語調を強めた言い方をされ、すぐに「贔屓になんかしてないよ」と反論してしまったことを後悔した。これでは図星を突かれて焦っているも同然じゃないか。案の定、わざとらしく溜息をついた玲央が口を尖らせる。
「ほんとわかりやすいんだから。あーあ、妬けるわねえ」
「玲央……違うって。そういう対象でもないのにあんまり言ったら、黄瀬に失礼だ」
「……今の征ちゃんの発言の方が黄瀬ちゃん、ショック受けるんじゃないかしら」
「は?」
 意味がわからず聞き返したものの答えはなかった。代わりに小太郎が話に食い付き、ますます自分だけが置いていかれるばかりだ。
「あれ? レオ姉、許さないんじゃなかったの?」
「許さないわよ! だから二人して無自覚なのが余計にムカつくわ」
「いやー、でもまだわかんないじゃん? もしかしたら本当に仕事上で気に入ってるだけかもしれないし。向こうは知らないけど特に赤司はさ、このお仕事完璧主義者に意識させる方がムズいって」
「おい、どういう意味だ。二人とも……」
「その方が全然嬉しいわよ。ていうか、小太郎ってそっちの趣味にも耐性あったのね」
「えー……それレオ姉が言う? そりゃあこれだけ身近に男にラブコール送ってる人間が居ればさあ」
 少しは僕の話を聞け。玲央と小太郎の口から飛び交う一言一句が理解できないまま眉間に皺が寄っていたのだろう、僕の顔を見た玲央が咄嗟に謝ってこう言った。
「征ちゃんはまだ知らなくていいのよ!」
 と。どっちなんだ。よくわからないが僕が何かを自覚できていないことにお前は腹を立てているんだろう。「レオ姉、言ってること矛盾してるよ」と小太郎も突っ込んでいる。その通りだ。
「うるさいわね! いいの、とりあえずこの話は終わり。で、征ちゃん、これから用事ある?」
「いや、特にはないが……」
「じゃあ飲みに行きましょ!」
 いきなり切り出された予想外の誘いに少し目を丸くした。二人が東京に来たのは今朝、久々の再会であり、この二年間はアトリエRAKUZANにも顔を出さなかったのだ。当然飲みに行くというのも数年ぶりになる。
「悪いが僕は遠慮しておくよ」
 申し訳なく思いつつも眉を下げてそう言うと、玲央は大袈裟に衝撃を受けたような反応をした。が、僕が断ることなどきっとわかっていなかったわけではない。成人したばかりの頃は何度か彼らと酌み交わした覚えもあるが、あの時代以来、自ら酒を手にしたことは一度もなかった。
「征ちゃん未だにお酒飲めないのね……」
「飲めないんじゃなくて飲まないだけだ」
「意地張んなよ赤司ー。飲むとすぐ潰れるし、潰れなくても酒癖悪いもんな!」
「……うるさいよ小太郎」
 大きな声で好き勝手言っている彼を咎めるように睨み付ける。と同時にちょうど帰ろうとするスタッフを視界の端に捉え、入口の扉のところを陣取るように三人で立っていた為に壁際へ寄った。お疲れ様です、そう会釈をして今日世話になった人達が去っていく様子を眺めている間、玲央と小太郎は何やら二人だけで声を潜めて喋っているらしかった。そしてスタジオの人口密度がいっきに低くなるなり、小太郎が目を輝かせて口を開く。
「じゃあさ、黄瀬を呼んだら赤司も来る?」
 突拍子もない質問だ。今度こそ本当に驚いてしまい、反応が数秒遅れた。「ちょっと! それは聞かないって」「いいじゃん、試し試し」僕に向けてではない彼らの話し合いは相変わらず理解に苦しむものがあったが、要するに再び黄瀬と会う機会を設けてくれるということだろう。そうか、プライベートでも会おうと思えば会えるのだ。連絡先は名刺に記された事務所宛しかわからないがわざわざ提案してくるくらいだ、玲央か小太郎のどちらかは知っていると踏んでいい。
 特に話したいことがあるわけでもなければ、面と向かって言わなければならないような連絡事項を抱えているわけでもなかった。けれど強いて言うならば褒めてやりたい。最初はどうなることかと思ったが、休憩を挟んだ後半、彼は見違えるほど立派なモデルとして自分を魅せ、その奥底に眠った実力をデザイナーやカメラマンに見せつけていた。正直、あの短時間でよくあそこまでの成長を遂げたなと僕も感心している。――否、元からあれは天才肌だ。寧ろ前半が異様なまでに落ちていただけだろうとは思う。それでも誰もが息を呑むような後半の撮影、黄瀬は服を魅せることをすっぱりとやめた結果、見事にあの衣装を着こなし周囲を魅了していた。彼ほど自分の魅せ方を理解しているモデルもなかなかいないだろう。
 オーディションの合否は明日、明後日とデザイナーやその関係者達の間で充分に話し合って決められる。が、自分の目から見て言えば、結論など一つだった。
「どう? 赤司。別に酒は飲まなくてもいいからさ、久々に」
「……わかった、いいよ」
 まさか僕の口から先に結果を漏らすなんてことはしないけれど、今思ったことを素直に言うくらいはいいだろう。黄瀬はずばずばと批判をすれば負けず嫌いを発揮して本気になるタイプだが、同時にその逆、褒められて伸びるタイプでもある。それは今日の撮影を経て気付いた彼の性質だった。
「黄瀬に少し会いたい。彼が来ないなら僕は行かないよ」
「おっけーおっけー、じゃあレオ姉連絡よろしく!」
「玲央? どうしたんだ、溜息なんかついて」
 急に青褪めた顔をしている。もしかして具合が悪いのかと首を傾げると、玲央は珍しく低い声を絞り出してこう呟いた。
「黄瀬ちゃんのことは好きだけど……好きだけど絶対に許さないわ……」
 え?
「よくも私の征ちゃんを……!」
「あはは、大変だなー、黄瀬も」
 恨めしそうに言葉を並べる玲央の言い分は真意が見えないし、小太郎が楽しげに笑っている理由もわからない。だが自分の思考を占める彼の存在が知らず知らずのうちに大きくなっていっていることだけは紛れもない事実だった。それがどうしてなのか気付く瞬間は、まだやってこないけれど。



2013.04.05
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