目を瞑ってメイクをされている間、ひたすら脳裏に浮かんでいたのはあの人の姿だった。こんなところで会えるとは少しも思っていなかったせいで、突然自分の視界を染めた赤色を払拭することなど不可能だったのだ。これから大事な撮影だというのに本当に心を乱してくれる。大手企業の社長だなんていう正体も、それでいて無遠慮なのは向こうも同じだということも、全てが俺を混乱させ、そして期待させる原因にしかならない。
 また笑顔を見せてくれるかもしれない、もっと彼について知りたいことがある、今度はもう少し気楽に話せるだろうか。随分都合の良い期待だと自分でも笑えるが、不思議とその感覚は嫌じゃなかった。
「はい、メイク完了よ」
 いろいろと思考を巡らせていたところで満足そうな声が耳に入り、我に返る。さすがはプロ中のプロ、普段はあんな態度だけれど一度スイッチが入ると誰よりも手際良く終わらせるその技術は凄まじい。鏡面が広い卓上ミラーの位置を調整してこちらの目に映るようにしながら、どうかしら、と尋ねられた。
「俺から言うことなんて何もないっスよ」
「あら、別に遠慮なく文句つけていいのよ。今回かなり濃くしてみたけど、黄瀬ちゃん比較的ナチュラルメイクが多いじゃない」
「まぁ言われてみれば……」
 鼻筋をくっきり作ることで凹凸が出て、目元や眉、リップもいつもより厚く塗られている。しかし決して重たい印象はなく、寧ろすっきりとした顔立ちを目指したように感じた。コーディネートがどういったイメージで完成されるのかはまだ知らされていない。が、恐らくフォーマルな型に近いか、もしくはバイカラーやトーンオントーンの衣装を用意されているのではないか。
 そんなようなことを簡単に伝えると、「さすが、伊達に八年モデルやってないわね」と笑みを深められる。どうやら外れてはないらしくほっとした。ヘアメイクアーティストの意図を汲み取ることも、大切な技量だ。


Mr.Perfect / Scene 01 - B part


 鏡に映った己の姿を見るのは嫌いじゃなかった。というか正直なところ普通に好きだ。少なからず自分の顔が良いという自負心がなければこんな仕事はやっていないし、丁寧なメイクを経て形を作らされるのだからそれに見合った自分で居たいと思うのは俺にとって至極当然の話だった。そのくらいの意気がなくてモデルと名乗る方が恥ずかしいだろう。
 雑誌の撮影の時に大抵薄めのメイクを施されるのは、俺が日本人にしては目鼻立ちがはっきりしているタイプである為、あまりキツく塗ると浮いて見えてしまうからだと以前とあるヘアメイクアーティストに言われたことがある。特に同世代が真似したいと思えるような服での撮影において求められるのは自然さだ。メイクのみを特別凝るわけにもいかない、という言葉を聞いてなるほどと納得して以来、ここまでアイラインを強く引かれた覚えはなかった。つまり今回の衣装はやはり聞いていた通り、日本人に受けることよりもいかに海外ファッションの要素を多く取り入れ、それを日本人モデルで成功させるか――そこに掛かっているのだろう。元来のこの顔にナチュラルなメイクでは物足りないと言われているようなものだ。
 現在国内で発行されているファッション誌にも、もちろんそういった傾向のものはある。が、いくらハーフやクオーターが揃っているとは言え、海外ブランドをテーマにした上で専属モデル全員が日本人の血を引いている雑誌は俺の知る限りでは恐らく一つもない。特にミラノやパリ、ロンドンで発表された完全新作のニューモードを日本人が着ることなんてありえなかった。各デザイナーも余程覚悟を決めて契約を結んだに違いないだろうし、アパレル産業と海外進出に比重を置いている赤司グループにとっては、今まさに正念場を迎えているはずだ。成功すれば万々歳、失敗すれば後はない。なぜこんな大博打に出たのかは予想のしようもなかった。
 そしてそれはこの場にヘアメイクアーティストやスタイリストとして来ている二人も同じであり、それぞれ多くの仕事を抱えているだろうに試験段階と言っていい企画に快く手を貸している理由は一体何なのか。やんわりと尋ねると、ミブチさんは俺の髪をグリースで固めながら口を開いた。
「なんで赤司グループに協力してるのか、って……うーん、そうねえ、征ちゃんがいるから?」
 聞く相手を間違えたかもしれない。
「そういう話では、なく……えーっと……す、すごい気に入ってるんスね、あの人のこと」
 こちらが言い淀んでも向こうは自分の意見を曲げるつもりはないらしかったので、苦笑しながら無理やり話を逸らす。しかし口にしてから『気に入ってる』だなんて生意気に聞こえそうだ、と不安に思ったものの、そんな心境を余所にミブチさんの表情はわかりやすく輝いた。話に夢中になってもブラシを動かす手は止まらないのだから凄い。
「当然よ! 征ちゃんのことはずっと前から大好きだもの」
 少しも躊躇わない主張にいい加減慣れというものも覚え始めるが、やはり彼の趣向はどこか一線越えているのだろう。何も返せない自分を見てか、葉山さんが「レオ姉が言うと本気っぽいんだよなー」と、こちらもアイロン掛けを続けている右手は止めずに話に入ってきた。
「だから本気だって何度言えばわかるの小太郎」
「俺も赤司のこと好きだけどさあ」
「そうやって軽々しく言うのやめて頂戴。周りがそんなんだから征ちゃんの中でラブもライクもごっちゃになっちゃうのよ」
「え? レオ姉はライクの方でしょ?」
「ちっがうわよ! ラブの方!」
「まじで?」
 その会話を俺はどこまで真に受けていいのだろうか。されるがままに座っている自分は「あはは……」と曖昧な笑みを零すくらいしかできず、この人達も大概謎だと改めて実感する。けれど同時に俺には縁のない話だと高を括ってもいたところで、いきなり顔を覗き込んできたミブチさんがにっこりと笑んだ。
「そういうわけだから、いくら黄瀬ちゃんでも征ちゃんのこと狙ったら私が許さないわよ」
――と、語尾にハートマークでも付きそうな雰囲気と、反面全く笑っていない目に気圧されてしまう。どういうわけか全くわからないし何故俺に対してそう釘を刺したのかも理解できなかったが、相手の空気に流されてしまった自分は場を収める為にもつい答えてしまったのだった。
「き……肝に銘じて、おき……ます……?」
 何も考えずに口にしたこの返事を、いつか後悔する日が訪れるとも知らずに。



 桃っちは結局ヘアメイクが始まる時に控室へ戻っていった。帝光出版の社長に挨拶をするという目的を果たせたからだろうけれど、彼と会ったことによって我が社の社長にも電話で報告しなければならない事項ができたらしい。そう告げてメイクルームを抜け、しかし久しぶりに俺の撮影を見たい気持ちはあるらしく、十一時半前になったら現場に顔を出すと言っていた。
 そして自分も衣装付けが終わったら一度控室に行く予定だったが、先ほどあの人との会話で予想以上に時間を食ってしまったようでそこまでの余裕はなさそうだ。ヘアメイクが終わり時刻を確認するとちょうど十時四十五分。指示された時間に間に合うギリギリといったところだろう。けれど不思議と焦燥感はない。メイクルームの奥の扉から繋がっているもう一つの部屋をミブチさんに示されて開けると、途中から姿を消していた葉山さんが準備を済ませていたらしかった。
「どう? 小太郎、こんな感じでスタイリングに合う?」
 後ろから聞こえてきたミブチさんの声に、ハンガーラックと向き合っていたスタイリストが振り返る。
「おー、さっすがレオ姉、イメージ通り!」
 ヘアのセットが出来てすぐに席を立たされた俺はまだ鏡で見ていなかったが、葉山さんは嬉々とした声色でそう返した。「じゃ、私にできることはここまでね」応援されるように背中を軽く叩かれ、そのままミブチさんはメイクルームへ戻っていこうとする。順に進んでいれば三番目に撮影を行う人間は今、第一メイクルームでヘアメイクを施されているはずだ。恐らく次の四人目のモデルが待っているのだろう。ありがとうございます、と咄嗟に礼を言うと、ひらひらと右手を振られて扉が閉まった。
「よし! じゃあ衣装付けしますか」
 ぱんっ、と一度手を合わせてそう鼓舞し、姿見に掛けられた布が外される。そこに映った自分の髪型は、メイク終了後に確認した時よりも大幅に変わっていた。
「いつものふんわりした雰囲気も似合ってるけどね」
 大きな布を畳みながら葉山さんは含み笑いをする。確かに久しぶりだ、オールバックというのは。
「結構がっちり固めたんスね」
「そう、最初は緩めに髪を上げるだけのコーディネートも考えてたんだけど……レオ姉がさ、君の髪質なら細くて量も多いから見栄えがいい、メイクとのバランスを考えたらヘアはなるべくすっきりさせた方が馴染む、って」
 それを意識すると尚更メイクに目が行くものの、やはり不自然さはなく寧ろ強めな色調が効果的に見える。瞼に掛かるくらいにまで伸びてしまっていた前髪は多分に塗られたグリースによって形作られ、耳から顎にかけての輪郭がよく出ていた。
 そして俺の頭の中ではこれからどんなファッションに身を包まなければならないのか、ほぼ予想はついていたのだ。
「で、君の衣装はこれ!」
 ハンガーラックから取り出された一着の服を見ても驚きはしなかった。案の定、淡く思い描いていた衣装を直に目にして気が引き締まる。
(英国調、か……)
 ミブチさんの前で口にした予測のうち、前者のフォーマルな型に近い、というのが当たりだったらしい。無駄のないシャープな見た目はベルベットのテーラード、濃紺を基調とした中でラペルとベルトに取り入れられたグレンチェックがアクセントになっている。――と、一瞬でそう判断してしまったが、否、よく見ると違う。あれは千鳥格子とヘアラインで構成されたグレナカートチェックではなく、『プリンス・オブ・ウェールズ』――更に赤のウィンドーペーンを差し込んだ、英国を発祥の地とする伝統的な柄だ。上に重ねるショールカラーコートもまた種類の同じくしたパターンを施され、比較的キャッチーな印象は持つだろう。実際、現代でも割と頻繁に見られるオーバーチェックだ。しかしその名の由来は十九世紀に英国皇太子であるウィンザー公爵が気に入っていたことから来ているほど、元を辿れば厳粛で、高貴な模様とも言える。
「あんまり嬉しそうな顔じゃないね」
 黙り込んで見入っていたところでそう声が聞こえてはっとなったが、葉山さんの表情は特に変わらないものだった。俺がクラシック調の衣装を苦手としていることはわかっているのだろう。
「……葉山さんが選んだんスか?」
「まさか。君をご指名のデザイナーが、君に合わせて作ったんだよ」
 よかったね、と続ける口振りに嫌味や揶揄は感じられない。しかしこの服で勝負をするというのは一か八かに近かった。自分が売りにしているのは笑顔、爽やかさ、明るさと言ったところであり、現に同世代から人気を得ている理由はほとんどそこにある。当然エレガントで端正なテーラリングの服も着たことはあるし、それが特別不評だったわけでもない。が、今回はギャップどうこうで通用するような撮影じゃあないはずだ。
 与えられた衣装を着こなすのがモデルの仕事とは言え、得意なジャンルで臨みたいというのが本音だった。つい眉を寄せて考え込んでしまう。すると向かい合ったスタイリストは珍しく笑顔を消し、手に持った衣装に目をやりながら口を開く。「ま、君が不安に思うのもわかるよ」と。
「今までの『黄瀬涼太』はストリートカルチャーを混ぜたポップな服装とか、ジオメトリック柄を用いたオプ・アート、グラフィティ、フレッシュ……割かし親しみやすいコーディネートが多かった。というか断然そっちの方が『自分』を出せてる。ただ……まぁなんていうか、これ作ったデザイナーがなかなか強情でさ。せめてベルベットじゃなくてツイードかコーデュロイあたりを使ってあげればカジュアルな印象も出るんじゃない、って俺も言ったりしたんだけど」
 そこまで説明して浅く溜息をつきながら頭を掻く様子は、どこか手を焼いているようにも見えた。
「そのデザイナー曰く、『黄瀬涼太の可能性を引き出したい』らしいよ」
 しかし視線をこちらに向けて告げられた一言は、意外そのもの。デザイナーというのは自分が作りたい、または自分が着たい服を考えるのが当たり前だとよく聞いてきたけれど、葉山さんの言い分ではこの一着は本当に俺の為だけに作られたと言っていい。そんなデザイナーもいるとは知らなかった。
(……俺の、可能性……)
 脳内で繰り返されたその言葉がとても重く感じる。どれほどの期待を込められて『TiPOFF』の専属モデルとしてオファーが来たのか、嫌でも実感せざるを得ない。
「でも俺はそいつを信用してるし、事実この服のクオリティとファッショナブルな感性は今回使用される衣装の中でもトップレベルだからね。……生半可な覚悟なら、着ない方がいい」
 声のトーンを低めてきっぱりと言い切った表情には気迫が籠っていた。服に対して人一倍感情が大きいことはスタイリストの特徴なのだろう。それを十二分に理解しているおかげで気後れはしなかったものの、一度目を伏せ、深く息を吸ってから俺も返事を口にする。
「着こなしてみせます、必ず」
 肝心の衣装を前にして怯むようなモデルだとはまさか思われたくない。自分次第で服の見え方は変わる。そう意志を込めて断言した台詞に、葉山さんは「合格」と笑った。



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