イメージ撮影は一人ずつ行われることになっている。控室で一時間ほど待機した後、スタッフに呼ばれて既にセットが完了しているフロアへ向かった。するとそこで先ほど桃っちの資料にあった顔ぶれが揃う。ヘアメイクと衣装付けは顔合わせをしてからと予め言われていた為、全員が私服――さすがに女性モデルは自分で化粧をしているが――誰一人として着飾ってはいない状態だ。
 それぞれがプロとして活動している人間だけあって無闇やたらと敵対心を剥き出しにしている奴はいない。普通に自己紹介をし、挨拶を済ませ、よろしくお願いしますの一言を口にする。ただし緊張感は半端ないもので、一人残らず気が引き締まった顔で凛としていた。過去に自分と同じ雑誌に載ったモデルが一人だけ居たものの特に言葉をかわしたことなどなかったし、他の八人に至っては初めて対面する人間。日本語はもちろん流暢だ。平均身長は男が百八十五、女が百七十七、自分はこの中では比較的背の高い方に分類されるだろう。
 意外だったのは、桃っちが自分も撮影の場に顔を出してもいいかと言い出したことだった。彼女が俺の撮影を直に見るなんていつぶりかわからない。唐突な発言に驚きを隠せないでいると「きーちゃんの邪魔はしないから」と余計な気遣いをさせてしまい、「いやそれは全然大丈夫っスけど……珍しいっスね。桃っちがそんなこと言うの」という会話を経て今に至る。自分の斜め後ろに立った桃っちにその理由を聞いてはみたが、ちょっとね、としか答えは返ってこなかった。何か考えがあるのだろう。しかしまだ俺に言うべきではないと判断した末の返事かもしれない。
 マネージャーという役職である以上、自分の許可があれば当然スタジオに足を踏み入れることは可能だ。周囲に居るのが高身長な女性モデルの為、桃っちは一段と小さく見えた。
「では今から配布するナンバープレートの順に沿って撮影を開始しますので、一番と二番の方はメイクルームへ移動してください」
 顔合わせと言ってもその時点で実際に会ったのはモデルのみ。ヘアメイクアーティストやスタイリスト、ましてやデザイナーなんてどこに居るのかもわからず、ただ撮影の補助をするスタッフに指示をされるがまま、数字が記されたバッジを受け取った。
 俺のプレートには『2』の文字がタイプされている。
(二番目ってことは……十一時半からか)
 腕時計に目線をやり時刻を確認すると、同じタイミングで桃っちの口からもそう呟かれるのが聞こえた。説明によれば一人につき用意されている撮影時間はきっちり六十分。前の人が行っている間にヘアメイクなどの準備を済ませ、自分の番が来るまでは再び控室で待つようにと言われている。一人目の撮影が開始されるのは十時半だ。
「緊張するね」
 階段を下りて桃っちとメイクルームへ向かう途中、不意に後ろから耳に届いたその声は彼女のものではなかった。聞き慣れない女声に振り返ると、アシンメトリーなショートヘアーが特徴的なブロンドモデルが俺に声を掛けたのだとわかる。一目でその女性が誰であるかは先ほどの資料を思い出して把握した。イギリスと日本の混血。ここ二、三年の間はずっとロンドンに本店を置くコスメブランドの看板として活躍していた著名なモデルであり、桃っちが女のカンとやらを駆使して相手の成長を計算したところによると、恐らく今回の撮影で最も今後を期待される人間らしい。けれど俺もそれには同意せざるを得なかった。
「そうっスね」
 とても緊張しているようには見えないおかげで嫌味にも聞こえたが、こんなところで腹を探るのはさすがに野暮だろう。簡単にそう返して会話は終了した。
 そして一番の方はこちらへ、二番の方はあちらへ、と案内された通りに歩みを進め、奥の第二メイクルームと札を掛けられた扉の前に立つ。「黄瀬涼太さんは十一時十五分になったら上に来てください」男性スタッフがそう言い残して階上に戻ると同時に、一人目のモデルが隣のメイクルームへ入っていく様子を視界の端に捉えた。
「桃っちはどうするっスか? 先に控室行ってる?」
 撮影まではまだ時間があるし、俺もヘアメイクが終わったらいったんそこで一休みをする予定だ。メイク中はあまり無駄なことを喋れない。退屈になるだろうからと思い声を掛けたが、しかし桃っちは首を横に振った。
「え? でも何もすることないっスよ」
「うん、わかってる。ただ少し話したい人がいるんだ。……多分、きーちゃんと一緒に居た方が会える気がするから」
 扉を見詰めながらゆっくりと一言。誰を指しているのかはわからなかったが、どうやらそれが今日俺と同じ行動を取っている理由らしい。
 桃っちが探していて、しかも自分だけに会いに来る人間なんていただろうか。なかなか思い当たらずに考え込んだままドアをノックした俺の頭の中は、あのことがすっかり抜け落ちていたのだ。
「オフィスクオーターの黄瀬涼太です。失礼しま……」
 す、と言い終える寸前、メイクルームを開けた瞬間に見覚えのある姿が視界へ飛び込み、言葉に詰まる。
「黄瀬ちゃん!」
 ぱあっと輝いたその表情におよそ三ヶ月前の記憶がいっきにフラッシュバックした。頬が引き攣るのも仕方がないだろう。反射的にドアを閉めたくなったが後ろには桃っちが居た為そうもできず、ひたすらに心の準備をしていなかったことを後悔する。
(ちょっ……待って待って待って)
 忘れていた。ここは、ヘアメイクアーティストと顔を合わせる部屋だということを。
「ど……どうも、ご無沙汰してます」
「久しぶりねえ、元気だった?」
「え、ええ、まあ……ミブチさんもお元気そうで……」
「あら、そう見えるかしら。黄瀬ちゃんが全然連絡くれないから私ずっと寂しかったのよ!」
 いや何をメールしろって言うんだよ!
「だってほら、ミブチさん有名だし、忙しそうですから」
「ふふ、黄瀬ちゃんには適わないわよ。それにしても相変わらずいい顔してるわあ、メイクしないでこんな綺麗な肌してるなんてほんっと羨ましい! でも任せてね、私がメイクするからには今以上に素敵なお顔にしてあげるから!」
「そ……それは嬉しいんスけど、あの、ちか、近い」
 っていうか怖い。手を握る必要はどこにあるのか、なんでこんなに至近距離なのか、俺は後ずさるしかないというのに後ろもう壁だから。下がれないから。絶体絶命とかこういう時の為にある言葉でしょ?
「き、きーちゃん……?」
 ほら引いてるし! 桃っち引いてるし!
「レーオー姉! あんま遊んでると赤司に怒られるよ!」
 誰かどうにかしてくれ、と内心訴えていたところで救いの声が聞こえてきた。ありがとうございます。同じように胸中で礼を告げ、渋々と言った様子で手を離したミブチさんに胸を撫で下ろしつつ部屋の奥を覗き見る。すると壁際に設置されたテーブルでアイロン掛けをしている最中だったらしい男性が手を休め、その大きな猫目と目が合った。
 初めまして、と言ってきた相手の手元にある衣装から見て、彼は恐らく。
「『TiPOFF』スタイリストの葉山です。よろしく」
 予想は当たっていた。こちらの視線に気付くなり八重歯が印象的な明るい笑顔で挨拶をされ、一瞬反応が遅れたものの気を取り直して「よろしくお願いします」と返す。レオ・ミブチと仲が良いということはアトリエRAKUZAN出身のスタイリストだろうか。
(つーか今、『赤司』って……)
 もしかして赤司グループの人間が来ているのか? 僅かに眉を潜めて辺りを見渡したが、ここに居るのは俺と桃っち、そして彼ら二人だけであり、他にそれらしい人影は見えない。けれどこの様子だと第一メイクルームには別のアーティストが揃っているのだろう。そちらに顔を出している可能性も考えながら、もう一度頭を下げてオフィスクオーターの黄瀬涼太です、と口にする。
「今日はよろしくお願いします」
「こちらこそよろしく。いきなりごめんなさいね、久々に再会できたからつい興奮しちゃったわ。同じく『TiPOFF』ヘアメイクアーティストの実渕……じゃなくて、レオ・ミブチって言った方がいいかしら」
「レオ姉のその通り名ってパリでついたんだっけ?」
「ええ、そうよ。まぁそれはいいとして……そっちの子は?」
「挨拶が遅れてすみません。黄瀬涼太のマネージャーをさせて頂いてます、桃井さつきです。よろしくお願いします」
「桃井ちゃんね、よろしく」
 さっきまでのドン引きしていた表情はどこへ行ったのやら、桃っちは仕事の話になると途端に雰囲気が切り替わる人だ。その順応性には毎度驚かされる。俺だったらオネエ言葉を使っていていわゆるガチと呼べるような人が突然目の前に現れたらとりあえず避けたい。
「さ、座って。時間も長くないことだし、早めにメイクしちゃいましょ」
 とは言えこの人の実力と功績は目を見張るものだ。敵に回すべからず、と心に決めてアドレス交換までしてしまったほどには。
 ファブリック製の一人掛けの椅子に腰を下ろし、やっと落ち着いたところで静かに瞼を伏せて深呼吸をする。スタジオに来てからというもの、覚悟はしていたが世界的に名高い人間にばかり会っているおかげで少しばかりの気苦労を感じているのは確かだった。「そんなに緊張しなくても大丈夫よ」見透かされたように声を掛けられ、さすが、モデルの顔はよく観察してるんだなと思う。
「事前コーディネートで決めた通りにメイクは近付けるつもりだけど、黄瀬ちゃんから何か要望はある?」
 真っ白なワイドデスクに広げられたメイク道具を確認しながらそう尋ねられたが、俺は首を横に振った。
「ミブチさんのお任せでいいっスよ。そもそもモデルには衣装の詳細とかイメージとか知らされてないんで」
「へえ、本当にぶっつけ本番なのね」
「そうなんスよ。葉山さんが今アイロン掛けてるのって、俺が着る服っスか?」
「ん? 違うよ、これは四番目の人の。君のはもう掛け終わってハンガーラックにあるよ」
 その返答を聞いてやっぱり、と声には出さず納得した。自分が二人目の撮影だとわかってアイロン掛けを終わらせているということは、案の定このナンバープレートは適当に配布されたわけではないらしい。二番という数字にどんな意味が含まれているのかまではどうにもわかり得ない。が、オーディション対象である俺達には何一つとしてヒントとなるようなものを与えず、最初から最後まで実力勝負だと言われていることだけは理解できた。
「にしても大変ねえ。オファーが来てから一週間で表紙の選出も兼ねるなんて……私もまさかこんなに早く東京に呼ばれるとは思ってなかったわ」
 消毒用アルコールを両手に吹き掛けているミブチさんの口からふと零れた一言。ぴくりと反応したのは自分だけではなく、桃っちも同じだったようだ。
「……表紙?」
 顔を上げて聞き返すと、少し遅れて葉山さんが口を開く。
「……レオ姉、それモデルは知らないんじゃね?」
「えっ、嘘」
 そして俺の質問への答えはないまま二人で顔を見合わせて黙ってしまった。気まずい沈黙が流れ、自分の思考は彼の言葉を繰り返す。表紙の選出。その意味など、嫌でもわかるだろう。
 実際に新作を着用してのオーディションとは言え撮影現場にデザイナーが来ることなんて滅多にない。ここまで凝った仕様でモデルの力量を見極めようとしているのにはもう一つの理由があったことを知り、このファッション誌への気合の入れ方が尋常ではないことを再度実感した。
(合格者トップには創刊号の表紙を飾る権利、ってところか……)
 それを言わないあたりが帝光出版らしい、と偏見もいいところな言い分を勝手に思い浮かべる。しかし依然として自分の発言を悔やんでいるらしい眼前のヘアメイクアーティストの手は完全に止まっていて、とりあえず何か声を掛けようとした時だった。
 突然二度のノックが部屋に響き渡り、はーい、と返事をした葉山さんの声によって漸く静寂が破れる。間髪を容れずにドアの開く音が聞こえてきたものの、入口を背に座っている自分の位置からでは誰が入ってきたのかが当然わからなかった。加えてただのスタッフだろうと思っていたせいで、俺は振り返りもしなかったのだ。
「玲央、小太郎。ちょっといいか」
 不意に耳へと届いたその声音が、いやに懐かしく感じる。
――否、正確には、聞き覚えがある。
「……あ、」
 はっと瞬間的に思い出された記憶は一週間前の昼時、ラウンジで桃っちに『TiPOFF』の話を持ち掛けられたあの後。
 自分は、この声を知っている。
 そう意識するかしないかも自覚のないうちに、見返るように席を立っていた。すると約三メートル先、扉の前。そこには以前会った時と同様の黒いスーツを着用し、ネクタイを締め、毅然とした雰囲気を纏うあの人の姿があった。
 彼のことになるとなぜだか理性よりも本能が優先されると知るのはもっと先になってからの話であり、ただ今は、頭の中にまざまざと想起された色素と、視界に映えた赤色が重なって息を詰まらせるほかなかった。どきりと心音が弾んだのはさすがに認めたくない。けれど相対したその両眼も俺を捉えると一瞬驚いたように瞬きをしたが、すぐに嬉しそうに目を細める。
「な……んで、」
 あんたが、ここに。
 視線の交差した一秒にも満たない時間がとても長く感じた。
「……言っただろう、僕とはまた会う機会があるって」
 ゆっくりと紡がれた言葉は確かにあの時にも告げられたものだ。片言な疑問を発しただけの自分の声は随分と浮ついているように思えたが、それさえも気に掛けられない。今の今まで忘れていたくらいだし、期待してたわけじゃないはずだった。なのにもう一度会えただけで、名前も知らないくせに、何をそんな。
(ばかみたいに、)
 そんなに喜んでいるんだ、と完璧に周りが見えなくなっていた俺は、周囲がこちらの会話の様子に驚いていることになど気付くわけもなく。
「赤司と知り合いなの?」
 躊躇わずに聞かれた問いのおかげでやっと我に返ったような感覚に陥る。いや知り合いってわけでもないんですけど、と頭の中で悠長に言葉が並べられたはいいが。
 ……ん?
 葉山さん今、赤司と知り合いなのかって、聞いたよな。赤司と、知り合い? 知り合い、赤司と? いや語順を変えても需要な部分は一つだ。赤司、赤司、ひたすらその名を反芻する。え、いやいや、ちょっと待って。
「あか、し……って……」
 嘘だろ、と途端に顔が青褪めたのは言うまでもない。いつの間にか信じたくもない事態に巻き込まれていたことと、それを向こうはわかっていたかのように口角を上げたことの両方が俺を茫然とさせた。
 この人は心から満足そうに笑みを浮かべる時もあるが、たまにこうして意地の悪い笑顔を見せる癖がある。初めて声を聞いたあの日もそうだった。こちらが混乱していることを理解した上で、実に楽しそうに笑うのだ。
「――この間は挨拶もせずに帰って悪かったな」
 自分の方へ歩みを進めた彼の足元から、こつ、と小気味の好い靴音が鳴る。嫌な予感がして身を引こうとしたが床と繋がれたようにそれは叶わず、既に相手の目力に負けていたことを悟るしかない。そして人一人分くらいの距離を置いて眼前に立ち、宝石を詰め込んだような黄と赤の瞳が俺を見上げてこう言った。

「どうも。帝光出版社長の、赤司征十郎です」

 初対面の時だって敬語なんて使わなかったというのに今更、なんとわざとらしい言い草だろうか。
「……マジ、ですか……」
「マジですよ。ほら、そこのマネージャーはもうとっくに気付いていたはずだ」
 唖然とする自分を余所に彼の視線が向いた先には、ピンクの長髪を揺らして佇む桃っちの姿。どこからどう見ても営業用の顔を作って彼女は彼に話し掛けた。
「先日はご無礼致しました。またこのようにお会いできて光栄です、赤司さん。この度は弊社にお目を留めて頂き、本当にありがとうございます」
「そんなに固くならなくていいよ。歳は同じだ」
「お心遣いを頂きまして恐縮です。……ですが、赤司グループの後継者に媚を売っておきたい気持ちは汲んで頂けませんか?」
「……はは、まさかそう言われるとは思ってなかった」
「歳は同じですので」
 名刺を交換しながら流れるように会話が進む。社交界に名を馳せるカリスマ相手でもこの応対の上手さ、もう何年と業界に居る自分でも、桃っち以上に滑らかな交流をかわす人間は見たことがなかった。が、感心している場合でもない。
 後継者ということはつまり子息だ。いくら知らなかったとは言え、俺はあの赤司グループのご令息に対し『あんた』などと口にしていたらしい。死にたい。
「会長のご容態はいかがでしょうか」
「おかげさまで。僕が日本に戻ってくる必要はなかったんじゃないかってくらいピンピンしているよ。……まあ、社長復帰は当分無理だろうが」
「そうですか……」
「でも征ちゃんのお父さんしょっちゅう海外に出かけてるわよねえ。放浪癖があるというか」
「それは赤司もじゃん」
「……あんまり言わないでくれ。自覚はしてるんだ」
 容赦なく突っ込んだ葉山さんにばつが悪そうな表情でそう答えている。しかし未だに理解が追い付いていない自分は完全に四人の会話から置いていかれていて、ぽかんとしながらその場に立ち尽くした。「――そうだ、玲央と小太郎に用があるんだが」メイクルームへ入ってきた時に何か言おうとしていたことを思い出したらしい。様子を見る限りでは業務上の連絡を伝えているようで、その間に俺は桃っちを小声で呼んだ。
「な……なんで教えてくれなかったんスか」
 本人には聞こえないように極力声を潜め、帝光出版の社長について尋ねる。俺だけ知らなかったのが少し恥ずかしいくらいだ。
「確信が持てなかったのよ。写真でしか見たことなかったし、それも十代の時にミッドタウンのダンスパーティーで撮られた非公式のたった一枚。赤い髪が特徴的だから覚えてたってくらいで、なかなか表には顔を出さない人なの」
「え、でも社長なんスよね?」
「それは先月、前社長である会長が病に伏せてしまって仕方なく、って聞いてるわ。もちろんこの業界で赤司の名を知らない人はいないけど……何より秘蔵っ子だからね、写真さえ出回っていないのは会長の権威じゃないかって噂。でもまあ、一ヶ月くらい前に日本に帰ってきてからは積極的に活動してるみたいだけど」
 『TiPOFF』も始動したし当然ね、と同じようにとても小さな声量で続けられる。彼女の持つ情報の多さは相変わらず驚くべきものだが、俺はそこで一抹の不安を感じた。
 今の話で判断すると、彼が社長就任を果たして最初の仕事が『TiPOFF』ということになる。
「……大丈夫なんスか?」
 それはもちろん、ちゃんと出来るのか、という意味で生まれた疑問だった。可愛がられて育ったあまり仕事は苦手だけれど認められているなんてオチだったら笑えない。が、そんな勝手な予想を聞いた桃っちは「何言ってんの!」と密やかながらも力強く反論し、ぐっと顔を近付けてこう言った。
「大丈夫も何も、会長より腕利きかもしれないって言われてるんだから!」
 ……うっそ。
「ホントに?」
「ほんとほんと! 顔は出さないだけで『赤司征十郎』はアメリカじゃあ指折りのクリエイターよ。彼が関わった作品でヒットしなかったものなんて一つもない」
 と、熱弁されたが全く知らなかった為に息を呑む。ファッション誌やコスメ誌以外の本は滅多に読まないし、読んだとしても自分に関係のないものは誰が作ったかなど微塵も注目しないせいだろう。それだけの大物を前にしても実感が湧かないだけだった。
「まさか本当に会えるとは思ってなかったな……。やっぱり、きーちゃんと一緒に居て正解だったね」
 しかし心の底から嬉しそうな表情を見て、桃っちが話したいと言っていた人物が彼だったということに漸く気付く。なぜ俺と一緒に居たらあの人に会えると思っていたのかはわからないけれど。
「黄瀬ちゃん! そろそろメイク始めましょう、時間がなくなっちゃうわ」
「あっ、はい」
 考え込んでいたところで後ろからそう呼ばれ、慌てて席に戻ろうとした。どうやら事務連絡は終わったらしい。じゃあそういうことで頼むよ、とヘアメイクアーティストとスタイリストに確認を取りながら部屋を出て行こうとした彼に、「あのっ」とつい声を掛けてしまったのはほとんど無意識で。
 いきなり呼び止められて不思議そうに振り返った『赤司征十郎』は、彼は、きっと自分とは住む世界が違う、なんて思ってしまったのだ。
「あ……の、すみません、俺、なんかいろいろ……」
 とりあえず今までの無遠慮な態度に関して謝らなければ。そう思って口を開いたはずが、残念なくらいに上手い言葉が出てこない。というかこういう時はスミマセンじゃなくて申し訳ありませんって言わないといけなかったんじゃ? 寧ろ桃っちがさっき言ってた、ごぶ……ごぶれい? あれ? 失礼致しました、とは違うのか、それ。ああだめだ、これだから敬語はめんどくさい。くそっ、高卒じゃなければ。
 と、僅か二秒の間で人生の後悔までし始めていると、不意に笑い声が聞こえてくる。見れば彼がおかしそうに肩を震わせていた。
「な、なに笑ってんスか」
「いや、マネージャーの方が全然優秀なんだなって思って……、あはは、ごめんごめん」
 そんな風に笑われてしまってはもう何も言えなかった。穴があったら入りたいくらいだが、向こうは構わずに声を上げて笑顔を見せる。
 取り澄ました顔が似合う人だ、でも、そういう表情の方が嫌いじゃないと思った。
「別にいいよ、今更改まった態度をとらなくても。敬語が苦手でその口調なんだろう?」
 そしてバレている。
「そ、そうっスけど……」
「なら貫くことだな。無理に変えるとボロが出るぞ」
 こちらは必死だというのにやたらと楽しそうに口角を上げてそう言われる。もう出てるっつーの! とはさすがに口にできず、その助言を甘受するしかなかった。やっぱりこの人と居るとなぜだか調子が狂うのだ。気恥ずかしさから前髪を弄ってそう感じていると、『赤司征十郎』は最後にこう告げてメイクルームを後にした。
 『TiPOFF』オーディション撮影開始まで、あと一時間。

「――楽しみにしてるよ、黄瀬」



2013.03.23
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