恋の悩みほど甘いものはなく、恋の嘆きほど楽しいものはなく、恋の苦しみほど嬉しいものはなく、恋に苦しむほど幸福なことはない。
――という名言が世間にはあるらしい。ドイツの詩人だか歴史家だか、確かアルント? だったかな、名前。俺には全く縁のない言葉だと思っていた。何せ相手には不自由ないし、恋愛で失敗したことなんて今までに一度もないし、それはこの先も変わらないだろうと自信があった。向こうの心を読んだり要求を察したり、ある程度の関係になっているのであればそのくらい当然のように出来る自分の性格を過信していたのだ。
 否、実際、それは自惚れなんかじゃなかった。ただあの人だけが俺の調子を狂わせる。恋愛など興味のきの字も見られないといった態度のくせに、簡単にこちらの領域に入り込んでは心の中を乱していく人。上手くいかない。口説くこともできない。というかそもそもどこまで踏み込んでいいのかわからない。赤い髪を揺らす彼限定で俺は恋に悩み、恋に嘆き、恋に苦しむだなんて信じたくもない幸福を知ることになる。

 今時月9にもならないっスよ、こんなラブストーリー。
 ベタで単純で安っぽいと笑い飛ばしてくれないとと思いつつ、こちらに向けられたカメラに目線を送った。二年半、必死に働いて漸く手に掴んだとあるブランドの仕事だ。海を越えて暮らしているあの人の街にポスターとして張り出されることが決まっている。
 待ってて、ときっと今も毎日忙しいのだろう彼に向かって胸中でそう呟いた。

 もうすぐ、会いに行くから。


Mr.Perfect / Prologue


 どれだけ苦手な相手だろうがどれだけ好きな相手だろうが俺の処世術などたった一つ、何があっても笑顔を絶やしてはいけない。
「はい、お疲れ様ー!」
「お疲れ様っス!」
「いやー、今日もよかったよ、黄瀬君」
「ほんとっスか? ありがとうございます」
 撮影を行う度に交わされる会話においても笑って受け答えするのが基本中の基本。仏頂面なんて仕事ではタブーだ。とは言え実際、褒められたら嬉しいに決まっているし、相手だって大した返答を求めているわけではないのだから素直に喜びを顔に出せばいいだけ。笑顔を絶やさないというのは作り笑いを保つことではなく、ただいかにプラスの感情を表に出せるかにかかっている。
 気を付ける点と言えば、調子に乗ってマナーを破らないように、ということだろう。挨拶と初歩的な作法はモデルを始めてすぐに身に付けた。が、なぜだか敬語が上手くならず適当に思い付いた語尾を貫き通して早数年が経つけれど、これを使うと気楽に話せるし愛嬌もあるように見えるので、俺としては一石二鳥なのである。
 笑顔は人を元気づけるなどとよく言われるが本当にその通りだろうと思う。誰からも好意を寄せられてこそ、この仕事は成り立つのだ。
「じゃ、また今度も頼むよ」
 毎月お世話になっているお馴染みの雑誌の担当者にもそう声を掛けられ、はいっス、と威勢良く返事を返してやっと撮影は終了する。今回は自分のコンディションも撮影状況も申し分がなかった。以前スタッフに俺のファンの子が隠れて居た時はなかなか大変だったのだ。あんな経験はもう二度としたくない。
 そしてOKのサインが出ればあまりスタジオに長居はせず、次の撮影も円滑に済ませるべく軽い交流をしてその場を後にすることが大抵だった。しかし今日はそうもいかない。メールにてお呼び出しが掛かってしまっている。
(えーと……午後は××スタジオに行かなきゃいけないから……)
 いったん控室に戻ってスマホのポータブル充電器のみを取り出し、受信ボックスを操作しながら示された目的地へと足を運んだ。昨晩、充電をし忘れていたおかげで全く使っていないのに既に30%を切っている。家に直帰できるなら別に大した問題ではないが、三時過ぎに近くのスタジオで打ち合わせを控えている為このままではまずい。手早く差込口にそれを繋ぎ、エレベーターを利用して七階から一階まで下りる途中、たまたま同乗したスタッフに頭を下げられたので自分も会釈を返した。
 多数の人が行き来する通路を抜けて指示された場所――東側のラウンジまで辿り着くと、昼時ということもありそこは大分賑わっていたが、一目で探していた人物を視界に捉えられたことは助かった。自分が言えた話ではないけれどあの髪色はやはり目立っている。
「桃っち!」
 椅子に座って窓の外を眺めていた彼女の名を呼ぶと、ぱっと振り向いて笑顔で手招かれる。
「きーちゃん、お疲れ様! 撮影どうだった?」
「もちろん、ばっちりっスよ」
 自信を持ってそう答えると「よかった」と嬉しそうに返され、こちらとしてもほっとした。
 ガラス張り仕様のラウンジは春の陽が差し込んでいてかなり暖かく、アイボリーの丸テーブルが縦に十五、横に十ほど並んでいる比較的広めのスペースだ。席の埋まり具合は見ての通り、自分達の隣や前にも社員と思しき人間がそれぞれ座っていた。
 桃っちは俺が所属している芸能事務所の社員である。そして今は自分のマネージャーとして働いていて、こうして撮影の時には近くで待機していることがほとんど。俺を含め周囲からは彼女こそ芸能デビューできるのではと密かに言われているくらいレベルの高い容姿をしているのに、本人にその気は全く無いらしい。勿体ないと思ったことは何度かあった。
「で、話って何スか?」
 右手に持っていたスマホと充電器を机に置き、向かいの椅子に腰掛ける。エレベーターの中で一時間前に届いていたメールを再度確認したが詳しい内容は書かれていなかった。きっと直接伝えなければならないほど重要な話なのだろうと少し身構えると、朗報だよ、と桃っちは言い、同時に彼女は自分の鞄から一本の缶コーヒーを取り出して俺に渡した。
 仕事が終わると必ずコーヒーを口にするという自分の習慣をよく知っている証拠だ。何せ彼女とは高校時代からの付き合いであり、親友として表情一つの違いでもなんとなく先が読めてしまうくらいだった。そして今のこの顔は、期待に胸を膨らませ、本当に楽しそうな時に見せるものと言っていいだろう。
 桃っちはわざと声を潜ませるようにし、こう告げた。

「きーちゃん、専属モデルやってみない?」

――仕事の話だろうとは思っていたが、それは初めて耳にする提案で。目を見開いて彼女に視線を向ける。
「専属、って……雑誌の?」
「そう。五月創刊予定のね、二十代の若い男女向けのファッション誌なんだけど……今までの日本の流行から一線を画して、海外のアパレルブランドを主体にフリーで活動してるデザイナーの新作発表が根源の目的らしいの。一応最初は一年契約。契約料についてはあとで詳細資料を渡すわ。とりあえず今のところ男女両方四、五人の専属モデルを雇いたいんだって」
 一つ一つ説明していく桃っちの両目は完全に燃えていて、こういう時の心強さは半端じゃないといつも感じる。さすが、うちの事務所で誰よりも仕事熱心だと有名な女性だ。
「きーちゃん最近調子も良さそうだし、そろそろ何か一つ看板になれるものがあってもいいと思ってたんだ。それで向こうからのオファー、このチャンスを逃す手はないよ!」
 しかしこれ以上ないくらい輝きに満ちた瞳を前に、少しばかり気圧されてしまう。
「ちょ、待って待って桃っち、前向きには考えるっスけど……」
「あっ、ごめんね。まだ整理できてないよね」
「う……、まあ、選択肢が一つしかないことはわかってるっスよ」
 観念するように溜息をついてそう言うと、とても満足げににっこりと笑みを浮かべられた。最初から俺に拒否権など用意されてはいないのだ。
「うん、頑張ろうね、きーちゃん!」
「……ハイ」
 精一杯頑張らせて頂きます。と、いつもと変わらないパターンに俺は首を竦める。やってみないかなんて誘う形で話は切り出されたが、こうなったらほぼ肯定の返事しか受け付けないのが彼女のやり方だ。けれど自分は不平を並べる術も知らなかった。理由はただ一つ、桃っちが拾ってきた仕事に外れはない。
 俺自身の特徴や得意な仕事はもちろんのこと、事務所の現状や目まぐるしく移り行く流行を隅々まで把握し、オファーが来たら相手の会社についても徹底的に調べ抜く。そして統合的なデータを見比べてこちらに確実なメリットがあれば引き受ける。そうでない場合は俺に相談さえしないが、そんな彼女が持ち掛けてきた仕事を断るという方が馬鹿な話だった。
 今やファッションに興味のある若者であれば一度は手に取ったことがあるだろうと言われる雑誌には必ず出演の依頼が来るほど、自分が売り出されている自覚はある。これを自意識過剰だとか自惚れだとか、そういう風にまとめてしまうのは寧ろ桃っちに失礼だと言えるだろう。黄瀬涼太の名が売れ始めたのは彼女あっての結果であることを、俺は日々痛感しているのだから。
「誌名とかってもう決まってるんスか?」
 冷えた缶コーヒーのタブを開けながらなんとなしに尋ねた。詳しい話は後々資料を参照するつもりだが、ある程度のことは知っておきたい。
 すると桃っちは「決まってるよ」と簡潔に答え、鞄から抜き出した手の平サイズのメモ帳にボールペンでさらさらと文字を書く。そして紙の向きを変え、俺の視界に一つの単語が飛び込んだ。
――『TiPOFF』。
 無意識のうちに声に出していたらしい。確かバスケで言う試合開始のことだよね、と桃っちは呟いたが、経験のない自分には聞き慣れない単語だった。
「ふうん……。海外ファッション中心ってことは、やっぱり個性派揃いなんスかね」
「うーん、私からは何とも言えないけど……独特な雰囲気はあるかも。出版がそういう系統だし」
「あ、どこなんスか? 出版社」
 ここまで来て漸く肝心な部分を聞き忘れていたことに気付く。彼女が喜んで引き受けてくるくらいだからきっと有名な企業なのだろうと予想を膨らませていると、「聞いて驚かないでね」とやたら勿体ぶった反応をされた。しかし俺はその忠告を聞き流し、呑気にコーヒーなんかを口に含んでしまったわけで。
「この雑誌を企画してるのは――帝光出版だよ」
 ……え?
 その一言に、数秒理解が追い付かなかった。そして気付いた時には盛大にむせていて、飲み込んだはずだったコーヒーが器官に入りとても苦しい。
「は……!? て、帝光って、げほっ、」
「もう、だから驚かないでって言ったじゃない!」
「い、いや、だって……」
 帝光出版って言ったら、超大手じゃないっスか。
「ね? このチャンスを逃す手はないでしょ?」
 いやいやいやその通りではあるけどそんな簡単に明るく頷ける話ではない。
 『帝光出版』、この業界にいてこの名を知らない者は居ないだろう。約二十年前に設立された比較的新しい出版社だが、不況を迎えた時代となっても数多くのヒット作を生み出し、刊行している幾つかのファッション誌においても全ての売り上げが群を抜いている。無名のモデルを発掘してきたのも常にここの会社だ。しかし買い手のターゲットがやたらと幅広いことで有名であり、それは年齢層はもちろんのこと、日本だけでなく多数の外国も視野に入れていることを示していた。老若男女、国籍さえも越えてみせる。寧ろどちらかと言えば海外進出に重きを置いた会社で、国内の活動は縮小気味だと聞いているが――という旨を要約して捲し立てると、桃っちは心底感心したような表情を見せた。
「さっすがきーちゃん……相変わらずブランドには敏感だねえ」
「そりゃそうっスよ! 大体、帝光出版と言えばあの赤司グループだし」
 コーヒーを飲み直して続けたところ彼女も納得したらしい。
「あ、そっか、きーちゃん関わったことあるんだっけ?」
「関わったってほどでもないっスけど……この間、アトリエRAKUZANの人には会ったっス」
「えっ、すごい! アトリエRAKUZANって赤司グループの中でも筆頭じゃない。どうだった?」
 興味津々と聞かれてしまったがどうと言われても、とにかくやりづらかったとしか覚えがなかった。年明け直後の仕事で初めて対面したそのヘアメイクアーティストは自分より一つ上の若い男性だったが、実力は国内の美容系大会を総嘗め、専門学校時代には難関なオーディションをトップで通過し、パリコレのヘアメイククルーにも参加したと聞いている。人柄としてはかなり明るく接しやすかったものの、まさか親近感など湧くわけもなく緊張で身が縮まる思いの撮影だった。そして何より……自分と同じ『普通の男性』だとまとめていいものなのか。
「ま、まぁその話はいいとして、週末くらいまでに返事出せばいいっスか?」
 あまり思い出したくない事情に無理やり意識を逸らして尋ねると、桃っちはきょとんとした顔になる。それからさも当然のようにこう言ってきたのだ。
「もうOKの返事しちゃったよ?」
「……え」
 驚愕どころの話ではない。またコーヒー吹き出すところだった。
「へ……返事しちゃった!? なんでっスか!?」
「だって断れるわけなかったんだもん! うちの社長は帝光出版からの仕事だって聞いてご機嫌だし、実際こっちとしては願ったり叶ったりなオファーだし、何より……何よりテツ君の頼みだよ!?」
 で、出た、定期的に会話に飛び出てくる桃っちの『テツ君』。
「いや俺その人知らないっスから! 一番最後が本当の理由だよね!?」
「当然でしょ! 聞いてよ、だってね、テツ君やっと念願の帝光出版に入社できて、新米編集者として毎日一生懸命働いてて、今回は赤司グループの社長さんから直々にきーちゃんのオファーを頼まれて私のところへ来たんだから! 無理ですなんて言えると思う!? たくさん考えたけど私にはそんな無情なことできなかったよ!」
「なんスかその俺が酷いみたいな空気! どうせ考えたっつっても一秒とかでしょ!?」
「もちろん、即答したわ!」
「ほらぁ!」
 バン、と机を叩いて反対の手で桃っちを指差し、非難めいた声を浴びせる。彼女のことは信頼しているが時たまこうやって自由に行動されるともう手に負えなかった。特に『テツ君』が関わってくるとこちらの言い分など丸無視だ。
「もー……俺の意志はどうなるんスか」
 力無くそう呟き、肩を落としてがっくりと項垂れる。それとほぼ同時だっただろう。不意に近くから笑い声が聞こえてきて、桃っちも自分も思わず声のする方に目を向けた。
 すると隣のテーブル、俺から見て斜め向かいの位置に座っていた青年が口元を手で覆うように隠し、堪えるように肩を震わせているのがわかった。彼の前には誰も座っていない。そしてこちらの視線に気付いたらしいその人は、やっぱりくすくすと笑いながら楽しそうに目を細める。
「……ああ、いきなり笑ったりしてすまなかったな。お前たちの会話があまりに面白くて」
「あっ……ご、ごめんなさい! うるさかったですよね」
 咄嗟に謝った桃っちに「大丈夫だよ」と穏やかな口調でそう答える様子を、俺は言葉も出せずに黙って見ていた。きっちりと締めたネクタイやスーツの着こなしはここでもよく見る社員と大差ないものだったが、だからこそ余計に、その燃えるような赤い髪が映えていた。瞳は髪色と同じ、かと思いきや片方の黄金色は寧ろ俺が持つ色に近い。
 稀に見ないコントラストになぜだか釘付けになっていたのだろう。しかし全てを見透かすような強い視線と交差し、一瞬で体が強張る。
「……お前が黄瀬涼太か」
 桃っちに言葉を返している時とは全く違う雰囲気に俺は息を呑んだ。口角を上げたまま品定めをしていると言っても過言ではない風に呟かれてはっとなったが、あの、と小さく絞り出した声は向こうの一言一句に掻き消される。
「やっぱり紙面で見るより実物の方が顔もスタイルも全然良いんだな。通る声をしているし、後々はコマーシャルや番組にも起用できそうで安心した。でもまあ……頼りなさも二倍と言ったところだが」
 ……は、い?
 自分の名前を知っていることは全く珍しい話ではないので不思議に思わなかったが、さすがに最後の一言には反応せざるを得ない。
「な……何なんスか、あんた」
 赤の他人に嫌悪感を剥き出しにしてしまったのは少し後悔した。が、ほぼ無意識のうちの一言にも、ふ、と笑みを浮かべられるだけであり、俺はもう既に実感していたはずだ。彼の存在感。ただの社員ではないということ。きっと何かしらの『力』を持っていること。急に現れ、自分の視界に姿を見せたその人は、この時から少なからず俺の調子を狂わせていたのだと。
 頭の片隅では客観的な情報をまとめられたが、その実、自分が置かれている状況についてはなかなか呑み込むことができなかった。眉を寄せたまま返答を待つと相手は一度目を伏せてから口を開き、
「僕とはまた会う機会があるだろうから、今話す必要はない」
 と、そう答えるなりこちらが聞き返す間もなく席を立つ。いきなり上から物を言われいきなり切り上げられ、俺も桃っちも引き留める術などなくただ予想だにしていなかった展開に黙り込んでしまった。しかし彼は去ろうと足を一歩踏み出す直前、「ああ、そうだ」と何かを思い出したように振り返ってこう告げる。
 自分と同い年くらいの赤髪のその人は、最後まで名乗る気などないらしい。
「さっきの会話で少し気になったんだが……『TiPOFF』のヘアメイクは全面的にレオ・ミブチに頼もうと思っているから、覚悟しておくことだな」
 代わりに面白がるような口振りで望んでいなかった人名が挙がり、こちらとしては顔を引き攣らせるほかなかったわけで。
(……マ、ジかよ……)
 内心で苦々しく呟いた。
「……きーちゃん?」
「…………」
「きーちゃん!」
「あっ、なんスか桃っち」
 ラウンジを出て行く後ろ姿から視線を逸らすことができず茫然としていたところで、不思議そうに首を傾げた桃っちに案の定「レオ・ミブチって誰?」と尋ねられる。情報通な彼女がその名前に聞き覚えがないのは、多分日本で仕事を持ち始めたのがつい最近の話だからだろう。さすがに直接会ったわけでもないのに海外主体で活動していたアーティストまでは知るまい。
 けれど何故あの人が『TiPOFF』について知っているのか、何故著名なヘアメイクアーティストと関わりがあるのか、一体どこまでわかっていて、彼は何者なのか――疑問点は尽きないものの、まずはその問いに嫌でも頭を抱えるしかなかった。上手く濁したさっきの努力がまるで無意味だ。
「えーっと……」
 どう説明すればいいのかわからず、未だに状況も把握し切れていない。だがしかし確実に言えることは、俺は今、とんでもない出会いをしてしまったのだろうという異様な確信に満ちた予想だった。
 もしかしたら最悪な未来になるかもしれない――なんて思いながら、俺は『レオ・ミブチ』について苦笑する。
「……ガチの人、かな?」
 いろんな意味でね。


 ◆


 ネクタイを少し緩めながら大きく息を吸う。ラウンジを出てロビーへ向かう途中、自分の顔を知っている人間に恭しく頭を下げられた。このスタジオの責任者に会いに来たのは数日前。再び何の用で、と心のうちで思っていそうな表情をされるのは当然の結果なのだろう。
 今日ここまで足を運んだのは、今度創刊するファッション誌の専属モデルとして起用予定の芸能事務所への軽い挨拶のつもりだった。七階で撮影をしていることは知っていたのであとで許可を得て控室にお邪魔しようと考えていたのだが、予想外にも偶然隣に居た女性が目当ての人物のマネージャーらしい。暇潰しの為に適当に日当たりの良いラウンジを選んだのは正解だったようだ。ただ、自然と盗み聞きをするような形となってしまったことは申し訳なく思う。
 足を組み、頬杖を突いて全く関係のない風を装い、目線だけを二人の方に向ける。黄色と桃色の組み合わせはやたらと明るく目立っていた。が、ここは比較的穴場なのか割と静かな空間であり、向こうの会話を聞き取るのは容易かった。
 なるほどテツヤが相手の事務所の名を聞くなり自分がオファーをすると自信満々に言い出したのはこういうことだったのか、と一人納得したのが数分前。確かにあの女性に対しては僕が行くより効果的だっただろう。
「タクシーを一台お願いできますか」
 受付嬢に一言そう頼み、五分ほどで到着する旨を伝えられたので礼を告げて外へと足を進める。早く帰らなければ、また勝手に社内から抜け出したのかと真太郎に怒られてしまう。
(あれが株式会社オフィスクオーター、ね……)
 こちらが声を掛けなくとも専属モデルの話に持っていってくれたことは有難かった。赤司グループ、帝光出版、更にはアトリエRAKUZANのことまで把握しているとなれば僕の方から特に言うことはない。寧ろ知りすぎだな、と二人の情報量には正直感心した。
 結局名前すら告げずに帰ることとなってしまったが、恐らく『桃っち』と呼ばれていたマネージャーの方はすぐに僕が誰なのか気付くだろうと思った。去り際に一瞬鋭く目を細められたあの顔付きは、頭の中に保存してある膨大なデータを掘り起こし『TiPOFF』に関わる人間のうち自分が一体どの位置であるのか、見定めているように感じたからだ。
 つい数日前までロスに居た為に日本の業界にはあまり顔を出さないでいたが、僕が赤司財閥の流れを汲んで生まれた赤司グループの子息であると思い当たるのもきっと時間の問題だと断言していい。
『――お電話ありがとうございます。こちらアトリエRAKUZAN京都支部でございます』
 タクシーを待っている間、ポケットから薄型の携帯電話を取り出して電話を掛けた。本当は直接彼らの携帯に掛けてもよかったのだが、仕事中なら営業を介した方が通じやすいだろう。電話口に出た女性に自分の名を口にするとそれだけで『少々お待ちくださいませ』と保留ボタンを押される。いつものことだ。さて三人のうち誰に代わられるだろうかと雲一つない空を仰ぎながら考えること五秒、嬉々とした声色が耳に届いた。
『もしもし、征ちゃん?』
「ああ。久しぶりだな、玲央」
 僕のことをそう呼ぶのは彼くらいだ。
『久しぶりね。日本に帰ってくるのは来週だったかしら?』
「いや、それが予定が早まって……もう東京にいるよ」
『えっ!?』
 事情を説明しようとしたものの大袈裟に反応されてしまい、やっぱり先に連絡しておくべきだったな、と少し反省する。案の定、玲央は慌てて手元のメイク用品でも落としたのかガタガタと音が聞こえてきた。『と……東京!? 今!?』こんなに驚かれるなら寧ろ言わない方がよかったかもしれない。
『ど、どうして教えてくれなかったのよ! 成田まで迎えに行くつもりだったのに!』
「すまない、家の者に呼ばれてばたばたと帰ってきてしまったから……気持ちだけで充分だよ。ありがとう」
『征ちゃんが謝ることはないけど……』
『なになに、赤司帰ってきたの?』
『ちょっ……小太郎! ハサミ持ったままうろつくのやめなさいっていつも言ってんでしょ!』
 話に割り込むようにして一人増え、途端に騒がしくなった電話口に小さく笑う。もう直には三年ほど会っていないが、相変わらず仲が良さそうで安心した。
 そして玲央から子機を奪ったらしい小太郎が、赤司聞いてよ、と嬉しそうにこう続ける。
『俺ね、アシスタント卒業したんだよ』
 その報告に僕は素直に驚いた。
「へえ、おめでとう。意外と早かったじゃないか」
『でしょ? もうさ、宮地さんすっげー怖いんだもん。技術面では全然負けてなかったのに』
「そうだな、小太郎はスタイリングのセンスは抜群だが……ファッション業界を学ぶにはアシスタント時代も必要だからね」
『レオ姉はアシだったことないじゃん!』
「玲央はパリで二年間修業を積んだ身だ」
『そーよ、私だって向こうじゃ下っ端だったの』
 ほら代わんなさい、と再び声の主が元に戻り、小太郎が不満げに口を尖らす様子が思い浮かんだ。そんな彼もあれほど嫌がっていたアシスタントの仕事をなんとか乗り越えたのだと思うと、時間の進みとそれぞれの成長を実感せざるを得ない。
「永吉は?」
 恐らく玲央と小太郎はアトリエでマネキンやら練習モデルやらを相手に作業をしていたのだろうけれど、永吉だけは唯一そういったものを必要としない職に就いている。アトリエには居ない可能性の方が高い。そう覚悟して尋ねたが、玲央は深く溜息をついて予想と正反対の返答をした。
『まだ二階で寝てるわ。昨日ロケハンで帰ってきたのが遅かったらしいの。起こす?』
 この三人は正確に言えばもうアトリエRAKUZANの人間ではないものの、フリーランサーになっても京都支部で寝食をするのは変わっていないらしい。まぁそれを許可したのは僕だけれど。
「いや、いいよ。疲れてるだろうからゆっくり寝かせてやってくれ。……大変だな、ロケーションコーディネーターというのも」
『そうねえ、撮影が長引くことなんてしょっちゅうだし……あっ、でも、征ちゃんが仕事で必要ならタダで提供してやるってあいつ言ってたわよ』
「そうか、それは有難いな」
 話しているうちに、久々に彼らに会いたいと思った。しかし今東京を抜けるわけにはいかないのが現状だ。やはり向こうからこちらに来てもらうしかないだろうかと、悠長にそう考えながら本題を口にする。
「玲央、この間メールした件だが」
 一呼吸置いてからそう告げるとほぼ同時に、一台のタクシーが遠くに見えた。きっかり五分が経過したようだ。首を傾けて肩と耳で携帯を挟み、空いた両手で緩めていたネクタイを素早く締め直す。
『今度征ちゃんの会社から出すファッション誌のことよね?』
「ああ」
 そのまま自分の前に停車したタクシーの扉が開いたところで通話は切らずに乗り込み、帝光出版社までお願いします、と運転手に向かって小さく言った。十階建てのビルが過ぎ行く窓の外を横目に足を組む。この体勢は骨盤が歪むから良くないと散々玲央に注意されたのを思い出したが、大抵はモデルに伝えていた台詞をなぜ僕にまで言ってきたのかは未だにわからない。
「企画は予定通りに進んでいるよ。あとは……玲央と小太郎の協力を得られればすごく助かるんだ」
 向こうは向こうで各々仕事を抱えているのは知っている。いくら赤司グループが名高いとは言え、急な依頼に契約を謝絶した企業ももちろんあった。何せ創刊号は五月発売を目指し、今はもう三月も半ば、準備期間は異例の短さと言っていい。二人から断られることも予想はしていた――が、しかし躊躇いがちに言葉を紡ぐ僕の耳に、『なに言ってるの』と少し呆れたような声色が響く。
『私達が征ちゃんに協力しないなんて、そんなことあるわけないじゃない』
 きっぱりとそう言い切られ、理屈も何も見られない言い分に少々面食らってしまった。
『ちゃんとOKの返信したでしょ!』
「それは、そうだが……平気なのか? 本部に来てもらうことになるぞ」
『大丈夫よ、東京なんて半日で行けるんだから。パリと日本を行き来してた時より全然マシだわ』
 迷いのない一言。こんなに心強い味方もなかなかいないな、と声には出さず笑みが零れる。「ありがとう」瞼を伏せて思ったままの言葉を口にすると、玲央は満足そうにどういたしましてと返した。
 都市部のこのあたりはビル街であり人通りも多いが、交差点を四つほど過ぎたところで目的の建物は簡単に捉えられた。周囲に比べて我が社が一段と高層建築であるせいだ。
「じゃあその方向でお願いするよ。詳細はファックスで送る。……それと最後に、」
 彼がこちらに来ると決まったならきちんと忠告しておいた方がいいだろう。
「お前の趣向に文句を言うつもりはないが……モデルを本気で狙うのはやめろと何度も言ったよな?」
 あまりこういう話は得意ではない為に、自然と溜息が零れ心なしか声も小さくなってしまう。しかし先ほどの二人の会話の様子を見る限り放っておくわけにもいかなかった。事はなるたけ円滑に進めたい。
『黄瀬ちゃんのことかしら?』
「……わかってるなら聞くな。怯えてたぞ」
『あらやだ、失礼しちゃう。私の本気はいつだって征ちゃんだけなのに』
「そういう問題じゃなくて」
 自覚はあるくせに悪びれもなくそう言ってくるのだからタチが悪い。レオ・ミブチに気に入られたら最後、などと一部で噂になっているという事実はどうにも芳しくないだろう。玲央とは学生の頃からの付き合いであり、狙うと言っても本当に手を出すような性格でないことは知っている。けれど黄瀬涼太の件然り、若干でもトラウマを植え付けては後が面倒だ。自身の将来の為にもその厄介な癖は克服すべき、と昔から僕が戒めてきたけれど。
『だって黄瀬ちゃん、すっごく良い容姿をしてるんだもの!』
 悲しいくらいに何も変化がない。
「……玲央」
『なーんて嘘よ、うそ。容姿がずば抜けてるっていうのはホントだけどね、私だって自重はするわ。征ちゃんに迷惑は絶対かけないから』
「……その心配はしてないよ。でも、本当に頼むぞ。せっかくの逸材を潰したくないんだ」
 正直な事情を伝えれば、『随分買ってるのね、あの子のこと』と、間髪入れずに核心を突いてくるところが玲央らしかった。しかし僕も大して驚かず、そうである明確な理由を口にするのみ。
 黄瀬涼太は世間の評判や過去の功績で判断するより、きっと実際に会った方が数倍良い。
「――あれを紙面で生きるだけの人間に留まらせるのは、勿体ないと思ってね」
 僕ならもっと可能性を引き出してあげられる。
『……そう』
「まあ、何もあいつだけじゃないけどな。今回起用する専属モデルは全員著名なデザイナーからの指名も含まれてる」
『あら本当に? ふふ、ヘアメイクアーティストとして腕が鳴るわね』
「頼りにしてるよ。……じゃあ悪い、そろそろ切るぞ」
 名残惜しくはあったがこのまま延々と会話するわけにもいかず、切りのいいところでこちらからそう断りを入れた。そして通話が切れた後、玲央の呟いた一言が音も立てずに頭の中を巡る。
(買ってる、か……)
 それは気まぐれなんかじゃなかった。いくら将来有望だと周りから囃し立てられていようが伸びしろに限界が見えれば速攻で切るし、常に上を目指そうとする人間でなければ話す気にもなれない。とてもシビアなこの世界で生き残れるのはほんの一握りだ。彼の奥底に眠ったポテンシャル、センス、実力――今の時点では何を言っても過大評価にしかならないだろう。けれど開花する日は必ず来る。日本なんて小さい枠に収まった人気で満足できるほどいい子じゃあないはずだ。
 僕は僕の目に絶対的な自信を持っている。今まで、何百の人材を見極めてきたこの両眼を。
「……貪欲になった方が、案外成功するものだよ」
 なぁ黄瀬、と閉じられた携帯電話を柔く握り、口角を上げて独り言を零した。ゆるゆると走行しているタクシーの窓際に頬杖を突き、一定のスピードで流れて行く景気に目線をやりながら先の未来に思いを馳せる。楽しみだった。嬉しかった。根拠もなく、ただあの時、初めて彼と視線が絡み合った時、自分の片方の瞳と同じ色を持った目に見詰められた瞬間が。
 心臓が高鳴っている。


――ああそうだな、確かにこんな安い恋愛じゃあ月9どころか映像化なんて到底無理だ。だから二人だけの駄作で構わないと僕は思うよ。まさかお互い一目惚れだったなんて、と涙ながらに笑い合える日が訪れるまでの物語だ。
 そう並べると彼は笑った。
 何言ってんスか、その先がバラ色の人生でしょ、と。



2013.03.14
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