02

 「いるよ。一人だけな」
 予想と全く正反対の返答に、オレは目を見開いた。冗談半分で尋ねただけなのにそんなまさか。すっかり言葉を失って放心していると、その間に上空を飛んだ黒い鳥の羽根の擦れる音が、やけに大きく聞こえた。
 オレの露骨な反応を見た青峰っちは足を止めておかしそうな目を向けたが、自分としてはさっきの発言が衝撃的すぎて理解が追い付かないのだ。嘘と疑ったわけではなくただ信じられない感覚。それもそうだ、真偽を考えられるほどの余裕があればこんなには驚かない。
 そんなこちらの心境を他所に、青峰っちはゆっくりと瞬きをしてから静かに言った。あいつには勝てなかった、と。
「誰に……負けたんスか、それ」
 抑えることもできず無意識に零れた疑問はあまりに直球なもので、案の定わかりやすく眉を顰められる。
「教えねーよ」
「え……えぇ!? すごい気になるじゃないっスか! ていうか大体、オレに勝てるのはオレだけじゃなかったんスか!?」
「それとこれとは別」
「り、理不尽! 嘘つき! 気になる!」
「うるせえな! あーもう、この話は終わり! 終わりだ!」
 しまった。こうなったらテコでも言わなくなってしまう。オレが未だに一勝もできない青峰っちにはっきりと負けを認めさせるとは一体どれほどの者なのか、知りたくなるのは当たり前の話だろう。再び公園の外へと歩き始めた青峰っちにヒントを要求すると、そんなもんねーよ、とあっさり跳ね返された。
「じゃあ片っ端からそれっぽい人挙げてくんで当たってたら言ってくださいっス」
「はぁ? 嫌だっつーの」
「えーと、緑間っち!」
「聞けよ」
 苛立たせてしまおうが関係ない。このチャンスを逃せば二度と聞けるタイミングなんてやってこないだろうし、知りたくなったら徹底的に聞き出そうとするのは人間の本性としてごく自然なことだとオレは思う。
「はずれっスか?」
「いや、はずれっつーか……緑間はオレにワンオンワン挑んでくるような奴じゃねえだろ」
 あとまあ、青峰っちはなんだかんだ押しに弱い。これはいける。そう確信したオレは「じゃあ紫原っち」と別の名を挙げた。するといい加減諦めたのか、溜息をつきながら心底面倒臭そうに青峰っちは答える。
「やったことはあるけどそれはほぼノーカン。ポジション全然ちげーし、あいつはオレのシュートを叩き落とすことはしても自分からシュートしようとはしなかったからな」
 なるほど。意外とよく覚えてるんだなと頭の片隅で余計なことを考えた。
「帝光のメンバーっスよね?」「……多分……っていうかこれヒントじゃねーか」「いや多分じゃわかんないっスよ。ストバスで出会った人?」「違う」「じゃあオレが未来で青峰っちに勝つ予知夢を見たとか」「発想力の豊かさだけは認める」「冗談っスよ! あの試合の後、火神っちとワンオンワンしたんスか?」「あー、したけど勝った」「えぇ……だってあとは……あっ、わかった、桐皇の主将だ!」「ふざけんな」「ショーゴ君」「は? ねーよ」「……まさか黒」「真面目に考えろ」
 黒子っちに至っては最後まで言わせてくれなかったが、これでも真剣に考えているつもりだ。ショーゴ君まで思い付いたあたりは褒めてほしい。
 もちろん、ここまで言って正解が出てこないなら残る人物がただ一人であることはわかっていた。
「えー、もうあと残ってるの赤司っちだけじゃないっスか」
 頭の後ろで手を組んで口にするだけしてみるが、でもきっとこれはありえない。反論される前からオレはそう疑わなかった。
 そして「んなわけあるか」と、予想通りの返答が返ってくる。
「赤司はオレ達とワンオンワンやったことねえだろ」
 とても簡潔で、且つ納得せざるを得ない理由。緑間っちは『自分から挑んでくるような奴じゃない』だけであり、実際何回かは対決したことがあるのだろう。けれどあの人は違う。恐らく緑間っちや紫原っちとのワンオンワンを指示した張本人であろう赤司っちは、青峰っちに限った話ではなく、キセキの世代と呼ばれた自分達の誰一人とも一対一の勝負をしたことがなかった。
「でも他に青峰っちに勝てる人って……桐皇のチームメイトならあんなグレることなかっただろうし、過去の先輩なんて覚えてないし……えええ……?」
「はい時間切れー。この話は終わりだ。あと別にグレてねえ」
「えっ、ちょ、結局誰なんスか!」
「だーから教えねえっつってんだろ」
 今挙げた人達の中に正解が居て、単に全て違うと言い切っていただけの可能性ももちろんある。が、オレが一つ一つの反応を分析した限りでは、図星を突かれて動揺するといった素振りが一度も見られなかったのだ。自分の観察眼が人並み以上に優れている自信は持っていた。だから口では否定していようと、答えが的中して視線や仕草に変化が表れればわかると思ってたんだけど。
「あ、じゃあ最後に一個だけいいっスか」
 ぱっと思い付いたそれはほぼ興味本位の質問だった。
「その人って、もう会えない人?」
 勝てなかったという過去形の一文から閃き軽々しい気持ちで尋ねた一言に、その時初めて、青峰っちの瞳が揺らいだ。ヒントと言うにはあまりに露骨な反応だ。
「……さあ、どうだろうな」
 声の調子が落ちた返事に目を見張る。
 もう会えない人――その意味が例えば亡き人を指しているのなら申し訳ないどころの話じゃない。これ以上本人に詮索するのはやめた方がいいかと判断し、そっスか、と簡単に相槌を打って口を閉じた。
 とは言え気になっていることには変わりないのだ。自然と、脳内ではさっきの流れがもう一度思い返される。まず青峰っちが誠凛以外に負けた経験があるという時点で驚きだが、それについてはわざわざ嘘をついたとは考えられないし事実だと断定していいだろう。
 オレが並べていった問いに唯一間を置いて答えたのは、帝光のメンバーかという質問に対する『多分』の二字だった。
(なんでそこが曖昧なんだ……?)
 いくら青峰っちでも自分を負かした相手がチームメイトか否かを忘れるほど馬鹿じゃないはず、と思う。けれどその条件を抜きにしても、この人に勝てる人間なんて正直、オレ達キセキの世代か火神っち以外思い付かなかった。
 そして一連の質問と返答に重ねて『もう会えない』の意味がわからない以上、可能性として高いのはきっと、赤司っちだ。

――赤司っち! オレと勝負してくれないっスか?

 ふと脳裏に二年と半年前の景色が浮かんだ。昔、青峰っちにいつも挑戦していたように、一度だけ赤司っちにも勝負を頼んだことがある。
 今と変わらず好奇心に溢れていた自分の心はあの人のプレースタイルにも当然興味があった。いつかコピーできればとその時から考えていたし、それを実現させる為には実際に戦ってみるのが最も効率が良い。スタメンに選ばれたばかりの自分に、赤司っちはワンオンワンを受け付けてくれないという知識はなかった。
 しかし正確に言えば、赤司っちが一対一の試合を好まないというのはオレが入部した後の情報だ。だから青峰っちが中一の時に赤司っちと勝負して、それで『勝てなかった』と言うのならば理屈は通る。が、帝光のメンバーかどうか、記憶喪失にでもならない限り覚えていないわけがない。

――どうしてオレと? 青峰はどこに行った。
――まだホームルーム終わってないみたいなんスよ。一回主将ともやってみたいと思ってたし……一戦だけでいいんで、お願いできないっスか?

 自分の頭の中で音も立てずに青峰っちの話と過去の記憶が交錯する。忘れもしない思い出だった。勝利する確信なんてもちろんなかったけれど、それでももしかしたら、という希望を勝手に見出して臨んだ勝負。
 ところが赤司っちは少しも迷う様子なく「駄目だ」と告げた。その絶対的な自信に満ちた表情は、次の台詞をわかりやすく強調する。

「せめてオレに勝てる可能性を1%にまで引き上げてから挑んでこい」

 放課後の練習が始まって五分、オレの挑戦は呆気なく却下。そんな風に言い切られるとはあまりに辛辣すぎると多少ショックは受けたものの、これで易々と引き下がるわけにもいかず、練習メニューが書かれた紙に目線を戻した赤司っちに精一杯の抗議をした。
「ちょ……、も、もう少し可能性あると思うんスけど!」
「ない。仮にあったとしてもせいぜい0.1%くらいだ」
「低っ」
 そりゃあバスケ初心者だし、まだまだ赤司っちの足元にも及ばないとは思うけど。容赦のない切り返しに肩を落として「オレそんなに弱いっスか」と嘆いてしまうのも仕方がない。すると赤司っちは呆れたように溜息を零していて、尚更悲しくなってきた、が。
「なに泣きそうな顔してるんだ……弱いなんて一言も言ってないだろう」
 オレの方を見上げて紡がれた言葉に目を丸くした。
「お前は十分成長してるし帝光の戦力にもなってる。だから一軍に昇格できたんだ。全く落ち込むところじゃないだろう? ただ青峰に勝てないでオレに勝とうなんて百年早いってだけだよ」
 わかったら早く練習に戻れ、と軽く肩を叩いて指示される。ここまで言われてしまえば受け入れるしかなく、納得したくはないが赤司っちの言葉は寸分の狂いもなく正しかった。青峰っちに毎回毎回あれだけの大敗を喫していてはこの人達と渡り合うことも到底難しいだろう。
 それに、成長している、戦力になっている、そう言われたことが素直に嬉しい。
「……わかったっス。でもいつか絶対、赤司っちに勝てる可能性、50%くらいにしてもう一回挑むっスからね! 覚悟しといてください」
「……そこは100%じゃないのか」
「えっ、いや、そこまではちょっと……」
 いくらなんでもそんなに調子には乗れません、と内心控えめな気持ちでいると、赤司っちはいきなり声を上げて笑い出した。途端に空気が和らぎ、オレは面食らってしまう。
「わ、笑うところじゃないっスよ!」
「あははっ、ごめんごめん、でも50……50%くらいって」
「ちょっと赤司っち、オレすっごい真剣に言ったんスけど今の」
「だ、だって急に自信なくしてるから……いや、気にしないでくれ。楽しみにしてる」
 真面目に言おうとしているがどこでツボに入ったのやら全然笑いが収まっていない。肩は震えてるし、なんと説得力のない一言だろうか。でもまぁ挙句目元に涙まで浮かべながら笑っている赤司っちは珍しくとても楽しそうで、オレは口を尖らせつつも、それ以上の文句は胸中にしまっておくことにした。
 いつか絶対、その誓いを心に刻ませて。


 五月も半ばとなり昇格テストを先日行った結果、部内におけるそれぞれの位置付けが大きく変わった。と言っても既に一軍入りしている自分には何も関係がない。レギュラーに昇格テストは用意されないし、影響するのは各々奮闘した二軍や三軍、そしてそれに伴ってメニューを考え直す我らが主将といったところだろう。
「あれ、赤司っちはまだ戻ってないんスか?」
 汗で湿ったTシャツを鬱陶しく感じながら部室のドアを開けると、そこには制服に着替えている最中の紫原っちと緑間っちの姿しか見当たらなかった。てっきり三人揃っているだろうと思っていた為に目を見張る。
「赤ちんなら監督のところだよー」
「あー……やっぱり長引いてたんスね。何かあったんスか? 最近ずっと難しい顔してるし」
 赤司っちが部活中に席を外すのは稀な話ではない。が、基本的にはミーティングは素早く終わらせて自分もすぐに練習に混ざり、そしてオレ達の態度を隈なく見ようとする。そんなあの人が丸々部活に参加しないというのはかなり珍しい光景だったはずだ。
 部長の行動を誰より把握している緑間っちが「それもそうなのだよ」と口を開いた。
「今回の昇格テストは新入部員にとって初めてのものだったろう。細かな調整によって今後のチームの形が変わってくるから、あいつも慎重になっているのだよ」
 ネクタイを締めながら淡々とされた説明に、ふうん、と簡単な相槌を打つ。尤もな理由だとは思ったものの、本当にそれだけなのだろうかと疑問が浮かんだのも事実だった。赤司っちがメニューのことで悩んでいるのはいつも通りに近いし、最近よく目にする厳しい表情には何か別の理由がある気がするんだよなあ。
 そんな勝手な憶測と疑心を緑間っちは感じ取ったらしい。タオルで顔を拭いてからロッカーの鍵を開けていると、浅く溜息をつき、少し躊躇いがちに続きを話す。
「……あとは多分、灰崎のことなのだよ」
 不意打ちで出てきた名前に制服を取り出す手がぴくりと反応した。
「……なんでここでショーゴ君? この前退部したばっかりじゃないっスか。もう赤司っちには……っていうか、オレ達には関係ないっしょ」
「それを本気で言ってるなら、わかってはいたがお前は馬鹿なのだよ」
「どういうことっスか」
「どうもこうもない。あいつの退部を本当に、部員全員が不満の一つもなく歓迎したと思ってるのか?」
 遠回しになんて面倒なことはせず、はっきりと核心に触れた問いにオレは眉を顰めた。キセキの世代と呼ばれるプレイヤーの中で自分が唯一好いていない相手の話題となっては良い気がしないのも当然だ。
 けれど緑間っちの言い分は痛いほど理解でき、無関係ではない自分自身の心に雲が掛かる。すると緑間っちは一度こちらを見てから視線をロッカーに戻し、練習中に着ていたジャージを鞄に入れ始めた。その様子を横目にオレが口を噤めば次々と意見は飛び出ていく。
「確かにお前の言う通り灰崎とオレ達は既に関係がないのだよ。でも二軍や三軍にとってあいつの存在は良くも悪くも大きかったはずだ。何せあれでも『キセキの世代』としっかり呼ばれていたんだからな。そしてその『キセキの世代』として活躍していた、帝光が勝利を掴むにあたって一翼を担っていた選手が一人、バスケ部からいなくなった。……平たく言えば戦力の低下にしかなっていない現状を、皆が皆黙って受け入れられるなんてそんな上手い話があるわけないのだよ」
 灰崎の実力はお前もわかってるだろう、その一言に歯を食い縛るしかなかった。オレではまだ、その穴を埋められていないのだ。
「それさー、赤ちんが無理やり辞めさせたって広まってるんだっけ? レギュラー減って大丈夫なのかとかほんと余計な心配だよねー。んなこと気にしてて退部命令なんか出るかっつーの」
「ああ……でもまぁ、赤司の意図がわからなければ反感を買うこともあって当然だろう」
 緑間っちも紫原っちも全く意に介していない喋り様だった。
「……オレのせいっスよね」
 けれど自分はと言えば二人の方を見ることもできず、暗いロッカーの中を真っ直ぐ見据えたままそう告げた。自覚はある。赤司っちはオレに対して何も言わないが、ショーゴ君の退部について自分が関与していることなど百も承知だ。
 成長していると赤司っちに褒められて舞い上がっていたのかもしれない。この人達の足手纏いにはならないようにと必死な日々だし、周りからもキセキの世代と遜色ない成長ぶりだとは言われ続けている。それでもコートに立ってしまえばオレはその差を感じずにはいられなかった。結果がついてこなければ意味はないんだ。
 沈んだ気持ちで自分を咎めるような、何ともうざったい口振りになってしまい後悔していた。こういう落ち込み方は紫原っちが特に嫌いそうだと恐る恐る目を向けると、シャツのボタンを閉めている途中だったらしい紫原っちがオレの方を見て首を傾げる。
「え、何が?」
 ……あれ?
「な、何がって、だから……その、赤司っちが今すげえ大変そうな原因がショーゴ君の件にあるなら、オレも関係してるじゃないっスか……」
 ちょっと待て、なぜ沈黙が流れる。オレは至極当然のことを口にしたまでだというのに話が噛み合っていないなんてそんな馬鹿な。緑間っちも顔を顰めてしまい、数秒空気が完全に固まった。そしてその後、静かな部室に響いたのは露骨な溜息と共に呟かれた一言。
「やっぱりお前は馬鹿極まりないのだよ……」
「いやなんでそうなるんスか。オレ別に変なこと言ってないっスよね!?」
 二人の言いたいことを要約しただけなのにと、そう思わずにはいられなかった。が、今度は紫原っちから予想を越えた返答が返ってくる。
「黄瀬ちん自分でショーゴ君はもう関係ない〜って言ってたじゃん」
 そこ!?
「えっ、いや、言ったっスけどそれは……」
「あーあ、ミドチンが話ややこしくするから全然理解できてないっぽいよ」
「……悪かったのだよ。だがオレは赤司が置かれている状況をだな」
「はいはいー」
 理解できてないなどと断言され、オレはいよいよ話についていけなくなっていた。とりあえず自分を責めている場合でもないし、二人の会話を把握する術をください。頭の片隅でそう考えながら半ば放心状態のまま瞬きを二回した、その瞬間だ。
「――要するに、赤司君は君のせいだなんて微塵も思っていないということですよ」
 心臓が飛び出しそうになるとはまさにこのこと。
「うわあっ!? く……黒子っち!?」
「どうも」
 突如背後から聞こえてきた声に反応して勢いよく振り返ると、そこには今まで全く姿の見えなかった存在が。がしゃん、と後ずさった反動でロッカーの扉に背中がぶつかり大きな音を立てた。
「い、い、いいいつからそこに……!?」
「最初からいましたけど……」
「…………マジで……」
 嘘だろ。素で気付かなかった。いい加減慣れるべきだとは思うが最早影が薄いとかそういうレベルじゃない。びっくりしすぎて逆に冷静になる。
「し、心臓に悪いっスよ……」
「すみません。ずっと話聞いてたんですが、割って入るタイミングが掴めなかったので」
 黒子っちがここで着替えていたことを紫原っちはわかっていたようで、オレの反応を見て「あーやっぱりー」なんて呟いている。何も言わない緑間っちも恐らく同様だろう。そんな二人に、知ってたなら教えてくれ、と内心で訴えた。
 そして速まった心拍数を落ち着けるようにゆっくりと呼吸していると、「赤司君の言動を全部把握するのは難しいですよね」という黒子っちの言葉で本題を思い出す。そうだ、確かさっき、オレのせいじゃないと言われたような覚えがあるけれど。
「あ……それ、どういう意味なんスか?」
 腕を手前で交差させてTシャツを脱ぎながら尋ねると、既に着替え終わっていた黒子っちが鞄を肩に掛けつつ答えた。
「周りがどう言っていようと君は気にすることないって意味ですよ。まぁこの現状では責任を感じて当然だと思いますが、そうなるとさっきみたいに露骨に落ち込むでしょう、黄瀬君。赤司君は多分それを見越して君には何も言わないんだと思います」
「黄瀬ちん落ち込むとめんどくさいしー、オレには関係ないってはっきり割り切ってた方が気持ち的に楽でしょ」
「僕達のコンディションをよく見てますからね、赤司君は。無駄なことを気にかけて君のプレーが鈍ったら困ると判断したんじゃないですか?」
 ……はあ、なるほど。めんどくさいとかさりげなく酷いことを言われた気がするけどそれは置いといて、赤司っちは様々な条件を考えてオレへの対応も変えているらしい。言ってくれなきゃわかんないっスよ、と思ったが、本来全く関係していない彼らが理解できているのだから何も言えない。一年共に過ごせばあの人の考えていることがわかるようにもなるのだろうか。
 少し皺のついたシャツに腕を通し、順にボタンを留めながらそんな風に思った。すると帰り支度を終えた緑間っちが出口の方へ足を進めて淡々と話す。
「灰崎の退部については赤司が全責任を負うつもりでいるのだよ。だがいくらあいつの支配力が絶大とは言え、赤司がイエスと言えばノーと反抗する奴は出てくるし、ノーと言えばイエスと反論する奴も出てくる。それは上に立つ人間の宿命でしかない。だからお前は落ち込んでいる暇があるならさっさと強くなって、灰崎が抜けた穴を埋めるのだよ。周囲の文句をあいつが抑え付けているうちにな」
 そこまで言われてやっとオレは理解した。この人達は赤司っちの考えがわかるのではなく、ただわかろうとしているだけだということに。
「緑間君、珍しくよく喋りますね……」
「う、うるさい、こいつが何もわかっていないようだから教えたまでなのだよ」
「ありがとっス、緑間っち」
「……ふん、早く帰る支度をしろ。下校時刻に遅れるぞ」
 素直じゃない反応に笑いながら手を動かす。
「そういえば峰ちんは〜? ワンオンワンしてたんじゃないの?」
 どこから出したのやら練習中は禁止されていたお菓子を頬張りながら聞かれ、青峰っちならシャワー室に行ったっス、と返すのとほぼ同時に、緑間っちがドアを開ける。すると噂をすればなんとやら、ちょうど青峰っちが戻ってきたらしかった。
「あ、峰ちーん、オレこの間借りたお金返してなかったよね〜。はい」
「おっまえ、投げんなよ……。サンキュ」
 この二人に貸し借りというものがあったとは。
「……青峰、シャワー室を利用するのは勝手だがちゃんと髪を拭けと何度言えばわかるのだよ」
「あー、わり」
「おい!」
 ぽたりぽたりと部室の床に雫が落ちていき、それを緑間っちが注意する。青峰っちがシャワーを浴びた後はよく見る光景に黒子っちも呆れ顔だ。しかしまぁ文句を言いつつも掃除用具入れから雑巾を持ってきて代わりに拭いている緑間っちは相変わらず律儀というか世話焼きというか、いつも通りの展開に苦笑するしかない。
 シャワー室は部室から少し離れた場所にあって利用者数も多いと聞くが、自分は全く使ったことがなかった。これでも仕事上、肌や髪の手入れには気を使わねばならず、結局家に帰ってもう一度風呂に入ることを思うと単に面倒だからという理由だ。その分もちろん制汗スプレーは常備している。
「じゃあ先に行ってますね。黄瀬君、青峰君」
「おー」
「あっ、緑間っち! 部室の鍵は?」
「赤司が閉めると言っていたのだよ。窓もそのままでいいそうだ」
「あ、そだ、黄瀬ちんか峰ちんどっちでもいーけど、最後の人はちゃんと電気消せってこの前赤ちんが怒ってたよー」
「うええ、まじっスか……気を付けるっス」
「おし、帰んぞ黄瀬」
「は!? 着替えんの早くね!?」
 青峰っち十秒前までジャージだったじゃないっスか! と内心突っ込みを入れながら急いでベルトを締める。そのまま脱いだ練習着を丸めて鞄に入れ、勢いよくロッカーの戸を閉めた時には四人とも部室を出て行くところだった。
「えーっと、窓と鍵はそのままでよくって……電気、電気っと……、あれ?」
 赤司っちに怒られないように一つ一つチェックしていくと、奥の壁に手を伸ばして消灯する寸前、ふとベンチの上に置かれたそれが目に留まる。
 くすんだベージュ色の背景に点々と人の絵が描かれた表紙の本だ。
(……黒子っちの忘れ物かな?)
 慌てていたオレは半ば反射的にその文庫を手に取り、ぱちん、と電気を消して部室を後にした。


 赤司っちと一緒に帰ることはあまりない。ミーティングが終わるまで待つといつになるかわからないし、あの人自身、放課後は誰かに構っていられるほど暇じゃなさそうだし――というのはまぁ建前で、本当はオレが入部した時になかなか会話するタイミングを掴めなかったせいで、今になって遠慮なく親しくするというのが結構勇気の要る話だからだ。
 けれど意外にもその点に関して向こうは大して気にしていないらしい。その実力と統率力を敬意の対象として『赤司っち』と呼び始めた時、嫌がられるだろうかというオレの不安も構わず、あっさりと返事をしてくれたことに驚いたのは最近の記憶である。
 そのうち帰りに寄り道とかできるくらいの仲にはなれたらいいなあ、なんて考えたり。
 体育館や校舎とは別に建っている部室棟の通路を少し走ると、突き当たりを曲がったところで四人の後ろ姿に追い付いた。
「黒子っち!」
 声を張り上げて名前を呼び、振り返った本人に先ほど部室で見つけたそれを示した。「この本、忘れ物じゃないっスか?」強く握ってしまっていたせいで表紙が少しよれている。
「あ、すみません、僕のです」
「部室に置いてあったっスよ。また図書室で借りたんスね?」
「はい。無くなってたら大変なことになってました……ありがとうございます」
 見つかってよかった。胸を撫で下ろしながら受け取る様子に「どういたしまして」と返事をしたところで、オレ達の会話が聞こえたらしい青峰っちが覗き込んでくる。そして何か奇妙なものでも目にした風に眉を寄せて読み上げた。
「……『迷信なんでも百科』?」
 オレも気になっていた題名だ。
「珍しいっスよね、黒子っちがそういう本読むの。いつも小説とか物語ばっかじゃないっスか」
「そうなんですけど……これ、つい最近入荷した図書なんです。書架整理をしていた時に司書教諭の方に奨められて、面白そうだったので」
「そうかあ……?」
 青峰っちが心底つまらなそうに呟いている。オレも読書とは縁がないから、そんなん読むくらいならバスケしてた方が楽しいだろ、ときっと今頃青峰っちの頭に浮かばれているのであろう台詞には同感だ。
 部室棟を抜けて下駄箱に繋がる渡り廊下を通れば、グラウンドで用具を片付けている陸上部や野球部の姿が多く見えた。辺りは日も沈みかけてもう大分暗い。耳を澄ますと吹奏楽部の演奏が聞こえてくる。恐らく西校舎の四階、一番端、第二音楽室からの音色だろう。
「青峰もどうせ黒子と一緒にいるのなら少しは本を読めばいいのだよ。バスケのことしかないその頭も改善されるはずだ」
 なんてぼんやり周囲の雰囲気に浸っていると、近くでは緑間っちの助言だか嫌味だかを受けて今にも言い合いが始まりそうになっていた。この二人は出会った頃から何かと張り合っていたよ、といつか赤司っちが呆れていたのを思い出す。あの時は少し意外に思ったが、今なら納得せざるを得ない話だ。たまに衝突する紫原っちと黒子っちのような口論とは違い、見ているこっちが溜息をつきたくなる程度の小さな小さな喧嘩が定期的に勃発する。
 また始まった。部外者のオレはその度に放っておこうとそう心に決めるのだ。金管楽器の演奏が止んだということは最終下校時刻間近、遠くの校門ではだらだらと帰る生徒が見回りの先生をかわすように歩みを進めていた。
「ねー、迷信って怖い話みたいなもんだっけ?」
 お菓子が詰まった口を動かしながらふと紫原っちが尋ねた問いに、鞄のファスナーを開けて本をしまっていた黒子っちが返答する。
「怖い話というか、簡単に言えば昔からの言い伝えです。まぁこれはドイツの人が書いた本なので、日本とは少し考え方が違ったりするんですが……例えばあくびをする時は手で口を押えないと霊魂が逃げて行ってしまうとか、嵐の最中に髪を切れば幸運が訪れるとか、あとは……鏡が割れるとその後七年間は不幸な年月を過ごすことになる、とか書いてありましたね」
「七年間!?」
 衝撃的な事実に皆して目を見開いた。近ごろ鏡を割っていないか咄嗟に記憶を辿ったものの、そんなオレ達の反応を見た黒子っちが慌てて言い直す。
「あ、いえ、違うんです。迷信っていうのは基本的に根拠がないもので成り立っているので、真に受けてはいけません」
 へえ、そうなのか。
「……なんだかすごく騙された気分なのだよ」
「すみません」
「えーでもさあ、誰かが信じなきゃ言い伝えにはなんないよね〜?」
「どっかの変な部族が信仰してきたとかじゃねーの」
「根拠がなくてもおばあちゃんが言ってたから、みたいな感じもありそうっスもんね」
 昇降口で靴を取り出しながら適当に談話し、しゃがんだ反動で肩からずり落ちた鞄を掛け直した。「そういえば、赤毛についても迷信がありましたね」特に意図もなかったのだろう。ほとんど思い付きで呟かれたような黒子っちの一言に食い付いたのは、紫原っちだった。
「赤ちんのこと?」
 誰しもが思い浮かべた人物名を代弁してくれたようなものだ。
「いや、まぁ赤司君のことと言いますか……僕も全部覚えてるわけじゃないんですが」
 赤司っちの髪色は混じり気がないし本来『赤毛』と呼ぶには相応しくない気もするが、一度話題に上がってしまえばなんとなく知りたくもなる。人々はこうやって根拠のない迷信に興味を示したのだろうかと思った。
 内容を確認すべく当の本を取り出してページを開く黒子っちを前に、全員の足が止まった。校内の蛍光灯はほとんど消されている。夕暮れだけの明かりでは薄暗く、読みやすいように近くに居た自分がスマホのライトを使って目的の部分を照らしてあげた。
「えっと……赤毛の項目は……あ、ここです」
 ぱらぱらと三十ページほど捲ったところで見つかったようで、オレ達もそのページを覗き込む。かいつまんで説明しますね、と黒子っちが言った。
「『赤は若さ、美しさを連想させる色』のようですが、ドイツでは『悪魔の証拠』なんて言い方も残ってるみたいです。『一方では、愛情と自由の象徴として、人を興奮させ、熱くし、活気づけるが、他方では、悪魔や魔女の色、抵抗と攻撃の色とされている』といった風に両極端の解釈があるそうで……」
 淡々と述べられる文章に黙って耳を傾ける。

“赤は長いあいだ、否定的な意味しかなかった。赤毛は陰険で好色であり、不実で怒りっぽく、しかも悪魔の君主ベルゼブブと徒党を組む。一言で言えば「道徳的な問題児」とされていたのだ。”

 だそうです、と話を締め括った時のオレ達の感想は、要約すると。
「これは……なんていうか、赤司っちの前で言わなくてよかった……っスね……」
 本人の耳に入ったら大変な事態になる。一人残らず真っ先にそう確信すると同時に、赤髪のあの人が今ここに居ない状況にほっと息をつくばかりだ。黒子っちも「お前それ間違っても赤司の前で読むなよ」と青峰っちに釘を刺されている。
 赤色が情熱的だとかそういったイメージであることは世間的な常識だろうけれど、まさかそんな意味まであったとは。いくら迷信とは言え、書籍化されたものを真っ向から否定できるほどオレ達の頭は出来ていない。
「それにしても『道徳的な問題児』ねー……赤ちんは優等生でしょ」
 あの成績、授業態度、まさに非の打ち所がないという言葉を体現したような人。紫原っちが断言した台詞にみんな頷かざるを得ない。が、脳内で『道徳的な優等生』の七文字を並べてみる。するとどういうわけかしっくり来ない。
 何が原因なのかわからず首を捻っていると、数秒も経たないうちに黒子っちが呟いた。
「……どちらかと言えば、非道徳的、って感じじゃないですか?」
 あ、なるほど。
「あー、そうだ、それだわ、あいつの練習メニューは道徳的じゃねえ」
「人間の限界を感じるもんねー」
「不覚にも納得してしまったのだよ」
「『非道徳的な優等生』……赤司っちにぴったりのフレーズっスね!」
 なんて口々に賛同した矢先。
「へえ、オレの考えたメニューはそんなに気に入らないわけか」
 聞き覚えのある声に、一瞬で空気が凍った。
――デジャブ。デジャブだ。背後から突然現れるこの感覚、さすがは黒子っちの能力を見出した張本人。怖すぎ。笑えない。瞬間的に冷や汗をかき息を呑んだのはオレだけではないだろう。
 唇を戦慄かせて恐る恐る振り返ったその先では、今なら悪魔と呼んでも違和感を覚えさせないほどの冷気を纏った赤色の彼が、腕を組んで静かに佇んでいた。
「本人のいないところで非道徳的呼ばわりとはいい度胸をしてるじゃないか、お前たち」
 なあ? と、にっこり浮かべられた笑顔が逆に恐ろしい。「……いや……その……」オレ達は今もしかしなくても絶体絶命の状況に陥っている。
「あ、赤司君、いつからそこに……ミーティングは……」
 やっとのことで沈黙を破ったのは黒子っちだったが、さっきのオレと全く同じ台詞を小声で吐く始末だ。その顔はここ最近見た中で一番青褪めている。いっそ世界の終わりを体感したような表情と言っても過言ではない。
「ミーティングなら少し前に終わったよ。部室に戻ろうとしたらお前たちの声が聞こえたから来てみたんだが……オレの髪色は悪魔の証拠らしいな? 他にも陰険で、好色で、不実だとか」
「い、いやそれはこの本を書いた人が勝手に言っているだけで、赤司君の話では」
「そ……そうそう、赤司っちのことなんて一言も!」
「まぁでも黄瀬ちん『非道徳的な優等生』が赤ちんにぴったりとか言ってたけどね」
「え」
「それも得意げに笑っていたのだよ」
「ちょ、待って」
「あれは心の底からそう思ってる顔だったよな」
「は……」
 はぁ!? あんたらだって同じようなもんだったろ! と大声で訴えようとしたものの。
「……黄瀬?」
 はい。
「い……いや、あの、待ってください赤司っち、オレ全然そんな風に思ってないっスよ! 確かに練習はキツいし、まぁ、ぴったりだなーとは、ちょっと……ほんの少し……で、でも嫌なわけじゃないし、」
 おい待てなんでオレだけがこんな必死に弁解してるんだ。酷すぎる責任転嫁をかましやがった三人を恨めしく思いながら慌てて言い繕っていると、赤司っちは浅く溜息をつき、表情を崩して「冗談だ」と言った。張り詰めた空気がふっと柔らかくなる。
「別に怒ってないよ。寧ろそのくらいに思ってくれなきゃあんなメニューを考えている意味がない。……そんなことより、部活が終わった後に無駄話をするのはやめろといつも言っているだろう。遅くまで練習するのは構わないがみんな家が近いわけじゃないんだ。早く帰りなさい」
 眉を顰めてそう注意され、どうやら機嫌を損ねていた原因はそっちにあったのだと理解する。赤ちん先生みたーい、と紫原っちが口にするのも仕方ない言い草だ。
「赤司っちの髪って地毛なんスよね?」
 気を取り直して自分の口から零れた疑問に特段意味はなかった。
「ああ、そうだよ」
「綺麗な赤色っスよねえ。瞳も真っ赤だし」
「ありがとう。……どうした? 青峰、訝しげな顔をして」
「……別に、なんでもねえよ」
 素直に見たままの感想を述べただけだったオレは、その時、青峰っちが露骨に視線を逸らした理由がわからなかった。
 そして緑間っちが一足早く傘立ての横を通って外に出ると同時に数人の女子が階段を下りてくる。あの集団は吹奏楽部だ。ともすればいよいよ校門も閉ざす時間を示していて、オレ達は急いで靴を履いた。まだジャージを着ている赤司っちは今から着替えに行って間に合うはずがないと余計な心配もしたけれど、そこはミーティングを共にしていた監督がフォローしてくれるのだろう。
「赤司君、さっきはすみませんでした」
「だから気にしてないって。心配性だな、黒子も。……迷信は真に受けたらいけないんだろう?」
「……本当はいつから聞いてたんですか?」
 黒子っちが不思議そうに聞く。
 その質問に「秘密」と笑みを浮かべた赤司っちの顔は二年半経った今でも忘れられない。何故かやけに寂しそうに見えたのは、きっと辺りが暗かったからだろうと、あの時のオレにはそう感じ取ることしかできなかったのだ。


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2013.02.21
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