あの日、否、あの日の確か次の日だ。覚えている限りでは職員会議とかそんな感じの、生徒には関係無い用件で全ての部活動が一日だけ活動を禁じられた。校内の修理をする為の点検だっただろうか。何でもいいけれど帝光バスケ部において放課後練習が休みというのは、テスト前の一週間以外は基本的にありえない。だから俺も黄瀬ちんも喜んでいた気がする。早く帰ってお菓子を食べようと思ったし、その前に潰れてしまったコンビニの跡地を見に行こうかとも考えた。が、そういう時に限って学校に忘れ物をしたりするわけで、もう今では何を取りに戻ったのか記憶が思い出してはくれないものの、確かに俺は一度校門を出てから再び校舎に足を踏み入れたのだった。
 九月になったとは言えまだ蒸し暑い日々が続いている。下駄箱を通ってすぐのところに、数日後に開催される体育祭の看板が立て掛けてあった。
 長袖のシャツを腕捲りして鞄を肩に掛けたまま向かった先は部室。俺の忘れ物は部室のロッカーの中だったらしい。鍵が開いていなかったらどうしようかと思ったが、あの部屋は大抵赤ちんが管理していて無人の時は滅多に開いていない。廊下を歩いても教室を覗いても人っ子一人見当たらず、みんな既に帰ったんだろう。そんな状況で開放されている方がおかしいはずだ。面倒ではあったが、部室の扉の前まで来ても取っ手に手は掛けず、先に職員室へ鍵を取りに行こうと踵を返した。
 しかしちょうどその時だ。廊下と繋がる窓は開いていたようで、数センチの隙間を通して中から声が聞こえてくる。
「何がそんなにおかしかったのだよ」
 それは俺の足を止めるのに充分なものだった。
(ミドチン……?)
 まさか独り言じゃないだろう。部室に人が残っていたなんて驚いたけれどそれ以上に、誰と話しているのかが気になってしまった。そして本能に逆らうことなく身を潜ませ、窓ガラス越しにそっと室内を覗くと。
「おかしい? 何の話かな」
 すぐに視界に映った赤い髪と、聴き慣れた声色。また部長と副部長でミーティングでもしているらしい。こんな時までご苦労さまと心中で呟いたはいいが、目を凝らせば二人の間に将棋盤が置かれているのがわかった。本当に飽きないなあ。せっかく部活が休みなんだから家でゆっくりすればいいのに。
 なんて、息を殺しながら思っていたら。
「昨日の放課後、紫原と会話をしていた時のことなのだよ。忘れたわけではないだろう」
――え、なに、俺の話?
「ああ、忘れてないよ。ちゃんと進路について考えているようで安心したさ」
「だったらなんであんな……」
「なんだい」
「……いや、お前は随分と楽しんでいたみたいだが」
「そりゃあコンビニの店員なんて言い出すから、」
「違うだろう」
 ちょっと待って話が全く読めない。もっとわかりやすく喋って。普段から赤ちんとミドチンは難しいことばかり言っていて、俺も特に理解しようとはしていなかった。だからいざ内容を読み取ろうとしたところでとてもじゃないが追い付けない。
(違うって……何が?)
 とりあえず覗き込むのはやめて声だけを聞くことにした。二人は俺の姿には気付いていないようだ。ぱちん、とどちらかが差した将棋の音が廊下にまで響いている。その後少しの沈黙があったけれどそれに焦れたのはミドチンの方で、「あんなに風に笑うお前は久しぶりに見たのだよ」と言った。赤ちんの言葉を遮った先ほどよりも声量が小さくなっているせいで多少聞き取りづらい。
「そうかな、俺笑ってた?」
「ああ。あいつが答えを見つけ出せないでいるのを面白がったのか、それとも真面目に悩んでいて感心したのか、俺にはわからなかったがな」
 あの時ミドチンはただ呆れているだけだと思ったのに意外とこちらを気にしていたらしい。けれど別に、赤ちんが最近笑わなくなったわけでもないし、わざわざ取り上げるようなことだろうか。そう疑問に思った瞬間、赤ちんは静かに告げる。
「……嬉しかったんだ」
 随分と穏やかな声だった。
「まさか紫原の口から『真剣なんだよ』なんて、聞けるとは思わなくてね」
 俺は壁に背を預けたまま黙って耳を傾けていて、その一言にほんの少し目を丸くした。何も意識せずに口にした台詞。それをこの人は、こんなに嬉しそうに語るのか。
 顔を見なくともわかる。確かにここまで喜びに溢れたような赤ちんの声色は久しぶりどころか、俺は恐らく初めて聞いているんだろう。呼吸が止まるような思いだった。
「紫原にはバスケを続けてほしい。俺はずっとそう思っているけれど、所詮は思うだけだ」
「……お前が一言命令すれば、あいつは嫌でもバスケを続けるのだよ」
「それじゃ意味がないんだよ」
「自主的にやらせたいのか?」
「簡単に言えばな。本来、あいつは誰かに従って生きたがるような性格はしていない。あれでいて案外しっかりと物事は考えているし、自分で決めたことは例え否定的な意見だろうが周りと食い違っていようが必ず貫く。それはお前も知ってるだろう? 部員と度々揉め事を起こすのだってその一部のようなものさ」
 次々と明かされる俺への見解に、自分の体は妙に緊張し始めた。今になって盗み聞きをしている罪悪感も込み上げてくる。
 赤ちんの頭の中がどうなっているのか、俺にはきっと一生わからない。でも知りたい。だからこそ教えてほしい。幾度となくそう繰り返し思い続けてきたがこうして本人の口から聞いてしまうと、その一言一句が耳や脳裏、心のうちに、俺を追い詰めるようにして刻まれていくような感覚に陥った。
「紫原も含めて俺は、自分と接する人間には常に正しいことを言ってきたつもりだ。いや、『つもり』じゃない。俺の言葉に間違いはないと断言できる。……が、もしもあいつがバスケを辞めたら、」
 俺はいつの間にか下を向いていた。
「それは、俺のせいだろうな」
――は?
 赤ちんの言葉に耳を疑う。何を言っているのか、意味を咀嚼できなかった。
「何故そうなるのだよ」
「紫原を従わせたのは俺なんだ。自由を奪ったも同然だよ。……と言いたいところなんだけど、随分不可解そうな顔をしているから言い方を変えようか」
 俺の頭はほぼ真っ白だったが、今の自分とミドチンの表情は多分似たようなものなんだろうとは思えた。いくら普段聞き慣れない単語を並べて難解な話を好む赤ちんだとしても、今回ほどこちらの理解を上回る発言はない。俺はただ立ち尽くし、唾液を呑み込み、拳を柔く握り締める。
「主将だからだよ」
 いつもと変わらない調子で赤ちんはそう言った。
「紫原がバスケを辞めたら俺のせいだと思うのは、俺が帝光バスケ部の部長で、主将だからだ。一人ひとりを成長させてチームを勝利へと導く。勝った試合でもミスがあれば、それを防げなかった、打開できなかった主将の責任となる。負けた場合は……未来永劫経験したくなどないが、万が一敗北を喫したならば、もちろん一切の責任が主将に掛かるだろう。俺はこの役割にそれだけの義務と意味があると思ってる。常にそう意識してお前たちとも接してきた」
 間に挟まれた将棋を差す音がやけにうるさい。百戦百勝を理念とする帝光に最も相応しい考え方を、この人がずっと維持しているのは知っている。「けれど部員がバスケを嫌いになったら元も子もないだろう?」そう口にした赤ちんの声は少し寂しそうに聞こえた。
「確かに紫原は帝光に入る前からバスケを毛嫌いしている節があった。だが俺が成長させ、管理し、導き、支配し、主将を担ったバスケ部で、バスケを続けようという意志を断ち切ってしまったとしたら」
 そこで言葉は途絶え、部室にも廊下にも物音一つしない静寂が訪れる。あとは言わなくてもわかるだろう、そう言いたいのか。
 俺は茫然とした。
「……今わかった。お前、主将向いてないのだよ」
「はは、三年やっててそれは初めて言われた」
 忘れ物の存在などとうに頭の中からは消えていて、今更部室に入る勇気もなく、地に着いた両足は何かに取り憑かれたように動かない。赤ちんの言葉がこの先ずっと忘れられないことになるとはなんとなく予測できていただろうが、それから一年経っても俺はあの人を過去のチームメイトだなんて一言で片付けることはできなかった。
「主将をやっていて後悔したことは一度もない。青峰が練習に来なくなっても、黒子が退部をしてもだ。……後悔すれば、自分を否定したことになってしまうから……、だから紫原にバスケを好きになれと言うつもりはないし、例え辞めてしまっても俺は自分のやり方を悔やみはしないよ。責めることは、あってもな」
 それ以上聞きたくない。
 知りたくない。言わないでほしい。
 その一心で、気付けば俺はそこから逃げるように走り出していた。どこに向かおうとしたのかは覚えていないが無我夢中に走って辿り着いた先は体育館の入口で、閉まり切った大きな扉に右手を添える。試合でも息切れなんて滅多にしないのに、珍しく呼吸は乱れて心もざわついていた。
「……違う」
 喉の奥から絞り出すように、自分にしか聞こえない声量で呟いた。俯いたせいで髪が垂れる。ぎり、と奥歯を噛み締めれば、いつの間にか拳にも力が込められていた。
「違うよ、赤ちん」
 さっきよりもはっきりと、明確に否定する。
 あの場でドアを開けて大きな声で伝えられればどんなに良かっただろうか。自分の臆病さが嫌になったが、確かにバスケを嫌っている今の俺に説得力も何もないだろう。あの人が自分自身を責める必要なんて無いはずなのにそうさせてしまった原因が自分にある。
 とんだ勘違いだ、と思った。ふざけんな、俺は赤ちんにそんな大層なことまで求めてない。赤ちんに従ってきたのはただその位置が心地良かっただけだし、バスケが嫌いなのは単にこのスポーツの性質を気に入ってないだけだ。深読みも自己完結もいいところ。俺がいつ赤ちんのせいでバスケを嫌いになったとか言った? いつ赤ちんが主将だから部活が嫌になったとか言った?
 全部、全部間違ってるよ。
「あんたのせいじゃない」
 不覚にも声が震える。俺が赤ちんを否定したのは、その時が最初で最後だった。
 自分はきっとあの人の飛躍した考えに腹が立っていたんだろうとそう思わずにはいられなかったが、後々考えてみれば俺は赤ちんを理由にバスケを辞められなかったに等しいわけだ。命令されたのでもなく、その事実を他人に知らせたこともない。しかし俺の中でバスケを続ける必要性を、意味を、理由を、それら全てが帰結する先を思えば、必ず明瞭に赤ちんの姿が浮かんだ。
(陽泉は自分で選んだけどさ、)
 相変わらずバスケは嫌いだ。好きにはならない。なろうとも思わない。でもそんな風に悪態をついたらあの人はまたやけに優しい笑顔を見せるその裏側で、俺と過ごした頃の、俺達の主将であった頃の自分を、責めてしまうのだろうか。


 *


――鳴り響くブザー音。選手も観客も静まり返った一瞬。直後、湧き上がるように溢れた歓声に包まれ、会場の熱気は最高潮まで高まった。コートの中は勝者であろうと敗者であろうと状況を把握できていないようで、皆が皆目を丸くしている。
「……洛山、が……負けた……」
 そう言ったのは誰だっただろう。隣で室ちんが呟いたようにも聞こえたし、そこらへんの観客がぽつりと口にしたようにも捉えられた。いや、寧ろ俺が無意識のうちに言っていたのかもしれない。
 赤ちんが、負けた。
(……嘘だ……)
 嘘だ。嘘だ。赤ちんは負けない! 絶対に負けない。嘘だ、信じられない、こんなの、


 *


 さっちん、と久々にその名を呼ぶと、彼女とその隣に並んで歩いていた峰ちんが振り返る。
「わっ、ムッくん! 久しぶり!」
「久しぶり〜」
 開会式前に赤ちんに呼び出された時はさっちんは来ていなかったし、同じ会場に居たとは言え話す機会もなかなか無い。そういえばまともに話すのは卒業以来かと思うと、そのピンク色の長い髪がやけに懐かしく感じた。
 二人に会ったのは偶然じゃなかった。閉会式が終わってからホールのところで室ちんに先に行っててもらうよう伝え、そして俺が探したのだ。もう帰っていたらどうしようかと若干焦りながら目的の影を探し回ったが、受け付けを通り過ぎた自販機のあたりで案外早くに見つかりほっとする。他の桐皇のメンバーはこの場には居ないようだ。
「……まさかあいつが負けるとはな」
 不意にそう口を開いた峰ちんは眉を顰め、まだ勝敗結果が信じられていないような、必死に呑み込もうとしているような、とにかく複雑そうな顔をしていた。というか実際複雑なんだろう。自分もひとのことを言えたものじゃない。
 俺は峰ちんの一言に対しどう答えればいいのかわからなかった。今更嘘だ何だと否定できるほど取り乱しているわけでもないし、かえってとても冷静になってしまっている。しかし「そうだね」と肯定するほどの余裕は持ち合わせていない。
「赤ちんさー、これからも……バスケ、続けるかな」
 だからと言ってよりによってそれか、と俺自身思う。今一番触れてはいけない部分だろうに、内心では気になって気になって仕方がないようだ。自ら尋ねておきながら目線は下がる一方で、さっちんもあからさまに肩を落としている。けれど数秒の気まずい沈黙が流れた後、それを破ったのは峰ちんだった。
「知らねーよ、そんなん」
 半ば投げやりな口調に、この重い空気が耐え難かったのだとわかる。
「でも帝光一敗北を嫌って、帝光一自分に厳しかったのは赤司だ。……たったの一敗で、折れる奴かよ」
 峰ちんが告げた一言一句は全て峰ちんの望みなんだろうとは思うだけで、口にはしなかった。そうだ。誰もがそう求めている。そして赤ちんなら応えてくれると信じずにはいられない。けれど今までずっと、ずっと勝利を掴み続けていた人間が味わう初めての敗北がどれほどのものなのか、それを俺達は身に染みて知っていた。特に赤ちんは勝利に懸けてきた思いが人一倍大きい。たったの一敗、しかしそれがあの人の人生を変える一敗になるかもしれないと、みんな心の底では理解している。
「……うん、そうだよね」
 今はただ信じるだけなのがもどかしい。
「でさ、さっちん、本題なんだけどー」
 再び暗い空気が流れる前に話題を変えることにした。急に話を振られて「私?」と首を傾げるさっちんに頷く。
「んー、あのさあ、赤ちんの誕生日に何か贈った?」
 唐突な質問に一瞬驚かれたが、本当はこれを聞く為に彼女を探していたのだ。
「え? あ、うん、贈ったよ。赤司君が愛用してるバッシュのブランドからつい最近新作が出たから、きっとまだ試してないだろうなあと思ってそれを一足、京都に」
「だよねー……」
「それがどうかしたの?」
「いやー、ほら……赤ちんがバスケ関連で欲しそうなものは絶対さっちんが贈るだろうなーって。かぶっちゃうじゃん」
「あっ、ごめん! そこまで考えてなかった」
「大丈夫だよー」
 全く予想の範囲内だ。俺もプレゼントにバッシュやジャージを思い付いたけれど、赤ちんが気に入りそうなものがわからないし、こういうのはさっちんの得意分野。最初から別のものを贈ろうと思っていた。
 が、当日にメールを送ったきり何をあげればいいのか考え付かないまま数日が経ち、どうしようと唸っていると。
「え、誕生日?」
 いきなり素っ頓狂な態度でそう声を上げたかと思えば、まるで状況が理解できていないらしい峰ちんの表情。
「ちょっと青峰君……まさか忘れてたとか言わないよね」
「えー峰ちんサイテー」
「は……はぁ!? いやそういうの律儀に覚えてるお前らの方がおかしいだろ! いつだよ赤司の誕生日とか……」
「十二月二十日! 帝光で祝ったことあるでしょ!」
 さっちんに強く言われて口を噤むしかないようだ。「あ、あー……そういや十二月……」と記憶を辿っている峰ちんを見て、まぁそんなことだろうとは思っていたけれど。
「んー……よし、わかった。あんがとー、さっちん」
 顎に手を当てて必死に思い出そうとしている男の方は放っておいてさっちんにそう言い、軽く右手を降ってその場を去ろうとした。「帰るの?」という質問に、一呼吸置いてから返答する。
「ううん、赤ちんに会ってくる」


 会って何を言うつもりなのかはこれっぽっちも考えていなかった。でも会いたかった。会わなきゃいけないと思った。どこから来る義務感なのかも定かではない。それでも。
 洛山高校専用のバスが停車している近くで待ち伏せること二十五分、なかなか姿は現れない。東京駅まで送る陽泉のバスが出るのは確か夕方五時過ぎの予定だ。それまでに戻らなければ室ちんかまさ子ちんからお怒りの電話が来るだろうから、あと一時間もここには居られない。
 鞄を横に置き堤防に座り込んでぼうっとしていると、いろいろなことが頭の中をよぎっていった。俺がバスケを始めた時のことまで自然と記憶が蘇ってくるのは恐らく初めてだ。今でも好きになれないそれと出会ったあの日から、もう何年もボールを触り続けている。どこかで辞めていたらこうやって赤ちんを待つこともなかったかもしれない。
 帝光を卒業して七ヶ月、なんで赤ちんの為にバスケを続けているのかわからなくなった時もあった。陽泉に赤ちんが居るわけでもない。俺が辞めたところで、あの人は何食わぬ顔で変わらない日々を過ごすんだろう。しかしその裏側でややこしいことを考えていると知ってからは、ただ赤ちんがあんな思いをすることのないようにと、それだけだった。本人も知らない理由で俺はいつも必死だったんだ。
(それももう終わりかなあ……)
 赤ちんは今、洛山の主将として毎日を送っている。俺もすっかり陽泉の一員となってしまったみたいだし、そろそろあの日の自分は忘れるべきなのかもしれない。
 夕陽に包まれたオレンジ色の空を見上げながらそんなことを考えていたところで、漸く会場から出てきたその姿を視界の端に捉えた。鞄は置いたまま立ち上がる。すると少し俯き加減で歩みを進めていた向こうも俺の存在に気付いたらしく、部員に一言断ってからこちらへやってきた。「赤ちん」二メートルくらい離れた距離でそう呼ぶ。
 顔を上げた赤ちんの目元は赤かった。ずきりと心臓が痛んだ気がしたもののそれには知らないふりをし、俺は言い放つ。
「おめでとう」
 風が靡く静かな空間ではっきりと口にすると、赤ちんは一瞬目を見開いた。どう答えればいいのかわからずに戸惑っている様子が視線一つで窺えたが、誕生日、と続ければほんの少し眉を寄せる。
「……ああ……ありがとう」
「負けたことに対しての『おめでとう』だと思った?」
「……っ」
 図星なんだろう。気まずそうに目を逸らされる。
 その態度がなんだか赤ちんではないみたいで違和感を覚えたけれど、今まで俺が知らなかっただけで、きっとこれもこの人の紛れもない一面なんだと思った。
「……メールしたけどさー、やっぱり直接言いたかったから。誕生日おめでと、赤ちん」
 一歩近付いてさっきよりも柔らかくそう告げると、赤ちんも同じように再び礼を言った。でも無理に笑ったその表情が痛々しい。何もこんな時まで気丈である必要はないんだよ、なんて言えたら、苦労はないのに。
「なんか欲しいものある? プレゼント、頑張って考えたけど思い付かなかった」
「いや……いいよ。気持ちだけで十分だ」
「相変わらず物欲ないんだねー。じゃあ頼み事とかでもいーよ」
 予想していた通りの返答にもう一つ提案をしてみる。これでも拒まれたら諦めるつもりだったが、なんでもいいのか、と小さく聞かれたので、なんでもどうぞ、と答えた。
 赤ちんの頭の中には既に俺にしてほしいことが思い浮かんでいるようだけれど、すごく躊躇っているらしい。なかなか口を開こうとしないから自分も何も言わずに待つだけ待った。そこで赤ちんが誰かに物を頼むこと自体少なかったと思い出す。ミドチンや監督には部長として要求があったとしても、俺にはそんな素振りを見せようとしたことさえなかったはずだ。だから何を言われるのかなあと悠長に考えていると、赤ちんは一度目を伏せた後、少し申し訳なさそうな顔でこう言った。
「……僕が今から言うことを黙って聞いて、そして、すぐに忘れてくれないか」
 さすがに予測していなかった要求に驚きを隠せない。
「それが誕生日プレゼントでいいの?」
「ああ。でも絶対に忘れてくれ」
 難しい条件だとは思った。が、断る術もなく、わかったと頷く。その返事を聞くなり赤ちんは心底ほっとしたような顔をした。そしてさっきの俺と同様に鞄をコンクリートの上に置き、堤防のところにゆっくりと腰を下ろす。コンビニの前で地べたに座る学生を見ては不快そうな顔をしていた赤ちんからは考えられない態度だ。あれももしかしたら上っ面の反応だったんだろうか。
 そんなことに思いを馳せながら立ったままでいると、赤ちんは真っ直ぐ前を見ながらも、疲れた、と呟いた。
「……疲れたよ、敦」
 それは初めてこの人の口から聞いた言葉。
 絶対に忘れてくれと言われた時点で普段言えないようなことを吐き出したいのだとはわかったが、こうして聞くとあの頃、赤ちんは俺達の前で本当に弱音を吐いたことがなかったんだな、と実感する。
「必ず勝てると思った。勝つつもりだった。なのに絶対に勝たなければならない試合で、なんで僕は負けたんだろう。どうして……いや、理由はわかってるけれど、なんで負けてしまったのか、信じられないんだ」
 声の調子はだんだんと落ちていき、いつの間にか膝を抱えるようにして下を向いてしまう。初めて会った時から小さい背中だなぁとは思っていたが、それが尚更小さく見えた。こんな赤ちんはもちろん今までに見たことがない。それでも妙に安心しているのは、やっとこの人の本心に近付けたと思っているからかもしれない。
「勝たなければ意味がないし、負けてしまえばそこで終わりなんだ。勝利へ導くのが主将の役目だというのに負けてしまったら、負けて、しまったら……意味が無い……何の意味も無い」
「……うん」
 黙って聞いてとは言われたが、相槌を打つことくらいは許されるだろう。俺も赤ちんの隣に静かに腰を下ろし、沈みかける夕陽を眺めながら話を聞いた。
「負けるということがこんなにも辛いものだとは思わなかった」
「うん」
「僕は何の為に主将を担ったのか、何の為にバスケを続けているのか、敗北が決まった瞬間、何もかもが見えなくなった。それは今でも見えないよ」
「……うん」
「でも……、でも勝つ為だったんだ。ずっと、僕がバスケを続けている理由なんて、勝つ為でしかなかったんだ。だってそうだろう。僕は正しかった。誰よりも、何よりも。だから僕は僕を信じ続けたし、自分を否定することだけはしなかった。けれどそれでも負けたということは、僕は正しくなかったんだろうか。じゃあ何を間違えた? 何が正しくなかった? ……なんで……、いや……違う。僕は間違ってなんかない、違う、僕は……僕は間違ってなんか……、勝利以外に正しいものなんてない。勝つことは当然で、絶対で、息をするように、基礎代謝と同様のものでなくては、そうでなきゃバスケなんて……バスケなんて、意味がないだろ……!? どうして敗北が次に繋がるなんて考えが生まれるんだ! 『仕方がない』? 『リベンジすればいい』? 『また頑張れ』? そんな台詞に甘えて、掴めるはずだった勝利を逃したのに!?」
 堰を切って言葉が溢れ返り、だんだんと語気は強まっていく。赤ちんは多分俺に言おうなんて思ってないだろう。ただ抑えられていないだけ、俺が今の言葉を全て『忘れる』という条件を信じて、地面に吐き捨てるようにめちゃくちゃな自問自答を繰り返しているだけだ。
 紛れもない本心が、勝利に対する執念をまざまざと感じさせた。
「なんで……なんで負けたんだ……、なんで勝てなかったんだよ……! 敗北ほど無意味で不利益なものはないのに……僕はこれ以上バスケに何を費やせば、何を懸ければいいんだ」
 苦しそうな声でそう零す様子は、正直、見れたものじゃなかった。俺はどこかで赤ちんがこんな風に崩れることは一生ないと思っていたんだろう。だから下手に口を挟むこともできなかったが、そこまで言って赤ちんは黙ってしまう。横目で見れば呼吸を整えるように肩で息をしていて、余程取り乱している姿に目を瞑りたくなった。俺がこの人に抱いている理想は大きすぎる。何でもわかり、何でもできる、そんな神様みたいな存在だったのだ。
「赤ちん」
 それが今、過去形になってしまった。俺はショックを受けているのだろうか。それとも雲の上にいた人が自ら下りてきて嬉しい? 自分の思考なのに把握できることは本当に少ない。
「あのさー……俺バカだから赤ちんの考えってよくわかんないんだけど、一個だけ俺に物言う権利与えてくんないかな」
 一応許可を得た方がいいだろうと思ってそう尋ねると、赤ちんは膝を抱えたまま小さく首を縦に振った。しかしそれがあまりに微かな動作で、もしかしたら鼻を啜っていただけかもしれないとも思う。でも俺は、都合の良いままに肯定の返事と受け取ることにした。
「俺も負けんの大っ嫌いだからさ、負けたら終わりとか意味がないとか、そういうのはすげーわかるよー。つーか負けてもそう思わない方がおかしいんだって。だから赤ちんも今そうやって当たり前のことを考えてるだけなのに、何が間違ってんの」
 なんで一人で追い詰められてんの? そう続けた自分の口調が思ったよりも強気なもので内心驚く。あれ、もしかして俺、腹立ってんのかな。
 心の底でむくむくと膨れ上がる感情を少し意外に思っていても、だんまりを決め込んでいる赤ちんからは当然のように返事がない。その態度が尚更頭にきた。俺が赤ちんに抱いた理想を崩すことは赤ちん自身でも許せないと思っているのだろうか。
「あーもう……赤ちん重く考え過ぎなんだよ。しょうがねーじゃん。負けちゃったもんは」
「っ、だから……! だから僕はその『仕方なかった』って考えが気に入らないんだ!」
 うお、びっくりした。急に顔上げたかと思えば掴み掛られるし、泣いてるし、何なんだよ。
 俺が赤ちんに見た理想とかもう欠片もないじゃんか。神様? 笑わせんな。
 ただの人間だ。
「んなこと言ったって実際そうでしょ。赤ちん手抜いてたわけじゃなかったし、全力でやって黒ちんに負けたんじゃん。仕方なかったじゃん!」
「うるさい! お前まで僕を否定する気か!」
「はぁ!? 否定じゃないっつーの! 俺は赤ちんが一番正しいと思ってるよ! 確かに今回は何かを間違えて負けたのかもしんない。赤ちんからすれば全然納得できないのかもしんない。でも俺だけじゃない、みんな、みんな赤ちんのやり方が正しいと信じたから主将として慕ったんだって、なんでわかんねーんだよ!」
 こんなに必死になってどうするんだろうと、頭の片隅ではぼんやりと思えた。それでも言葉は留まることを知らず、目を丸くしている赤ちんを余所に勝手に口が動く。
「少なくとも帝光の時はそうだった! まぁ赤ちんも相当のバカだから? どうせ黒ちんが退部した原因は全部自分にあるとか思ってんだろーけど、それ多分違うし。俺がバスケを好きじゃないのだって、あの頃峰ちんが練習に来なくなったのだって、そんなん俺達の問題じゃん。赤ちんが背負う必要なんてどこにもねーじゃん。なんか知んないけど部員のことは全部把握してるみたいな顔してさ、チームを勝たせるのは主将の役目で、そんで負けても主将の責任って、普通に考えておかしいよ、それ。どんだけ主将万能なの。ぜってーおかしい」
 捲し立てるように並べた言葉達は、さっきの豪語が嘘のように全て赤ちんを否定するものだ。けれど、「でも、」と、最後まで言わずにはいられなかった。
「でも、でもさあ、……そんな赤ちんだから、俺達ついてったんだよ」
 なぜだか声が震える。
「赤ちんはずっと正しい人なんだ。負けたって、泣いてたって、俺達がこうやってバスケをしてコートに立っている限り、赤ちんがみんなの為に築き上げたあの日々は正しく残ってる。……それを否定しようとしてるのは、赤ちん自身だよ」
 そう言い切ると同時に、見開いた赤ちんの両目からぼたぼたと涙が流れ落ちた。数量の水滴が俺のジャージに落下して染みを作っていく様子に、あーあ、と思って目線を下げると、いつの間にか自分の頬にも涙が伝っていたことに気付く。
「アララー……」
「……な……なんで敦まで泣くんだ……」
「さあ、知んねーし……貰い泣きじゃね? ……ていうかそれよりもさー、俺なんで赤ちんのこと慰めてんだろ……。俺も誠凛に負けたのに」
 黒ちん天敵すぎるわー、とか、冷静になって不平を零していたら、急に赤ちんから笑い声が聞こえてきた。見れば何がおかしいのやら泣き笑いをしている。
「ふ……、はは、あははっ」
「……なーに笑ってんの」
「いや、なんか、支離滅裂だと思って……、ふふ」
 久しぶりに目にした飾らない笑顔。相変わらずの泣きっ面だけど、赤ちんそういう顔もできるんだから、もっと笑えばいいのに。そんな風に思っているうちに、さっきまで荒んでいた胸のうちも落ち着き始めていた。
「赤ちんのせいだし。もー最悪だよ、俺バスケのことで泣くのこれで二回目なんだけど」
「へえ、僕は初めてだ。……ちょっと肩を貸せ。一分で泣き切る」
 いや泣き切るって、なにそれ聞いたことないよ、と突っ込むのは心の中だけにしておく。赤ちんのことだ。本当に一分待てばすっかり泣き止んでしまうのだろう。
 俺は自分の涙腺を操作できるほど器用な人間ではないから、その後も何滴か頬を濡らした。
 顔を見られたくないらしく俺の左肩に額を押し付けた赤ちんは、勝ちたかった、と涙声のまま再び呟く。でもそれだけだった。ただ一言、悔し涙と共に紡がれたその言葉をまさかこの人の口から聞く日が来るなんて思いも寄らなかったが、今となってはすんなりと受け止められる自分がいた。
「……ねえ赤ちん、バスケ、続けてね」
 嫌かもしれないけど、とは言わなかった。きっと赤ちんにそんな台詞は必要ない。
「そんで来年のウィンターカップも出てよ。じゃないと俺達なかなか会えねーし、赤ちんの誕生日も直接祝えないからさー。ね、お願いします」
「……その理論でいくと敦も、少なくとも今後一年間は絶対にバスケを辞められないな」
「う……、いや、そこはほら、観客として来るし」
「駄目だ。ちゃんと練習して強くなって、次は僕を負かす気で来い」
「えー、それは……」
 正直に言えば呑み込めない要求だった。赤ちんと試合をするくらいなら前言撤回、ウィンターカップなんて出てほしくないと思ってしまうほどに。だが言ってしまった以上どうしようもない。
 自分の発言を悔やんで返答に困っていると赤ちんは前触れなく俺から離れ、目元を拭いながら立ち上がった。一分が経過したんだろう。
「交換条件だ」
 目尻が赤くなっているのは仕方ないとは言え、そう告げる赤ちんの両目はもう潤んですらいなかった。有言実行とはまさにこのこと、さっきまでの涙は一体どこに消えたんだ。
「来年、洛山がもし陽泉よりも先に誠凛と当たったら、その時はきっちりとあの二人を倒してお前を待っていてやる」
――堂々とされた宣言。俺は火神大我も含まれていることに心底驚いた。けれど赤ちんがあいつを倒すべき敵だと認識するのは必然的な話なんだろうし、だから俺達陽泉も洛山と当たるまで絶対に負けるなと言いたいこともわかった。拒む余地は残念ながらなさそうだ。
 夜になりかけた空を背景に言い放った赤ちんは、いつの間にやら元の赤ちんに戻ってしまっていた。けれどもう二度と、この人を神様のような存在だと認識することはないのだろうと思った。
「……ねえ、俺、今のやっぱり忘れなきゃダメかなー」
 ジャージに着いた埃を払いながら自分もその場に立って尋ねる。我を見失うほどに取り乱した赤ちんの姿はしっかりと脳裏に焼き付いてしまっていたが、わざわざ報告しなければ忘れるということにして何事もなく終わっていたかもしれない。けれど赤ちんに嘘をつくのは嫌で、馬鹿正直に言うしかなかったんだ。初めて赤ちんと衝突したことも、それで結局お互い泣いてしまったことも、早々忘れられそうにない。目を逸らさずにどう返答されるだろうかと待つと、赤ちんはアスファルトの上に置いていたスポーツバッグを肩に掛けながら「忘れなくてもいいよ」と答えた。
「……え」
「あれだけ派手に泣き喚いてしまったんだ。忘れる方が難しいだろう。……見苦しいところを見せて、すまなかったな」
「それは大丈夫だけど……じゃあ誕生日プレゼント、また考えないとねー」
 一応赤ちんの言葉を黙って聞いて全て忘れる、という要求が誕生日を祝う形として頼まれたことだ。ろくに守れなかったのだから別のプレゼントを用意するのは道理だし、でももういっそお菓子の詰め合わせとかでいいかなあと考えを巡らせた時。
「いや、プレゼントならもう貰ったよ」
 不意にそんなことを言われて「は?」と間抜けな声が出てしまう。すると赤ちんは口角を上げ、実に楽しそうにこう言ったのだ。
「僕をバカ呼ばわりしたのはお前が初めてだ」
 と。一瞬何のことだかわからなかったが、すぐに思い出した。
「えっ!? いや、あれは違くて、なんていうか、勢い余って言っちゃったっていうか」
「勢い、か……。本能的に言われてしまうほど僕はバカだと思われていたんだな」
「ち、違うって!」
 あからさまに慌てた様子を見てか赤ちんは冗談だ、と笑った。あんまり冗談に見えなかったけれど本人がそう言っているのでいいことにしよう。何より、そんなに嬉しそうな顔をされては。
「ありがとう。僕と真正面から向き合ってくれて」
 随分すっきりとした顔でそう礼をされ、そのことが赤ちんにとってのプレゼントに等しかったと理解せざるを得なかった。
「負けても見切られなかったことに、僕はほっとしているのかもしれないな」
「……あんまらしくないこと言わないでよー。調子狂うし……それに俺のこと、『自分で決めたことは例え否定的な意見だろうが周りと食い違っていようが必ず貫く』って言ったの、赤ちんでしょ」
 少し間を置いてからはっきりと告げると、下がり気味だった赤ちんの目線が驚いたように俺の方に向けられる。その両眼を見る限りあの日の出来事を忘れたわけではないのだろう。けれど次の瞬間には困ったように眉を下げて笑みを浮かべられ、俺はそんな表情を見て、ああ、やっぱりそうかと全てを悟った。
(……赤ちん、わかってたんだなー……)
 俺があの時、部室の外で赤ちんとミドチンの話を聞いていたことは。そして俺が赤ちんの言葉に憤り、自棄になり、バスケを続けるしかなくなるだろうという未来も。意図して喋ったのかは知らないが実際どちらでもよかった。薄々感付いていた部分はあるし、知らないふりをしてきたのは俺の方だ。
「……ああ、そうだったな。あの日のことは本当に、」
「謝んないでね」
 悪かった、とでも言いそうだったから思わず遮ってしまう。俺はそんな返事を望んで言ったんじゃない。
「俺が真剣に考えたのも、コンビニの店員でいーやって思わなくなったのも、全部赤ちんのおかげなんだからさー」
 へにゃりと笑って本当のことを言ったら赤ちんは、「せっかく涙止めたのに」と、手の甲で顔を隠すようにして俯いてしまった。笑ってるのか泣いてるのか忙しい人だ。
 でも俺は赤ちんにありがとうと感謝することはまだできない。だって相変わらずバスケは嫌いだし、好きにはならないし、なろうとも思わないから。それでも自分が陽泉を選んだというその理由を、いつか赤ちんの為だけではなかったと胸を張って言えるようになれたらいいなぁとは、なんとなく思う。
 最悪の試合となったウィンターカップは今すぐにでも記憶の底から排除してしまいたいが、俺はこの人の泣き顔も冷え込んだ寒空も悔しさに奥歯を噛み締めた感触も、一生憶えている気がした。


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