『誕生日おめでと〜』
 一時間迷って送った一文だった。最初に考えたものにはこちらの近況だとか早く会いたい旨を伝えたりだとかやたらと長々しい文章が含まれていたものの、あまりにくどいのもどうかと思って削りに削ったらこれしか残らなかった。素っ気ない。祝う気がないと思われたらどうしてくれる。おめでとうの後に絵文字を付けるかも大分迷ったが、結局びっくりマークすら付けずに送信ボタンを押してしまったのだ。派手な絵文字を付けて浮かれていると認識されたらそれはそれで向こうが怒りそうだから、というのが理由。
 しかしそんな俺の葛藤も構わず、五分後には『ありがとう』と返信が届いた。相変わらず、メールは必要最低限のことしか書かない性格らしい。




 秋田で暮らし始めて九ヶ月が過ぎようとしていた。寮生活である為に校外での自由行動は広くは許されず、消灯時間なんかも日々厳しく注意されている。それは普通の高校生からすれば不満も募るものらしいが、購買が機能している限りお菓子が常に部屋にある、そんな状況に大満足している俺としては大して気にならない。
 寮生活は思っていたよりも楽だった。俺の他に二人いるルームメイトは同じクラスの男子が一人と、別のクラスだけれどバスケ部の奴が一人。それなりに仲は良いが互いに必要以上の干渉はしないのが基本的なルールで、俺がバスケの話を特に好いていないことを知ってからは後者のルームメイトも部活に関する話題はあまり口にしなくなった。でもまぁ朝が弱い自分を起こしてくれたり面倒な課題を助け合って片付けたり、入寮前に心底感じていた不安はうまいこと消化されていった。
 休暇中、同室の人間と顔を合わせる機会は極端に減る。みんな帰省するからだ。寮に入っているという時点で実家が地方にある人間がほとんどだし、冬休みも半ばの今、クラスメイト兼ルームメイトの一人は確か近畿の方へ帰ると聞いた。そしてバスケ部員であるもう一人はウィンターカップの為に東京へ行った後、そのまま秋田へは戻らず中部地方の故郷に向かったらしい。秋田東京間を新幹線で移動していた時に俺の実家はどこなのかと聞かれ、都内、と答えたら少し驚かれたのを覚えている。
「なまりが全然ないから関東だとは思ってたけど、よく東京から秋田に来たなあ」
 と、正直な感想だろう。俺もそう思う。
 陽泉が多方面において全国区レベルであることは俺が入学する前からだった。そこにはもちろんバスケも含まれている。でなければキセキの世代を獲得なんて到底無理だから当然の話だけれど、他にも、俺が知らないだけで科学から美術、音楽、書道まで、文化系の方にもいろいろと力を入れているらしい。校長室の前にはありとあらゆるトロフィーが並び、その成果が年々受験の倍率を上げているそうだ。
 故にこの学校を強く志望して自分と同じく東京出身という生徒は稀ではなかった。室ちんも確か帰国後は東京に住んでいたらしいけれど、それから何故かここまで来ている。そういう人間が多いとは言え俺がルームメイトに驚かれた理由はなんとなくわかっているし、親にも大層心配された記憶は新しい。寮なんて入って本当に一人でやっていけるのかと、放任主義だと認識していた両親が珍しく進路の時はやたらとうるさくて大変だった。あの時は陽泉に行く理由としてバスケを本気でやりたいから、なんて口走ってしまい、それで容認してくれたはいいものの今更後悔しつつある。定期的に送られてくる手紙でバスケの調子はどうかと聞かれるのだ。どうも何もいつでもつまらないよ、とはまさか口にできない。
 手紙の返信はしたりしなかったり気分によって違う。が、最近室ちんが「親御さんも心配してるだろうからちゃんと返事は書きなさい」と口うるさいおかげで筆を執らざるを得なくなっている。ウィンターカップの結果はネットに上げられた速報で知っていたらしく、残念だったねと記された手紙が昨日届いたばかりだ。
 そしてそれに対する返事をなかなか考えられず、俺は今とても困っている。
(……残念とか言われてもー……)
 既に一時間は白紙の状態であるレターセットを前に溜息をつき、机の引き出しに押し込められているお菓子を一つ取り出す。はーもうめんどくさいなあ。そう呟きながらシャーペンを置いたところで、どこかから聞こえてくる着信音。見ればベッドの上に放り投げられたままの自分の携帯が震えていた。しかし緩慢な動きでそれに手を伸ばしたものの、こんな朝早くに電話をかけてくる人間なんて一人しかいないと予想はつき、案の定『お母さん』と示されたディスプレイに少しの苛立ちを覚える。電話をかけてくるのか手紙を送ってくるのかどっちかにしてと前も言ったはずなのに。
 通話ボタンを押そうと思ったけれど寸でのところであの人の声を聞くのが嫌になった。どうせ内容はわかっているんだ。ウィンターカップを終えて今後どうするのかという話と、あとは正月に一度顔を見せなさいの一言に決まってる。前者はただの意思確認だろうから俺の正直な気持ちを言うべきだとしても、バスケの推薦で決めた学校に行ってバスケを辞めたいですなんて言ったら尚のこと後者の要求が強まるに違いない。正月にわざわざ足を運び親戚が集まる目出度い席を余所に、ろくに考えてもいない将来について問い詰められる? そんな面倒な話があってたまるか。今日二度目の溜息をつき、再び携帯をベッドに投げた。着信は鳴り止まない。きっと向こうもイラついていることだろう、俺が感情をすぐ表に出すのは母譲りらしいから。
 冬休み中に帰省するつもりはなかった。随分前から帰ってこいとは言われていたけれど、練習が忙しいだの土日は試合があるだのいろいろと理由をつけて東京には大会以外では暫く行っていない。だからなのか、ウィンターカップを見に来るなんて親が言い出した時は心底焦った。バスケをやっているところは見られたくない。そこだけは素直に言ったらどうにか納得してくれたようだったけど……おかげで「いい加減顔を見せなさい」と、放任主義はどこへ行ったのやらやっぱりうるさい。
 着信のせいで手紙を書く気もすっかり失せてしまい、ひたすらお菓子の方に意識を向けた。秋田は地方ということも相まって新作の発売が遅いのだけが欠点だ。東京のコンビニは便利だったなー、そんな風に思いながら椅子の背もたれに寄りかかると、不意にドアを二回ノックされる。
「はーい」
 寮は鍵を掛けないのが基本(引き籠り対策らしい)。そこから動かずに返事だけすればゆっくりと扉が開き、同時に携帯が鳴り止んだ。諦めたのだろう。ほっと胸を撫で下ろしながら入口の方に目をやると、ラフな格好で佇む室ちんの姿があった。
「おはよう、アツシ。今大丈夫か?」
「おはよー。大丈夫だけど……」
「よかった。監督が呼んでるよ」
「えーまさ子ちん? 今日練習休みでしょ?」
 ウィンターカップの決勝が終わり秋田に戻ってきて一晩、部活は明日から再開のはずだ。練習中でさえ監督に呼び出されて良いことなんて一度もなかったのに、オフの日に、それもわざわざ室ちんを使って呼びに来るなんて絶対にろくな用件じゃない。気付いたら露骨に顔を顰めていたらしく、室ちんは苦笑しながら「部員全員召集だから」と言った。
「何すんの? バスケなら嫌だよ」
「練習じゃないって。内容は来てからのお楽しみ」
 うわあ、嫌な予感しかしない。
「十分後に正門集合だ。しらばっくれると監督が怒るぞ。あ、それと、暖かい格好でおいで」
 外は寒いからな、といい笑顔で続けられてなんとなく召集された意味がわかってしまったような。十中八九これで正解だろうし全く行きたくなかったが、まさ子ちんの竹刀で殴られるのも嫌だった。仕方なく、室ちんが部屋を出て行ってからレターセットを引き出しに片付け、ハンガーに掛かっていたコートを着込む。そして窓の外を見れば一面真っ白な雪景色。携帯を拾って電気を消し、最後にもう一度溜息を零して自室を後にした。


 言われた通り七時四十五分、開放された正門の前に来てみると。
「よし、全員揃ったな。昨日までの試合で疲れているとは思うが、お前らにはこれから学校周辺の雪かきに励んでもらう!」
 この寒空の中、体育の授業の時と同じようにジャージを着たまさ子ちんが意気揚々とそう言い放った。俺は自分の予測が当たってしまいげんなりする。五十人以上いる部員も大体似たり寄ったりな反応だ。
「えー……疲れてると思ってるなら休ませてよー」
「なに腑抜けたことを言ってるんだ。三箇日以外は明日から練習三昧、休みは今日しかないんだぞ。黙って学校に貢献しろ」
「貢献って……」
 これだから熱血の典型みたいな体育教師は苦手だ。多分大会に必要な遠征費だとか日頃の設備費なんかに対する礼ということだろう。部費を提供しているのは学校側だし俺達がボランティア活動までする義務はないはずだけれど、まさ子ちんの指示はきちんとこなさなければそれこそ竹刀のご登場。こんなことなら大人しく東京の実家に戻っていればよかった。内心そう悪態をついたところで、「嫌なのはわかるけどさ、仕方ないよ。早く終わらせよう」と隣に並んだ室ちんが宥めるように言ってくる。
「はあ……じゃあまさ子ちん終わったらお菓子買ってー」
「監督と呼びなさい」
 お菓子の部分は見事にスルーされ、代わりに除雪用具を一式渡される。ずしりと重いそれらが気分まで重くした。しかしまぁここまでくれば諦めもつくというもので、真面目にやる気はないものの早く終わらせるという室ちんの提案には賛成だ。こんな寒すぎてまともに指も動かない環境になんか居たくない。
「じゃあ、えーと、そうだな……とりあえずここから左側にいる生徒はこの正門前の道と中庭、右側にいる生徒は体育館裏の通路とプール横を担当にしよう」
 まさ子ちんの適当な線引きによって左右に分けられる。俺は右側だ。体育館裏なら人目につかないじゃん。ラッキー。


――と思ったのに、監視役付きとかまるで意味がない。
「なんでまさ子ちんがこっち来てんの……」
 肩を落として呟けば、手を休めるな紫原、と案の定聞き慣れた女声に注意をされる。体育館裏に配備されたのは自分を含めて数十人。皆が皆いかにしてこの状況から抜け出すか考えているようだけれど、少しでもそんな素振りを見せようものなら監視役が黙っていないということだろう。
 それにしたって溜息をつく度に白い息が眼前に広がり凍死寸前もいいとこだ。大好きなアイスも冷凍庫の中でこんな思いをしているのだろうか。そんなことを考えたらもっと体が凍えたから、逆に焼き立てのケーキだとかホットココアだとか、とにかく甘くておいしくて温かそうな食べ物を頭に思い浮かべることにした。すると自然とおなかが空いてきてやる気は削がれる一方。なんという悪循環だろうか。
 眠いし面倒だし俺としては一刻も早く自室に戻りたかった。秋田に足を踏み入れて七ヶ月、ここにきて新作の発売が遅い件以外にこの地を恨むことになるとは思わない。
 昨晩降り積もった雪のせいで交通が滅茶苦茶になっていることは知っていた。当然新幹線を降りた駅から帰宅するのも大分苦労したわけだが、言うほど疲労は残っていないのが本当のところだ。何せ閉会式が昨日あったとは言え試合自体は数日前に終わっている。決勝も、準決勝も、観客席から見るだけだった。四強にすら選ばれなかった。そんな結果で大した疲労があるわけもない。
 今更涙も何も出てこないが、もし勝ち進んでいたら、と馬鹿げた妄想をしている自分にはひたすらに嫌気が差す。


 なんだかんだ一時間も経てばみんな文句も言わなくなっていた。というよりも言うだけ無駄だとわかってくる。
 室ちんは正門前を担当しているらしい。多分向こうの監視役だ。室ちんの方がまだ俺の言い分を聞いてくれるから俺もそっちがよかったなあ、とは思うだけで、口にはしないでおく。
 帰省している部員が多いはずだけれどそれでも結構な数が居て、意外と正月に帰らない奴は多いのかもしれない。春休みにって考えがほとんどなんだろう。春期休暇ともなれば雪は融け切っているから移動もしやすく、且つ年次の変わり時だから宿題やらそんなものも無い。
 雪かきに楽しさなんて見出せないものの、ただ掘っては寄せ、掘っては寄せ、それを繰り返している間は何も考えずに済んだ。部屋に居れば手紙の返事、体育館に居れば大嫌いなバスケ、どこに居たって自分の嫌なものは付いて回る。お菓子のおかげでプラマイゼロとなっているからいいけれど、そのうち俺の食欲が何にも勝らない瞬間が来るかもしれない。その時はもう死ぬしかない。
「あ、」
 無心で作業を続けること四十分、不意に携帯電話がぽとりと雪の上に落ちた。ここなら落下しても壊れる心配は要らないだろうが、厚い防寒手袋をしているおかげで指が上手く動かせずポケットに戻すのも一苦労だ。そしてそこでもたついていると、ディスプレイが赤く点滅しているのが見える。新着メール? 電話の次はメールなんてしつこいなあと俺が連想した人物は一人だけで、その分受信欄を開くと同時に一瞬目を丸くすることとなった。
(……黒ちんからって)
 めずらしー。
 とりあえず母親でなかったことに少しの安心感を覚える。けれど俺も向こうも特にメールが好きな性格はしていないから帝光の時でさえ滅多にやり取りしなかったというのに、今更何だろう。どうしてもあの試合が脳裏にちらつくが、終わったことを掘り返すような相手じゃないと心を落ち着かせた。
 内容を確認すべくスノーダンプを横に置いて手袋を外す。一応まさ子ちんが近くに居ないことは確認済みだ。
 件名は無し。添付画像も無し。ウィンターカップのことについて本文には何も書かれていなかった。まぁここでお疲れ様でした、なんて言われてもただの嫌味にしか聞こえないし、黒ちんも考えて文章を打ったに違いない。
『1月4日、空いてますか?』
 それだけ。肯定か否定か送らなければ続きは教えてくれないらしいけれど、空いてますかと聞かれても、四日からちょうど年明けの部活が始まるのだ。“ふ”からの予測変換で部活を選ぼうとしてやめた。黒ちんにまだバスケを続けていると知られるのは癪だから。
 代わりに『なんで?』と送ってみる。すると案外早く、今度は内容もしっかりしたためられたメールが数分経って返ってきた。
『4日に、赤司君が東京に来るんです。それでできれば紫原君も、と思ったんですが……部活でしょうか』
 え、なにそれ。聞いてない。いや今聞いたけど。いやいや落ち着け、赤ちん確か京都に帰ったばっかりだと思うんだけど、また東京に行くの?
「えー……」
 そんなの、行きたいとしか思えねーじゃん。
(四日から部活……いやまぁ部活はサボっても大丈夫だし……)
 これで送り主が峰ちんや黄瀬ちんだったら冗談かもしれないと多少は疑うが、黒ちんはそんなめんどくさいことをするタイプじゃない。内容に嘘はないと断言できる。赤ちんが東京へ戻るワケはわからないけれど、このチャンスを逃せば次会うのはインターハイということも全然有り得る話だった。
 メール画面と睨めっこしながら悩んでいたところでついにまさ子ちんに見つかってしまった。怒られるのには慣れたけれど黒ちんへの返答はほぼ決まっているわけで、問題はそれをまさ子ちんに言うべきか否かということだ。無断欠席は大きなペナルティとなる。
「まさ子ちん」
「だから監督と呼べって言ってんだろ」
「お願いがあるんだけどー」
 俺としては一日二日サボっても大した問題じゃあない。駄目だと言われたところで無視して行けばいいだけだという結論に辿り着き、それならば少しの可能性に賭けて許可を得てみることにした。
 呼び方云々は相変わらずだけれど、生徒からのお願いともあれば一応はちゃんと聞こうとしてくれるらしい。腕を組んで続きを促すまさ子ちんに、腹を括って話を切り出した。
「一月四日、部活休んでもいい?」
 ただ一言そう告げる。するとまさ子ちんは「何を言い出すかと思えばお前は……」と、案の定呆れと憤りが混ざったような反応をした。
「年明け初っ端練習を空けるなんていい度胸だな? 理由を言いなさい」
「理由はー……えーっと、東京の実家に帰省する……から?」
「疑問形で返す奴があるか」
 大袈裟に溜息をつく割に駄目とも良しとも言ってこない。これは許諾と解釈していいんだろうか。まぁそうでなくとも勝手に行くけど、と内心思ったところで、一度目を伏せてからまさ子ちんは言った。
「部員の出欠席については主将に一任してある。私としては無論許可するつもりはないが、あいつが良いって言うなら話は別だ」
 ちょっと待った。話がそっちの方向に行くなんて思ってなかったし、それってもっと面倒なことになるんじゃ。
「えぇ……別に室ちんに言う必要なんか」
 非難するように不平を漏らしたその時、監督、と突然後ろから声が聞こえてくる。噂をすればなんとやらとはこのことか。
「どうした? 氷室」
「正門前の雪かきがほぼ終わったんで、とりあえず報告に」
「ああ、わかった。今から見に行くよ。お前達はそのまま中庭の方も続けてくれ」
 淡々と事務的な会話を続ける余所で俺は今の話が聞かれていたのではと動揺するばかりだった。「わかりました」端的にそう答えた室ちんに、早く去ってほしい一心で視線を逸らす。が、そんな上手くいったら苦労はない。
「で? アツシは俺に何を言おうとしてたのかな」
 やっぱり……。
「じゃあ私は正門の方を見てくる。紫原、氷室にはちゃんと話せよ。新しい主将はこいつなんだから」
 そう言い残して俺達の横を通ったまさ子ちんは、最初から室ちんに任せるつもりだったんだろう。ここで誤魔化すのは不可能に近かった。室ちんは意外としつこいし、俺の嘘も簡単に見抜いてくるし、正直に告げた方が身の為とも言える。仕方ない。サボりづらくなるのは確かだが、口を閉ざして待っている様子を前に「あのさあ」と話を切り出すしかなかった。
 ところが。
「一月四日に部活を休みたいんだろ?」
 俺の言葉を遮るように確認され、不覚にも思考が一瞬停止した。
「……なんだ、初めから聞いてたんなら言ってよ」
「悪いな。盗み聞きするつもりはなかったんだ」
 目を伏せて笑っている。ウィンターカップ終了と同時に三年が引退した後、陽泉の主将を決めるのに時間は全く要さなかった。すんなりと、次期主将は氷室辰也だと、皆が納得した。それからも室ちんは室ちんのまま、今までと変わりはない。でも強いて言うならば俺には少しだけ厳しくなったような気がする。ほんの少しだけ。
 そうして室ちんもまさ子ちんと同じように理由を尋ねてきた。最初から聞いていたのなら東京の実家に帰省という至極適当な言い分も耳に入っただろうに、そこは信じてくれないらしい。
「言わなきゃだめー?」
 と、だめなことはもちろん承知の上で聞いてみる。
「何の理由もなしにエースの欠席は認められないな」
 言うと思ったよ。だから俺は「四日にさ、」と白く零れる吐息を見つめながら口にした。
「赤ちんが、東京に来るんだって」
 すると室ちんは一瞬目を見開いたものの、すぐにいつもの柔和な笑顔を見せる。その表情の変化が俺の言葉に驚いているのかそれとも予想通りだったのか、自分にはわからなかった。
「五日には帰ってくるのか?」
「え? あー……どうだろ。赤ちんがいつまで居るのか聞いてねーし」
「そうか……。じゃあ、ちゃんと予定が決まったら教えてくれ」
「んー、了解」
 ……って、あれ?
「え、行ってもいいの?」
 さらりと流してしまったが室ちんは今、駄目だとも行くなとも言っていない。許可をくれたんだろうか。言葉の意味を咀嚼するのに時間がかかってしまい、反対にこちらを見た室ちんは眉を下げて笑う。
「駄目って言っても、どうせサボって行くんだろう」
 お、おお……さすがは主将だ。話がわかる。そんな感動を覚えていたところで一歩二歩と前へ、残っている雪に足跡をつけるようにして室ちんは歩みを進めた。
「その代わり、教えてくれないか?」
 尋ねながら自分の方に振り返る。話には続きがあるようで、タダで行かせはしないということだろうか。よくわからないけど何でも教えてあげるよ、となかなか質問をしてこない室ちんを前にそう思う。けれど次に言われた一言、「どうしてアツシは、陽泉に来たんだ?」――まさかそう来るとは思っていなかった。
「……えー、それ聞くの?」
「前から知りたかったんだ。ずっとタイミングが掴めなくて言い出せなかったけど」
 俺が部活を休む許可を貰う代わりにここへ来た理由を室ちんに話す。別に自分からすればどうということでもなかった。隠すつもりはなかったし、ただ喋る機会がなかっただけのこと。なんで今更そんなことを聞いてくるのかはやっぱりわからなかったけれど、ウィンターカップも終わって主将になって、知ろうという確固たる意志でも芽生えたのかもしれない。
「いーけどさ、室ちんがっかりするかもよ」
 普段と変わらない調子でとりあえずそう前置きをしておく。改まって言うほど大層な話じゃないと思ったからだ。しかし室ちんは言葉の意味を取り違えたらしく、赤司君の命令かな、と言った。俺は一瞬なんでそうなるのか理解できなかった。でもすぐに思い直し、違うよと否定する。
「残念。はーずれ。赤ちんはー、まぁ関係ないわけじゃないけど……陽泉に行きたいって言ったのは、俺だから」
 それは一年と四ヶ月前の話。


 帝光の近くにはコンビニが二つあって、俺達が帰りによく行っていたコンビニの他にもう一店舗、全く反対の方向にひっそりと建っていた。ビルの一階に収められたそのコンビニはいつ見ても客が少ない。距離の問題で言えば学校からは一番近いけれど、漫画の新刊が入荷されなかったりキャンペーンもやったりやってなかったりで、生徒の中でも知っているという人すらあまり見なかった。
「あのコンビニ、潰れちゃったんだって」
 部室のベンチに座り目の前に広がるパンフレットから意識を逸らしたその時、不意にそれを思い出す。誰から聞いたのか覚えていないということはクラスメイトが話していたとか親が言っていたとかそんな程度だろう。俺が今食べているまいう棒は別のコンビニで買ったものだ。
「歩道橋の近くのコンビニか?」
「んーん、そっちじゃなくて、ペットショップの隣の」
 目印としては一番簡単なものを挙げてみたもののミドチンはピンと来ないらしく、眉を少し寄せるだけだった。
「俺は利用したことがないのだよ。確か紫原の通学路も違う方向だろう」
「そうなんだけどねー。あそこお菓子の品揃えだけはよかったから」
 大した興味を示されず会話はそこで途絶え、部室にはミドチンが本を捲る音と、自分の咀嚼音のみが響く。担任の長い話を聞かなくて済んでいる俺達のクラスだけ帰りのホームルームが早く終わるのはいつものことで、まだ学級活動中の赤ちんや黄瀬ちんは来ていない。放課後の練習開始時刻は二十分後だ。つまるところ暇なわけだが、ミドチンが読んでいる本に目をやっても何も面白そうじゃなかった。『将棋必勝法』って、それで赤ちんに勝つつもりなのかなあ。
 最近、峰ちんの姿はめっきり見なくなった。練習をサボるのは前からだったけど、その回数が極端に増えている。まぁ全中も無事優勝したことだし俺には関係ないし、このままろくに話さず引退して、三月になって、卒業、なんて可能性も十分にありえる気がした。
 赤ちんは何も言わない。ミドチンも溜息はつくけれど口にはしない。ただ黄瀬ちんだけが少し悲しいみたいだ。
 けれど黄瀬ちんが目に見えて落ち込んでいるのには、多分もう一つ原因がある。練習中に見失うことはよくあったもののあの日はついに一度も見つけられなくて、俺は赤ちんに声を掛けた。
「今日黒ちん全然見ないんだけどー」
 影の薄さには大分慣れたはずなのに。何も知らなかった俺はそんな風に考えを巡らせたはずで、汗を拭いながら淡々と返ってきた言葉に目を見開いた。
――黒子なら退部したよ。
 そう告げた時の赤ちんの表情は覚えていない。
「紫原、お前はもう決めたのか?」
 ぼうっとしていたところで突然ミドチンがそう聞いてきた。いつの間にやら本は閉じられている。決めたって何を? 頭上に疑問符を浮かべると、それ、と指を差される。その先にあったのは自分が鞄から取り出して並べた高校の資料だった。
「え、あー……決めてないよ。明日二者面談あるからとりあえず候補だけでもーと思って」
「適当なことを言ってると教師に突っ掛かられるのだよ」
「わかってるけどさー、んなこと言われたって高校なんてどこでもいーし」
 キセキの世代と呼ばれている俺達には何もしなくとも向こうの監督から勧誘が来る。それで自分と合うか合わないか、提示された選択肢の中から一つを選べばいいだけだ。毎日のように塾に通って受験勉強とやらに励んでいる周りの友達より何倍も楽な進路だと思った。が、どのパンフレットを読んでもいまいち惹かれないというか、そもそも高校に入っても自分はバスケを続けるのだろうか。続けたいのだろうか。今更勉強なんてやりたくないから推薦を逃すわけにはいかない、ただそれだけの為じゃないのか。
 帝光で過ごす日々もあと半年経てば終わりを迎える。その後もバスケを続けるとしたら、どうしたって自分は別のチームに入らなければならない。また一から、最初からだ。そこにはきっと赤ちんの姿もないだろう。これ以上嫌なことが他にあるか? こんな不公平なスポーツに俺がそこまで費やす必要は?
 意味は?

 理由は?

「……はーあ、俺もうコンビニの店員になろうかなあ」
 わけがわからなくなった結果思考はついにくだらない逃避を始め、天井を仰ぎながら無意識にそう呟いた時。
「バスケは続けないのか?」
「う、わっ、赤ちん!」
 いきなり上から顔を覗き込まれて肩が跳ねる。危うく座ったまま後ろに倒れるところだった。
「びっくりした……急に現れないでよー」
「ノックもしたし、声も掛けたよ。それでも気付かないなんてよっぽど考え込んでいたみたいだな」
「お前は神出鬼没すぎるのだよ、赤司。ホームルームは終わったのか?」
「ああ。黄瀬のクラスももうすぐ終わりそうだったから、先に着替えて体育館で待ってようか」
 言いながら、ロッカーを開けて鞄を置いている。そして驚きのあまり速まった心拍数が落ち着いてきたところで、俺もパンフレットを片付けようとしたけれど。
「ちょっと見てもいいかい?」
 手に持った数冊の資料。学校方針を含めもちろん部活の成績も書き収められているそれらを差して言ってきた赤ちんに、いいよと答えて全て渡す。
 赤ちんは一冊ずつ中身を見るなんてことはしなかった。順々に表紙と校名を確認していくだけ。俺もミドチンもその様子を黙って見ていたけれど、「ありがとう」の一言と共に戻ってきたパンフレットを見て、堪らずに尋ねた。
「ねえ赤ちん、俺、どうすればいーかな」
 口を噤んでこちらに視線を向けた赤ちんを見上げる。怒られるだろうか。自分の将来は自分で決めろ、人に聞くものじゃないと。しかし内心身構えて冊子を握る手に力が込められたものの、予想外にも返された言葉に怒気は帯びていなかった。
「とりあえず、コンビニの店員はやめた方がいいと思うよ」
「そーじゃなくて……」
 それどころかこの様子。若干楽しんでるでしょ赤ちん。
「俺は真剣なんだよ」
 ぽつりと零れた呟きに赤ちんは笑って「悪い悪い」と謝った。ミドチンが呆れたように溜息をついている。
「すごいじゃないか。東京、千葉、栃木、秋田、新潟、神奈川、兵庫、京都、熊本、大分……いろいろなところからお前を勧誘する為に資料が送られてきてる。大人気だな」
「嬉しくねーし。どこ行ったってバスケはバスケ、つまんないだけだよ」
「紫原はバスケを辞めたいのか?」
 躊躇うことなく聞かれた一言が胸の奥にずきりと突き刺さった。続けたいのか、辞めたいのか、そんなの問い詰められても答えは用意できてない。辞めたいに決まってるじゃんという台詞は喉元でつっかえ、一度口を閉じれば自然と目線も下がっていく。空気が一変して張り詰めるような沈黙が流れた。何か、何か言わなければと募る焦燥。ところがその静寂を破ったのは自分ではなく、再び耳に届いた赤ちんの柔らかな声だった。
「もし高校でもバスケを続けたいのなら、今お前が抱えてるそのパンフレットをちゃんと読んだ方がいい」
 整理されたロッカーからジャージを取り出しつつ、そう助言される。
「紫原のバスケを活かせる高校は必ずあるよ。それは俺が保証する。ただし自分で見つけるんだ。しっかりと自分が納得して、行きたいと思う学校に行きなさい」
「……もし俺がバスケを辞めるつもりなら?」
「さあ、そこまでは俺に聞かれても困るな」
「…………」
「ほらお前も、早く着替えて練習に行くぞ。……あれ、緑間は先に行ったのか? まったく……あいつだって充分神出鬼没じゃないか」
「……うん、そーだね」
 俺が進路とまともに向き合い始めたのはその直後からだった。赤ちんに言われた通りパンフレットは隅から隅まで熟読し、試合のビデオを集めて各校のプレースタイルまで研究した。隈ができて悩みに悩む日々は限りなく大変だったが、それでも投げ出すことはできなかった。俺のバスケを活かせる高校は必ずあると、絶対に正しい赤ちんがそう言ったのだから。そして俺がバスケを辞めていたかもしれなかった未来の話を、あの人は、望んでいないようだったから。
――赤ちんの言葉に影響されたのは認めるよ。でも俺にとってあれは命令とは違うからさあ。赤ちんは陽泉に行けなんて一度も言わなかったし、ただ俺が自分でここを選んで、志望して、そんで帝光を卒業したんだ。


 話はなるべく簡単にまとめた。俺がそう言い終えるまで口を開くことなく耳を傾けていた室ちんは、「大体こんな感じかなー」という言葉を聞いてやっと表情を和らげる。
「がっかりした?」
「いや、全然。聞けてよかったよ」
 心底嬉しそうに笑みを浮かべているけれど、室ちんにとって今のはそんなに良い話だっただろうか。俺が自ら選んだという事実一つに喜んでいるというのなら驚きだ。
 でももし本当にそうならば尚のこと、この続きは話すべきじゃないんだろう。
「それで、アツシにとって陽泉は、自分のバスケを活かせる場所になったのか?」
「……知んない。あの時も最後は消去法で決めたし」
 屈んで泥にまみれていない部分の雪を拾いながら問われた質問に、目線を下げながら答える。無心になって雪かきをしている間も寒かったけれど、こうして突っ立っているだけだともっと寒く感じた。しかし身を縮めようとしても厚着である為にしゃがむことさえ一苦労だ。
 仕方なく立ったまま辺りを見渡せば、体育館裏の雪かきも半分以上は済んでいるようだった。まさ子ちんはまだ戻っていない。そのおかげでいっきに皆の集中力も途絶え、どこで買ってきたのやら温かい飲み物に口をつけていたり、ポケットに手を突っ込んで雑談が始まったりしている。俺は体育館の壁に寄り掛かって息を吐くだけだった。
「ねえ室ちん、ちゃんと話したし、東京行っていい?」
 交換条件は成立したのだから。少し声の調子を上げて確認すると室ちんはおもむろに立ち上がり、眉を下げて笑った。
「ああ、いいよ。気を付けていってらっしゃい」
「ありがとー。なんかおみやげ買ってきたげるよ」
 俺も笑い返した。


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