今年も終わりを迎えようとした土日、母親にいい加減部屋を片付けろと言われたのがきっかけだった。几帳面とは程遠い性格故に全く気乗りしていなかったが、確かに高校に入ってから一度も掃除と言える掃除をした記憶がない。ベッドの脇にはバスケの雑誌だかモデルの仕事に関係する雑誌だか、分別を怠った本の山が出来上がり、撮影終了後に頂いた服やアクセサリーなんかも至る所に散乱している。無駄な買い物をしないタイプとは言え頻繁に物をもらえばそりゃあ収集もつかなくなるというものだ。母親は恐らくそれが気に入らなかったのだろう。もう着ない服は捨てなさいと何度も説教されてきたが、俺も部屋を片付ける暇があるならバスケに費やすの一点張りで、放置されたそれらがどこのブランド商品なのかぱっと見ではわからないくらいになってしまっていた。
 寝る場所も歩く場所も確保できているから最初は気にしていなかったけれど、そんな点がだんだんと問題になっていった。同じブランドからの依頼で撮影があった時に、前回渡した服はどうだったかと尋ねられることが多い。が、残念ながらその前回渡された服とやらが自室のどこに転がっているのか思い出せないし、そもそも仕事で使った服を普段着用することは滅多になかった。苦し紛れの感想ほど気を遣うものはない。




 母親は一度言い出すとうるさいタイプだ。バスケについてもモデルという仕事についても俺が自主的にやり始めたことに対しては応援するし支えてくれるのだが、両方に手を出して両方とも半端にしようものなら般若を彷彿とさせる顔で怒る。高校受験の時もそれで揉めた。スポーツ枠の推薦で入学するのにまだモデルを続けるのかと。本格的にモデル業に就きたいのならそれ相応の学校もあるから、そっちを切り捨てた時点で仕事は辞めると思われていたのだろう。可能な限り両立したいと主張したら、そんな生半可な覚悟で日本一やスターの夢が叶えられるとでも思っているのと怒鳴られた。後者を夢だと言った覚えはなかったが、母親は俺が器用貧乏となってしまうのを恐れていたのかもしれない。その後一週間は口を利かなかった。
 そういえば頑固なところは母親似だとよく言われる。心外だ。怒らせると面倒臭くなるのも母親似らしい。もっと心外だ。
 とりあえずあの人の堪忍袋の緒が切れる前にと十ヶ月ぶりの清掃に勤しんでいたものの、予想外にも早く終わりそうでほっと一息つく。思ったよりも最近モデル関係で頂いた品は少なかった。それもそうか。ここ数ヶ月は練習と試合を繰り返していた為に仕事はほとんど断っていたのだから。
 そのことについて親から言葉はない。バスケ一本で頑張っているんだろうと認識されているのか、それとも自分で言い出したことも満足にこなせないダメな息子だと呆れられているのか、俺自身どちらでも納得できる反応だと思った。寧ろ何も言われていないこの現状が怖くもあるくらいだが、準決勝進出を果たした旨を伝えた時は心底喜んでいるようだったので深くは突っ込んでいない。
 モデルの仕事は嫌いじゃない。というか普通に好きだ。できればこれからも続けていきたいし、ウィンターカップが終わった今、そろそろ復帰してもいいかなとは考えている。
 それでも未だにマネージャーに連絡できずにいるのは、やっぱり母親に叱りつけられたあの時の台詞が引っ掛かっているからだった。誠凛に敗退し頂上を手にし損ねた原因がモデルの仕事にあるとは思ってないし、そう後悔しない為に全ての仕事を後回しにしてきた。けれど今更、二つを両立させようなんて考えていたからその罰が下ったんじゃないのかと、柄にもないことで頭がいっぱいになってしまっているのも事実だ。
 決勝の場にすら立てなかった悔しさはずっと消えないだろう。ある程度片付いた部屋の隅に置かれている椅子に腰掛け、オーバーワークで痛めた足を軽くさする。もう大分良くなってきていた。年明けの練習からは思う存分参加できる予定だ。
 いったん要らないものとして分けた服や小物を袋に詰め、雑誌は紐で結い、一階に運んでいってしまおうとそれらを抱えて部屋を出る。父親は仕事で居ない。居間でテレビを見ながら洗濯物を畳んでいる母の横を通った。
「これ、もう捨てていいから」
 そう言ってすぐ捨てられるよう玄関に繋がる廊下の脇に置くと、そんなになるまで溜め込むのはやめなさいと注意される。掃除をしてもしなくても文句を言われるのだから理不尽極まりない。
 喉が渇いたので冷蔵庫から麦茶を取り出し、蓋を開けたところで声を掛けられた。母親が指した先にはいつも見ている天気予報。
「今週末、雪だって」
 なかなか不愉快そうな声だ。
「あー、今年降るの早いんだってね」
「嫌だわあ……道路は凍結するし、洗濯物は干せないし。昔みたいに涼ちゃんがはしゃぐ姿が見れれば雪もいいんだけどねえ」
「いつの話してんの……。あといい加減その呼び方やめて」
 ペットボトルを元の位置に戻しながら溜息をつく。そのまま階段を上る前、口を閉ざした母親がごみ袋に詰め込まれた色とりどりの服に視線をやっているのが見えた。そして「涼太」と静かに、けれども多少強めに呼び止められる。この人がこう呼ぶ時はあんまり機嫌がよろしくない証拠だ。
「あんたいつまでモデル続けるの」
 ほら見ろ。
「……いつまでとか考えてない。できるだけ続けたいし」
「またそうやって……。もう高校生なのよ? ちゃんと自分が本当にやりたいもの見つけて、」
「わかってるよ! わかってるから、母さんは口出ししないで。俺が自分で決める」
 乱暴にそう言い捨て、反論される前に階段を駆け上る。豪語したはいいが母親からも仕事からも逃げているだけだということは理解していた。でもそれですっぱりと辞められるほど俺の意志は強くないのが現実で、好きなことは続けたい、好きなものは身近に置きたい、それがいくつに増えたとしても――そんな子供のような我が儘を、未だに制御できずにいる。
 勢いよくドアを閉め、小さく舌打ちをしたらだんだんと頭は冷静になっていった。親と口論になることは最近は少なかったが、バスケの方での区切りが良く、将来を考えるのなら今だと判断したのだろう。ああ言ってしまった以上ちゃんと答えを出さないとまた激化してしまう気がする。
「はぁ……」
 肩を落とすしかなかった。この問題は後々整理しよう。まだ少しの猶予はあるだろうし、とりあえず先に残りの部屋の掃除を終わらせてからだ。
 無理矢理自分を納得させて気を取り直し、押入の奥に仕舞われた段ボールを一つ引っ張り出した。確かここに中学の時に使っていた教材が入っていたはず。高校で参考になるかもしれないととっておいたはいいものの一度も開いていないし、もう必要ないだろう。押入が空けばいろいろと収納が楽になることを考えて段ボールの中身をチェックすることにした。
 するとあらゆる資料集やら道徳の教科書やら、予想通り今後使わないであろうものばかりが押し込められているのがわかる。たまたま手に取った歴史の教材を見てみたら表紙の偉人に汚い落書きが残っていて自分でも笑った。そういえば青峰っちと写真が載ってる武士全員に胸を付け足して、そしてそれが緑間っちから借りた教科書だったりして、こっぴどく怒られ……いや、あの時は本気でキレられたんだった。後からちゃんと謝って消したし。
 数学の教科書に挟まっていた飴の袋は多分紫原っちにもらったものだ。英語の和訳が自分でやったとは思えないほど完璧なページは赤司っちに頼み込んでノートを見せてもらったやつ。国語の授業で本の紹介をしなければならなかった際に黒子っちに教えてもらったおすすめの本のリストも書き残されていた。
 ぎゅうぎゅう詰めの思い出に自然と笑みが零れ始めたところで、なんと去年のスケジュール帳が一番下から出てきた。今年の分に変えた時に捨てたと思っていたがこんなところにあったのか。黒一色のシンプルなそれを手に取ると懐かしさを感じたけれど、おもむろに一月のページを開いた次の瞬間、その多忙さに目を見張ることとなる。
 バスケの練習日程がキツいのは今も昔も大して変わらないもののモデル関連の予定がかなり多かったらしい。さすがに全中間際の七、八月はひたすらバスケに費やすのみだったようだが、それも終わって引退が近くなればほぼ毎日そっちばかりのスケジュールだったみたいだ。よくよく考えてみれば黒子っちが退部し、青峰っちが練習を投げ出し始めたあたりの話。俺も嫌気が差していたのだろうか。上手く思い出せない。
 手帳を持ち歩くようになったのはモデルのスカウトをされた中二の前後らへんで、新しく始めたことにはよくあるやたらとこまめに管理する現象がここにも見られた。今となっては全く書かなくなった撮影の感想とか、自主練のメニューとか、青峰っちとの対戦結果まで事細かにメモしてある。俺の方に白丸がついた日は一度もない。それでも諦めなかった日々を思い出し、そしてページが進むにつれてバスケに関する記録がなくなっていく様子に少し悲しくなる。
 ぱらぱらとめくること数分、十二月、最後の月へと辿り着き、去年の今頃は何をしていたのだろうかと呑気に見比べた。すると不意に、赤ペンで大きく主張したそれが目に留まる。
 十二月二十日。冬休み前、仕事も練習もなかったその日。
「……赤司っち、の、誕生日……?」
 書かれたままを読み上げ、すぐ我に返った。
 同時に慌ててポケットに仕舞っていた携帯を取り出して日付を確認する。が、どうあがいても今日は十二月二十九日だ。
 ……しまった。
「全然覚えてなかった……」
 半ば呆然としながら独り言を零し、そういえば冬の寒い時期にあの人の誕生日を祝ったことがあったなと記憶を掘り起こす。完全にしくじった。別に祝わなかったからどうというわけではないし、きっと向こうも大して気にしていないだろう。そもそも二十日なんてウィンターカップ直前じゃないか。誰も彼もが忙しく、赤司っち自身も多分覚えていないか、覚えていたとしても祝うなんて明るい気分じゃなかったと思う。
 とは言え頭の片隅にも無かったことには自分でも驚きを隠せなかった。一度親しくなった相手の血液型や誕生日は割とよく覚えているタイプなのに、実際に顔を見ても全く思い出さなかったとは。余程余裕に欠けていたというか、まあ例え覚えていたとしてもあそこでおめでとうの一言は言えなかったと思うけれど。
(メール……は、駄目だよな……)
 スケジュール帳を机に置いてメール画面を開いたものの、本文を打っていた途中でそう思い直して破棄する。
 ああそういえば誕生日だったみたいだけど俺にはもう関係ないよねで終わらせられればよかったのだが、なんとなくそれは許せなかった。知ってしまった以上祝いたい。何より六月に自分の誕生日を迎えた時、赤司っちから電話で祝されたことを思い出してしまったのだ。あの人は何気にそういうところをきちんとしたがる。それが見返りを求めての結果ではなくただの性格上というのはわかっているけれど、やっぱり年に一度しかない日だったんだと思うと、遅刻していようが素知らぬふりはできないものだ。世界中の科学者達には今すぐ俺の時間を九日前に巻き戻す方法を開発して頂きたい。
 ベッドに腰掛けて『青峰っち』『赤司っち』と並ぶ電話帳の上から二番目を選択し、発信ボタンを押す。東京から京都へ帰った翌日に練習はないだろうと踏み、とりあえず電話越しに祝福しようと考えた。静かな部屋にコール音が響く。赤司っち、今何してんのかなあ。そんな風に思いながら窓の外を見ると、視界いっぱいに雲一つない寒空が広がった。これじゃあ週末になる前に雪が降りそうだ。


 赤司っちの名前を初めて知ったのは、新入生代表の言葉で『赤司征十郎』と司会に呼ばれていたその日だった。桜の時期がずれて既に散りつつあった四年前の帝光中学入学式。受験合格者のうち最も成績の高い人間が選ばれるそれにあの人が抜擢されたのは必然的だったのだろう。学校生活が始まってからも試験の順位が廊下に提示されるたび、一位の数字と共に並ぶその名はよく目にした。主要五科の点数を合計して常に四百九十越なんて同じ人間とは思えなかったし、そんな奴がバスケ部の主将だと後から知った時は正直悪い印象しか抱かなかった覚えがある。まともに話したこともなかったけれどどうせ自分とは合わない人種だろうと。
 そう思わずにはいられなかった原因の第一は、黒子っちを俺の教育係に任命したのが赤司征十郎だったこと。あれは最初のうちは全く意味がわからなかった。第二に、俺が心の底から尊敬している青峰っちに「赤司の実力はそのうち嫌でもわかる」と言われたこと。あの頃自分の中では青峰っちがずば抜けて最強で、その台詞がなんだか癪だった。
 そして最後に。
「なんで主将は全く練習来ないんスか?」
 口を尖らせて不満を言うと、青峰っちと黒子っちが軽いストレッチをしながら淡々と答える。
「この前昇格テストがあったから、それで変動したチーム編成を組み直したりメニューを調整したりしてるみたいですよ」
「つーか昨日来てただろ。ずっと三軍の練習見てたけど」
 二人は慣れっこといった様子で全く意に介していない。が、俺からすれば部長だというの熱意が感じられないというか、とにかく一度も話したことのない赤髪のその人がとても遠い人間のように思え、頼る気も、ましてや仲良くなれる気なんて微塵もしていなかった。
 ところがそんな勝手な解釈はすぐに覆されることとなる。
「黄瀬」
 数日後いきなり声を掛けられて振り返ると、今まで半径二メートルより近付いたことのなかったその人が真後ろに立っていてびっくりした。赤司征十郎だ、と身構えてしまったのは仕方がない。俺が入部して三週間、一軍に入って一週間が経った日の話だった。
 昨日、紫原っちとの試合を経てキセキの世代がどいつもこいつも化け物染みた選手であることを学ばせられたばかり。主将とは試合どころかプレースタイルすらよく知らないままだが、きっとこの人も並外れた才能の持ち主なのだろう。それでも青峰っちの台詞は未だに認められずにいる。実力も何も、他の選手と関わろうとしない奴がそんなすごい選手だと言えるのかと。
 相変わらず不信感に似たようなものしか覚えない自分はそんなことを思いながら次の台詞を待った。すると自分より身長が低い為に多少見上げる形となったその両目が、じ、とこちらを見据えてくる。体が強張る。
「あ、あの……」
「一昨日、練習に来なかったな。何か理由があったのか?」
 突然そう尋ねられて拍子抜けした。主将らしくサボりは徹底的に調べるのか。まあ俺はサボったわけじゃないけれど。
「えー、と……俺モデルやってて、一昨日はその撮影で来れなくて……あ、ていうか学校すら欠席だったんスけど」
 随分しどろもどろになってしまったが事実だ。前日に誰かに伝えればよかったと今更後悔する。しかしそれよりも俺が驚いたのはこの人がこちらの出席状況なんかをちゃんと見ていた点だった。驚異的な成長スピードだと注目を浴びているのは知っているが、部員が何百人と居て、主将が名前を呼んで出席確認なんてしたことは一度もない。どうやって把握しているのかは気になっていたものの、まさか一人ひとり目で追っていたとは。それも恐らくこの人が一軍の練習には混じっていない日に。
 どうやら他の選手と関わろうとしないというのは俺の勘違いだったらしく、その両目は広くを見渡しているようだ。
 ところが案の定数秒の沈黙が流れ、やっぱり信じてもらえないかと溜息をつきそうになる。ファッション雑誌とか見そうな人じゃないし、証拠とかないとだめかなあと思っていると。
「わかった。すまない、副業をしているとは知らなかったんだ」
 予想外にもすんなりと認められて目を丸くした。「いや、別にだいじょぶっスけど」俺はまたしても言葉がおぼつかない。
 赤司征十郎が人を疑わない性格なのではなく、寧ろ疑いに疑いを重ねてただ真偽を見極めるのに長けているだけだと知るのはもう少し後になってからだった。
「撮影というのはどのくらいのペースで行われるんだ?」
「あ、えっと、時期によって違うんスけど……今は大体週に二回くらいっスかね」
「そうか。事前に日程がわかっているのであれば教えてくれないか? そちらを優先するとなると、お前には短期的なスキルアップを目指してもらう必要がある」
 そう説明しながら脇に抱えていた分厚いファイルを開き、メモを取る準備に入っている。俺は更に練習が厳しくなるのかと気が滅入ってしまっていた。が、それに気付いたらしい主将が顔を上げるなりおかしそうに笑う。
「大丈夫、別に練習で死なそうと思ってるわけじゃない」
「あんたのメニューは充分人を殺せるっス……」
「心外だな。まぁでも……お前はちゃんと期待に応えてくれるタイプだから、ついなんでも試したくなってしまうが」
 かちかちとシャーペンの芯を出しながらそんな風に言われてしまい、上手く返すことができなかった。代わりに今の時点で確定している撮影の予定日を伝える。「できれば今度出ている雑誌の名前も教えてほしいな」と書きながら言われたのは意外だったというか、改めてそう頼まれるとなんとなく恥ずかしい。
「――今月は一通りそんな感じっス。毎月、月初めに日程を言えばいいっスか?」
「ああ。そうしてくれると助かる」
 早速メニューを練り直し始めたのか、顎に手を当てて何かを考えているようだ。初めて言葉をかわしたものの遠くで見るより威圧感はなかった。これが赤司征十郎、俺達の主将、今になって妙に実感しながら口を開く。
「あの、俺、仕事よりもバスケを優先するんで」
 さっきの言葉が引っ掛かっていた。確かに撮影で練習に来れない日はあるが、試合があればもちろん部活に行くし、そうでなくとも手を抜くつもりは更々ない。そのことだけ伝えたかった。
 すると向かい合っている相手はもう一度しっかりと俺の目を見る。癖なのだろうか。黙って視線を合わせて、何かを読み取ろうとするのが。
 じゃあ、と主将は言った。
「もし黄瀬がレギュラー入りして、俺がバスケの為にそれを辞めろと言ったら、お前は言われた通りにするか?」
 顔色一つ変えないまま聞かれたその問いに言葉を詰まらせてしまい、目が泳ぐ。試されていることは本能的に感じ取ったものの、現状、それは無理だ。
「い、いや……そこまでは、わかんないっスけど……」
 今までで一番自信のない返事だった。もっとはっきり自分の意志を伝えられなかったのかと悔やまれるが、その時体感したこの人の強すぎる目力と、心の中を見透かされているような感覚に俺は気圧されていた。情けない。優先も何も、どっちかに絞る必要があるのは薄々わかっていただろう。
 しかし俺が萎縮して先の一言を撤回しようとした矢先、いいだろう、と端的に承諾される。見れば向こうの真剣な表情は和らぎ、口角を上げて何やら満足そうだ。俺の選択は正しいとでも言いたげに。
「え、いいんスか、今ので……」
「黄瀬がそう思うなら構わないよ。ただし時間があるなら部活は絶対参加、なくても自分で空き時間を見つけて常に周囲との差を考えながら練習に励むこと。成果は必ず現れる。撮影より試合を優先するというのなら、俺はその時に見せてもらうとするよ」
 ファイルを閉じて俺の横を通りながらベンチの方へと足を進められる。反射的に「でも、」と呼び止めると、赤司っちは振り返って告げた。
「やり甲斐を感じてるんだろう? バスケにも、モデルという仕事にも」
 だったら勿体ないことはするな、と。
 確かにどちらも好きで、どちらも続けたくて、でもそれじゃあ駄目なんだという悩みを一掃する一言だった。俺は呆気にとられて立ち尽くす。まさかあの強豪中の強豪と言われる部活の主将に、こんな掛け持ちを許してもらえるとは予想だにしていなかった。
 けれど今思えばその日だったのだろう。バスケもモデルも両立してみせると、俺が心に決めたのは。


 電話口を耳に当て、もうかなり昔の出来事となってしまった記憶を辿る。相容れないと思っていた主将とプレーする機会は徐々に増えていき、最終的にはさすがキセキの世代を統率していただけあると認めざるを得なくなった。青峰っちがああ言っていた理由も今ならわかる。赤司っちの『眼』の力を実際に見た時は、俺も息を呑んだ。
 中学の間はバスケとモデルをどっちもこなしていくことが正直に楽しかったのだと思う。あの人の言葉はずっと頭に残っているし、あそこで両立を許可してくれなければ今の自分の姿はきっとなかった。だから赤司っちには素直に感謝している。
 けれど以前のように上手くはいかないのが実際のところで、このままどっちつかずというわけにはいかないことも理解しているつもりだ。
 そう考えを巡らせながら待っていると、四コール目が鳴り終えた時にもしもし、と向こうから声が聞こえた。
「あ、赤司っちっスか?」
『ああ。久しぶり……というわけでもないか』
「ウィンターカップ、お疲れ様っした」
『それは涼太もだろ。お疲れ様』
 俺は決勝戦に対して言ったつもりだったが、最後の試合についてはいろいろと思うところがあるだろうしあえて触れる必要もないかと判断し、それ以上は言わないことにした。
 電話越しに聞く赤司っちの声はもちろん会場で聞いたものと変わりない。が、心なしか覇気が失われているようにも感じられた。よく眠れていないのかもしれない。初めての敗北を経験したあの人が今何を思っているのか、俺は知りたいような、知りたくないような、そんな気持ちだった。
『で、どうしたんだ? お前が電話なんて珍しいじゃないか』
 不思議そうに聞かれてはっとなる。そうだ、感傷に耽っている場合じゃない。俺には言わなければならないことがあることを思い出し、躊躇いつつも話を切り出した。
「あの……遅くなっちゃったんスけど、お誕生日、おめでとうござい、ま……した」
 これ以上ない気まずさを感じながら口にすると、赤司っちは一つ間を置いてからありがとうと返した。それから少し笑われる。
『見事に過去形だな』
「う……すんません、すっかり忘れてたっス」
『気にしてない。……っていうか、ウィンターカップ前に祝われても困るよ』
 ですよね、と内心で同意した。だから『まぁ敦だけは当日にメールが来たが』と付け足されたのには驚くしかなかったが、紫原っちならあり得そうだとも納得する。とりあえず大きな任務を果たしたような感覚にほっと胸を撫で下ろした。
 そして赤司っちが一言俺に断りを入れた後、少し静かにしろ、と電話の向こうで誰かに注意する声が耳に届く。
「あれ、もしかして部活中っスか?」
 それだったら悪いことをした、と思ったが、この人が練習中に電話に出るなんて今までに一度でもあっただろうか。
『いや、違うよ。部員が家に来てるんだが……おい、人の部屋を勝手に漁るな。……すまない、なんだか騒がしくて』
 話している途中途中で制す言葉と言い疲れたような様子が浮かび上がり、珍しく赤司っちが振り回されていそうな光景にちょっと笑えた。
「全然平気っス。でも赤司っちが誰かを家に呼ぶなんて珍しいっスね」
『呼んだんじゃなくて押し掛けられたんだ』
「あはは、大変そう」
『大変だよ。涼太が写ったファッション誌にも興味を持たれるし』
「え」
 想定外の発言に思考が固まる。まさかとは思うが。
「も……もしかして赤司っち、まだ俺が出てる雑誌買ったりしてるんスか」
 頬を引き攣らせながら恐る恐る尋ねると、ああ、とさも当然のように肯定の返事が返ってきた。
「まじっスか……」
『なぜそんな驚いてるんだ? 中学の時からじゃないか』
「それはそうっスけど! ……結構恥ずかしいんスよ」
『何を今更』
 そうは言われても顔が熱くなっているのは気のせいではないだろう。元々目立つことは嫌いじゃないが、ここまで親しい人の手にあるのかと改めて思うとさすがに居たたまれないというか。俺だって人並みの羞恥心は持っている。
『これからも続けるのか?』
 けれど不意に尋ねられたその質問には、目の前から逃げ続けている自分の心を突き刺すようなものがあった。もちろん赤司っちにそんな意図は無い。ただ純粋に聞かれているだけなのにハイもイイエも出てこない口が恨めしかった。
 沈黙が十秒と続けば向こうも何かを察して当然だ。僕が聞いていい話じゃなかったかな、と少し申し訳なさそうに言い直され、慌てた俺は咄嗟に口にするはずではなかった言葉が飛び出すのを抑えられなかった。
「な、なんであの時、許したんスか」
『あの時?』
 言うな、やめろ、と頭のどこかでは思っていた。
「だから、俺とあんたが初めて話した日、俺がバスケとモデルを両立することを……あの時……」
 聞いてどうするつもりだ。我に返って責めているようにだけは感じないことを祈ったが、相変わらず勘の良い赤司っちはこちらの心情を容易く読み取ったらしい。
『僕が辞めろと命令していればお前はバスケに専念できた、そう言いたいのか?』
 否定できなかった。
 誰に何と言われようとここまで続けてきたのは俺の意志であり、この人の台詞に多大なる影響力があったとは言えそんな道理が通じないことなど百も承知だ。命令一つで人生を左右されると思っている方がおかしい。二つを掛け持つ許可をくれて感謝しているのも嘘じゃない。今なんでこんなことを聞いてしまっているのか、後悔もしている。
 それなのに、否定できなかった。
『黄瀬』
 黙りこくった俺の返事を催促される。あえて昔の呼び方にするなんて卑怯だ。向こうの顔が見えない今、その声とその口調だけで以前の関係に戻ったような感覚に陥るというのに。
「……そんなところっス。でも、あの、ちょっと悩んでて咄嗟に言っちゃったっスけど、赤司っちは関係ないし今のは忘れて」
『心にもないことは言うべきじゃないよ』
 遮って断言されたが、怒っているわけではないことは雰囲気から窺えた。確かに全く関係がないとは思ってない。でも誕生日を祝う為の電話で俺の事情を勝手に押し付けている状況には顔を顰めるしかなく、どうにか話題の転換を試みたものの、しかしそれが簡単に通用する人ではないことはわかりきっていた。
『お前には謝らなければならないな』
 静かにそう告げられる。
『僕がずっと仕事との掛け持ちを許していたのは、単に好きなものは意地でも諦めない涼太のその根性を気に入ってたからだよ。……言っただろう? お前は期待に応えてくれるタイプだから、なんでも試したくなるって。あれはその通りの意味さ。帝光でどちらも手を抜かずにやってのけたことは正直驚いたが、同時にお前は僕の期待を裏切らなかった』
 本当に諦めの悪い奴だと思ったよ、と赤司っちは昔を懐かしむように淡々と言葉を並べる。俺は携帯を握ったままなぜだか泣きそうだった。頭の中を巡るのは必死だった過去と、親との口喧嘩。それが何を意味する水滴なのかは自分にもわからなかったが、せめて零れ落ちないようにと堪えて、赤司っちの声を聴いた。
『ただその分、いつかどちらかを捨てなければならないという壁にぶち当たることもわかっていた。いくらお前が器用な人間でも大人になればなるほど誰だって自由は利かなくなる。絶対に諦めないことよりも、諦めないことを諦める方が何倍も難しいと理解するんだ。その瞬間が帝光じゃなく……、僕が涼太の近くに居る時じゃなくて、僕は安心してるんだよ。責任を負うつもりはあっても何を言えばいいのかわからないから……。すまなかった。涼太がどう望んでも、僕はあの時、バスケ一本にしろとは言わなかったと思う』
 内容なんて半ばどうでもよかった。ただ赤司っちの嘘偽りない一言一句が嬉しい。初めてこの人の思考を少しだけ覗けた気がするのは、いつもなんとなく遠いところに居て、何を考えているのか傍から見ているだけだったからだろう。
『……そんなに感涙するような話だったかな』
「えっ!? いやこれは、ちが、」
『わかりやすいな、相変わらず』
 電話越しに小さく笑う声が聞こえてきて、泣いたのは不覚だったと服の袖で涙を拭う。
 赤司っちに対し思うところはあっても責めるつもりは本当になかったが、俺がバスケとモデルを続けてきたことによってこの人の中で何かしらの変化があったというのならば、それはそれで悪くないと思えた。
 あとは自分の問題だ。
「あっ、そうだ赤司っち、何か欲しいものとかないっスか?」
 涙腺が元に戻ってから声の調子を変えて聞くと、『欲しいもの?』と聞き返される。何のことだかわかっていないようだ。変なところで鈍いよなあと思いつつ、誕生日プレゼントっスよ、と付け足す。
『え、ああ、必要ないよ。一方的に物をもらうのは好まないし』
「そんなこと言わずに、誕生日なんスから」
 当日に京都へ届けるなどと粋な真似はできなかったが、今からでも贈り物をしたいと思った。けれどあまりそういうことに慣れていないのか、それとも突然聞かれて思い付かないのか、赤司っちはなかなか悩んでいる。そこで「物じゃなくても、俺ができる範囲でしてほしいこととかでもいいっスけど」と加えれば、閃いたらしい。
『じゃあ今度、“完全無欠の模倣”を使って僕と勝負してくれ』
 いやそれはちょっと。
「……無理」
『何故だ? ちゃんとお前にできることだろう』
「い、嫌っスよ赤司っちと勝負なんて!」
『決勝で海常と当たったら同じ結果だったじゃないか。自分の能力を使える選手と一度は試合をしてみたいし、それに久々に涼太のプレーを間近で見たいからな。ほら、誕生日プレゼントなんだろう?』
 そう言われると何も返せなくなってしまう。はあ、と大きく溜息をつき、恐らく面白がっているのであろう赤司っちに向かって精一杯の悪態をついた。
「すっげぇ大変なんスからね、あんたのコピー。ていうかまだ完璧にはできないし」
『別に僕のコピーをしろとは言ってないさ』
 自分の能力を使える選手と、と言い切ったのはそっちだってのに。これこそ期待に沿わなければ駄目なんだろうなと思いつつ、天井を見上げて通話を続ける。
「でも今度っていつになるんスかね。こっちには暫く来ないんでしょ?」
 ウィンターカップが終われば次は関東大会だけれど当然京都の洛山には関係がない。新入部員を迎え入れる体勢を整える時期である春休みに部活を休むような人ではないし、ともなると来年のインターハイまで会うことはないのだろうか。半年……いや、八ヶ月以上。遠いし長いし不便な距離だと改めて考えていると。
『いや、それがついさっき年明けに東京へ行く用ができてね。テツヤ達とも会う予定だから、その時に涼太のところへも行くよ』
 予想していなかった展開に目を見開く。
「えっ、そうなんスか?」
『ああ。僕は行くつもりは全くなかったんだが……行かなくちゃいけなくなったというか』
 よくわからない返事だ。そんな曖昧な理由で赤司っちが行動を起こすとは思い難かったが、一度決めたことは絶対にやり通す性格だし、東京に来るのは間違いないのだろう。
「一人で来るんスか?」
『その予定だ』
「なんだ、洛山みんなでって言うんなら海常との練習試合も提案したのに」
『有難い話だが今回は遠慮しておくよ。プライベートでこいつらを連れていくと面倒なことになりかねない』
 と言ったところで急に電話口の向こうが騒がしくなり、そういえばさっきはかなり静かだったことを思い出す。場所を変えたのかな。
 じゃあまたあとで連絡するから、と続けられ、掃除中に立て掛けておいた来年のカレンダーへと目を向けた。年明けは今のところ部活を除いて大した予定はないが、赤司っちが来る日にちがわかったら空いている時にでも事務所に顔を出そう。まずは仕事の方で腹を括らなければ何も進まない。
「了解っス。1on1、やると決まったからには手抜かないっスよ」
『ああ、楽しみにしているよ。でも……まあ、僕と向き合う前にまずは自分と向き合ってからだろうな』
「赤司っちの言ってた壁を乗り越えたら、その部屋にある俺が出てる雑誌、全部捨ててくれるっスか?」
『捨ててほしいのか?』
「言ったじゃないっスか。結構恥ずかしいって」
 未熟な自分を媒体として残されるほど苦々しいものはない――とまでは言わなかったけど、赤司っちなら多分わかってくれるだろう。考えとく、と全てを理解したらしい返答に安心する。
 そして『もうそろそろ切るよ』と声が聞こえてきたので、最後にもう一度だけ大事に大事に言葉を贈った。
「それじゃ改めて、ハッピーバースデー、赤司っち」


 通話を切った後は随分と心が澄み渡り、さっきまでのどんよりとした気分が嘘のようだった。どうしてあの人の言葉に、声に、態度に、これほどまでの影響力が詰まっているのかわからない。考えても一向に答えは出ないけれど、恐らくこの先も知ることはないのだろう。
 出しっぱなしだった段ボールの中身を再度確認しながら、捨てるのはやめようと思った。帝光の思い出を燃やす勇気はまだ自分にはない。だから違う方面からでも一つずつ片付けていくしかないんだ。好きなことは続けたいし好きなものは身近に置きたい、それは相変わらずだが、一つひとつ自分が納得いくように整理していこう。

“絶対に諦めないことよりも、諦めないことを諦める方が何倍も難しいと理解するんだ。”

 赤司っちの台詞を思い出す。全部全部諦めるという行為が嫌いな俺の性格をあの人は気に入っていたとも言ってくれた。でも俺達はもうあの頃と同じじゃない。誕生日を迎える度に大人になる。バスケのことも、仕事のことも、一から考える必要があった。
 そして携帯を閉じて再び窓の外を見ると、驚いたことにそこにはふわふわと舞う幾粒もの白い雪。まだ週末じゃないのにと目を見張ったが、その美しい景色に少しだけ見惚れた。服やアクセサリーを捨ててもスケジュール帳は捨てられず、雑誌を紐で括っても落書きだらけの教科書は括ることができない。そんな散らかった俺の部屋とは似合わないなあと、苦笑する。
「まずは自分と向き合ってから、っスね」
 赤司っちがこっちに来る頃にはきっと雪は融けてしまっているだろう。それまでに、いろんなものが溢れている、この空間を。


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