あ、といち早く気付いたのは本人だった。
「血」
 手に付着した赤い液体を見ながらその一文字を口にした途端、鼻から伝う血液がぼたぼたと床に流れていく。スリーオンスリーでゲームをしていた真っ只中に起きた突然の事態。皆が一瞬にして動きを止め、俺の右手にあったボールは転がり落ち、空気が固まったようだった。そして状況を理解すると同時に紫原がうろたえ出す。
「えっ、えっ、どーしたの赤ちん、すごい血出てる」
「ああ……すまない、ただの鼻血だから大丈夫だ」
「ボールが当たったとかじゃないですよね?」
「違うよ。のぼせたかな」
「ていうか赤司っち早く止血して!」
 未知なる物体を見るかのような目で手の平に落ちる血を眺めている赤司に黄瀬がそう声を掛ける。俺もさすがにびっくりした。赤司が鼻血、へえ、そんなことがあるのか。
 一歩遠くから離れて様子を窺っていると、慌てて近寄ったさつきが心配そうにティッシュを渡していた。
「ちょっと休んだ方がいいよ」
 その一言に赤司自身あまり納得していないような素振りだったが、「今の状態でプレーを続ける方が無理なのだよ」という緑間の言葉には渋々納得したらしい。ティッシュを鼻に当てて一言謝った後コートを去っていく。俺は落ちたボールを拾いながら、体育館の壁際に腰を下ろすあいつを視界の端に捉えた。

 ***

「珍しいこともあるもんだな」
 十分間の休憩に入り水分補給を済ませてから隣に座ると、俯いていた赤司が顔を上げてこちらを見る。そこで本来真っ白なはずのティッシュが部分的に赤く染まっているのが目に入った。髪の色と大差がない。そう思いながら首筋に滴る汗をユニフォームを引っ張って拭いつつ、青色と緑色で模様が描かれた濡れタオルを横に置いてやる。
「冷やした方がいーんじゃね」
「ああ、ありがとう。迷惑をかけたな。……ところでこれ、上向くより下向いてた方がいいんだよな?」
 不意にそんな質問をしてくるものだから、一瞬何のことだか理解に手間取ってしまった。
「は? ……あーうん、上向くのって間違ってるらしいぜ。ここらへん押さえて圧迫するだけ。つーか、もしかして今まで鼻血出たこと一度もねえのか?」
 自分の小鼻を指でつまむようにして説明すると思った以上に真剣な目線を向けられ、ふと疑問に感じたことを口にしてみる。
 するとあっさりと縦に振られる首。
 世間には鼻血と全く無縁だという人間も居ると聞いたことはあるが、自分の周りにそういった奴が居なかった為に少なからず驚いた。が、まぁ確かに赤司ならありえそうだと妙に納得もする。鼻から垂れ落ちた血を見た時の不思議そうな目がその証拠だ。初めてだったのだろう、冷静に受け答えする反面、ただただ放心状態にあるようにも見えた。
「ボールを顔面で受け取る初心者がたまに居るから、救急に関する知識もそれなりに備えていたつもりだったんだが」
 予想以上に量が多い、と依然として鼻を押さえたままくぐもった声が聞こえてくる。そして俺のアドバイスを思い出したのか隣に畳んであったタオルを手に取ってその周囲を覆っているが、早速上を向いてしまっていることにこいつは気付いているのだろうか。
「……随分と可愛らしい柄だな」
 タオルを見るなりそんなどうでもいいことしか考えられない程度には思考が休まっているらしい。
「さつきが渡せっつったんだよ。俺の趣味じゃねえ」
「最近桃井は俺のことでよくお前を使ってないか? 何か弱みでも握られているのか」
「ちげえよ、多分。……バレてんじゃねーの」
 それこそが『弱み』なのだとは認めたくなかった。壁に背を預けたまま天を仰いでいる赤司がゆっくりと瞳だけこちらに向けたが、その後すぐに俺の言わんとしているところを理解したらしい。視線を戻し、女の勘は恐ろしいな、と苦笑している。
「言ったわけじゃないんだろう?」
「当たり前だ。なんでてめーと付き合ってることをあいつに言わなきゃなんねえんだよ」
 俺とこいつが友達の枠を越えたのは数ヶ月前の話だった。付き合っていると言っても世間一般の恋人同士のように手を繋ぐなんて気持ち悪いことはしないしキスの経験だってない。もちろんそれ以上の行為も同じように。ただ何故か名目上だけがこんな関係になってしまっているわけだが、一応お互い好きではあるのだろう。
 俺自身も何だかよくわかっていないが、赤司の困ったように笑う顔は好きだった。
「それじゃあこのタオルは単に俺の鼻血を心配したのか、わざわざお前に気を遣わすよう仕向けたのか、どっちだろうな」
「そこまで考えてねえだろ」
 俺はあくまで前者だと思っているけれど、もしこちらの事情をわかっていて黙ってくれているというのなら有難く思うと同時にとても居た堪れない。とは言えさつきに確認する勇気はさすがになかった。
 内心で溜息をついていると不意に赤司が眉を顰めて呟き、
「口の中に血が回ってきた」
 見れば露骨に不機嫌そうな顔をしているものだから思わず笑いが零れてしまう。
「だから上向くなって」
「ああ、下を向かなきゃいけないんだったな。どうにも慣れなくて……体調管理を怠った覚えはないのに」
「いや関係ねえだろ」
 どうせこいつの言う体調管理は生活習慣とか練習後のケアとかそんなものだ。それが鼻血と直接関係あるなんて聞いたことがない。赤司の頭は出来過ぎてて偏ってる面があるなぁと、口には出さず思った。
「やらしーことでも考えてたんじゃねえの」
 面白半分で笑ってみる。が、言ってすぐ赤司に向けていい言葉じゃなかったと後悔した。
(やべー……機嫌悪くしたかな)
 しかし恐る恐るそっちを見てみると、「そうかもな」と予想外の返事。まさか肯定側の返事が来るとは思わなかったっていうか、そこはお前、馬鹿なことを言ってる暇があるなら練習に戻れとか、そういう返事するとこだろ。本気なんだか冗談なんだかわかりづれえんだよ。
 悶々と心の中でそんな風に突っ込んだりしていることに赤司は全く気付いていないのだろう。
「俺は髪が伸びるのも早いし」
 前髪を弄りながらいつもと変わらない調子で言っている。
「髪伸びんの早いとエロいとか、そういうの信じねえタチだと思ってた」
「別に信じてるわけじゃないが……クラスの男子が言ってたのを聞いただけだよ」
「……で、何考えてたんだよ」
 こっちの方面に話を持っていくつもりは更々なかったものの、せっかくだから聞いてみようと勝手に口が動いていた。命知らずだと自分でも思わないことはない。
 赤司は数秒口を噤んでしまい、それが最高に気まずく感じられた。しかも何を言われるだろうかと口元を見ていたせいでやけにその唇が気になり始め、失敗した、と思う。やらしいことを考えてるのは俺の方だ。
 そうだな……、と赤司は顎に手を当てて独り言のように呟く。そして口角を上げてこちらに目を向けたその表情に、不覚にも惹かれた。
「今キスしたら血の味がするんだろうなって、考えてた」
 それは卑怯だ。
「…………」
「青峰?」
「……練習戻るわ」
「珍しく熱心だな。感心感心」
 うるせえ、俺の反応見て楽しんでたくせに、とはプライドに憚られて言えず、大股でその場を離れていく。あいつのああいうところが嫌いなんだ。どこまで近付いていいのかわからなくて悩んでいるというのに、向こうは易々とこちらの内側に踏み込んでくる。
「……くそっ」
 練習が終わったら見返してやると、初めて赤司にキスを試みた日のことだった。


「按排が悪い」 / 2012.11.23
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