体育館に自ら足を運ばなくなって数ヶ月が過ぎた。そしてこれからも、二度とあの場所へ行くことはないだろうと思っていた。


 卒業式の練習では先生に自分を見つけてもらえずついぞ卒業証書の複製品を手にすることはなかったが、本物はちゃんともらえてよかったと胸を撫で下ろすほかない。影の薄さは今更どうしようもないのだ。点呼されて返事をしても相手の眼前にまで行かなければ大抵欠席の印を押されてしまうことには、もう慣れている。
 式が終わって退場している途中、目の前を歩く男子が肩を震わせているのが目に入った。きっと涙を堪えているのだろう。その隣の女子もハンカチを取り出している。周囲は「卒業生に拍手を」と司会に添えられた言葉通りの光景。これが称賛の拍手だと言うのなら、自分に贈られる理由なんてあるのだろうか。ないだろう。僕はこの学校に貢献していない、そう思った。
 驚いたことに在校生の中でも泣いている人がいる。主役じゃなくても感涙するのかと妙に他人事な自分は、なぜかそういったものが一滴も出ない。
 目が乾いている。
 この学校を卒業することは悲しかった。確かにそう思ってはいるのだが、反面、やっと解放されると喜んでいる姿も心の中には見えているようだ。もしかしたらそのこと自体が悲しいのかもしれない。いや、純粋にあの人達との別れが悲しいのだろうか。夏が終わってからだから、もう半年くらい言葉を交わしていない彼らとの、別れが。
 ふと視線を落とすと、胸に飾られた一輪の造花が視界に映える。真っ赤なその色は抑える間もなく彼を彷彿とさせた。本来はどこもくすんでいない美しい赤色だろうに、自分が俯き加減であることによって影が落ち、少しだけ濁ってしまっている。
 その鈍い色合いに胸の奥底が痛んだ。


 担任との挨拶も済ませいよいよ帝光中学で過ごす最後の時間がやってこようとしている。三階の教室から一段ずつ下りていく足取りは予想外に重かった。来賓で混雑している廊下を通っても誰ひとり僕とぶつかることなどないし、どの視界にも映ってはいないのだろう。そうしているのは僕自身だ。
 本当に明日からここには来ないという実感はなかなか湧かないもので、もしかしたらこれは夢なんじゃないかとも考えた。それじゃあ一体どこからが夢なんだろう。今朝からか? 進路が決まった時からか? 最後の全中からか? 彼と出会ったあの日からか? 僕が、バスケを始めた瞬間からか?
 ところが全部夢だったらと考えて喜べるほど僕は単純じゃないらしい。床を踏み締める感触、肩に掛けた鞄の重み、すれ違う人々との空気が、今を紛れもなく現実なのだと伝える。その答えが尚更気分を落とさせた。卒業とはもっと晴れやかな舞台を想像していたが、僕の心に残るわだかまりがそれを許さない。
(……明日にはもう、自分はここに居ないんだ)
 何度もそう反芻しながら正面玄関に着き、そして下駄箱から外履きを取り出した時だった。かさりと何かが指先に触れる。
――手紙?
 周りに同級生はいたが勿論自分の存在には気付いていない。僕はゆっくりとその切れ端を手に取った。普段使っているノートをただ千切っただけのような割には綺麗に折り畳まれ、靴をいったん戻してから紙を広げる。
 そこで僕の頭に浮かれた考えは全く過らなかった。恋愛経験が少ないというのも一つの理由だし、何よりこの半年間は本当に少数としか目を合わせていないのだ。ここの人間と今更コミュニケーションを図るなんて方が難しい。僕が今日学校に来ていると確信を持っている存在と言えば担任くらいしか思い出せないのだが、何か重要な連絡とか、あるいはクラス全体によるサプライズだとか(僕のクラスはお祭り騒ぎが好きだった)、そういった類だろうか。
 数秒でそんなくだらないことを思い浮かべた。古典的すぎる連絡手段に影が薄くて申し訳ないなぁと、やっぱり他人事のように。
 けれど手の平程度の大きさである紙面に見合わない小ぶりで整った筆跡を見て、目を見開く。
「……!」
 一瞬、心臓が跳ねた。
 名前は書かれていない。どこぞの少女漫画みたいな可愛らしい展開にはならなかったが、それよりももっともっと意義ある手紙のように思えた。いや、そう思っているのは僕だけかもしれない。でもこの一言が誰によるものかなどすぐに特定できてしまったのは、あの頃日々渡される手書きの資料に羅列していた文字と一致したからだ。
 間違いない。これは彼の字だと、彼が僕に向けたメッセージなのだと、気が付けば自分は来た道を引き返し渡り廊下を走っていた。今日初めて他人の肩にぶつかったが、そんなことはどうでもいい。
 自分は今向かっている。二度と行くことのない予定であった、あの場所へと。


 撤回しようと思う。
「久しぶりだな、黒子」
 彼の口にした通りとても久しいその姿は、最後に近くで見た時と何ら変わりないものだった。強いて言えば少し身長が伸びただろうか。百七十センチ超の背丈に白いブレザーを着こなして、ネクタイは緩まないようきっちりと締め、そして胸元にはその髪色と同様の造花が添えられている。
 晴天に恵まれ日差しが差し込む午前十一時の体育館のど真ん中に、凛と佇むその人が好きだった。撤回しようと思う。僕は恋愛経験が少ないという点について、自分の中に疼く確固たる想いはかなり前から芽生えていた。それについて特に行動を起こしたことはないけれど。
「……お久しぶりです」 
「走ってきたのか? 肩で呼吸をしているな。あんなにランニング中の呼吸法を教えてやったのに」
「ええ、まぁ……覚えが悪くてすみません」
 息を整えながら一歩一歩彼のもとへ近寄った。そこは先ほど卒業式が行われていた際に、僕たちが入場し、退場した道だ。この期に及んで再び体育館に来ることになるとは思っていなかったが、相変わらずだだっ広い場所だと辺りを見渡す。
「懐かしいか?」
 そう問い掛けた赤司君の声色は随分と穏やかだった。
「体育の授業で使ってましたので……」
「そういう意味じゃないよ」
 僕が屁理屈を並べると苦笑された。ああ、こんな風に笑う人だっただろうか。もしかしたらここから開放されて喜びを感じているのは自分だけではないのかもと思わずにはいられない。妙にすっきりとした表情でこちらを見据える赤司君に、気になっていたことを一つ尋ねた。「僕が居ること、知ってたんですね」と。
 すると彼は驚いたように目を丸くする。
「居ることって、学校に来ていたことか?」
「はい」
「……何を今更……、まさか俺に黒子の影の薄さが通用するとでも思っていたんじゃないだろうな? 廊下ですれ違うたび目を向けたよ。お前はとことん無視していたがな。おかげでノートを千切るはめになった」
「すみません。退部届を提出した手前、どんな接し方をすればいいのかわからなかったので」
「別に、その件ついては快く承諾しただろう」
 そうだ。赤司君は僕が部活を辞めることに関して何も文句を言わなかった。説得もされなかった。ただ一言、わかったと頷いて美しくない字で書かれた退部届を受け取ったのだ。夏も終わりを迎えた頃のことだった。
 接し方がわからなくなったのはバスケ部を辞めたからじゃない。退部を、彼がすんなりと認めたからだ。自分はもう必要ではないと宣言されているに等しい現実から心を背け続けた結果、今の今まで赤司君と言葉も交わさず旅立つところだった。けれどそれで良いと思っていた。
 僕が何も言えずにいると、赤司君は静かに目を伏せて笑う。
「最後にお前と会えてよかった」
 そう彼の口から出た『最後』の一言は妙に現実味を帯びていた。さっきまであれほど実感が湧かないだの夢だのほざいていたくせに、さすが赤司君の言葉はいつだって正しい。
 他の生徒は今も友人や教師、後輩との別れを惜しんでいるところだろう。午後からは練習が始まるバスケ部も、今は皆出払っていてここに自分たち以外の影はない。式で使用した椅子が整列しているだけだ。
 おかげで物音一つしない沈黙がやたらと気まずく感じられ、僕は気付いたら、赤司君、と声を掛けていた。
「ん?」
「赤司君、僕は……」
「…………」
「……いや……何でもありません。京都へはいつ?」
 言おうと思った台詞が喉の奥でつっかえた。代わりに咄嗟に零れた質問に、彼はくるりと体を反転させて「明朝だ」と呟き、そのまま奥に設置されているステージの方へ歩む。
 彼が京都の高校を選んだことは風の便りで聞いたまでだが、なぜ知っているのかと問われなかったのは意外だった。
「明朝、ですか。随分早いんですね。黄瀬君が春休みにみんなで遊びたいと言っていましたが」
「向こうで世話になる親戚の家にまだ挨拶を済ませていないからね。早めに行って土地にも慣れておくべきだと……そんなことより、黄瀬と交流はあったのか。安心した」
「メールが来ただけですよ」
「返信は?」
「してません」
「それじゃあ今ごろ泣いてるだろうな。お前が姿を消して一番悲しんだのは黄瀬だった。……ああいや、青峰も同じようなものか」
 青峰君は僕が部を辞める前からとうにボールには触れなくなっていたはずだ。当然赤司君が彼と接する回数も大きく減っただろうに、そう言える確信がどこにあるのか、僕にはわからなかった。
 返信をする気はない。黄瀬君のメールは確かに僕の返答を求めた文面だったが、多分、返事などないことをわかった上で送ってきたのだと思うから。あれが彼なりの最後の挨拶なのだ。
「赤司君」
 ステージに手を添えて黙ってしまった彼の名を呼ぶ。十メートル以上距離があった為に、少し声を張り上げる形となった。
「僕は……、僕は帝光に、必要な存在でしたか」
 聞いていいのかずっと迷っていたが、聞かなければ後悔する気がした。
 ところが自分に背を向けたままの赤司君から言葉はなく静寂が流れる。やっぱりこれは聞いてはいけない問題だったか。表情が見えない為に怒っているのか、困っているのか、はたまた呆れているのか、判別がつかない。
 そして話題を変えようとした矢先、彼はいきなりステージに手を突いて飛び乗った。
 どうやら舞台袖に荷物を置いていたようで、奥から戻ってきた彼の右手には使い古されたバスケットボール。恐らく赤司君の私有物だろう。
「黒子、このボールでシュートしてみせろ」
 唐突にそう告げると同時に片手で弧を描くようにパスをされ、驚きながらも反射的に受け取るしかなかった。全く意図が読めない。けれどステージに立つ彼を見上げると、口角を上げてその命令を変える気はないらしい。
「そこのゴールでいいから」
 反面コート用に脇に設置されたそれを指差す。僕は頭上に疑問符を浮かべつつ、ボールを手に持ってゴールより三メートルといった距離のところまで椅子の合間を縫って歩みを進めた。体育館の中央からなどと緑間君のような真似はできない。
 こうして赤司君にじっと見られながらプレーをしなければならないなんていつぶりだろうか。あの頃はしょっちゅうだったが、辞めて以後というもの勿論そんな練習はしていない。妙に緊張しながら二度ドリブルをし、両手でシュートの構えを取る。
 が、放たれたボールは残念なことにリングに弾かれてしまった(僕としては予想の範囲内だった)。
「……なに笑ってんですか赤司君」
 でもまぁさすがに恥ずかしい。
「ふ、はは、いや、あまりに予想通りで……ごめんごめん」
 口元を押さえて笑いを堪えている赤司君がステージから飛び降り、ちょうど彼の方へ転がっていったボールを拾う。そんな自然に笑顔を見せる様子を、きっと僕は初めて目にした。
「バスケ部を辞めても自主練はしていると思ったんだが」
「してましたよ。一日も欠かさず」
「……それでもシュートは相変わらず、か」
 視線を落として独り言のように呟く彼の声に少しの後悔が見えたような気がした。僕にパスを極めるよう教え込んだのは赤司君だ。そしてこんな風に簡単なシュートすら決められない僕を見て悔やんでいるように思うのは、いくらなんでも自惚れが過ぎるだろうか。
 これがさっきの自分の問いに対する何かのヒントなのかと考えたものの答えを見出せない。彼の気まぐれか? どちらでもいい。ただこの際、すっきりと帝光を去る為にも心のわだかまりを全て消化してしまえと投げやりな気持ちは既にあった。
「そういえば、制服の第二ボタンをあげる相手っていますか?」
「……随分と唐突だな。生憎、俺は中学でバスケ以外に没頭したものはないよ」
 僕の質問に心底驚いたような顔をした彼とその返事に、心の中でほっと息をついた。そう確認してからでしか想いを伝える気になれない自分が臆病すぎて嫌になる。
「……じゃあ、聞き流してくださいって最初は言おうと思ったんですけど、やっぱりちゃんと聞いてください」
 彼としっかり向き合って告げた。
「僕は君に、友達以上の感情を抱いていました」
 すると赤司君は一瞬目を見開いたが、それからほんの少し視線を泳がせた後、「過去形なんだな」と眉を下げて笑った。痛いところを突かれたとは思っていない。わざとそうしたのだ。
「……だって『今も』と告白したら、君を困らせるでしょう」
「もう困ってるよ」
「いきなりすみません」
「……ああ、そうだな、本当に突然だ。もし俺が京都に行かなかったら、違う言い方だったのかな」
 その返答は予想していなかった為に思わず言葉に詰まる。僕が曖昧に言った理由はそれだけではなかったが、確かに彼がこの街からも居なくならないとわかっていれば、もう少しマシな告白ができたかもしれない。
 他にも、僕が彼と対等な関係であれば、僕が彼に引け目を感じていなかったら、僕がバスケ部を辞めていなければ――。
「……そう、ですね……。ちゃんと伝えていたかもしれません」
 急に自分が情けなく感じた。
「……矛盾しているとは思いますが、返事を聞かせてもらえませんか」
 過去形なのだとお互い納得している上で彼の返事を求めるのはきっと間違っているのだろう。そんなことはわかっているけれど、それでも、赤司君の口からイエスかノーか聞きたかった。いや、ノーなら聞きたくないというのが本音か。
 しかし彼は口を噤んでこちらと目を合わせようともしない。そんな様子を見て、困らせるつもりはなかったのにと今更な反省を内心せずにはいられなかった。退部の時に散々迷惑をかけたことは承知している。もう僕のせいで君を困らせたくない、そう確かにあの時、退部する理由の一つとして心に決めていただろう。
 ……だというのにこのざまだ。
 いい加減沈黙が居た堪れなくなってきたが、言ってしまった以上これだけは僕の方から折れるわけにはいかなかった。ぐ、と耐えて赤司君の返事を待つ。すると彼は一度目を伏せ、意を決したように唾を嚥下したのが目に入った。
「そういうことを言われたのは生まれて初めてだ。……ありがとう。嬉しいよ。……でも……、」
 それ以上の言葉はなかった。代わりに少し躊躇ってから「……時間だ、もうすぐ部活が始まる。帰ろう」と告げて出口へと向かう。
 同時に僕は怒りなのか悔しさなのかよくわからない感情を覚えた。らしくない。そんな半端な返事は。
「……っ、誤魔化さないでください!」
 横を通り過ぎようとした赤司君の手首をぱし、と掴む。瞬間、彼の左手にあったバスケットボールが床に落ちて転がった。体を強張らせているのが嫌でもわかったが、お願いだ、僕の想いから目を逸らさないでほしい。

「赤司君、僕が曖昧に言ったのが原因で今の返事を口にしたのなら、撤回します。好きです。ずっと前から、今も、君のことが。……お願いします。誤魔化さないでください」

 半ば衝動的に零れた告白はとてもじゃないが余裕なんて少しも見えない、切羽詰まったものとなってしまっていた。二年間貫いてきた感情をこんな形で終わらせたくない。つまるところこれが自分の本心なのだ。
 表情を窺えない彼はすっかり俯いてしまい、この手を離すこともなく時間は過ぎていく。しかし赤司君はそれからとても小さな声で、恐らく僕に直接向けた言葉ではない台詞を口にした。
 どうして今言うんだ、と。
 聞き逃しそうなくらい消え入るように呟かれたものだった。否、聞き逃すべきだったのかもしれない。
「黒子」
 その言葉の意味を考え始めたところで名を呼ばれてはっとなる。振り返った赤司君の表情に、さっきまでの躊躇は迷いは見られなかった。この時点できっと僕は、その先の答えが読めていたのだと思う。
「――友達『以上』なら、友達でも、いいよな?」
 ああ、この人は、なんてずるいんだろう。
 確かに言葉の意味を純粋に受け取ればそう解釈すべきなのかもしれない。わかってる。赤司君は最後まで正しかった。僕は最後まで彼の心を捕らえることができなかった。それが多分、全てだ。
 友達の枠からなどとうに収まりきらなくて、だから好きだと伝えたけれど。
「……手を離してくれ」
 そんな風に何かを諦めたような、諭すような笑顔を見せられたら、僕はもう何も言えない。
 名残惜しくも仕方なく、言われた通りにするしかなかった。す、と離した自分の手が急に冷えていく。彼に顔を見られるのが嫌で今度は僕が俯くと、不意に頭を撫でられる感触。そういえば赤司君は機嫌が良い時や褒めたい時だけ選手に対しこうすることがままあったことを思い出す。勿論今はどちらでもないだろうが。
「お前にそう想われていると知って嬉しかったのは本当だ。……誤魔化したりして、悪かった」
 強いて言えば、慰めと言ったところか。
 しかし僕が押し黙れば彼の手は離れていき、再びステージの方へ向かう足音のみが耳に入った。荷物を取りに行ったのだろう。顔を上げる気力すら失われていることには我ながら意外に思う。もっと気丈に、淡々と振る舞う予定だったのだ。
 床に放置されたままのバスケットボールは拾われる気配がない。そしてその場に立ち尽くす自分の後ろからもう一度名前を呼ばれたが、今、彼の表情を視界に映し、平静を保っていられるとは思えなかった。
 振り向かずにだんまりを決め込んだところで「さっきの質問の答えだ」と、赤司君ははっきりそう告げる。
「お前は……、黒子は、帝光に必要な存在だった」
 今までありがとう。
――予想だにしていなかったその言葉が聞こえて咀嚼した数秒後に振り返ると、彼の姿はもうなかった。閑散とした体育館にただ一人、喪失感と共に残される。
 ああ。
(……もう、)
 終わってしまった。自分の中学校生活も、帝光でのバスケも、彼への恋心も。全部全部終わったのだ、ここでの存在を認められたと同時に。
 卒業式が行われている時点で悲しいのか嬉しいのかわからなかったが、今となってはどちらでもよかった。何も考える気が起きない。告白をしたのが本当に正しい選択だったのかと疑い始めるほど頭の中は困惑する半面、あれ以外に自分が取るべき行動はなかったのだと妙に満足している部分もある。いろいろな思考が混ざりに混ざり、放心状態を生んでいた。
 そんな中でも彼の一言一句はしっかりと思い浮かべられる。何より唯一赤司君が飾らずに呟いたようなあの台詞が――「どうして今言うんだ」の一言が、忘れられなかった。こちらを見ない目。震えたような声色。
 そしてふと、下駄箱の中にあったあの手紙の存在を思い出した。急いでいてポケットに丸めて入れてしまったそれをおもむろに取り出して見る。
『もう一度だけ会いたい』
 綺麗な字で記された一文。体育館で待っていると書かれていたわけでもなく、ここに来たのはほぼ直感だった。赤司君が居るとするならここしかないだろうと思ったのだ。
 ところが視界の片隅に彼のバスケットボールを捉えるのとほとんど同じタイミングで、はっとなる。

 赤司君は、自分が『待っている』なんて一言も言っていない。
 『卒業式の後に』会いたいとも。
 『最後に』会いたいとも。

 つまり彼が会おうとしていたのは、今じゃない。今日じゃなかった。違ったんだ。
(どうして今言うんだ、の、意味は……)
 それに気付き、茫然とした。
 僕の想いを受けて嬉しかったというのも恐らく嘘じゃないのだろう。自分が京都に行かなかったら違う言い方だったのかと、ああ尋ねた赤司君のそれは彼の望みだった。
 今更気付いてしまった。きっと彼はもっと先の未来でもう一度僕に会うはずだったのだと。それはいつか、この街に戻ってきてからの予定だっただろうか。
 一つ一つ彼の本当の想いを理解していく。けれど何もかもが遅すぎた。――赤司君、君が体育館に居たのは、僕を試したかったからですか?
「はは……、そもそも君なら……本当に会いにきてほしい場合は、『会いに来い』って、いいますね」
 つい数十分前までは乾き切っていた両目からぽたりぽたりと水滴が零れていった。それは不可抗力なもので、止める術がわかりそうにない。
 好きです、赤司君。ごめんなさい、君の言葉をわかってあげられなくて。ごめんなさい。
 泣きながら心の中で何度もそう繰り返す。本当は僕が待っていなければならなかったんだ。『会いたい』の言葉通り彼が会いに来るのを、どれだけ時間がかかっても、その日が来るまで。
 しかしもうチャンスはやってこない。『もう一度だけ』と書かれているのがその証拠であり、自分がその『もう一度』と与えられた機会を使い切ってしまったのだから。バスケを続ける限りいずれ顔を合わせることはあるかもしれないが、あの手が僕の頭を撫でることは今後一切ないだろう。
 全てを理解した後、僕は歯を食い縛ってひたすら涙を流した。ついには嗚咽も漏れ始めたが、いっそのこと声をあげて号泣してしまいたかった。
(そんな厄介なことをしなくたって……いいじゃないですか)
 ただ好きだという思いではだめなんですか。苦し紛れに笑いながら呟いたが、誰に聞こえることもない。
 頭の中ではこの三年間が走馬灯のように蘇る。式で合唱している時よりも、答辞を耳にしている時よりも、より多くの映像が、音が、次々に思い出されていった。その大半を占めるのは当然バスケのことであったが、胸を締め付けるような感覚に陥るのは常に赤司君が自分の傍に居た時だった。
 好きだったんだ、本当に。だからこそ最後に必要な存在だったと言ってくれたことが嬉しくてしょうがないのだとわかり、そして強く強く抱いた想いを今ここで捨てなければいけないことへの悲しみが水滴となって流れ落ちる。
「今まで……っ、ありがとう、ございました」
 ノートの切れ端を握った方とは反対の腕で顔を覆い、もうこの場には居ない彼に向かって言葉を返した。
 中学一年から三年の間、僕がただ一人、ひたむきに愛した人へと。


Last memory/2012.11.13
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