ここにいる人間は皆揃って血反吐を吐く思いで練習をしている。が、人には必ず限界がある。青峰君のように技術に限界がない選手でも、体力に上限は付き物だ。彼だって年中無休で才能を発揮しているわけじゃあない。
 それでも彼らはバスケットプレイヤー相応、あるいは年齢から見れば少々大き目の体格に比例して、体力も底なしに近いと錯覚を起こすほどなのだろう。あの膨大なエネルギーは一体どこから沸いているのか、自分もあと数十センチ身長があれば違ったのか、否、この体つきでなければきっと今のスタイルは生み出せなかった。僕は床に伏せて頬と接触する冷たさを感じながら、いつもそう考える。疲弊しきった脳内はやたらと冷静だ。
「寝るな、黒子」
 そしてこんなぼんやりとした思考から目覚めさせてくれるのは大体この一言。多少呼吸は乱れているものの、普段と変わらず淡々とした口調で僕に声をかける。
「赤司君……疲れました」
「俺の前でそんな弱音を吐くくらいなら特別に体力アップのメニューを組んでやってもいい」
「冗談ですよ」
 疲れているのは冗談じゃないが。そうでも言わないと本当に特別メニューを作り出すのが赤司君だ。額の汗を拭いながら立ち上がり、残りの外周を済ませようと足を踏み出す。右膝に走った痛みには知らないふりをした。
 ところがすぐに「黒子、」と呼び止められ振り返ると、眉間に皺を寄せた彼が溜息をつきながらこう告げる。
「痛めている部分があるなら、ちゃんとテーピングで固定して安静をとれ」
 無理をする必要はない、なんて、過酷な練習内容を言い渡す時と同じ顔で言ってくるのだ。今後の練習に差し支えるからという義務感に駆られて注意しているのか、それともただ心配しているだけなのか、僕にはわかり得ない。けれどたった一歩歩いただけで気付かれてしまったことには驚きを隠せなかった。
「……バレてないと思ったんですけど」
「わかるさ。お前は他人に注意されないと無意識に自分を追い詰める癖がある。膝は? どのくらい痛むんだ」
「これくらい大丈夫です」
「しょうもないところで強がるな」
 そう言われても、本当に大したことはないのだ。この練習量に体が追い付いていないだけ、休憩をもらうような場面でもない。
 赤司君は暇があれば選手の一覧表とにらめっこして、その中で誰を育て上げようかいつも考えている。そして最近目を付けられたのが僕だった。だから怪我如きで調子を崩されては困るのかもしれない。不服そうな顔をしている彼を前に、この場をなんとか凌ごうと僕の口から出た言葉は「赤司君こそ」。言わないでおこうと思ったことがぺろりと零れてしまった。
「顔色、悪いですよ」
 しっかりとその目と視線を合わせて告げると、赤司君は気のせいだろうと笑った。そう返されるまでには二秒の沈黙があった。



 強がりは君の方でしょうと、何度思ったことか。
 それは一ヶ月ほど前、偶然にも見掛けてしまったのが原因だった。休憩時間となりたまたまトイレの前を通ったところで、彼が洗面器に向かって嘔吐しているのを目にしたのだ。
 持ち前の影の薄さに加え、赤司君が鏡も見ていなかった為に僕は気付かれずに済んだ。けれど物陰から覗いた彼の姿はさぞかし苦しそうだった。ひゅ、と喉を詰まらせていたのが遠目でもわかるほど、それこそ自分を追い詰めているようだった。吐いて、むせて、口をゆすいで彼が廊下に出てくる前に、自分はその場を去った。
 そこで見なかったふりをしたのが駄目だったのだろうか。あの日は体調が悪かったんだろうと勝手に思い込んでいたが、練習中、特に土日は時間が長いからか赤司君は絶対に「外の空気を吸ってくる」と言って一度だけ体育館を抜ける。いや、酷い時は一日で二回あった。たった数分の出来事だ。おかげで皆はそれをただの気分転換だろうとか、どうせ次のメニューを考えてるんだろ、とか、言っているけれど。
 そうではないことに僕が気付くまで、あまり時間は要さなかった。
「よし、三十分休憩だ。昼食をとったら午後はミニゲームをするから、体を冷やさないように」
「チーム編成はどうするのだよ」
「組んでおいた。あとで指示を出す」
「また二軍と同じチームにされたりしねーだろうな」
「お前はいい手本になってるんだからそう言うな、青峰」
「赤ちん赤ちん、お菓子食べていい?」
「ああ、いいよ」
 珍しく部活中に(十五分だけ)お菓子を我慢していた紫原君に向かって微笑む赤司君が、そのまま体育館を出て行こうとした。
「あれ、赤司っち、どこ行くんスか?」
 タオルで汗を拭いながらそう尋ねる黄瀬君は単純に疑問に思っただけなのだろう。
「ちょっと外の空気を吸ってくる」
 普段と変わらない返答に、そっスか、としか返さない。
 いつもなら僕も深く考えずに放っておいたけれど、さっき顔色が悪いと指摘した時の誤魔化し方がなんとなく気に食わなかったのが足を動かしたらしい。強がりは赤司君の方だというのに。
 彼が体育館を出て数分経ってから後を追った。案の定赤司君に向けたものと同じような質問を黄瀬君にされたが、「ちょっと用が」、としか答えられなかった。購買へ行くなどとへたに嘘をついたら、ついてくると言われそうだったのだ。
 赤司君も自分の弱っている様子を誰にも見られたくないからあんな嘘をついているのだろう。その気持ちを汲んだと言えば聞こえはいいけれど、多分、僕はただ僕自身が彼のそういう姿を他の誰にも見せたくないというわがままを、心底無視できていないだけだ。
 廊下を少し歩けば汗は徐々に引いていき、膝の痛みも桃井さんに手当をしてもらったおかげでもうほとんど収まっていた。体を冷やさないよう言われたのに怒られるだろうか。そう考えながら東棟一階の右端にある男子トイレの前まで行くと、予想通りの光景。
「う゛……ッ」
 やっぱり彼はこちらに気付かない。そんな余裕はないようだった。
 手で押さえた口から漏れる小さな呻き声に僕は眉を顰める。どうして選手の前ではあんなにも気丈に振る舞っていられるのか、一人になった途端こんな風に苦しんでいることを知り、そう思わずにはいられない。けれどあの時と変わらず嘔吐している様子を自分は離れて見ているだけだった。
「っ……は……」
 暫くして全て吐き出したらしく、水を流しながら呼吸を整えている。本当はここでまた見ないふりをすればよかったのかもしれない。そうすれば何事もなかったかのように彼は練習に戻ってくるし、平穏無事に時は過ぎる。でも二度も見過ごせるほど僕は優しくも、いい子でもなかった。
「大丈夫ですか」
 入り口に立って静かに声をかけると、ハッとなって顔を上げた赤司君と鏡越しに目が合う。
「……黒子……」
 驚いたように名を呼ぶ彼のもとへ足を進めた。制されるかと思ったがそんなことはなく、赤司君は目を丸くしたまま、ただただ唖然として僕の方を見ていた。



「保健室なんて、大袈裟な……」
 そう文句を言っている赤司君を半ば無理矢理にベッドへ座らせた。休日でも保健室が開放されていることは知っていたので無断で入ってしまったが、医者は出張へ行っているらしいし大した問題にはならないだろう。
「病人を放っておくわけにはいきません」
 と、建前を口にしてみる。いや、半分くらいは本心だ。
 すると赤司君は露骨に溜息をついて「別に体調を崩したわけじゃない」と返してきた。あれだけ苦しそうにしておきながら相も変わらず強情だ、と思う。
 ここまで連れてくるのもなかなか大変だった。とりあえず静かなところで体を休ませましょう、休憩時間ですし、誰にも言いませんから、といくつも口実を重ねたらやっとのことで妥協してくれたのだ。正直あの状況から二人きりになるのは無理かと諦めかけていたが、赤司君は僕らの話はちゃんと聞いてくれる人だということを思い出した。
 僕がベッドの前に突っ立って話を切り出そうとしているのを、彼は黙って待っている。自分に話があることはわかっているのだろう。これ以上躊躇っていたところで仕方がない。
 あの、と意を決して問い掛けた。
「いつも……あんな風に、苦しんでいるんですか」
 言葉を選ぼうと、濁そうとした結果随分と陳腐で無粋な聞き方になってしまい後悔する。機嫌を悪くするだろうか。そんな不安に駆られたものの、赤司君は意外にも冷静に「俺の体は代謝があまり良くなくてね」と言った。
「ああでもしないと、一日もたないんだよ」
 目を伏せて告げられた一言に、どう返せばいいのかわからない。聞いてみたはいいがこんなにあっさりと返答が来るとは思っていなかったのだ。
 しかし『ああでもしないと』という言葉には引っ掛かった。薄々予感はしていたけれど、毎日のように吐いているということはあれは最早コンディションの問題ではなくなっているのだろう。確かに体調を崩したわけじゃないという言い分は外れてない。一定量を越えてしまえば自分の意志で食べ物だか胃液だかを吐き出さなければ調子が悪くなる、そういう体質に近いことを表しているも同然だ。
 代謝にもいろいろと説明のしようはある。僕は専門家ではないから詳しいことは知り得ないが、簡単に言えば体の中で古いものと新しいものが入れ替わるといった生命現象だ。赤司君は嘔吐によってその転換を成しているのかもしれない。ただ、吐き出したものの中には単に物質的なものだけではなく、大きなストレスも含まれている気がした。
 そして僕の頭の中には彼の言葉である、『勝利は基礎代謝と同じ』の一言。
「最初はそうでもなかったんだけど、いつの間にかさ」
「……自分で課した練習量に、自分の体が追い付いていないんじゃないんですか」
「わかったようなことを」
「僕と赤司君は大して体格差がないので」
「五センチの差は大きいよ?」
 それでも、それでもだ。青峰君や黄瀬君、緑間君、紫原君でも堪えるようなメニューを全く同じようにこなせる体格でないことは赤司君もわかっているだろう。元々僕の方が体力や筋力の数値が低いとは言えあの練習量は半端じゃない。本来そういった基礎を作る練習は己の限界を考えてやるべきだろうに、大方自分が主将だからという使命感が彼を追い詰めているのだと思う。僕らはそういう赤司君だからついていっているけれど、彼の何をも救えない歯がゆさに下唇を噛み締めた。
「黒子」
 空気を変えるようなはっきりとした呼び声に我に返る。目を合わせると、赤司君は稀に見せる穏やかな表情でこう続けた。
「俺は苦しんでなんかない。寧ろ楽だよ。いつだって俺の要求に応えてくれる選手がいるんだから」
 ――楽?
 どこが、どこが楽だと言うんだ。酸素のように勝利を吸おうとする代わりに溜まったストレスや疲労、プレッシャーを、あんな不自然に吐き出しておいて。確かに君にとって勝利は呼吸と同じなのかもしれない。でも、だったらなんで、
(……そんなに生き辛そうに)
 けれどそこまで言う自分でさえ、彼の理念に甘んじていることを思い知った瞬間だった。
 この押し黙った僕自身が何よりの証拠だろう。
「だから、今回も見なかったふりをしてくれないか、黒子」
 その一言に目を見張る。今回も、ということは前に自分が目撃していたことにも彼は気付いていたらしい。驚きを隠せなかったが、もちろん同時に恥ずかしくもなった。僕が見て見ぬふりという姑息な手を使ったと知られていたのだから。
 そもそもこの事実を知って僕は一体どうする気だったのだろうか。自分を追い詰めるのはやめてください? 限度を考えてください? どれもこれも今の赤司君には響かないと確信を持つことができた。今の『勝利に貪欲な赤司君』に息を引き取ってもらうには、彼の生命活動から勝利を切り離すことでしか術はない。そうすればあんな暗がりで一人苦しむ姿も見なくなるはずだ。そう思った。
「わかりました。君が苦しくないなら、いいです」
「お前の物分かりの良さにはいつも助かってるよ」
「……でも、僕らの中で赤司君の要求に応えられなくなった選手が一人でも出てきたら、その時は、君の理念も崩れますね」
 瞬間、彼が顰め面をするのを見逃さなかった。ああやっぱりこれはタブーだったかと悟ったものの、赤司君はすぐに普段と変わらない調子に戻って笑う。
「それは楽しみだな」
「…………」
 酷い答えだ。ここにいる限り君が信用している人たちは君を裏切ることなんてできないのに、全てわかった上で試すような言い方をしてくる。僕が何と言ったところで自分の方針を変える気など更々ないのだろうし、恐らく赤司君が赤司君のやり方を辞めたら今の帝光は廃る。それはきっとあってはならない未来だ。帝光に求められた有終の美を乱す時は、今じゃない。
 だけどいつか、せめて僕だけでも、彼を裏切ろうと思った。赤司君が楽しみだと冗談半分で笑った未来を実現させれば何かが変わる気がしたのだ。そんな淡い期待を持つほどその時の僕は過信していた。
「赤司君」
「ん?」
「君の言葉は否定しませんが、あんまり無理はしないでください。君が倒れでもしたら彼らのまとめ役がいなくなる。それは困ります」
 一歩近付いてそう告げたところで、「黒子から見て俺はそんなにヤワなのか?」と呆れられる。
「ええ、まあ」
 簡単に返事をしながら赤司君が座っているベッドの横に手を突いた。そのまま少し屈んで顔を近付けると、透き通った赤い目が二、三度瞬きをする。
「……黒子?」
 呟くように小さく呼ばれたがそれを無視し、もう片方の手を彼の頬に添えた。思ったよりも冷たいと感じるのは、もしかしたらこんな行動を起こしてしまうほどに僕の思考が、体温が熱くなっているからなのかもしれない。
 自分の脳内はとっくに膨れ上がった憧憬が理性を蝕んでいた。否、憧憬などという小奇麗な言葉で片付けていいのかは疑問だが、まさか馬鹿正直に胸の内を明かして彼を困らせるわけにはいかなかった。赤司君にとって僕はただのチームメイトに過ぎない。でも僕は君の大好きな、なんでも言うことを聞く犬にはなれないから。
「赤司君。キス、させてください」
 彼の唇まであと十センチもないところで要求してみると、案の定突然の事態に目を丸くして固まっているようだった。
「……キ、キスって……」
「いいですか?」
 驚いているというよりは戸惑っているらしい。予想していた通りの反応に僕は何も動じず、その瞳をじっと覗き込んだ。
 言った傍から困らせている。が、キス一つで帝光における僕たちの関係が崩れるとは思えなかったのだ。例えこの感情に気付かれても、赤司君は以前と変わらずに接してくるだろう。チームを勝利へ導く為の駒として僕を使う、それが彼のやり方であり、崩せば彼の中でいろいろなものが狂ってしまう。そんなことは避けたいはずだ。だから僕は彼と一線踏み越えることに対し、抵抗はなかった。
 随分卑怯な考えだと自分でも思う。赤司君の弱点に付け込むことでしか本心とも向き合えないくせして、反面、彼の弱さを否定していた。とんだ臆病者だ。
 もう一度その名を呼んで少しだけ顎を持ち上げると、赤司君の睫毛が僅かに震えているのが目に入った。そして唇が触れるか触れないかのところまできた瞬間――ドン、と思い切り肩を押される。
 彼はいつになく弱気な目をしていた。
「……意外。抵抗しないかと思いました」
 そう言いつつも、頭の片隅では拒んでくれてよかったと安堵している自分がいることも否めない。
「そ……そりゃあ俺だって、嫌なものは、」
「嫌だったんですね」
「…………」
「……赤司君」
 俯いている彼の名前を焦れたように呼ぶと。
「だから……、そういうのは、吐いた後の人間にするものじゃないだろう……」
 恥ずかしそうに手で口元を隠しながらそう一言、さすがの僕も目を見張った。
 いやいや、口、ゆすいでたじゃないですか。何度もうがいしてましたし。ていうか僕はそういうの全然気にしません。なんて言おうかと思ったが、そんなことは全部どうでもよかった。それよりも何よりも。
(キス自体は拒まれなかったって、ことで……いいんでしょうか)
 僕は都合良く解釈しますよ、と内心で断っておく。
 前言撤回だ。口づけ一つで案外簡単に、帝光における僕たちの関係は崩れてしまうのかもしれないらしかった。こればかりは自分も予測できていなかったが、もちろん悪い気などしない。
 赤司君が内側に溜め込んだものを、あんな暗いところで吐き出すことのなくなるように救ってあげたいなどと、美しく飾った建前は健在していた。だってそうでもしないと憧憬はどんどん大きくなってしまっている。もう、手に負えないほどに。
 僕のいろんな気持ちの矛先となっている彼は易々と自身を犠牲にするから、何故か自分は彼のその生き方を辞めさせてあげなければと、妙な義務感を感じていた。強がりな赤司君に僕が必要な存在であってほしいと願う欲だろうか。そんな見苦しい姿はできれば知られたくないけれど、あながち間違ってはいないのだと思う。
「赤司君、聞いてください」
「……何だ?」
 彼の肩に顔をうずめる。抱き締めるほどの勇気はなかった。
「君は苦しくなくても、僕は苦しいです」
 これが最後のわがままだ。
「君が、愛しくて」
 いつか勝利を求め続ける赤司君を裏切った時に、どうか僕の目を、声を、頬に触れた手の感触を、思い出してほしい。


生かさない愛とずっと/2012.07.29
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