兄弟喧嘩をしたのは二回だけだった。一回目はそれぞれの見たいドラマが同じ時間に違うチャンネルで放映され、リモコンの取り合い。多分俺が小学校に上がったばかりの頃だ。結局どちらの番組を見たのかは覚えていない。
 幼い自分からすれば兄はとても優しい性格をしていた。が、同級生を家に連れてきた時、兄のことを八方美人だと冗談で笑っている奴がいて、悪く言えばそうなのかもしれない。家の外での兄はよく知らなかった。その数人の同級生はもちろん当時の俺より背が高く、「弟?」「お前弟いたんだ」「へえ、あんま似てないなー」と目線を合わせていろいろ言われた。けれど自分が得意の人見知りを発動してしまったおかげで、特にこれといった会話はなかった気がする。
 兄は家に帰らなくなった。オウガガクエンというところに入学して以来、電話を通してしか声を聞いていない。軍人になるらしい。社会の教科書で、随分昔に国が大量生産したものと皮肉っぽく書かれていたのが印象的な軍人だ。なぜ兄はそんなものになりたいのかと興味本位で母に聞いた時は、大量生産が可能な時代なんてとうに終わったのよ、とわけのわからない返答をされた。
 それまで食べ物の好き嫌いもせず、勉強も普通に好きだった自分が、唯一嫌悪感を表したのはそのオウガガクエンとかいう場所だ。だって兄を奪っていった。人生の目標といっても過言ではない人間を目の前から攫われた感覚はとても不快だった。だから俺もオウガガクエンに入ると言い張った。初めて親に反抗した。初めて先生をにらみ付けた。初めて、俺はいい子じゃなくなった。小学六年生、春の話だ。


 少し賢くなった自分は漸くあの時の母親の台詞を理解し始め、だったら俺が軍人を志望してもいいじゃないかというのが言い分だった。でも兄に許された権利が自分にはなかった。
『王牙学園に入りたい?』
 だんだんと周囲の進路が決まっていく中、母さんも父さんも先生も、オウガガクエンの受験を認めてくれない。俺は取り残されてしまった。それでも諦めの悪い自分はついに兄に電話をするという暴挙に出たのだった。あの優しい兄なら賛成してくれると思ったのだろう。学費を出すのは親だというのに。
 兄が電話に出てくれたのは今思えば奇跡に近かったんだと思う。オウガガクエンでは大変な訓練が毎日あるらしく、電話ができるのは向こうが本当に余裕のある時だけだった。
『……エスカ、それ本気で言ってるのか?』
 だから電波を通して聞こえた声に俺は酷く安心していたが、急に真面目な口調でそう尋ねられ返答に詰まった。
「うん」
『母さんと父さんは?何て言ってる?』
「だめだって」
 幼い自分には語彙力も表現力もなかった為、正直に言われたことを告げるしかなかった。兄は溜息の次に、そりゃそうだ、と困ったような返事。
 そこからは予想もしていなかった説教紛いな話が始まり、ついに自分に味方はいなかったんだと変な悟りを開き始めた。苛立ったのちに電話口で汚い言葉遣いをしてしまい、向こうも疲れていたのか語気が荒々しくなる。人生で二度目の兄弟喧嘩はそれだった。


 結局、俺は私立中学に進学した。


 最後まで親には反抗し続け、泣き喚いて訴えた覚えもある。人生最大のわがままは未消化のまま葬られたわけだが、まあ、こうなることは当然だったのだろう。今ならわかる。自分が目標としていた兄は自分より遥かに期待された存在だったのだ。同じ道を進むということ自体が不可能だった。両親は一度もそんな風には言わなかったが、要するに俺には『普通の息子』を期待していたんじゃないかと思う。それは兄があの王牙学園に入学したからこそ、そしてそこで成果を挙げていたからこそ、自分に託された弟としての使命な気がした。
 兄は家に帰らない。どこにいるのかも知らない。わかっているのはこの間正式に軍に入れたということだけだ。相変わらず数ヶ月に一度家に電話はかかってくるようで、生きてはいるらしい。最後の兄弟喧嘩をしてから俺は兄と会話すらしなくなった。
「外が騒がしいな」
 休日の昼食中、不意に父親がそう言った。隣に座っている母親が「このサイレン、士官学校の子たちでしょう」とだけ答える。耳障りな轟音は『本日ここの近くで訓練を行いますのでご了承ください』という合図なのだ。すっかり物騒な国となってしまった時代、みんな大人しく聞き流している。
 昼食を食べ終え、食器を台所に持っていってから眼鏡を持ってベランダに出た。受験の時に視力は落ちた。
 眼鏡をかけて二階から見下ろすと、そこには母親の言葉通り士官学校の奴らが列を作って道を通っていた。あの制服は王牙学園だ。兄が着ていたのを写真で見たことがある。
(……変な髪型)
 青緑色で三つ編みと両サイドを結うという謎の髪型をしてる奴が目に入り、ぼんやりとそう思う。俺と似たような肌色で無表情極まりない人間と会話していた。眼鏡を外したらいっきに視界がぼやけ、その二人の輪郭を捉えられなくなった。
 あいつらは何を思って王牙学園に入学したのだろうか。きっと確固たる信念があるに違いない。それに比べ俺はただ兄の背中を追いかけて軍人になりたがっていただけだ。今考えると自分でも驚くほど無茶な話だった。
 軍人に対する意志もなければ、よくドラマや漫画で見る復讐心とやらも全くない。兄がいつまでも俺の憧れである限り、兄が通った道、兄が目指したもの、それらは自分には似合わないのだろう。両親は俺達兄弟に別のものを望んでいる。
 気付いたらサイレンは鳴りやみ、士官学校生の姿もなくなっていた。兄もああやって訓練に臨んでいた日々を送っていたのだろうと考える。俺には縁のない、ちがうせかいの出来事だった。


たとえば運命という名の脚本があるとして
もしもエスカバが心から兄を慕っていたら、
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