ミストレと名乗った一人のお客様が去った後、入れ違いでもう一人店にやってきた。反射的にいらっしゃいませと言うが、その姿を見て緊張の糸が切れたように笑みが零れる。
「おー、サンダユウじゃん」
「ひさしぶりだな、」
 二人とも、と言って入ってきたそいつは、この店に客として訪れたことはない友人だった。




「珍しい人が来てたじゃないか」
 サンダユウは高校の時にバダップも加え、三人でよく一緒に過ごしていた友人同士だ。俺とバダップは美容系の短大へ進み、サンダユウは都内の大学に入った。だから会う回数はめっきり減ってしまったが、それでも時々こうして美容室に来てくれる。
 とりあえず客の流れが止まったから一旦休憩にしようということで俺達は作業を止め、サンダユウが差し入れと言って持ってきてくれたお菓子を摘まむ。ここは小さな美容室だからずっとお客様が途絶えないことなんて滅多にないし、いらしてくれたなら休憩を止めて仕事に戻るというのが基本的なスタンスだ。サンダユウもそれをわかっているから、特に看板をCLOSEに変えたりはしない。
「珍しい人?」
 壁に寄り掛かって心底驚いたように言うサンダユウの発言に、思い当たりがなかった俺は聞き返す。隣に座ったバダップは特に口出しせずにお菓子を食べていた。
「あれ?さっきの、ミストレじゃないのか?」
「!知ってるのか?」
「そりゃもちろん。え、お前わかってるよな?」
「は?」
 間抜けな反応を零すと、サンダユウは信じられないとでもいうような表情で呆れている。俺はあの人の名前しか知らないし、さっきの問いにもちろんと答えたのも気になった。
「あー…まぁ、エスカバはこの街に住んでるわけじゃないからな…」
 この街に住んでるわけじゃないと、その一言がやけに引っ掛かる。なんか、どっかで言われたことがあるような…どこだっけ……この街じゃない、この街じゃないって……。
(……あ、)

――君さ、市外から通勤してるだろ。

(そうだ、)
 ミストレに言われたんだ。
「…なぁ、それ、どういう意味だ?この街に住んでないからとか、そういう…」
 自分で考えても解決しなさそうだったから、直接聞いてみることにした。サンダユウといいミストレといい、俺が市外から来ていることはある知識の欠落に繋がるらしい。
 サンダユウは少し言うのを躊躇ったようだったが、あんまり口外しないでほしいんだけど、と前置きを入れて話し始める。
「確か今年の六月頃だったかな…なんでかは知らないけど、県外からこの街に資産家が引っ越してきたんだ。世界有数の金持ちらしくて、最初はみんな大騒ぎしたよ。でも…街の北側に商店街があるだろ?そこの裏側の森林を全部開拓してさ、城みたいな家建てて」
 相槌を打ちながら聞く。この店が南側に位置するせいもあるだろうけど、そんな話は初耳だった。
「だから街の自然を崩壊させたって名目で、徐々に敬遠されていった。お前らなんて来なくて良かった、ってね。でもまぁ一般市民の声なんて向こうには届かないから、経営とかには特に支障ないみたいだけど」
「今も住んでるんだろ?」
「ああ。家の周りにSPみたいな人がいっぱい居て誰も近付けないよ」
「へえ…」
 今度見るだけ見てこようかなと思ったが、警察がうろついてるんじゃそれも叶わない。俺の知らないところで、街は大きく変わっている。
「…ん?でもそれとミストレに何の関係があるんだ?」
「その資産家の姓をカルスと言う」
 今まで俺達の会話を黙って聞いていたバダップが、紅茶を啜りながらいきなりそう言ってくるから少し驚く。俺は言葉の意味を咀嚼しようと頭を働かせ、そしてある一つの結論が浮かんだ。
(……カ、カルスって…)
 同時に嫌な予感がして、思わず顔が引き攣る。
「…確かそれ…ミストレと同じ名字じゃなかったか…?」
「ああ」
「…じゃあ、あいつは…」
「カルス家のご令嬢だ」
 淡々と告げるその一言に、俺の思考が全て停止する。そして真っ白になった頭が回復する頃には、俺は関わっちゃいけない人間と関わってしまったことに、薄々気付き始めていた。
「…まじで?」
「本当のことさ。ミストレは自分から何も言わないけど、あいつはその気になれば国中の経済を動かすことのできる、れっきとした権力者だ」
 二人の言葉がいちいち恐ろしい。しかも俺は個人情報を握られている。本当に、とんでもない人間と出会ってしまったみたいだ。
「まぁご令嬢っていうのもおかしいんだけどな」
「でもそう呼ばなければならないだろう。正式に発表があったはずだ」
「あ、やっぱそうなんだ?俺てっきり噂かと思ってた」
「先日行われた社交会で父君が書面を提示したと聞いている。肝心の本人はその場に居なかったらしいが」
「はは…そりゃそうだよなぁ…」
 脳内を整理しているうちにも進んでいくバダップとサンダユウの会話が、ますます意味のわからないものになっていく。『ご令嬢』がおかしいってどういうことなんだ?全く会話の先が読めないところに割り込んで率直に聞くと、二人は少しの間沈黙した後、サンダユウが恐る恐る尋ねてきた。
「…お前まさか、ミストレのこと女だと思ってるのか?」
「え?そうだろ?」
 それはどういう意味の質問なんだ?と思った。でも俺の反応を見たサンダユウは、深い溜息をついてから呆れ声でこう一言。
「ミストレは男だよ」
 沈黙。
「………………え?」
「いやだから、あいつは男なんだって」
 え、……は?どういうこと?
「ミストレが…男?」
「そう」
「まじ?」
「まじ」
 開いた口が塞がらない。
「中性的な見た目してるから間違える人多いんだよなー」
「………さ…詐欺だろ…」
「はは、最初はみんなそう言うよ。でも、えーと…ほら、あいつ自分のこと『オレ』って言うじゃないか」
 言われてみればそうだ。が、あいつが男だなんて信じられない。俺はさっき会って髪を切って、今の今まで普通に女だと思っていた。サンダユウに言われても半信半疑といったところだ。でもそれからバダップの言った『ご令嬢』の言葉が変だということを理解する。
 サンダユウは少し複雑そうな顔をしていた。何かあるのだろうか。バダップが飲んでいた紅茶のカップをソーサーの上に置いて口を開く。
「正しくは、『ご令嬢として育てられた』だ」
 …なんかだんだん状況を把握できてきた気がする。
「男なのに…ってことか?」
「ああ。母君が女の子を欲しかったあまり、というのも一説だが、恐らく『ご令嬢』の方が世渡りしやすいからだろう。もう社交界で『ご子息』は出世するという話が当たり前ではなくなってきたからな、今は他の資産家の子息と結婚した方が合併をするなりして経済は伸びるし、夫となった子息はどう足掻いてもミストレのご両親に尽くさなければならなくなる。カルス家は後世にその名を残すよりも、実利的な生活を望んでいるんだ」
「…………」
「現在この国で同性結婚は認められていないが、そんなものは海外へ飛べばどうとでもなる。まぁ、それでも女性に見えるように育てたんだ、母君の願望は残っているだろうな」
「…なんかすげーな…」
 まるでおとぎ話だ。そんなこと本当にできるのかと思うが、実際それに近いところまではきているのだろう。ミストレは別にスカートとか女物の服を着ていたわけじゃなかった。でも、俺が間違えたように女だと思わせる雰囲気を充分に持ち合わせていたのがその証拠だ。
「え、じゃあ正式に発表されたっていうのは…」
「どのような文面だったのかまではわからない。だが今後ミストレをご子息として捉えてはならないことだけは確実だ」
 だからこいつはミストレのことをご令嬢と呼んだのか。この口振りだと、過去はそう言っていなかったらしい。
「ミストレは?納得してるのか?」
「まさか」
 サンダユウが呆れたように言う。
「全力で否定してるよ。ていうか…あいつはご令嬢呼ばわりが嫌なんじゃなくて、多分カルス家自体を嫌ってるんだろうな」
 その言葉はなんとなく理解できた。ミストレから他とは違う雰囲気を感じたのは恐らくそのせいだから。高貴に見えるけれど、本人はそんな自分をとても嫌がっているような感じだ。
「それに家にも帰ってないみたいだし」
「はぁ?」
「家出中なんだってさ。高校の時かららしくて、今は一人暮らしって聞いてる。だから社交会にも全く顔を出さないってわけ。なんていうか…実行派だよなあ」
「笑って言うことかよ…」
 ミストレの素性はとりあえずわかったけど、余計にあいつと関わってしまったことを良しとは思えなくなった。俺みたいな庶民が触れていい相手じゃない。
「つーか、お前らはなんでそんな知ってんだ?」
 いくらこの街に住んでいるとは言え、詳しすぎるだろう。そう思っていると、バダップは席から立って飲み干したカップを裏にある水道で洗いながら、親の繋がりで知っているだけだと平淡に告げた。そうだった。なんだかんだこいつの家も金持ちなんだった。
 バダップの両親はどちらも美容関係に就いている。父親は世界中を駆け回る有名なスタイリストで、母親は服飾評論家兼ブライダルメイクアップアーティスト。上流階級を相手にすることも少なくないと聞いてるから、多分それで社交界のことについていろいろと知っているのだろう。
「じゃあ何だよ、お前さっきミストレが来た時、あいつがカルス家の人間だってわかってたのか?」
「だからエスカバに任せたんだろう」
「なるほどね…」
 あの視線は面倒だからお前がやれって意味だったのか。
「サンダユウは?」
 公になっていることの詳細を知っていたのはバダップだったが、サンダユウはミストレの内面をわかっているというか、まるで友達のように振舞っていたから気になっていたのだ。すると思いも寄らない発言をされる。
「俺、ミストレと大学一緒だから」
「…え、あいつ大学生なの?」
「学部が違うからそんな頻繁には会わないけど、同学年だし」
「同学年!?」
「あれ、そこ驚くか?」
「いや…年上だと思ってた…」
 呆気にとられて呟くと、サンダユウは笑って「まぁミストレは誰に対してもちょっと高飛車だから、上に思うのもわかるけどな」と言った。どうやらあの高圧的な態度は俺限定ではないらしい。よかった。
「でも年上だったら『先輩』くらい付けるさ」
「あ、そっか」
 そういえば俺もさっきから呼び捨てだ。あいつがそう呼べと言ったからっていうのもあるけど、なんか既にミストレの居る環境に慣れ始めてて怖い。気を付けなくては。あの手の人間は必要以上に関わると後で厄介なことになりかねない。
 ミストレを悪い奴だとは思わないが、どうしても去り際に言った言葉が忘れられなかった。また来るって、再び来店するということだろうか。確かに気に入ったとは言われたけど。
「…あー…なんかめんどくさいことになってきたなぁ…」
 椅子の背に凭れて天井を仰ぎながらぽつりと独り言を零す。状況を把握して真っ先に思ったことだった。
「俺はエスカバがミストレのことを何も知らなくて驚いたよ」
 サンダユウにそう言われ、カッティングを終えた後に言ってきたミストレの一言を思い出す。あいつの姿を見て何の反応も示さなかったから、俺が市外に住んでいることがわかったのだろう。話を聞く限りではこの街に居てミストレのことを知らないという方がおかしいみたいだからな。あいつ自身、その自覚はあるということだ。
 カップを洗い終えたバダップはシャンプー台を拭き始め、そろそろ仕事に戻らなくちゃいけない時間だった。俺も席から立ち上がりお菓子の箱を裏に置いておく。サンダユウはコートを着ながら俺も帰るよ、と言い、最後に「でも、あいつがあんな楽しそうにしてるのは久しぶりに見た」と付け足した。
「楽しそう?」
「そこですれ違った時、珍しく笑ってたからさ」
 お前なんかしたんじゃないか?とおどけながら言われる。いやまぁ実際したんだけどな。バダップから何も言われなかったのはミストレの反応が予想外にも悪くなかったからだろうけど、あれは思い出したくない失態だ。
「じゃあ、またな」
「おう」
 サンダユウが店を去り再び二人だけになった空間で、俺は良くも悪くもミストレのことばかり考えていた。








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