この職に就いて半年。何年か前まではまさか自分が美容師になるだなんてこれっぽっちも思ってなかったが、実際やってみると嫌気が差すなんてことは滅多になく自分なりに楽しめている。飽きっぽい俺が今でも大学時代からの引き続きで美容系の勉強を自主的にしているのがその証拠だ。一年前に美容師の資格を取ってからというもの、この街外れにある小さな美容室で日々技術を磨こうと努力している。
 そして意外にも俺は手先が器用だったらしく、以前先輩に褒められて自信を持てるようになった。美容師として常に爪は切り揃え、特に手は怪我をしないように気を配る。漸く俺にも多くのことが身に付き、誰かの指示がなくてもお客様と接し合えるようになった。まぁそれでも一人前になるにはまだまだ時間がかかりそうだけど。
「ありがとうございました」
 さっきまでカッティングをしていた女性が店を去り、同時にカランと音が鳴ってガラス製の扉が開いた。秋の木漏れ日が店内を明るくする。再びお客様のご来店だ。
「いらっしゃいませ」
 今日も今日とてとびきりの営業スマイルを浮かべてお決まりの台詞を言う。いつもならその後お客様の荷物とコートを預かって席へ案内するのだが、かつ、と靴音を鳴らして入ってきたその人を見て、俺は思わず見惚れてしまった。
(うわ…)
 物静かに店内へと歩みを進めたその客は、ゆるくウェーブのかかった深緑色の髪を下ろして何も手を加えてはいないようだった。でも上から下まで完璧な容姿にそれは充分映えていて、稀に見る美人だなぁと思う。
(きれいな髪してんなー…)
 真っ先にそう考えてしまうのは職業病だ。
「おい」
 ぼけ、と見ていると突然不機嫌そうな声で言われてはっと我に返った。まずい。お客様の機嫌を損ねるなんて一番やっちゃいけないことだ。申し訳ありません、と一言謝って荷物を受け取り、裏の置き場所に置いておく。平日昼過ぎの時間帯はあまり人が居ないから席は空いていたが、もう一人の店員であるバダップは他のお客様に付きっきりでこっちまで手が回りそうにない。だから俺がこの人の髪に触れるのか、と思うと柄にもなくちょっとだけ緊張した。
 シャンプーをする席まで案内し、お座り下さいと声を掛ける。でもその人は席に座ることなく立ち止まったままだった。不思議に思って表情を窺うと、眉を顰めてやっぱり機嫌が悪そうだ。
「あ、シャンプーは別途料金ではありませんよ。カット代に全て含まれていますので、」
「ねえ、君、上手い?」
「…え」
 説明を遮って言われた一言に、時間が停止したみたいに沈黙が流れた。上手いって、俺の技量について言ってるのか?
「…えーと……」
 そんなことを直接聞かれたのなんてもちろん初めてで、何て言い返せばいいのかわからず口籠る。変わった客も居るもんだ。シャンプーを断る人は少なくないが、するかしないかじゃなくて上手い下手を聞いてくるなんて。ていうかここで下手ですとか言えるわけないだろう。首が飛ぶわ。
 でも目の前のお客様はあくまで俺の返答次第らしく、じっとこっちを見つめたまま視点をずらそうとしない。長い睫毛と大きな瞳の目力に少し気圧された。
「下手ではない、と、思いますが…」
 精一杯の返事を片言に零す。ちらりと横目でバダップを見ると、あいつはこの異様な空気に気付いたらしかったが視線を向けるだけで特に何をするわけでもなかった。俺一人でどうにかしろと言いたいんだろう。
 これで満足してくれないと本当にどうしようもないんだけど、と冷や汗をかく。二人して黙ってしまい、店内に流れるクラシックのBGMがやけにうるさく感じた。そして不意に「あのさ」と言って一歩近付き、顔を寄せられる。俺は突然のことに目を見張り思わず少し引き下がってしまった。なんなんだこの人、さっきから言動が俺の理解を超えている。
「ちゃんとやってね。この髪、美しいと思うなら尚更」
 指先で髪を弄りながらそう言い放ち、漸く席に着く。納得してくれたってことでいいんだろうか。とりあえずほっとして俺も準備を始めるが、この人の言葉がずっと頭から離れなかった。あんな台詞は自らを美しいと自負していなければ口にできない。もちろん美容に携わる人間として自分に自信を持つことは大切なことだと思ってはいるが、あそこまで態度に出ているのを見たのは初めてだ。なんていうか、プライドが高そうな人だなあ。
 いろいろと考えを巡らせながらトリートメントまでやり終える。所々でシャンプーをする時に必要な定型文を聞きながら一応順調には進んでいるが、お客様からの返答はどれも薄いものだった。いや、髪を洗っている時にべらべらと喋る客なんて居ないが、それでもこの人の場合は素っ気なさすぎるというか、自分で洗っていて不安になってくる。また不機嫌にさせたんじゃないか、と。
 だからというわけではないけれど、いつもより丹念に作業をしているような気がした。そして大学で講師から厳しく指導されていた頃を思い出す。どうしてその思い出と結びついたのかはわからない。でも、この人は確実に他とは違う雰囲気を持っている。
「お疲れ様でした」
 水でゆすいだ後、顔に被せたタオルを取りながら倒していた背凭れを元に戻す。濡れた前髪も全て上げると髪で隠れていた顔のパーツがくっきりと浮かび、整った顔をしてるなぁと呑気に思った。
 今度はカッティングをするところまで案内し、座ったら椅子の高さを合わせる。
「本日はどのようにしますか?」
「下の方を軽くして。あとは何もしなくていい」
「わかりました」
 要望を確認してカッティングに入る。ショートにする気はないだろうという俺の予想は当たりだった。実際に触ってみて、この人は無造作に髪を下ろしている風に見えて毎日しっかり手入れをしていることがよくわかった。重宝して当然だ。
 シザーケースから鋏を一本取り出して、まずは毛先の数センチのみを切り揃える。一応お客様の前にはファッション雑誌を幾冊か用意しておいたが、まるで興味がないようで目もくれていなかった。それよりも鏡に映る自分を揺るがない視線で見つめ続けている。これは少しでも理想と違う切り方をしたら相当怒られるだろうなと思いながら、俺は手先に集中した。




 暫くして無事にカッティングを終え、セニングシザーで要望通り量を軽くした。そして、そこまでで俺は一言も口を利かなかった。本当はお客様を退屈させない為にも程よく会話をするのが普通だけど、今回はそうしない方が良いと思ったのだ。多分、この人は言いたいことがあれば躊躇なく言ってくるし、例えば俺が無駄口を叩いて失態を犯すなんてことがあったら二度と店に来てくれなくなるだろう。だから余計な会話はせずに黙々と作業を続けていた。
 鋏をシザーケースにしまい、代わりにコームを取り出す。ドライヤーのコンセントを挿しているところで、「ちょっといい?」と声を掛けられた。クレームとかじゃないといいけど。
「なんでしょうか」
「君さ、市外から通勤してるだろ」
「…え?ええ、まぁ、そうですけど…よくわかりましたね」
 全く予想していなかった一言にちょっと驚いた。確かに俺はここから少し離れた市外に住んでいて、そこから毎朝出勤している。でもなんでわかったのだろう。それにそのことを確認した意味もわからない。とりあえずお客様用の表面上の笑みを浮かべて返事をしたが、その続きは何もなかった。




「三千円になります」
 全ての過程が終わり、裏の置き場所から預かっていた荷物を持ってくる。レジを挟んで目の前に居る例のお客様の髪は来店した時よりもほんの少し短くなっていたが、結局ぱっと見じゃわからない程度のカットしかしなかった。でもそれで鏡を見て何も言ってこなかったのだから、ご希望には添えたということだろう。
 お客様は高価そうな財布から三千円をぴったり差し出し、指先で散髪したばかりのそれをくるくると弄っている。すぐ髪に触れたがるのは癖だろうか。最初から最後まで変わったお客様だったが、まぁ何はともあれこれで終わりだ。神経が擦り切れそうな感覚は久しぶりだったからどっと疲れてしまった。この人が店を去ったら少し休憩しよう。と、そう考えていたのに。
 ありがとうございましたと俺が言ったにもかかわらず、その人はレジの前で立ち止まってこっちを見ているだけだった。まだ何かあるのだろうか。
「…あの、何か…?」
「いや、その営業スマイルやめた方がいいと思って」
「は…」
 髪を弄っていた手を止め、しっかりと目を合わせて言ってくる。
「きもちわるい」
 何を言い出したと思えば。きもちわるいって。
(なんだコイツ…!)
 自分が美しいからって他人貶してんじゃねえよこのナルシスト!!なんて思ってない思ってない仮にもお客様だ耐えろ俺。
「…えーっと……ア、アドバイスありがとうございます」
 自分で言ってて意味がわからない。アドバイスってなんだよ。この返答では不満が残ったらしく、相手は眉を寄せてあからさまに機嫌を悪くした。いや俺の方がむかついてるっつーの。
「…名刺」
「はい?」
「名刺、ちょうだい」
 クレームの後は個人情報を譲渡しろだと。ふざけるなよ、と思ったが、持っている以上渡すしかない。それにこの人はお客様だ、と言い聞かせてポケットから一枚取り出す。さよなら俺のプライバシー。
「エスカ・バメル…」
 受け取った名刺を見てぽつりと呟いている。俺は名前を知ろうとする理由を頭の中で考えていたが、次の一言にまた驚くことになった。「なんて呼べばいい?」と言ってきたのだ。え?俺とお前って一応店員と客だよな?なにその友達みたいなノリ。
「エスカバって呼ばれてます、けど…」
 そしてなんで言っちゃってる俺。さっきからこの人に流されすぎじゃないか。
 何故か少しの沈黙が流れる。お客様は俺と目を合わせたまま口を噤んでしまった。これじゃなんか俺が変なこと言ったみたいじゃねーか。なんとか言えよ。
「…エスバカ?」
 いやこいつは口開いちゃ駄目だと瞬時に思った。プツ、と頭の中で何かが切れる。
「あのなぁ!エスカバだっつってんだろ!さっきからなんなんだよ馬鹿にしてんのか!」
 積もり積もった文句をいっきに言ってやった。が、静まり返った店内にはっと我に返る。
「…あ。」
 お客様が目を丸くして俺の方を見ている。うわ。
「あ、いやっ、あの、」
 さあっと頭が冷えていく。やばい。機嫌を損ねるどころの話じゃない。絶対怒られるし文句言われるし、ていうか今後ここで働けるのかすら危うい。どうしよう。まじでやばい。
 不幸中の幸いと言うべきか、さっきまでバダップが担当していたお客様はもう店を出ていたからその場に居るのは俺達二人とバダップだけだった。でもバダップも驚いたような目でこっちを見ている。
 最悪だ、とその一言だけが何度も脳内を巡った。殴られるだろうか。でも、そう覚悟をしているところに聞こえてきたのは、今の空気に全く場違いな笑い声だった。
「あははっ、なんだ、ちゃんと反論するんじゃん!」
「!?」
 さっきまでの仏頂面はどこへ行ったのか、実に楽しそうに笑って言う。もう何が何だか。
「あ、あのー…」
「いやいや、さっきから上辺だけの笑顔で敬語使っててなんか頭にきたからさぁ」
「はぁ…!?」
 意味がわからない。こいつ、本当に何考えてるんだ。
「ちょっとキレさせてみようかなーと思ったんだけど、まさかこんな上手くいくとはね」
 気に入ったよ、と一層笑みを濃くして言われる。初めて目にした笑顔に、何故かどきりとした。
「オレはミストレーネ・カルス。ミストレでいいよ」
 そう名乗って扉の方へ向かっていく。俺が何を言う間もなく。あれだけ自分は喋っておいてこっちの言い分は何も聞かないのか。
「ミストレ!」
 ほぼ反射的に呼んでしまった。振り返ったミストレに特別言いたいことなんてなかったが、ぐるぐると考えた結果「髪、満足したか?」という質問が零れ落ちた。お客様に聞くなんてまずありえない。でもミストレ相手なら言っても特に差支えはないだろう。じっと待っていると、ミストレは少し考えるような素振りを見せた後、一つ頷いて笑った。
「ああ、君に切ってもらえて良かった」
 その一言で素直に嬉しさが募る。美容師としてこれ以上ない程の褒め言葉だろう。ミストレが踵を返すと、長い髪がふわりと揺れた。
「また来るよ。じゃあね、エスカバ」


 この職に就いて半年。ちょっとおかしなお客様と、出会いました。








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