凍えぬように火をつけて

シリウスとの出会いは、雨の日だった。

ホグズミードの日、皆が浮かれているというのに、あいにく天候はぐずついていた。突然降り始めたので、はしゃいでいた生徒たちが慌てて軒下に避難している姿が目立つ。上級生の数人かは、杖で雨よけをしていたけれど、マグル生まれのわたしは事前に傘を持ち込んでいた。

「ナマエ、それがマグルの “傘” なの?」

友人が興味津々という様子でそう尋ねたので、わたしはそれをくるりと回して見せた。「メリー・ポピンズみたいに飛ぶ機能もないのよ、本当にただ、雨を避けるだけ」わたしがそう言うと、友人は難しそうな顔をして「メリーポピンズって?」といぶかしんだ。わたしはそれに思わず吹き出してしまう。ロンドンで、メリー・ポピンズを知らないこどもがいるなんて。貴重だわ──きっとホグワーツにしかいない。わたしは彼女にメリー・ポピンズの正体を教えないことにした。そういう類の秘密は、積極的に持つべきだと思ったからだ。

友人たちが雨にうんざりして三本の箒にこもるというので、わたしはしばしの散歩を楽しむことにした。いつも賑わうこの通りにこんなに人が少ないのは、滅多にないことだった。生粋の魔法界生まれといった様子の魔法使いは「何だあれは」という顔でわたしを見たし、マグル生まれらしい小さな魔女はどこか懐かしさをその表情に浮かべていた。

雨の日は嫌いでなかった。母はいつも、色とりどりの傘を持たせてくれたからだった。そんなはずむ足取りのままに、ホグズミードの深部まで来ていたらしい。あまり訪れないこの通りは、先ほどの大通りよりずいぶん人気がなかった。そんな中、軒下でひとり、こちらに背を向けてローブの裾をしぼる生徒がいた。ずいぶん降られたらしく、絞っても絞っても、水滴が途切れそうにない。どうやらまだ乾燥呪文も習っていない学年のようだ。

わたしは思わず彼に近づくと、杖を向けた。先ほどまでぐっしょりと濡れていたローブや靴が、あっという間にドライヤーをかけたようにすっかり乾いている。それに気づいたのか、ぱっとこちらを向いたその顔には、見覚えがあった。彼は、ホグワーツ中の有名人だったからだ。

「……あんたが?」

ずいぶんぶっきらぼうな言い方だったのを覚えている。周りには、いつも彼の隣にいる友人たちはいなかった。わたしはその問いにうなずいて、そっと彼に傘を差しかけた。

「なんだこれ」先ほどと同じ、尊大な声で彼は言う。しかしどこか沈んだ表情だった。思わず「大丈夫よ」、そう優しく声に出していて、自分でも驚いてしまう。そしてそれは彼も同じようだった。わたしたちは初対面だったのだから。

「はいって。一緒に帰りましょう」

今思えば、彼の性格を考えると突っぱねられてもおかしくなかった。けれど彼は少しの間逡巡して、どこか戸惑った様子のまま、わたしが差し出した傘の中に入ってきたのだった。

そのまま二人で無言のまま雨の中を歩き、三本の箒までくると、「ここでいい」とシリウスが傘から抜け出した。彼の視線の先には、いつもの四人組の仲間が待っていたらしい。わたしは雨を避けるように走り出した彼の背中を見送って、なんだか不思議な体験をしたわ、と思ったのだった。彼と歩く道は、なぜか色が、音が、澄んでいたのだ。傍に咲いた花の青さや、雨粒を受けて揺れる葉の緑が。雨がはじける不規則な水音が。

それで学年もいくらか違う、グリフィンドールの彼との奇妙な関わりはおしまいかと思っていたのだけれど、それは間違いだった。朝食を食べ終わったあと、突然彼が大広間を出かけていたわたしの手を掴んだのだった。「ちょっと借りる」シリウスはわたしと歩いていた友人にそう断ると、さっさとわたしを連れ出した。目立つタイプではないわたしが大広間中の注目を浴びたのは、あれが初めてだったと思う。歩幅のずいぶん違う──年下だというのに、シリウスは背がわたしよりかなり高かった──彼はわたしに構わずずんずん進んでいくので、わたしはほとんど小走りで彼についていかなければならなかった。ついでに言えば、異性と手を繋いで(むしろ、掴まれて)歩くのも、わたしには初めてのことだった。

人気のない廊下に出ると、やっとシリウスは満足したのかそこで足を止めた。それが急なことだったので、わたしは思い切り彼の背中に額をぶつけてしまう。「いたっ!」そう声を上げたわたしに、シリウスがあきれた声で「どんくさい」と呟いたのを、わたしはしっかり聞いていたけれど、彼が何の用事でわたしを連れ出したのかわからないので、ふくれ面をする程度で収めた。しかしなかなか彼が切り出さないので、ずいぶん長い間、わたしたちは妙な沈黙を間にしていた。ようやくわたしが彼に向かって小さく首を傾げてみせると、彼はやっと言葉を取り戻したかのように──いや、彼は自分のペースで物事を進めることが当たり前だった、というのが正しいかもしれない──口を開いた。

「この前礼を言ってなかったから」

──正直わたしはその言葉に驚いていた。そのくらいのことで、彼はあれだけの視線を集めてわたしを連れ出したの?しかしそれが彼らしいのかもしれない、とわたしは思わず吹き出してしまって、彼の怪訝そうな表情を引き出してしまった。

「いいえ、気にしないで。わざわざお礼を言ってくれるなんて思ってなかったから、驚いたの」

わたしがそのまま言うと、彼は「俺だって礼くらい言う」と、普段の自分のイメージを自覚しているのかそうふてくされたように言って、けれど気になっていたのか、絞り出すような声で尋ねた。

「何で──何であの時、あれを?」

あれ、というのは傘を指すらしい。そんな問いかけをされるなど予想もしていなかったので、わたしは少しの間考えるそぶりを見せたけれど、彼は諦めるつもりはないようだった。答えを聞くまで帰さないぞ、そう目が言っている。

「あなたの背中が」、わたしはついそう言いかけて、一度口をつぐんだ。もしかしたら彼は気分を害するかもしれないと思ったからだった。しかしシリウスはそれで満足するわけもなく、「背中が?」と促してくる。

「──あなたの背中が、どうしようもなく、さみしく見えたから」

そんなわけないのにね、わたしがそう笑ってにごそうとしたけれど、それきりシリウスは黙ってしまって、授業も迫っていたのでわたしたちはそのまま別れたのだった。さすがに失礼だったわよね、とわたしは何度かその場面を思い出して頭を抱えたけれど、不思議なことにシリウスは何かとわたしを構うようになったのだった。

あと数日で、わたしは卒業する。シリウスと話すようになってから、早くも数年が経っていた。わたしたちは時々あの日の出会いを蒸し返しながら、何度も雨の日を共に過ごしたのだった。

「時間が過ぎるのって本当に早い」

わたしがそう言うと、隣に座ったシリウスが無言でうなずいた。ジェームズ・ポッターたちと一緒にいるシリウスはずいぶん饒舌に見えたけれど、わたしと二人の時は、必ずしもそうではなかった。わたしたちは長い沈黙を共有することもあった。

卒業したら、わたしと彼の関係はどうなるのだろうか。シリウスは卒業まであと二年残っている。会わなくなれば、彼もわたしのことを記憶の隅に追いやってしまうのかもしれない。それはなんだか嫌だな、とぼんやり考えながら、窓の外を見つめる。細雨がしとしとと世界を濡らしていた。

「あのさ」シリウスがそう切り出した。それがずいぶん張り詰めた声だったので、わたしは思わず彼を見つめた。シリウスは、それ以前から切実な目でわたしを見ていた。

「俺が卒業したら、結婚してくれないか」

「結婚?」

わたしが思わずそう聞き返すと、シリウスは静かにうなずいた。その表情は冗談などではなく、本気のようだった。わたしはそれにあてられてしまって、なかなか口を開くことができずにいたけれど──頭のどこかで、こう考えていた。これで、あなたをひとりにしないで済む、と。

わたしはシリウスの大きな手に、自分のそれを重ねた。シリウスが目を見開く。「結婚しましょう」わたしがそう言葉にすると、彼の手にぴくりと緊張が走ったのがわかった。そうして、だんだん彼の端正な顔が近づいてきて、そっと──本当に、壊れ物を扱うように──くちびるが重なった。それがわたしたちの、初めてのキスだった。

わたしたちの関係は、まるで類を見ない、不思議なものだったろう──けれど、わたしはいつも、彼に傘を差しかけたいと思うのだ。あなたがどこにいても、何をしていても。
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