傷を騙して君を抱く

ホグワーツを卒業し、数年が経った。

トムはボージン・アンド・バークスで働いているけれど、それもきっともう長くはないだろう。彼は数日前から、少しずつ部屋の荷物を減らしていっている。「ここに長く住み着こうとは思っていない」この部屋を借りる前に、トムはそう言っていた。彼が言った言葉を違えることはないだろう。そんな信頼はある。

結構気に入っていたのに。そう考えると、急に愛着が湧いてきてしまうものだ。ノクターン横丁のはずれに位置するバーの二階に、わたしたちは部屋を借りていた。初めて部屋に入ったとき、「ほこりっぽい」とこぼしたわたしに対し、トムは「カビくさい」と顔をしかめたのを覚えている。どうしてわたしを連れてきてくれたの。そう聞けたことは、今まで一度もなかった。しかし、彼と一緒に洗浄呪文を唱えるのは、ちょっぴり──いや、とても、楽しかったのだ。こういった、日常の小さな思い出の積み重ねで、わたしは今を生きることができている気がする。

この部屋は一見薄暗くて、家賃の安さそのままといった風情だけれど、夕方になると差し込む光が綺麗だった。おどろおどろしいノクターン横丁の中に位置していたものの、ちょうどこのバーより先には建物がないおかげか、日当たりは良いのだ。窓から外を眺めていると、時折帰ってくるトムの姿が見えて、もしかして、これがしあわせというものなのかもしれない、とさえ思った。トムはそういう時には大抵敏感にわたしの視線を察知して、暇なのか、という顔をする。そんなことないわよ。あなたが帰ってくるまで、仕事に行くのを待ってたの。

寝室──といっても、トムの書斎と兼用だ──には元から備え付けられていた、シングルベッドよりは申し訳程度に大きい、けれど二人でねむるには小さすぎる、木製のベッドがあった。わたしたちはそこで身を寄せ合いながら、まるでわたしたち二人だけしかこの世にいないかのように息をひそめてねむった。いつトムが拡大呪文をかけると言い出すか、わたしは内心少しばかり恐れていたけど、ついぞその時はこなかった。トムは律儀にわたしがベッドに入るまで待っていたし──むしろ、トムの方が遅いことが多かったけれど──、わたしはそんなトムの腕に抱かれて朝を迎えた。

いつこの部屋を手放すことになるんだろう?最近のわたしはそればかりを考えていた。しかし、それ以上に、もう一つの懸念についてもまた、悩まなければならなかった。

トムは、わたしを連れていってくれるのだろうか?

わたしは、窓ぎわに置かれた椅子に座って窓枠に頬杖をつきながら、夕日が落ちていくのを見つめている。トムが何を考えているのか、数年ふたりで暮らしているというのに、全くわからなかった。彼が望んでいることは、知っている。わたしはそれに役立つことができない。トムはいつもわたしを突き放した。それでいて、抱きしめる手はいつも強引さの中に優しさを宿していた。

「最後の思い出づくりをさせてくれたのかなあ」

「何をさせたって?」

聞きなれた声に、思わずびくりと体を揺らした。「トム!」すっとんきょうなわたしの声に「騒々しいな」と言いながら、彼は首に巻いていた長めのマフラーを解いてラックにかける。

「雨が降りそうだな──いや、雪か」

コートを脱ぐ仕草は、こんな骨董品のような部屋には似つかわしくないほどに品があった。「今日は休みなのか」トムが問いかける。わたしはそれに頷いて、風で乱れた彼の前髪をそっと元に戻した。彼はそれを黙って受け入れてくれる。うれしい。そして、そっと、かすめるように彼の薄いくちびるが額に落ちてくる。

「おかえり、トム」

「ああ」

すでに夕日は落ちきっていた。薄紫色の闇が、窓の外を包んでいる。トムが杖の一振りでランプの明かりを灯した。

「このスープ、美味いな」

温めなおした食事を彼の前に置くと、しばらくしてトムがぽつりと言った。その言葉に胸の奥があたたかくなって、身体の芯がやわらかくなった心地がする。以前にそれを出したとき、これを飲んでいる時のトムが何となく、気に入っているように見えたから。ほとんど感覚的なものだけれど、こうして当たりを引くと、うれしい。

「よかった。また作るわね」

何気なくそう言った時、トムがスプーンを持つ手を止めた。かすかに鳴っていたスープをすくう音が消えて、部屋に静寂が訪れる。

「週末、ここを発つ」

週末といえば、あと二日しかない。わたしは手に持っていたフォークを取り落としそうになって、慌てて握り直す。死刑宣告を聞くにんげんは、こんな気持ちなのかもしれない。なんとなく、そう思った。

それから記憶がぼんやりして、いつのまにかトムに後ろから手を回されながら、ベッドに横になっていた。後ろから、規則的な寝息が聞こえる。トムはもうねむっているらしい。腹に添えられた手に、自分の手を重ねてみる。関節の浮き出た、平らでうつくしい手の甲を撫でる。雨音が聞こえてきて、しとしととすべてを濡らしていくのを感じた。トム、あなたの予報は外れよ。声に出さずに、そう呼びかけた。

あっという間に週末がやってきた。部屋の中には、すっかり何もなくなっている。もともと備え付けられていた家具、一緒にねむったベッド、窓際の木製の椅子。がらんどうの部屋に、それはさみしく映る。

「トム」

「なんだ」

トムは旅行鞄に魔法をかけて中を広げたものに、本を数冊詰め込んでいた。先程買ったものらしい。その作業も終わったのか、わたしの呼びかけに眉を片方あげて応える。

「あの、」

「時間がない。行くぞ」

トムは言い渋るわたしに焦れたのか、わたしの手首を掴んでそのまま歩き出した。一緒に行ってもいいの、と尋ねたかった。けれど、それがいちばんの答えだったのだ。わたしは彼とわたしをつなぐ互いの腕を見つめて、なんだか泣き出したいような、それでいて笑ってしまいたいような、そんな心持ちになっていた。わたし、あなたとまた行けるのね。彼の背中が頼もしく、頬を寄せたかった。

トムはしばらく歩き続けて誰もいない川辺で足を止めると、「吐くなよ」と言った刹那、姿くらましをした。思えば、ノクターン横丁に来た時も、こうだった気がする──。わたしはぐにゃりと内臓を押し曲げられるような感覚にぐったりとしながらも、いつのまにか変わっていた風景を眺めた。そこは小さな村のようだった。

「空気がきれいね」

わたしがそう言うと、トムは特に感想もなかったのか、わたしの腕を掴んだまま歩き始めた。どうやら、彼の行き先は少し坂を登るらしい。その道中で、わたしは「あ」と声を上げた。

トムが振り返る。そして、わたしの視線の先をたどって、眉をひそめた。わたしが見つめていたのは、すでにその役目を終えたらしい、白壁の教会だった。

「どうしたんだ」

「わたし、一度行ってみたかったの」

「こんなところにか?」

トムは理解しがたいという顔をしたけれど、いつまでも見つめるわたしに呆れたのか、そのつま先を教会に向けた。人気を感じないけれど、誰かが手入れしているのか、教会に続く石畳はきれいだった。ニスで磨かれた木の扉を開けると、そこにはステンドグラスと、イエス・キリストが十字架に磔にされた像が残っている。

「トム、覚えてる?孤児院の近くで、結婚式があったこと」

「……さあ」

わたしはやせ細ったキリストを見上げながら言った。静寂に包まれたこの教会で、わたしはあの時見た祝福されるふたりの姿を目に浮かべていた。

「あれを見てから、いつも来てみたかったのよ、ここに」

あれがかなわないことはわかっていたから。そう付け加えることはしなかった。トムがああいう類のことを軽蔑することは、とうの昔にわかっていたことだからだ。

「ありがとう、トム。もう満足したわ」

わたしがそう言っても、トムはわたしの手を離そうとはしなかった。「トム?」彼の顔を覗き込む。しかし彼はただわたしを見下ろして、何を考えているか汲み取らせてはくれなかった。

「……怒ったの?トム」

ごめんなさい、と口にしようとした瞬間、引き寄せられてくちびるが重なった。「ん、っ」くちびるを食まれて、そっとその舌が滑り込んでくる。いつもよりていねいに、まるですべてを確認するように。わたしは彼と手を繋いだまま、ぎゅ、とそれを握りしめることしかできない。永遠に続くような口づけは、わたしがすっかり息が上がるまで続いた。

「誓いの言葉はいらないだろう」

ナマエが僕の側から離れることはない、そう断じるトムに、わたしはとめどなく溢れるさまざまな感情が、一粒の涙に込められるのを感じていた。トム、愛してるわ。あなたを愛してる。言葉にはできないけれど、わたしはあなたのそばに永遠にい続けると、ここに誓っている。
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