かぎりがないから愛なのだ

「あ」

意図せず溢れ出してしまったような、そんな声だった。その時通りにはわたしくらいしかいなかったので、一応声の主を確かめようと、振り向く。そこには、気まずそうに、少しうろたえた姿の──彼がいた。「リーマス、」わたしは思わず彼の名前を呼ぶ。名前で呼んで、やっと彼という人物が、像を結んだ気がした──。わたしは、彼の頬のあたたかさまで、知っているはずなのに。彼はわたしの恋人だった。 “だった” という言葉が示す通り、彼はこの関係を、彼の手で過去のものにしたひとなのだった。

数年前に別れた相手と、一つテーブルを挟んでコーヒーを飲んでいる。一部の人間からすればありえない光景だろうけれど、実際にこうなってしまっているのだから仕方ない。わたしたちはロンドンの、店員が役目を果たしたとばかりに裏に戻ったせいでまばらな客しかいない、コーヒーだけが美味しい店でしばしの間沈黙している。

「こっちに戻ってきたのね」

誰もがそれぞれの世界に没入したこのカフェで、わたしたちが一言も会話をしていなくとも誰も気にはしていなかったけれど、そう口にするまでにずいぶんな葛藤があったことをなかったことにはできなかった。どこかくたびれた印象を受けるスーツは、それでもなぜか彼に似合っている。彼は手の中の紅茶に落としていた視線をこちらに向けた。どうやらこの店でコーヒー以外を頼んではいけないことを知らなかったらしい。

「ああ、そうなんだ。いい勤め先だったが、その──隠し通すのは難しくてね。なんせ、毎月同じタイミングで必ず休むなんて──」

そう自嘲気味に笑うリーマスは、渋みの強い紅茶に砂糖をひとさじ加えてひとくち飲んだけれど、もうそれ以上は諦めたらしい。ある意味潔い諦めの良さは、時折わたしを苛立たせた。ロンドンでの暮らしも、日の当たる場所でありのままに暮らす生活も、そして──わたしとの関係も、彼はいつも順当だという顔をして、手放してしまう。切り離された側のさみしさなど、まるでなかったことのように。

「ナマエは」一度、そこで迷ったように言葉を切って、しかしそんなそぶりがまるでなかったように微笑みながら彼は言う。「元気そうでよかった」

卒業と同時に彼が去って数年、その数年で彼はずいぶん憂いに満ちた笑いを身につけたようだった。しかしその奥にある優しさが、胸をしめつける。わたしを傷つけるひとだと分かっていても、彼のことを一心に思っていた記憶が溢れ出して、止まらなくなる。

彼がテーブルに乗せた手を握りたかった。節が目立つ、大きな手だ。しかしわたしはその衝動をやり過ごして、もう一度カップの中身を傾ける。

「ええ──そこそこうまくやってると思う。今でもまだ、怒られてばかりだけれど」

そのあとはしばらく、学生時代の友人の話や、とりとめのない世間話が続いた。どこかうわすべりしているような会話を、ぽつりぽつりと続けるわたしたちはいったい何を求めているのだろう。虚しさがじくじくと胸を裂くのに、沈黙を怖れる自分がいることにも気づいていた。コーヒーがもう一度注がれることはない。わたしたちに話の種がなくなれば、それはここから去ることと同義だった。

「恋人は」先ほどまでの思考のせいで、口から滑り落ちた言葉にわたしははっと彼の顔を見た。そこで、今までわたしがカップを握る自らの手のしわを見つめていたことに気づく。彼と目があって、失敗した、と腹の底から冷えるような感覚を覚える。不自然に避けていた話題が飛び出したことに、わたしたちはお互いにしかわからない程度に空気を張り詰めさせていた。しかし、口に出した言葉を取り消しにすることは、胸元の杖を持ってしても不可能なのだった。

「恋人は、できた?」

やっとの思いでそう口にして、しかし胃がひっくり返るようなしくしくとした冷えは指先にまで広がり続けていた。リーマスはその質問にためらった様子を見せた。あるいは、うろたえていると言えるのかもしれない。

「……いいや」

その後に、何か付け加えたい衝動を無理矢理に押さえつけたような声で、リーマスが言う。押し殺した声に嘘はないようだった。しかし、そんなことなどまるでなかったかのように、「誰がどうして僕なんかと付き合おうなんて考えると思う?」とおどけた様子で彼は付け足した。そうだろう、だって私は人狼なのだから、今にもそう言いそうだ──ここが、マグルのカフェでなければ。

あなたが言ってくれれば。わたしはついに、そう考えてしまう思考を止められなくなっていた。あなたが、わたし以外と付き合うことなどできやしないと、そう一言口にしてくれたら。

数年分の心の苦しみがひどく痛む。「ねえ、リーマス」いつの間にか、そうぽつりと呼びかけていた。

「わたしたち、結婚しようか?」

「……何を」

不意に飛び出した言葉は唐突だったけれど、なぜかわたしの心は軽くなっていた。「何を言っているんだ、ナマエ」動揺しきった声がする。何もかも押し殺したような彼が、今日初めて見せた揺らぎだ。胸がすく思いがする。

「ナマエ、どういうことだか──」

なんだか懐かしかった。そうやっていつも、彼はわたしを諭した。ジェームズたちのいたずらに加担したとき、風邪をひいているのに湖で遊んだとき──。

「分かってるのか、って?リーマス、わたしはあなたよりよっぽど色んなことをわかってる。あなたが別れを切り出した理由も、どうして何もかもから離れようとするのかも」

しかしいつも、折れるのはリーマスの方だった。もし、さっき──恋人の有無に “いいや” とためらいがちに答えたときに、付け加えたかった言葉が “人狼だから” 以外なら。万が一にも、わたしがあなたの心にいたなら。少しでもその可能性があるなら、わたしはあなたを諦めることはできない。

「あなたは怖いのよ。自分から相手が離れていくのが。だから自分から手放す。そうでしょう」

ぐ、とリーマスの喉が鳴った。

「私は──、君は、私なんかといるべきではないんだ、ましてや結婚など」リーマスはそう言って、苦しそうに髪をかき混ぜた。

「結婚すれば、書類一枚だけれど、簡単には離れられない。そうしたら、分からず屋のあなたでも分かるでしょう。わたしがあなたから離れないることはないって。あなたはわたしと一緒にいるべきだって」

テーブルから身を乗り出して、彼の頬を両手で包む。記憶していた体温より、少し低かった。これは賭けだ。「どうする?リーマス」互いの吐息がかかるほどの距離で、わたしはそう尋ねた。緑色の瞳が、光を遮るわたしの陰で色を濃くしているのが見える。ためらうように、それはまるで薄いガラスを持ち上げる時のように、そっと後頭部に手が回される。引き寄せられて、唇が重なった。どこかでからかい混じりの口笛がなるのを聞いたけれど、それさえも全て遠ざかっていった──目の前のひとだけを見つめる魔法に、かけられているのだから。
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