喰えない男に手を引かれ

ルシウスは最近、何かと忙しい。

どちらともなく、週末は二人で過ごす習慣が根付いていたのに、ここのところ彼の都合で隔週になりがちだ。そして彼に会えたとしても、なんだかいつもとは違う雰囲気になってしまってどうにも気まずい。

ホグワーツを卒業して数年が経ち、同寮のよしみでルシウスはいつも親切にしてくれていると思う。彼を冷たいと言うひともいたけれど、きっと何かの間違いだろう、だって彼はいつも何かにつけて世話を焼いてくれる。そんな彼との関係が卒業後も続いたことには少し驚いていたものの、もうそろそろ潮時なのだろうか──。

そんな矢先のことだった。ホグワーツ時代にクィディッチ選手として活躍していた友人に出会ったのは。そして、彼女の口から出た言葉に、わたしは言葉を失った。

「ルシウス・マルフォイが結婚するそうね!」

あなた親しかったでしょう、と続いたその言葉に動揺を隠しながらもうなずいて、しかしその後彼女と何を話したのか、わたしはすっかり覚えてはいなかった。いつの間にか彼女は目の前から消えていて、ダイアゴン横丁の喧騒だけが耳に入ってくる。

ルシウスが結婚するなど、まさに青天の霹靂だった。彼とは先週会ったばかりだというのに、そんなことを──結婚の“け”の字さえ、一言も言っていなかったのだから。しかしそうなると、最近の彼の様子にも説明がつく。彼は伝統あるマルフォイ家の生粋なる後継なのだから、結婚するともなればさまざまな準備が必要になるのだろうし、わたしに構っている時間など当然なくなるだろう。

そして、わたしにそれを告げなかったのは──その理由はひとつしかない──わたしが彼に想いを寄せていることを、彼は気づいていたということだ。ホグワーツ時代からの、あまりに長すぎる片想いだった。もしかしたらそれは、友人として接してくれるルシウスへの裏切りでもあったのかもしれない。しかし彼はわたしへの配慮から、結婚するという事実を告げることができなかったのだ──彼の気遣いを思って、わたしは苦しいほどに早く打つ胸を押さえる。こんなことになるなら、彼を見つめることさえやめるべきだった、と。

くらりとめまいがして、わたしは一歩後ずさった。アイスクリーム売りの人の良さそうな店主が、心配げな視線を向けてくる。わたしはそれに曖昧に微笑んで、場所を移そう、と踵を返した。するとそこにはわたしの後ろから歩いてきたのであろう黒いローブが目の前にあって、わたしは「あっ」と声を上げた。すぐに「すみません、」とその人を見上げて、わたしはもう一度驚きの声を上げることになる。

「こんな場所で何を?」

怪訝そうに見下ろしてくるのは、他の誰でもない、ルシウスだった。普段通り高級な生地で仕立てられた服に身を包み、髪は一つに結っている。一見シンプルな装いに見えるけれど、彼が身にまとうことで華やかで洗練された印象を与えるのだった。しかし今のわたしには彼のセンスの良さを褒めることさえできなかった。「どうした?」そう繰り返すルシウスの顔を見ているとなんだか情けなく、みじめさを感じてしまって、思わず涙さえこぼれそうになる。言ってくれたら、わたしだって。そんな身勝手な思いさえ。

涙をこらえてはいるものの、沈んだ表情を隠せはしなかった。そんなわたしを見下ろしたルシウスは眉間にしわを寄せ、厳しい表情を浮かべる。「ルシウス……」わたしがそう彼の名前を呼ぶのを押さえて、彼はわたしの手を掴んだ。「行くぞ」そんな言葉は、ほとんど形式的なものだった。それを言う前に、彼は歩き出していたのだから。

わたしたちは目立つ通行人だったろう、なんせあのルシウス・マルフォイがこれといって特徴のない女の手を握って、足早に通り過ぎていく。人々は道を開けるばかりだ。好奇心をたたえながら。そんな視線すら耐え難く、ただうつむくだけだったけれど、勇気を振り絞って彼の背中に呼びかけた。「ルシウス、あの……」その瞬間、ルシウスが立ち止まったのでわたしは思わずその背中に飛び込みそうになる。けれど彼が振り向いてわたしを抱きとめたので、ぶつかることはなかった。

「──ここは騒がしい。場所を移すぞ」

そして、彼が姿くらましを使ったことに気づいたのは周りの風景が一変してからだった。そこは湖のほとりで、一面に広がるネモフィラの青がうつくしかった。こんな場所を知っているのね、と普段のまま口にしそうになって、それを飲み込む。何か言葉を発したら、彼との関係は元には戻せない気がして。

しばらくの間、互いに沈黙していた。もしかしたら彼はうつくしい風景にしばしの間猶予があってもいいと考えたのかもしれない。自分を好いた女に、最後の情けをかけてやろうと。

強い風が吹いて、髪をなびかせる。それを押さえながら、なんだか先ほどこらえた涙が溢れ出しそうで、わたしはルシウスから顔を背けて遠くまで広がる湖の対岸に目を向けた。なんてうつくしいんだろう。こんなに心はくるしいのに、なぜ今になってうつくしいものばかり、目に入るのだろう。

「ナマエ」

ルシウスの声は、どこかまぶしいものを見た時のように少し固かった。もう引き延ばせはしない。彼に向き直って、高い位置にあるその顔を見上げる。端正な顔立ちだ。高い鼻梁も、涼しい目元も、色気のあるくちびるも。けれど、それは彼の一番外側に過ぎない──長い間時を過ごす間に、わたしは彼を知り過ぎた。やさしさも、迷いも。

「ルシウス」

わたしは他に言葉を見つけることもできず、ただ彼の名前を呼んだ。すでに口になじんで久しい、その名前を。それを聞いたルシウスはどこか複雑な表情を浮かべて、一度口を閉じる。彼にしては珍しく、ためらうように。

「ルシウス、あなたの言いたいことはわかってる」

そんな彼を見ているのがしのびなくて、口から出たのはそんな言葉だった。ルシウスははっとわたしを見て、「知っていたのか?」とどこか慌てた様子で詰め寄った。ええ、とわたしはうなずいて、「だから大丈夫よ、そんなに気に病まなくても……」そう続けようとすると、突然ルシウスがその場に片膝をついたので、その後の言葉を飲み込む羽目になった。

「君が知っていたなら、もう前置きはいらないだろう──」

そう言った彼の手の中には、小さな箱がある。ビロードで飾られた、黒い上品な箱。まさか、とわたしが目を見開いたと同時に、ルシウスがその箱を開けた。そこには銀色の指輪が輝いている。

「私と結婚してくれ、ナマエ」

「嘘でしょう……?」そう口にしたと同時に、涙が一粒こぼれ落ちた。「知っていたんだろう、」涙が止まらなくなったわたしを抱きしめたルシウスはそう囁くけれど、わたしはその胸に額を押し付けて首を横に振ることしかできない。ためらいがちな手が、背中に回った。そっと一定のリズムでなだめるように撫でられるそれが心地よくて、次第に涙の波が引いていく。

「返事を聞かせてくれないか」

「わたし、ずっとあなたと結ばれたかった、ルシウス」

腰を抱かれたまま見上げると、そこにはルシウスの朝靄のような瞳がこちらを射抜いていた。ゆっくりと近づいてくる秀麗なかんばせに、そっと目を閉じる。口づけを受けながら、左手の薬指にするり、と銀の感触が通るのを感じた──。
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