キャンバスに眠る

父の書斎には、私が幼い頃から一つの絵画が飾ってある。画家のサインもなく、中で何かが動くこともない。

私はホグワーツに入学してから六度目の夏休みを迎えるまで、それがただの風景画だと――その上、父にしては趣味が悪いが、マグル製だと思い込んでいたのだった。

「あら」

父の書斎にある本棚の一冊を拝借しようと、父の留守中に入り込んだ日のことだった。父の書斎に入ることは特に禁じられていたわけではないものの、なんとなく気が引けたので、いつも不在を選んでその扉を開けていた。そんな、いつもと変わらない習慣を守っただけのことだった。

しかし誰もいないと思っていたそこには、先客が――いや、むしろ、彼女はその部屋の住人と言えるだろう――いたのだった。

「あなたは――ルシウス?」

どこか目を輝かせて、美しい黄金色の麦畑の前に立つ女性がそう声をかける。彼女がいない時にはぴくりとも動かなかった麦の穂先が、絵画の中で風が吹き抜けるたびに、まるで波のように揺れていた。

彼女は私が頷くと、「こんなに大きくなったのね!」と嬉しそうに言った。どうやら、私が幼い頃には姿を現していたらしい。そうして彼女は少し首を傾げながら、「アブラクサスは?」と言った。彼女がいくつなのか私には推し量ることができなかったが、ずいぶんとその仕草は幼く見えた。

「二、三日ほど戻らない」

答える義理などないというのに、私はいつの間にかそう伝えていた。「そう……」残念そうな、それでいてどこか安堵するような、そんな複雑な表情を彼女は浮かべた。しかし彼女はそんなそぶりがまるでなかったように、「あなたに会えて嬉しいわ、ルシウス」と言って微笑んだ。絵の中の彼女は、驚くほどうつくしかった。陳腐な言葉だが、今まで見たこともないほど。今までうつくしいとされる女も、男も、そして写真や絵さえ、見尽くしてきた。それがマルフォイ家の嗜みだと、そう教えられてきたからだ。

しかし父はそのどれよりもうつくしい彼女を、ずっとここに隠し続けていたことを、その日知ったのだった。

「君の名前は?」

思わず私が尋ねると、彼女は少し寂しげに笑って、「ナマエよ、ルシウス」そう言った。

それから私は父の留守中を見計らっては、書斎に足を踏み入れていた。ナマエは今まで一度も姿を見せなかったことがまるで嘘のように、私が来るのを歓迎してはホグワーツや休暇中の出来事を聞きたがった。彼女といると、まだ若い私はまるで世界中のどの男より優れているように感じた。何を話しても、彼女が「あなたは素晴らしい人ね」「素敵だわ、さすがルシウス」と柔らかに微笑むからだ。
いつしか父が当主を退き、私がこの椅子に座るようになっても、それは続いていた。

ある日のことだった。

「ナマエは以前からマルフォイ家に?」私が不意にそう言うと、途端にナマエの顔が曇った。 以前から気になっていたことだったが、聞く機会もなく、些細なことに思われたので何の気なしに口にしたと言うのに、ナマエの反応は芳しくない。「いいえ」ナマエが小さく首を振る。つい、好奇心が首をもたげる。

「では、なぜここに来たんだ。マルフォイ家の一族に、君の名前はなかった」

「話しても退屈するだけよ」

「聞かせてくれ」

ナマエのためらいに、私はやめておけと警告する声を聞いた。それは私の良心だったのか、それとも理性だったのか今となってはわからない。しかしあまり彼女自身のことを語りたがらないナマエについて、やっと知ることができると私はどこか高揚していた。

ためらいがちに口を開いたナマエは、静かに語り始めた。

「わたしはある、娘を亡くした画家に書かれたの。幼い頃に亡くなった娘が、成長して家の前に広がる麦畑の前に立つ姿を想像してね。

その画家が亡くなった後、わたしは様々な家に引き取られたわ。わたしはあなたよりもずいぶん年上なのよ、聞いたらきっと驚くわ。あなたが想像もつかないほどの時間の中で、たくさんの家がわたしを買って、時には玄関に、時には廊下に、時には大広間に――。彼らはわたしに色々なことを求めたわ。亡くなった妻の代わりや、画家と同じように娘を重ねたり、老夫婦の話し相手もしたし、恋人のように振舞って欲しいとも頼まれた。

そして、ここに来る日が訪れた。

わたしが一つ前にいた家では、二代前の当主が亡くなった時に家を回収することになって、わたしは物置に置かれたままになっていた。そんな時もあったから、わたしは悲観していなかったわ。それに、時折若いその家の跡継ぎの青年が、わたしに会いに来てくれていた。楽しそうに語る彼の話を聞くのが、わたしも好きだったの。

その日は雨が降っていて、雷もひどかった。長い年月を過ごしてきたとはいえ、雷が恐ろしくないわけではないの。わたしは早く止むように願っていた。その雨音にかき消されて、屋敷に誰かが訪ねてきたことにも気づかなかった」

ナマエはそこで一度言葉を切って、私を見つめた。ナマエがここまで長く話していたのは初めてだった。私はその瞳に浮かぶ、複雑に絡み合った感情の束に気づいていたが、何も言葉にできずにいた。いつしか、彼女の言葉に引き込まれていたのだ。

「物置の外で声が聞こえたわ。“助けてくれ、あなたに従う”当主の声だった。いつも尊大に振る舞う人だったから、そんな惨めな声を上げていることにわたしは驚いた。

“息子も妻も死んだ、この家はもうおしまいだ――命だけでも”

そうしてその言葉に答える声があった。

“ならぬ。お前はこのヴォルデモート卿の怒りを買った”

聞いたことのない恐ろしい声だった。その声を聞くだけで、死というものを体験したことのないわたしが、これが死ぬということなのだと考えるくらいには。ヴォルデモートという名前は聞いたことがあったわ、わたしも世情に疎いわけではなかったから。そして当主の言葉で悟ったの。この家は途絶えてしまったのだと。しばらくして、物置の扉が開け放たれた。逆光に照らされて、長身の男のシルエットが見えたわ。その影越しに見えた屋敷の様子は様変わりしていた、引き裂かれて、荒らされて――。

動揺するわたしを、その男はじっと見ていた。そんな彼に、先ほどのヴォルデモート卿の声で、 “どうした。生き残りを見つけたか”そう尋ねるのを聞いたわ。 “いいえ、我が君” 彼は言った。

“我が君、私に――この絵をいただけませんか”」

私はそこで、彼女が略奪同然でこの家にやってきたことを知った。しかし父はそんな行為を野蛮だと嫌っていたはずだ。彼が望めば、そんなことをせずともどんな絵画であったとて手に入る。たとえ、他の男の妻を描いた肖像画であっても、美術館が所蔵する旧時代の作品であっても。

父はどうして君を。私はそう尋ねることをしなかった。理由はわかっている。彼女でなければならないのだ。どうしても彼女が欲しい。そんな思いに共感して、私は彼女を見つめる。

「わたしははじめて、わたしを誰かの代わりにしないひとに出会ったのよ」

彼女は語り終えた充足感のままに、そうこぼした。私はそこではっとした。父は。それ以上に思いを巡らせるのが恐ろしく、思考を止めようと手を固く握り締める。母はこの書斎に足を踏み入れたことが終ぞない。

考えを振り切って、私はナマエの手にあたるところに、自らの手を重ねた。絵画に直接触れたのは、それがはじめてだった。そこにあるのはただの、キャンバスの上に重ねられた絵の具だとわかっているから。だというのに、私は心の底からナマエの体温を求めていた。魅了されていたのは、父だけではない。私も同じであった。苦悶の吐息が漏れる。ナマエをみると、その瞳は饒舌だった。痛み、執念、恋慕――そして、私を通して誰を見つめているのかさえ。

「ルシウス」ナマエの声は震えている。

「明日、結婚するんでしょう」

幸せになれるわ、必ず――その日以来、彼女が現れることはなかった。麦は風に揺らぐこともないまま、ただ筆先の跡を、忠実に、愚直なほど残していた。
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