ほとりの逢瀬
どうにも、朝というものを好きにはなれない。わたしは油を長い間さしていないブリキ人形のようにギギギ、と音が立ちそうな動きで、体を起こした。同室の生徒たちはすでに姿を消している。時計を見れば、すでに朝食の時間はほとんど残っていなかった。
せめてかぼちゃジュースだけでも、と思うけれど、あと10分眠れる方が魅力的に思えてしまう時点で、負けは決まっているのだった。わたしは力なく枕に顔を押しつけると、枕元に置いた杖を握って時計へと向ける――次こそは、絶対に起きるという意思を込めながら。
――けれど自分でかけた目覚まし呪文であるにもかかわらず、わたしが起きたのは30分後のことだった。杖を握ったまま眠ったせいで、枕元にはいくつか小さな焼け焦げができている。あとでバレないうちに直さなければ。しかし今はただ変身術の授業に間に合う方が先決だった。
こんな姿を晒したくはないけれど、廊下を小走りに走る。風に揺られる髪が、今は煩わしい。普段はリボンで結っているが、当然そんな時間があるはずもなく、寝起きの髪をブラシで梳かしたままだった。ローブも着こんではいるもののどこか引っ掛けたような様相を呈している。
廊下の角を曲がると、そこには見覚えのある長い髪が見えた。その姿に「うわっ」だか「げっ」だか、そんな声を上げて慌てて角に身をひそめる。こんな風に乱れた格好を見られてはいけない一番の相手だった。わたしにとって、身だしなみが整っていない様子を見られるべきでない相手は、マクゴナガルではなかった。そろそろ行ったかしら、とおそるおそる角から顔を覗かせると、視界が真っ暗になる。「え?」そんな間抜けな声とともに顔を上げると、そこにいたのは他でもない、スリザリンの六年生、ルシウス・マルフォイだった。
「……その格好は一体どういうつもりだ?」
「えっと……これは……」
三つしか歳が離れていないというのに、彼はずいぶん背が高い。幼い頃は、わたしと同じくらいだったことさえあったのに。身長差のせいで見下ろすルシウスの顔は余計に威圧感があった。わたしは渋々肩をすくめて、シャツのボタンをぴっちりと上まで閉め、ローブに袖を通す。ルシウスは確かめるようにわたしの髪をつまんで持ち上げ、「だらしない」とため息とともに言った。
「マルフォイ家のひとりとして恥ずかしくない格好をしろといつも――」
「はいはい、わかってる!ごめんってば……でも授業に遅れそうなの、今は見逃して!」
いつものごとく説教を始めようとしたルシウスの隙をついて脇を通り抜け、わたしはあしらうように手を振った。しかしルシウスは簡単には出し抜かれてくれないようで、素早くわたしの腕を掴む。
「ナマエ!」たしなめるような声で呼ぶ。
「本当に間に合わないのよ……」
わたしがそう力なく言うと、ルシウスは黙ってコルクで栓をしてある瓶を押し付けてくる。中身は色でわかる。かぼちゃジュースだ。わたしが思わずルシウスを見上げると、少し諦めたような顔がそこにはあった。いつもこうなのだ。折れるのはルシウスの方だった。譲歩したいという気持ちは常に持っているけれど、こちらにものっぴきならない事情がその時々にあるのだ――。
「朝食の時間に間に合うように起きれば授業にだって遅刻しないんだ」
呆れたような言葉とともにわたしの手を離したルシウスに、「ありがとう!」と瓶をかざしながら走り出すと、廊下を走るなという声が追いかけてくる。わたしはもう振り向くことなく階段を駆け上がった。始業のベルがなったのは、わたしが教室のドアを開けるのと同時だった。
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「ナマエ、朝は姿を見なかったけれど」
夕食のスープを上品にすくいながら、シシーが言う。スリザリン生が囲むテーブルの中でも、この場所はひときわ格式ばった雰囲気を醸している。――率直に言えば、肩身がせまい。それはほとんど、わたしの斜め前に座るシシーと、隣のルシウスのせいだと言えるだろう。右隣のアンドロメダは、チキンのトマト煮込みを夢中で食べている。
「結局間に合ったのか?」
ルシウスの問いかけに、「ばっちりよ!」と元気よく答えたというのに、返ってきたのは「自慢げに言うものではない」という素気無い返事だった。
「大丈夫よ、ナマエ。時間というものは、間に合えばそれでいいの」
にっこりと笑うアンドロメダをシシーがたしなめている間にデザートを食べ終えたわたしは、「お先に!」と席を立つ。ルシウスが何か言いたげな様子でわたしの名前を呼んだけれど、わたしはひらひらと手を振ってそれに応えただけだった。
わたしがまっすぐに向かったのは、静かな図書室だ――。道行く廊下にも、どの教室にも生徒は人っ子一人いない。当然だろう。わたしはずいぶん早く、夕食を抜け出してきたのだから。そっと図書室のドアを開けると、マダム・ピンスもいないそこは重たい静寂に包まれていた。まるで誰かがどこかで囁いているようにも感じるけれど、そこには誰もいないことはわかっている。魔法の本というのは、時に魔法使いよりおしゃべりなことがあるのだ。
わたしは無人の図書室とはいえなるべく人目につかない席に腰掛けると、カバンの中に手を突っ込んだ。手に馴染む革の感触を探り当てて、それを引っ張り出す。そこに刻印された文字を指でなぞりながら、ぱらぱらとめくる。そこには何も書かれていやしない。わたし適当なページに指を挟むと、先ほどと同じくカバンに手を入れて羽ペンを探す。少し羽がへたったそれを取り出すと、インクに浸してまずページに日付を書いた。これは、日記を書く上で重要な――気分を盛り上げるための――形式的な作業だ。
《変身術の授業で、亀を陶器に変えるはずがなぜか製氷機に。マクゴナガルに哀れなものを見る目で見られる。いっそ何か言ってくれた方がマシね。》
わたしがそう書き綴ってしばらく経つと、その文字はまるで紙に溶けるように消え去った。そうして、まるで相手が返事を考えているような間のあと、ゆっくりと、わたしのものとは似ても似つかぬ流麗な筆跡が姿をあらわす。
《くだらないことを書き込むなと言った覚えがあるが、僕の気のせいか?――君の父アブラクサスは優秀だったというのに、君の才能はいっそ清々しいほど枯渇しているな》
《わたしが思うに、八割がた気のせい》
わたしが反射的に書き込むと、そのあとはむっつりと黙り込むように返事がなくなってしまったので、慌てて《冗談。胸に刻むわ》と書き入れた。
そのあといくつかやりとりして、彼の《もう消灯時間だろう》という指摘によって、今日の “日記” は終わりを告げた。わたしは来た時のように日記を慎重にカバンの奥に差し込んで、図書室をそっと抜け出す。
わたしは日記を通して会話する、その男の子の姿を見たことも、その声を聞いたこともない。けれど、彼が口にしない秘密を、わたしは知っている――。
Tom・M・Riddle、その名前を呼ぶものはもういないけれど、彼の存在は誰もが知っている。
闇の帝王、ヴォルデモート卿、彼の過去こそが、この日記に込められた記憶の持ち主なのだ。わたしは一人きりのはずの廊下でカバンの中の感触を確かめる。この日記を預けられたときから、わたしが一人になることは一度もなかったのだった。