おもしになりたい
「ミョウジ先生、今日って何かされるんですか?」
「え?」
今日中に仕上げなければならない原稿をなんとか終え、ずいぶん凝った肩を揉みながら最終チェックをしていたわたしに、たまたま通りがかったらしい懇意にしている事務員の女性が、お茶を出してくれながらそう言った。この大学の非常勤講師として働いているわたしが、ここに来て初めて心を許して砕けた調子で話せる相手だった。しかし彼女のその言葉に全く心当たりがなかったわたしは、思わず肩を持つ手を止めて振り返る。いつものように小綺麗にした彼女は、心なしかうきうきしているように見えた。
「だって、ミョウジ先生、スネイプ先生と同棲されて――むぐ、」
わたしが慌てて彼女の口を両手で塞いだので、彼女は潰れたカエルのような声を漏らした。とっさのことだったので「ご、ごめん」とわたしが離れると、呆れたような顔で「別に、誰も聞き耳立てていませんよ」と言う。きょろきょろと周りを見回すと、すでに大抵の講義時間を終えた控え室には残っていたわたしと彼女しかいなかった。
「だって、同じ大学内でそういう関係なのは……ちょっと……外聞が悪いというか……」
わたしの言い訳のような言葉に、「まあいいですけど」といいながら、彼女は少し長居することにしたのか隣に置いてある椅子に腰掛けた。
「話を戻しますけど。チョコレートとか、準備されたんですか?ミョウジ先生のことだから、すっごくおいしいやつ、買ってそう……」
彼女とはおいしいお菓子を見つけると共有するような仲なので、両手を頬で包みながら、そう言ってにこにこと笑みを浮かべた。その期待に応えられないのはなんだか妙な罪悪感を抱きそうだったけれど、わたしは両手を体の前で振った。
「残念だけど、何にも用意してないわよ。だって、もう付き合って数年経つし――わざわざバレンタインデーにチョコレートを渡すようなロマンチックさなんて、わたしも彼も持ち合わせていないから……」
わたしがそう言うと、彼女は柔和な笑みから一転、「嘘でしょう?!」とありえないものを見るような目でわたしを見つめた。そしてマシンガンのごとく、「そんなのダメですよ!」と口火を切る。
「長く一緒にいるからこそ、こういうイベントで愛を確かめ合わなきゃ!結婚する前にけん怠期が来ますよ!」
――そんな彼女の勢いに押され、いつも通りの時間に退勤した後何となく気になって寄ってしまった百貨店の、ピンク色の紙袋を所在なさげにぶら下げた今に至るというわけだ。バレンタインデーの百貨店は、すごい。すごい以外の言葉では表せないほど、すごい。しかしいざ買うとなれば妥協をしたくなかったので、わたしは先ほどまで、戦場じみた人混みの中で揉まれていた。なんとか死守した紙袋は、少し端がへこんでいる気もするけれど、気にしないことにする。
いかにもチョコレートが入っているその紙袋をぶら下げて歩くのが恥ずかしいけれど、今日に限って書類でカバンがいっぱいだった。こそこそと目立たないように抱えながら、家路に着く。まだ肌寒い季節なので、紙袋を抱きしめて縮こまっていても違和感はないだろう。
もう少しでマンションだ、というところで、前から一人同じように荷物を抱えながらこちらへ向けて歩いてくる人影が見えた。結構大きな荷物なのか、細身らしいシルエットがどこか膨らんでいる。なんだか親近感を覚えつつ、その様子を何の気なしに眺めていると――。
「あっ!」
街灯に照らされたそのひとの姿にわたしが突拍子もない声をあげたので、その人物はぱっと弾かれたように顔を上げた。全身真っ黒の、まるでコウモリのようなコーディネートは、見覚えがありすぎるほど見慣れている。
「セブルス!」
わたしが名前を呼ぶと、そのひと――セブルスは驚いたようにわたしの顔をまじまじと見ていて、けれど何処かばつが悪そうに目をそらした。彼の手の中には、両手いっぱいのバラの花束が抱えられている。「それってもしかして……」わたしがそう言いかけると、「みなまで言うな」と押し殺したような声で彼は言った。まるで、抱えたバラを今すぐどこかに隠してしまいたいという顔をしているけれど、真っ赤なバラは素知らぬ顔でみずみずしく咲いていた。大切に抱えてきたのか、花束はきれいに包まれたまま、彼の手に収まっている。あなた、ここまでその花束を持って歩いてきたの。近くの花屋なんて、一駅先にしかないのに。
彼の大きな手に守られている花束のように、今すぐセブルスに抱きしめられたい、なんて考えたわたしは思わずくすりと笑みをこぼして、セブルスの機嫌をますます損ねてしまった。けれど、縮こまっているわたしが肌寒そうにしていると見たのか、彼の首に巻いていたマフラーを――去年の冬に、わたしが彼に贈ったものだ――外して、花束を片手で抱えながら器用にわたしの首に巻きつけた。彼の体温が残っていて、あたたかい。「ふふ、ありがとう……こうするときっともっとあたたかいわ」わたしは手がふさがっている彼の腕に自らの手を絡めて、ぎゅ、と体を寄せる。セブルスは少し驚いたように身を固めた。
「……まだ外だぞ」
たしなめるようにセブルスは言うけれど、その腕を離そうとはしなかった。ずいぶん長い間彼と過ごしてきたけれど、日々感じるのは彼のやさしさだった。
「そうね、入りましょう」、とわたしが言うと、セブルスはわたしをエスコートするようにして、エントランスに足を踏み入れた。エレベーターの前には誰もいないので、もうわたしたちはふたりきりだ。少し高い位置にある彼の肩に、頬をすり寄せた。コートのざらりとした感触を感じる。彼は研究室でいつもコーヒーを飲んでいるので、うっすらとそのにおいがした。
わたしの方が身軽なので、鍵を取り出して開くと、いつも通りの玄関が広がっている。すでに日は落ちているので、中は暗かった。セブルスが後ろから手を伸ばして、明かりのスイッチを押す。ふたりだと少し狭く感じる玄関で「おかえり」「ただいま」お互いにそう言い合いながら、わたしは少し気恥ずかしくなって、はにかんだ。なかなか帰宅時間が合わないので、こうして二人揃って帰宅するのは珍しい。
「今更だけど……わたしからは、これ」
抱えるほどの花束を入れられる花瓶がなかったので、急遽なぜか押入れの中にしまってあった銀のバケツを取り出してそれに生けたあと、わたしはセブルスに紙袋を差し出した。神妙な顔でそれを受け取ったセブルスは、中を覗き込んで包みを取り出す。
「チョコレートか」
「ええ、あなたでも食べられるように、ボンボンの」
食事は冷蔵庫の中に入っていたもので用意した。セブルスは料理がうまい。仕事柄か、煮込んでいる間も辛抱強くそれを見つめている。
「あなたも同じことを考えているなんて、思わなかった」
「バレンタイン?」
「だって、ここのところバレンタインどころかクリスマスさえ、なんとなくで済ませてたから」
皿に取り分けながら、そんな会話をした。「これからは毎年やればいい」そう呟くように言うセブルスは、ワインを開けている。いつも通りの食事なのに、どこか特別だった。あなたがいるから。あなたのことが、とてもすきだから。
「バケツの中に入っていたんじゃ、格好がつかないかしら」
「あれでいい、大きさも申し分ない」
飾ったバラを眺めながら、シチューをすくう。ここまで、バラのかぐわしい香りが、ワインと相まってなんだか今日は酔いがまわるのが早そうだ、と考えた。食後には、買ってきたボンボンを二人で食べる。「これ、うまいな」セブルスがそう言うので、わたしは少し火照った頬をゆるませた。彼がすきそうなものを、吟味したからだ。一緒に暮らして、彼の好物を少しずつ知っていく楽しみを覚えた。それはどんなものよりも幸福を感じさせるけれど、わたしだけが知っていればいいことだ。
「バレンタインデーも悪くないわね」
「君が初めて寄越したチョコレートを思い出した」
「おいしかった?」
「……苦味が、効いていたな」
「えっ!あなた、何も言わずに受け取るから、ずっとあのレシピで作っちゃったじゃない!」
「悪くはなかった」
「言ってくれたらよかったのに……」
「ナマエ」
「うん?」
「結婚しよう」