すべてきみの存在理由になる

キャラクターがヒロインのことを語っているだけです。時系列的には、糸雨26話→回想→糸雨完結後



「アブラクサス」

怜悧な声で、彼は言う。ずいぶんと、遠い人になった。そばで彼の意思に沿うことは、私にとってこの上ない誉れだった。彼はどこまでも先を見ている。それを疑ったことは、一度もない。

「我々が住むのに、ちょうどいい屋敷を見つけた」

「それは何よりです」

彼の座る椅子のそばに控えた私は、そう殊勝に言った。マルフォイ家を継いだ私は、魔法界の中でも特に上位の地位にある。そんな私が跪くのは、彼だけだ。うつくしく、気高いひと。私の美意識に敵う、頂点にいるひと。

そんな彼――ヴォルデモート卿は、どこかなぶるような声で続けた。

「ミョウジ家の――ナマエの、屋敷だ」

頭を思い切り殴られたような衝撃とともに、私はその言葉を聞いた。私は押し殺した声で、「さようですか」と返す。けれど、ヴォルデモート卿にはすべてお見通しだ、と言うような目で、彼は私をせせら笑う。その視線から逃げるように、私は彼の部屋を後にした。苦い思い出というものは誰にでもあるだろうが、私にとってのそれは、唯一にして、もっとも私を苛む――あのひとへの、絶えることない執着だった。

私と彼女が出会ったのは、ずっと幼い頃――まだ無邪気に、願えば全てが叶うと信じていた時代だった。彼女と出会ったパーティーの後、ナマエと別れた私は一番に、父に行った。「僕、彼女と結婚したい」――その時の父の顔は、今でも忘れない。父は、一瞬浮かべた自分の表情をまるで私から隠すように、私の頭に大きな手を乗せて言った。「お前はマルフォイ家の跡取りだ、わきまえなさい」と。

そうして、ホグワーツへ入学する頃には、彼女の出生についての噂を嫌という程耳にしていた。ミョウジ家の跡取り娘が、どこの骨ともわからぬ男と契ってできた子ども。純血かどうかもわからない、ミョウジ家の唯一の嫡子。その頃には、すでに私には許嫁があてがわれていた。私のことなど忘れたかのように冷たい目をしたナマエを、私は見ないふりをした。いつまでも、彼女を見つめていたというのに。父の言葉が、私の呪縛となっていた――今思えば、彼女の心に触れるほどの覚悟も、家のしがらみを超える強さも、ただ私にはなかっただけなのだ。

いつしか私が見つめることしかできなかった彼女は、他の男を見つめていた。それが、私の君、トム・リドルだ。ナマエに触れることは、永遠にできなくなってしまった。ただ見つめることだけが、私に許された唯一の恋慕だった。

「アブラクサス」

「あなたって、馬鹿なひとね」

何度も彼女を夢に見ては、そう言って笑う姿をただ目にうつしてきた。目を覚ませば、そこに彼女はいないというのに。

「こんな風に、お前と酒を飲み交わす日が来るとはな」

目の前に座るオリオンが、ワイングラスを軽く持ち上げて、私に言う。ここは彼の屋敷だ。彼の息子――シリウス・ブラックと名付けられた――が一歳の誕生日を迎えた、二、三日後だった。

「互いに子どもを持つ身だ、それだけの時が経てばこんな日も来る」

この部屋にいるのは私たちだけだった。彼の妻はすでに寝室に引き払っていることだろう。思えば学生時代から、彼女がオリオンに興味を見せたところを見たことがない。彼らの生活がどのようなものなのか、私には想像がつかなかった。知りたいとも、思わないのだが。

しばらくぽつりぽつりと、互いの息子のことや、共通の知り合い――例にもれず、スリザリンの純血たちだ――の話題、そして闇の帝王についてを、酒の合間に、その時思い出したことをるようにして、話していた。けれど、どこか不自然に、私たちが避けていることがあるのは明白だった。いつしか私たちはむっつりと黙り込んで――口に含んだワインの味を、舌に転がしていた。

「ナマエは」

そう切り出したのは、オリオンだった。

「幸せだったろうか」

まるで、他にあった多くの口にしたいことを、全て捨て去った後に残った言葉を吐き出したように、彼は言った。そうして、すぐにそれを後悔したように、グラスに残っていた赤紫の液体を、一気に煽る。

「……酔っているのか?」

私の問いに、オリオンは「……ああ、酔ってるさ」と押し殺した声で言う。嫌な男だ。昔から彼は、嫌な男だった。もし、あの人ヴォルデモート卿がいなければ、ナマエが選んだのはこの男だったろうと、――決して認めたくはないが――私はそう確信していた。

「ナマエのせいで、私自身でも知らなかった自分というものを引きずり出された気分だ」

そう呟くように言って、またグラスを酒で満たす。見ているだけでも、彼はずいぶんと飲み過ぎていることが分かった。しかし彼は、それをやめようとはしなかった。

――私は、どうだろうか。

彼の言葉が酔っ払いの戯言だということは、分かっている。けれど、そう考えずにはいられない。私にとって、彼女は何だった?叶わない恋慕か、憎しみの対象か。

「私は――」そう言いかけて、口をつぐむ。オリオンは、すでに少しの所作さえ億劫なのか、どこか普段よりゆっくりとした動作で、目だけをこちらに向けた。私にとっての彼女は、あまりに多くの意味を持ち過ぎて、ナマエそのものを見失っていたように思う。アブラクサス・マルフォイとして生まれた私が、どれだけ様々なものに縛られているかを、なによりも彼女が私に思い知らせた。オリオンは彼女に、ブラック家の当主ではなく、彼自身を見たと言った。けれど、私にとっては、彼女の存在はすべてのしがらみを象徴するように感じていた。

そう言おうとして、けれど、口にはできなかった。今夜くらい、初めて彼女を見た夜の輝きだけを見つめていたかった。

「彼女は、ただ――初恋だった」

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