名前も跡形もない確かな日々

「糸雨 / shiu」内での関係性


この部屋に入るたび、考えることがある。本当は今、全ての時が止まっていて、動いているのは自分だけなのではないだろうか、と。幾人もの主人を持ったこの部屋は、私をいつも憂鬱にさせた。しかし、そんな素振りを私が見せたことは、一度もない。このように囚われ続けることを、私が望んだのだから――。

「そこで何をしている、シリウス」

私が書斎に戻ると、幼い息子が開け放たれたガラス戸の前でその中を見上げていた。だんだん背丈の大きくなった彼にやっと見える高さに置かれているのは、これまでに残した写真の数々だ。ヴァルブルガとの結婚式での写真、シリウスが生まれた時、妻の腕に抱かれた幼子の写真――。

バツが悪そうに振り返ったシリウスは、しかし彼の生まれつきの遠慮のなさで、「あれは誰?」と尋ねた。彼の視線の先にあるのは、家族や一族が華やかに着飾って並んだ写真ではなく、その奥に隠すように置いた一枚だった。さすがに触れることはしなかったようだが、彼は目ざとくそれを見つけたらしい。

私はもう数年でホグワーツに通うことになる息子がそれを見つけたことに、少しばかりの因果を感じながらも、装飾の少ない銀の写真立てに入れた写真手にとってソファに腰掛けた。シリウスは私に倣って隣に座ることにしたらしい。

シリウスが見つけたその写真には、ホグワーツの中庭で数人の生徒とともに私が写っている。こうして若い頃の写真を改めて見ると、シリウスは私によく似ていた。黒い毛も、その鼻梁も。そうして、私はその写真を見るたび目に留まってしまう女性を、やはり見つめていた。きっとシリウスが尋ねたのもこのひとだろう。私の隣に立ち、風に揺れる髪を押さえている、この――ナマエ。目を惹かれずにはいられないのだ。

私は隣にシリウスがいるにも関わらず、思い出の中へと身を沈めていた。これは、夏休みを控えた初夏の日だった。



「写真?」

そんな声が上がったのは、スリザリン・カラーの制服をまとった女子生徒の集団からだったと記憶している。飛行訓練が終わり、次の授業もなく急ぐ必要がなかったため何となく中庭にスリザリンの面々が固まっていた。私の隣にはスリザリンの女子生徒が何人か立っていて、その言葉を聞きつけたのか「写真ですって、オリオン」と、退屈な昼下がりに落とされた小さな出来事に、声を少し弾ませて声をかけてくる。

「誰がそんなもの?」

私はそんな風に、輪に加わって尋ねた気がする。すると女子生徒の一人が手にカメラを携えて、「イースター休みに、叔父がくれたのよ」と答えた。ねえオリオン、一緒に撮りましょうよ、と、周りの声が甘ったるい。

「トム!どこへ行くの?」

だんだん輪に誘われるように集団が大きくなる中で、そんな声が響いた。

赤毛を軽く結わえた少女が、足早に立ち去る美丈夫――トム・リドルだ――に向かって声をかけたのだった。スリザリンの生徒は皆、彼に関心を引かれずにはいられない。そのため皆思わず、そちらへと目を向けた。

トム・リドルは注目を浴びたことに困ったように笑いながらも、「すまない、先生に呼ばれてるんだ。僕に構わず楽しんでくれ」、とそう言う。嘘だ、と私は確信した。彼が写真に写りたがらないことに気づいたのは、いつだったか。ナマエを見つめ始めた時からだった気がする。彼とナマエは、全く接点がないように見えるのに、深いつながりがあった。彼女と私が始めた “遊び” も、言ってしまえばその根本には彼がいるのだった。

「じゃあ、わたしも」

トム・リドルの背中が見えなくなった頃、ナマエは近くにいた私にくらいしか聞こえないような声でそう言った。彼に倣ったのか、それとも彼女の気まぐれか、その理由は分からなかった。その声が聞こえた生徒は先ほどのトム・リドルへの対応とは異なり、おずおずと廊下までの道を開け始める。彼女はスリザリンで、私ともトム・リドルとも違う影響力を持っていた。

しかし私という男も気まぐれな性質なので、振り返ることもせずその道へと足を進めた彼女の薄い腹に手を回してこちらへと引き寄せた。私のその行為は、目を引いたのかあたりが静まりかえる。

「ナマエ、スリザリンが集まるせっかくの場だ。こういう時くらい、参加しても悪くはない」

彼女は私の腕の中で体を反転させると、どこか疑わしいと言いたげな表情を浮かべて、「あなただって、馬鹿らしいと思ってるんでしょう」と耳打ちした。ああ、思っているさ。しかし、君がどんな風に写るのか、ただそれだけが気になる。――私はそう言いはしなかったものの、呆れた、と肩をすくめる彼女が少なくともここに残る気にはなったのだと察して、彼女を解放する。

私たちのやり取りを横目で見ていた生徒たちは、彼女がわたしの隣に並んだ途端に先ほど聞き耳を立てていたことを誤魔化すように賑やかし始めた。近くを歩いていたハッフルパフの一年生を、一人が言いくるめてカメラを握らせているのを遠目で見ながら、私はナマエの腰を抱いて私の隣から離れないように立たせる。彼女はされるがままだ。どこか諦めたように。彼女のこういうところも、またたまらない。

「――昔から、写真があまり好きではないの」

整列し始める生徒の騒がしい声でかき消されかけたその声を、私は確かに聞いた。

「なぜか、理由を尋ねても?」

彼女も私も、構えられたカメラをまっすぐに見ていた。私の声は、彼女のものと同じくあくまで誰にも聞き止められない類の声色だったろう。そういう会話の仕方を、私は心得ていた。

「そこで、時が止められる気がして」

その時だった。カメラのシャッター音が響いたのは。

すぐに写し出されたそれを受け取ったカメラの持ち主は、写っている人間分写真を用意するわね、と頼もしげに笑った。なんとなく余韻を残しながら集まりが解散になった時、歩みを進めた方向は私も彼女も同じだった。

「彼の写真が欲しくないのか?」

私がそう尋ねたのは、特に意味もなく、ただ思いついただけだった。最近、恋人の写真を持っている女子生徒をちらほら見かけていたのも、その理由だったかもしれない。

彼女はそのようなことを考えたことがなかったようで、しばらく逡巡するように沈黙した。

「……いらないわ。彼に執着している証なんて、欲しくない」

その答えは意外のようにも、当然のようにも感じた。そう言った彼女の声が、全く不自然なほどに無感情だったからかもしれない。

「――では、私の写真は?」

その質問に、彼女はどこか驚いたように私を見て、そしてくすりと笑った。その笑みのあどけなさに目を奪われていると、彼女はその惹かれずにはいられない唇を開いて――。



「父さん」

シリウスの声に、私はゆっくりと彼の方へと目を向けた。どこかぼんやりとした私の思考を感じ取ったのだろう、シリウスは目ざとく、「もしかして、恋人だったの?」と好奇心を隠しきれないような声色で言った。

恋人、という言葉の陳腐さを、私は彼女によって身を以て知ったのだった。私は自嘲するように笑い、立ち上がって元の位置に写真をしまい込む。そうしてシリウスを振り返り、こう言った。

「いいや。しかし、彼女はまちがいなく、私の学生時代の感慨深い思い出の中にいた」



「――では、私の写真は?」

今でも、彼女の唇がどのように動いたのかを、鮮明に覚えている。彼女は口元に笑みを浮かべながら、こう言ったのだった。

「写真立てを並べた棚の、一番奥に飾っておきたい。そして、それがふと目に止まった瞬間に、あなたの記憶が溢れ出すのを、感じたいわ」

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