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今年の夏は涼しかった。まるで、ただ目の前を通り過ぎただけのように。

彼は結局、行ってしまったのだった。「僕じゃない」と言ったあの晩が、なかったように。わたしは彼を見送ることなく、そして彼がいなくなったことを知ったのも、彼の部屋に他の子どもの荷物が運び込まれてからだった。わたしはそれを見て以来、窓開けることをしていない。道路に面した小さな窓を、たまに換気のために開けるだけで。

わたしは学校に行き、近所の子どもたちと良好な関係を築き、友達と呼べる相手もできた。しかし、閉めたままのカーテンを見つめることは、やめられない。時折日記帳を開いて、挟んだ包装紙を眺める。あの時感じた胸の弾みを、彼も感じていたらと何度夢見たことか。けれど、それは叶わないとどこかでわかっていた。彼の目は、そんな感傷を即座に切り捨てるであろう冷ややかさをいつも浮かべていた。だから、わたしはそれを口にすることはできなかったのだ。この淡い、あまりに淡い想いを、すげなくはねのけられることに、わたしはまだ耐えられそうになかったからだ。

しかし、そんなわたしのさみしい喪失感――そうだ、これはまちがいなく、 “さみしい”という心持ちだった――を知ってかしらでか、彼はまるでずっとそこにいたかのように、夏のある日、突然現れたのだった。

何か予感めいたものを感じて、わたしはその日彼の部屋に面した窓のカーテンを開けた。きっと、大きい窓から見ると星が綺麗だろうと、そう思ったのもあった。すると、あちらのカーテンも開いていて、そこにいたのは相変わらず本を読んでいる黒髪の彼なのだった。確かに他の子どもの荷物が運ばれたのを、わたしは見たというのに。

わたしは思わず声を上げそうになり、慌てて口に手をやると、騒がしい動きに目を取られたのか彼はこちらをつい、と見た。そうして、窓を薄く開ける。わたしもそれに倣って開けると、「髪が伸びたんだな」と、静かに言う。

「あなた、どうして――」

わたしは彼の言葉に反応することもできずに、そう言って言葉を詰まらせた。思わぬ再会によって、胸がいっぱいになっていた。わたしは幼くて、遠いところに行くというのが永遠の別れのように感じていたのだった。しかしよくよく考えてみれば、わたしだって今は、夏休みを謳歌している。彼が夏休みの間だけ戻ってきていても、おかしい話では断じてないのだ。

「やっぱり、嘘をついていたでしょう」

わたしがいちばんに言ったのは、その台詞だった。会えて嬉しいだとか、そう言いたい気持ちもずいぶんあったけれど、わたしは会えない時間に、ずいぶん彼を心の中で責めていたことに、その時気付いたのだった。いや、責めていた、というのは間違っているのかもしれない。あまりのさみしさが、そうさせたのかもしれない。わたしはそう言って、自分の言葉の子どもらしさに辟易した。しかしそう言わざるを得なかったのだ。

彼は本に目を落としたまま、わたしの言葉を聞いていた。少し沈黙があって、わたしは夜の風を冷たく感じる。彼の手の中の本に書かれた絵が動いたように感じて、わたしが目をこすった時、彼はやっと口を開いた。

「――僕があの時言ったのは、確かに嘘かもしれない。でも僕は、君にその名前で呼ばれたくないんだ」

「どうしてなの」

「君の前では、僕はトム・リドルではない、ただの僕でいられた。それは、存外心地いいんだ」

わたしはナマエ・ミョウジでないわたし、というのを想像して、首をひねった。彼の気持ちをくみ取りたいのに、とくちびるをとがらせると、やっと彼はこちらを向いて、わたしの表情に、少し小馬鹿にするようにだけれど、小さく笑った。彼がそんな風に笑うことを、わたしは初めてそこで知ったのだった。

「僕が、君に呼ばれたい名前を見つけたら、その時に教えよう。それまで待っていてくれるか?」

まだ何のロマンスも経験したことのないわたしが、 “君に呼ばれたい名前”という響きにときめきを感じないわけがなかった。わたしは思わず顔に熱が集まるのを感じながらも彼の言葉に頷いて、彼がカーテンを閉めるまで、彼の学校生活の話をねだった。

彼は「信じないだろう」と言いながら、美しい湖や、一度は行ったら出て来ることのできないような深い森の話をした。「どうして信じないと思うの」わたしがそう尋ねると、彼は少し言いにくそうに口を一度閉ざして、囁くように言う。

「ここの子どもは、僕が精神病棟に入れられたと思ってる。“寄宿学校”なんて、頭がおかしいやつを追い出す常套句だから」

少し悔しさをにじませたような、しかし諦め、見限っているような、そんな声色だった。しかし全て彼の妄想だというには、あまりに美しい世界だった。

「わたしも行きたいわ」

わたしがそう言うと、彼はこちらをハッと見つめた。

「君が?」

「わたしも、行けるならいきたい。でも、選ばれた人しか行けないんでしょう。あなたが羨ましい」

わたしはそう言ったけれど、実のところは彼と一緒にいたいだけなのだった。わたしは未だ彼の隣を並んで歩いたこともなく、ともに外に出たこともなく、彼がどんな目の色をしているのか、近くではっきりと見たこともないのだった。彼の言った湖のほとりを、二人で歩けたら。わたしにとってそれほど、素敵なことはない。

彼はしばらく考えるように本に目を落としていたけれど、ぽつりと、「行けるといいな」と言った。そうして、そのままカーテンを閉めるまで、押し黙ったままだった。

わたしはその時、彼がらしくもなく希望を与えるようなことを言ったことに気づいていた。わたしは彼と、住む世界が違うのだ。行けるはずない、と分かっているのに、彼がそう言った意味を、わたしが理解することはなかった。

夢の中の湖




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