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「おい!なまえ!」
廊下を歩く、見間違えることなどないほど見慣れた後ろ姿を見つけると、俺はほとんど反射的にその名前を呼んだ。すると、驚いたのかバサバサと盛大に抱えていたのだろう教科書を床に落として、なまえが振り返った。その顔は呆れ顔――というよりは、怒っているらしい。
「シリウス!何回言ったらわかるの?急に呼びかけるのはよしてよ」
それに、先輩に向かって”おい!”はないでしょう、なんて、耳にタコができるほど聞いた小言まがいをぶつぶつと呟きながら教科書を拾い上げるなまえのノートを一冊手に取りながら首をすくめて見せると、なまえは頬を膨らませながらもそれを受け取った。なんということだろうか、怒り方が全くもって恐ろしくない。先輩の威厳、だとかそういうものを見せようとしているのだろうが、効果音は”ぷんぷん”だとか”ぷりぷり”だとか、間の抜けた――俺からすれば、至極かわいい――ものなのだ。
彼女はこの後に授業がないらしく、グリフィンドール寮まで”エスコート”することをゆるした。といっても、勝手に隣を歩くだけだが。俺が授業をサボっているのではないかと気がかりななまえに、時間割を見せることでなんとか納得させて。
「シリウス、あなたまた減点されたって聞いたわ。監督生のわたしの身にもなってよ」
「男子トイレの個室を一個吹っ飛ばしたくらいで一ヶ月便所をマグル式掃除なんて、マクゴナガルの堪忍袋の緒は年に10フィート単位で短くなって来てるだろ。そう思わないか?」
なまえは俺の言葉に深い深いため息をつくと、人差し指を立てて俺に向かってまっすぐに突き出した。
「な、何だよ」
「シリウス、あなたの根がとってもいい子なのはわかってるの。だから約束して、もうグリフィンドールの点は減らさないって」
――卒業する先輩方の、最後の寮対抗杯なのよ。
そう付け足すなまえが切実さを顔に浮かべるので、俺はなんとなく切ないやら面白くないやらの感情に襲われて、なまえの言葉に生返事を返すことしかできなかった。
いつのまにかグリフィンドール寮に着いていたのか先に絵の中へと入っていったなまえに対し、取り残されるように立ち尽くした俺は後ろから歩み寄る足音に気づかなかった。
「やあやあパットフッド!君の淡い恋模様を目撃してしまうとは、僕もなかなか運がいいものだ」
「ジェームズ、いつになく活き活きしてるな」
後ろから肩に手を回して来たジェームズに対する自分の声が思いの外暗いのに気づいたのか、ジェームズは俺の顔を覗き込んで肩をすくめた。
「彼女がグリフィンドール生全員を気にかけ、聖女のようにお優しいのはいつものことだろう!落ち込むことはないさ」
「ジェームズが言い出したんだろ、なまえの片想いの相手は首席のあいつに違いないって……」
俺がそう言うと、ジェームズは目を回して肩をすくめた。なまえには長年の片想いの相手がいる、というのはすでに知っている。なまえがグリフィンドールの女子生徒に明かしたことを、俺は俺なりの情報網で知っていた。
「どうしたんだい、君らしくもない。好きな女性の一人や二人、他の男を見ていたって気にやしないのがシリウス、君と言う男だと思っていたよ」
「いいやジェームズ、シリウスはこう見えて恋愛にかけては臆病なところがあると僕は見ているよ」
俺たちの会話に割って入ったのは、どこから現れたのか――正確に言えば、寮の入り口からなのだが――隣にいつの間にか立っていたリーマスだった。その後ろには控えめにピーターがこちらを伺っている。
「いつも女の子を取っ替え引っ替えしてるような顔をしているくせに、その実はなまえに数年越しの片思いなんて、全くもって似合わないけどね」
リーマスは気の弱い優等生然とした男のくせに、痛いところをついて来る。俺が反論しようとすると、待て待てと言うように俺の前に手をかざして言葉を続ける。
「もちろん、一途なところは君の美徳だがね。しかし、なまえとの恋が実らないのは僕たちとの友情を優先しているせいだとは言わせないよ」
俺がその言葉への返事を――もちろん、リーマスを言いくるめられる類のもの――を探している間に、ジェームズはエバンズを追いかけ、リーマスは来た時と同じくいつの間にか消えていた。俺一人で何とかしろとでも言いたげに。一人残ったピーターの、弱々しい「僕でよかったらいつでも力になるよ」という囁き声だけが俺に残されていた。
「と、いうわけでだ」
「何が”と、いうわけ”なの?シリウス・ブラック」
俺の前にはエバンズが、腕組みに怪訝そうな表情付きで立っている。ジェームズは抜きだ。
「俺の事情はエバンズに筒抜けのことだろう。あいつらは頼りにならない。何か策を考えてくれよ」
「なまえのこと?今まで通りにワンワン後ろをついていけばいいんじゃないの?」
……ジェームズはこの気の強さも好みだというけれど、俺にとってはなまえの天使のような優しさが恋しくなる。なまえに相談事なんてしてみろ、きっと小作りな顔に心配そうな表情をありありと浮かべて、”どうしたの?シリウス”なんて聞くに違いない。かわいい、可愛すぎる。どうして俺のものじゃないのか、すれ違う生徒全員に問い詰めたい。
そんな気持ちが態度にも出ていたのか、ついついいつの間にかエバンズを壁に追い詰めるような体勢になっていた。今にも俺にマグル式の攻撃を加えそうなエバンズにやっと気づいた時、俺たちの背中に声がかかる。
「シリウス……?そこにいるのはリリーなの?」
その存外隠しきれない悲しみを含んだ声に、俺は振り向いた。そこにいたのは予想通りなまえだ。
「なまえ!どうしてここに!」
“どうしてここに!”もなにも、グリフィンドール寮にほど近い廊下だったため当然なまえがいてもおかしくないのだが、俺はエバンズとの会話が聞かれていないか、ただそれだけに動転してそう声を上げた。
「ごめんなさい、お邪魔した?」
なまえはそう囁くように言うと、駆け出すようにその場を離れた。俺はその背中をなすすべもなく見送っていたけれど、後ろから突然背中のあたりに強い衝撃を受けた。これは肘だ――そしてそれはエバンズの。
「わたしがあなたにしてあげられることはなにもないけれど、あなたには今しかないんじゃないの?」
その言葉の意味を考える前に、俺は走り出していた。足早に去ろうとしているなまえに追いつく事くらいたやすい。俺と彼女にはずいぶん身長差があるのだから。
「なまえ」
そう彼女を呼びながら手をつかんで、そこでこれが初めてなまえの手に触れる瞬間だとぼんやり考えた。俺を振り返ろうとしないなまえを半ば強引にこちらに向かせると、その目はどこか潤んでいる。先ほどの俺とリリー・エバンズの姿は、俺が彼女に迫っているように見えただろう。
ああ、これは俺に与えられた人生最大のチャンスか?エバンズ様。
祈る神などいない俺の頭に浮かんだのは、ジェームズに崇め奉られているエバンズの姿だった。
だって心を奪われたから
さくら様、10000hit目のキリ番リクエストありがとうございました!「先輩主を追いかけるシリウス」というリクエストでした。両片思い設定にしてしまいましたが、お楽しみいただけると幸いです。