あなたの影はもう見ない

コト、と音がする。

テーブルに向かい合わせに並んだ椅子の一つに腰掛けて窓の外の雨を眺めていたわたしには、その音が雨によるものなのか、それとも人里離れたこの小さな家を訪ねる来客なのか分からなかった。

けれど、ギイ…という音とともに扉が開くのを見て、わたしは椅子から立ち上がって、扉をじっと見つめた。ゆっくりと、焦らすように開く扉の先にいたのは、黒衣をまとった男――世間を恐怖によって支配する、闇の帝王がいる。骨ばった手で繊細に包まれた杖は、まっすぐにわたしに向いている。

「ナマエ」

聴く者によっては、おどろおどろしいとも、恐怖で凍りつくとも称されるだろうその声で、わたしの名前を呼ぶ。わたしは、すでに呼ぶ者のいなくなった――彼の、彼自身の名前を、心の中でつぶやいた。その声に応えるように。けれど、わたしは黙ったままだ。

「久しいな」

「…うん、久しぶりね」

彼は優雅な仕草でわたしが座っていた椅子の向かい側に座ると、まるで促すように手でわたしの背後を示した。座れ、ということらしい。

わたしはそれに反抗する理由もなく、おとなしくもう一度、腰掛ける。もう雨の音は耳に入ってこなかった。目の前の、いまだにフードを被ったままの彼だけを、目に映している。彼は不思議と濡れていないローブを脱ぐと、彼の杖でそれを玄関の衣紋掛けに吊るした。彼は黒いローブを脱いでも、真っ黒なままだ。

彼が魔法で雨よけをしていたことは分かっていたものの、体が冷えているだろうと紅茶を用意しようとすると、彼は手でそれを制止した。そして、まるでここが彼の家だとでも言うように、杖の一振りでカップを呼び寄せ、うつくしい琥珀色の液体で満たした。わたしと彼の間に湯気が立っている。まるで彼の姿をゆらゆらと隠しているように。

「変わりはないみたいね」

沈黙に耐えかねて、わたしはそう言った。指先でカップを掴む彼は、ちらりとわたしを一瞥する。

「お前が私の元を去ってから、ということか?」

その言葉にチクリと胸を刺すような痛みを感じて、わたしは聞かなければよかった、と後悔する。けれど彼は特に詰ることはしないようで、そのまま紅茶を口に含んだ。彼の仕草は、品がある。わたしと同じ孤児院育ちだというのに、まるで大切に育てられた貴族の子息のようだ。あの時のまま、過ごせていたら――。そう夢想した数を数えるのはもうやめてしまった。現に彼はこうして、昔の姿を消し去り、誰よりも力を身につけた存在として、目の前に座っている。

そんな彼とは反対に、わたしは自ら杖を降り、この小さな家で一人暮らしている。長い時を過ごした彼と道を違えたのは、数年前のことだ。

「相変わらず――お前は何も変わらない」

不意に彼が手を伸ばして、わたしの頬を包む。まるで確かめでもしているように、ゆっくりと形をなぞるのだ。その手に温かさはない。けれど確かに、体温はあるのだ。

「どうやってここを見つけたの」

わたしはとうとうたまらなくなって、そう尋ねた。まるで昔のように触れられることに、我慢がならなかった。

「お前が去ってすぐに、ここだと分かっていた。杖を折ったことも。隠れようともしなかったのはお前だ、ナマエ。お前なら、逃げ果せることも出来たろうに」

彼は淡々とそう答える。あの城で、ホグワーツの図書館で、二人ぼそぼそとささやきあった時のように。

いつの間にか、カップの中は空になっていた。

「どうしていなくなったのか、理由も聞かないのね」

「私には理解しがたい理由だと分かっているからな」

そう鷹揚に言った彼に、わたしはなぜか泣き出しそうな心地になって、そっとうつむく。今更、そんなこと。全て奪って所有しなければ気が済まなかったくせに、今更そうやって、自由を与えようとするような言葉を吐くなど。

彼の胸に抱かれてねむった日々が懐かしかった。今も、それを望んでいた。どこか甘い彼の匂いを、胸いっぱいに吸い込んで、それから――。

けれど、それらはみな、もう望むべくもないものだった。今はもう、唯一の方法だけを望んでいた。

「ねえ、約束を覚えてる?」

自分でも存外静かに響いた声に、彼がわたしを見つめたのを感じた。その赤いまなこを見返して、わたしはもう一度言う。

「ホグワーツを卒業した時に言ったこと。覚えてる?」

その言葉を受け止めた彼は、まだじっとわたしを見つめている。言葉もなく、何の合図もなく。しかし彼の瞳を見ればよく分かる。彼がまだ覚えていること。そして、その約束のもとに、ここに来たこと。

「おねがい。あなたの手で――」

わたしがついに懇願したのを、彼はその指先で封じた。いつの間にか雨音は止んでいて、雨の後の静けさが窓の外を包んでいる。そういえば、わたしが彼にこう言ったのは、こんな夜のことだった――。

「“あなたの元を去ることがあったら、あなたの手で私を殺して”だったか」

彼の声は静かに響いた。彼はわたしの唇を、かさついた親指で端までゆっくりとなぞると、そのまま両頬をその手に収めた。すっぽりとわたしの顔を覆うほど大きな手だ。

「お前は私の元を去ったな、確かに」

どこか他人事のように言う彼に、わたしは眉をひそめた。

「何度も。愚かにも、何度でもその選択をする」

彼の唇から溢れる言葉の意味が、わたしにはわからなかった。彼の独白は、わたしを取り残したまま続く。

「記憶を消し、何度私の元に連れ戻しても、ナマエ――お前は、それを選ぶんだ」

彼のその言葉に、わたしは体の芯が冷える思いがした。わたしが彼の元から去ったのは、これが一度きりではないと?ホグワーツを卒業してからの記憶に途切れがないかと問われれば――そのことについて考えを巡らせると、頭が痛い。ぐらぐらして、今にも割れそうなほど。

「わたしは……わたしは、――ト」

ついにわたしは彼の昔の名前を口にしかけて、とうとう彼の手のひらで口を塞がれてしまう。

「これで最後にすると決めていた。明日、私は馬鹿げた予言の子どもを始末する――。今日ですべてを終わらせる」

彼――闇の帝王、名前を言ってはいけない人、いや、わたしのトム、その人が杖を、明確な意図をもってわたしに向ける。わたしはそれを切ないような、けれど待ち望んでいたような、複雑な心地のままに見つめていた。

最後に、キスをして欲しい、と、わたしは願った。なぜかそれは、彼に伝わっていると確信があった。その証拠に、彼は口を手で覆っていた拘束を解き、わたしを引き寄せたのだから。胸元に杖を突きつけたまま、彼は乱暴にわたしの唇を彼のそれを押し付けた。貪るようなキスは、彼の感情がわたしに流し込まれているような気分にさせた。

わたしは目を閉じて、すべてを受け入れようとしている。緑の閃光がまぶたの裏まで届く、その時まで。

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