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しばらく、誰も口を開かなかった。モリーでさえ、気遣わしげにわたしたちを見て口を開いては、閉じてを繰り返している。もしかしたら、それほどわたしと、そしてハリーの顔色は酷いものだったのかもしれない。

新聞の文字を追うのも幾度目かとなった時、ようやくハーマイオニーが「……入りましょう、ふたりとも」とわたしの背中を柔らかく押した。ハリーが「せっかく、せっかく捕まえたのに……」そう呟く声が聞こえる。

「ともかく、おまえたちが無事でよかった。ワールドカップの会場にデス・イーターが現れたと知った時、生きた心地がしなかったのよ……」

モリーが一人ひとりを抱きしめるのを横目に、わたしは「行かなければ」と囁いた。その言葉はハーマイオニーだけが聞き取ったようで、「ナマエ?」と怪訝そうに顔を覗き込んでくる。

「ハーマイオニー、わたし、ブラック邸に戻ろうと思う」

そう言うと、ハーマイオニーは一瞬驚いたように目を見開いて、けれど声を抑えて囁いてくる。

「もう明日には学校なのよ?隠れ穴から向かうつもりで、準備もしてきたのだろうし……それに、」ハーマイオニーは言いにくそうに言葉を切る。「 “ひとりになりたい”って、彼が」

「それでも――行かなければいけないの」

わたしの目を見つめたハーマイオニーは、少しの間逡巡するように目を周りに走らせた。そして、突然「ええっ!」と声をあげたので、わたしだけではなく、ハリーやロン、そしてフレッドを抱きしめていたモリーまでもが、わたしたちに目を向けた。

「ハーマイオニー?」わたしが少し焦りをにじませながらそう言うと、ハーマイオニーはそっとわたしの手を握ってくる。まるで安心させるかのように。

「モリーおばさん、ナマエが今学期絶対に必要な本を置いてきてしまったみたいで……わたしとしてもナマエが持ってきているものだと思って家に置いてきてしまったから少し困るんです」

ハーマイオニーの演技は迫真だった。ロンが「そんな本あったっけ?」と口にしたのを、ハーマイオニーは無視することにしたらしい。

「それは困ったわね、ナマエ、ハーマイオニー。この家にある本なら貸すことができるけど……」

「もしよければ、煙突飛行粉を使っても?ブラック邸からそのまま向かえば間に合うでしょう。ナマエの荷物はわたしが持っていきます」

「そうね、そうなさい……今準備するわ」

モリーは何度か頷いて、暖炉の方へと向かう。ハリーとロンが近づいてきて、「どういうこと?」と尋ねた。うまく説明できる自信もなくて二人を前に戸惑っていると、「後で説明するわ……今は行って」とハーマイオニーがモリーの背中を指す。二人は納得してなさげな顔をしていたけれど、ハリーがわたしに囁いた。

「シリウスが落ち込んでたら、元気づけてあげて。僕よりずっと、悔しい思いをしているだろうから……」

「ええ、必ず。あなたが心配していたと伝えるわ」

ハリーの手を握ってそう返した。ハリーはしっかりと頷いて、小さく手を振る。暖炉の近くでは、モリーが煙突飛行粉を手に待っていた。

「やり方は知っているわね。言い間違いに気をつけるのよ」

優しくぽんぽんと肩を叩かれ、モリーに頷き返す。暖炉の中に入って飛行粉を一掴みとると、並んだ友人たちに見守られながらわたしは一息に言った――「グリモールド・プレイス、12番地!」

途端にぐるぐると視界が回り、灰まみれになりながらも目の前に現れた調度品の数々に煙突飛行がうまくいったことを悟った。音に気づいたのか、クリーチャーが様子を見にきている。

「シリウスは?」

わたしがクリーチャーに尋ねると同時に、その居所が解った――シリウスが音を立てながら慌ただしく広間に入ってきたからだ。暖炉の中にわたしがいるのを見て、シリウスは驚いたように目を見開いた。彼は、旅支度のような格好をしている。

「ナマエ――どうした?何か忘れ物でも?」

少しバツが悪そうに、けれど努めて穏やかな声でシリウスは言った。その手には旅行鞄が抱えられている。わたしの視線に気づいたのか、彼はそっとそれを床に下ろした。

「どこに行くつもりなの?」

わたしがそう尋ねると、シリウスは苦しげに眉を寄せて、わたしから目をそらした。思いのほか、責めるような口調になってしまったことを後悔した。そんなつもりはなかったのに。

「私は、ペティグリューを追うことだけを考えてアズカバンでの恐ろしい15年間を忍んで来た。15年だ――、君が生まれてから今までと同じほどの年月だよ。想像できるか。親友を喪い、濡れ衣を着せられ、吸魂鬼の影に怯え……。ついに追い詰めた卑怯者は、今もどこかで自由の身だ。私はもう随分と耐えた。耐え続けた。今度は私の手で終わらせる。魔法省に引き渡すなど、生ぬるいことはしない」

シリウスは息もつかずにそう言って、くしゃりと髪を握り込んだ。そうしてやっと、興奮が落ち着いたのか決まり悪そうに私をちらりと見て、押し殺したような声で続ける。

「……君が休暇で戻るときには、必ず帰ってくると約束する。連絡も、できるだけ寄越すさ。君に迷惑はかけない――」

「一度落ち着いてちょうだい、シリウス。ペティグリューは魔法省が総出で探しているのよ、あなたひとりで行っても、ただ危険なだけ……。それに、ネズミの姿ではまともに探すこともできないでしょう。冷静になって、よく考えて」

わたしがそう言っている最中にも、シリウスは広間にあった上着を鞄に詰め込み、慌ただしく旅の準備をしている。わたしはそんなシリウスに追いすがって、その背中に続きながら何とか考え直すように言葉を探すのだった。

「それに、あなたが無謀なことをしたら、ハリーはどうなるの、せっかく出会った信頼できる名付け親が危険に飛び込むことを、彼が望むはずがない」

「ハリーは私を理解するはずだ、ジェームズの息子なのだから」

「シリウス、あなたは分かってない」

「君こそ!」シリウスは語気も荒くそう言うと、わたしを振り払うようにしてキッチンの日持ちのする食料を手当たり次第に鞄に投げ込んだ。シリウスの通った後は目も当てられないほどに荒れていて、彼がどれだけ激昂しているのかが分かった。新聞を見た時の彼は、これ以上だったのだろう。そばにいなかった自分が歯がゆかった。シリウスの顔に浮かんでいるのは焦燥、後悔、燃え上がる復讐心だった。

「君が心配してくれているのは分かっている、だが何と言われようと私は行くんだ、さあそこを退いてくれ!」

「シリウス!」

わたしは立ちふさがるように彼の前に立つと、両手を広げて声を張り上げた。シリウスはわたしの剣幕に少しうろたえたように今にもわたしを引き剥がしてでも行こうとしていた勢いを削ぎ、その場に立ち尽くした。

「あなたの気持ちは痛いほどわかる。理解できないだろうと思ってるでしょうけど……。でも、本当によく考えて。シリウス、あなたはもう今年ホグワーツで何があるのか知っているでしょう。きっと、ハリーはますます危険にさらされる――。そんな中であなたがいないとなれば、彼がどれだけ心細いか。どうか冷静になって、あなたが今本当にすべきことを考えて」

「三大魔法学校対抗試合のことか?――どこで知ったかは知らないが、ハリーに危険が及ぶことはない。確かにダームストラングが来ることは気にかかるが、ダンブルドアの目の前で彼に手出しすることなどできないだろう。それに、もしハリーが窮地に陥ることが万が一あれば、どこにいようがすぐに駆けつけてみせる」

絶対に行く気なのだ、と彼の目を見て悟った。先ほどよりは随分落ち着いた彼の表情の中でも、その瞳だけは頑強に意志を貫くことを誓っていた。「ナマエが心配してくれているのは嬉しいよ、本当に――」シリウスはそう言ってわたしの肩に優しく触れた。あたたかい手。絶対に失いたくない。

「……わかったわ」

シリウスは隠すことなく安堵した表情を浮かべる。けれど、わたしが続けた言葉を聞いた途端、その顔色が変わった。

「わたしもあなたと一緒に行く」

「ナマエ、何を言ってるんだ!」

シリウスはわたしの肩を両手で掴むと、動揺と憤りが押さえきれない様子でそう声を上げた。

「未成年の魔女を連れて行くことなどできない、軽はずみなことを言うのはよしてくれ」

「わたしはあなたが思っているより、ずっと多くの魔法を知っているわ」

事実だった。中身はシリウスと同じ年なのだから。けれどシリウスにとっては駄々をこねる子どもにしか見えないのだろう、頭を抱えてため息をついている。

「絶対に連れてなどいけない、そんなことできるものか……何を言っているのかわかってるのか」

その時だった。こつこつと廊下をこちらへ向かう足音が聞こえたのは。わたしがそちらに気を取られると、シリウスがほっとしたような、しかし厄介ごとが増えたような、複雑な表情を浮かべた。

「リーマス……君が来ることを忘れていた」

「いつからそこに?」

シリウスとわたしが言うのは同時だった。重なったわたし達の声にリーマスは苦笑しつつ、「そろそろ私が来る曜日くらい覚えてくれ」とシリウスに返した。そうしてわたしに向き直って、片方の眉をくい、と上げながら答える。

「そうだな、君が今まで聞いたこともないような剣幕で、シリウスを呼んだあたりかな」

「ずいぶん聞いていたのね」

リーマスの来訪によって張り詰めていた空気の糸が切れたように、どこか疲労しきったような雰囲気さえ流れる。わたしも拍子抜けしてしまって、けれど大事なことを投げ出すわけにはいかないので、リーマスとシリウスに向き直った。

「聞いていたのなら、お願いだからシリウスを説得してちょうだい。一人でペティグリューを探すなんて無謀だって――」

「ああ。実は私もそのことについて話さなければならないと思っていた。本当は新聞を見た日に駆けつけたかったんだが、ここのところ立て込んでいてね。結局今になってしまったんだが、タイミングとしては悪くなかったようだ」

「リーマス、私は曲げるつもりはない――。私の手で奴を捕まえなければ、夜も眠れないだろう」

シリウスの言葉にわかっている、と言わんばかりに頷いて、リーマスはわたしと目線を合わせた。

「ナマエ、君の気持ちはよくわかる。あとは私に任せてくれないか?シリウスの言う通り、君がついていくというのはあまりに向こう見ずな行為だ。君の気持ちを無下にはしないと約束する。だから今は、明日から始まる学校のことを考えよう」

リーマスは君もだ、とシリウスを向き直って、「明日見送りにもいかないつもりだったのか。君の姿が見えないとハリーが心配するだろう」と諭した。リーマスのとりなしで一度仕切り直しとなったわたしたちの前には、夕食が並べられている。気が気でないせいで、食事をとるのをずいぶん長い間忘れていたのだ――。シリウスは気が急いているのを隠しきれてはいなかったものの、夕食を囲みながら彼が何とか普段通りに過ごすように心がけているのを感じて、わたしは安堵するとともに歯がゆい思いが湧き上がる。

元の姿のままなら、一緒に行くことができた。焦燥感に耐える姿を見ることもなかったのに――。

「ナマエ」

不意にリーマスが名前を呼んだので、わたしは物思いにふけっていた意識を彼に向けた。

「明日、見送りに行くことができず残念だが、君が去年と同じように勉強に励むことを期待しているよ。こんなことを言われなくても君の勤勉さは変わらないだろうが」

ハリー達にもよろしく伝えてくれ、という言葉にうなずき返すと、リーマスがわたしの様子を伺っていることに気づいた。心配してくれているらしい。わたしはなるべく沈んでいる風には見えないように振る舞うよう心がけた。彼を信じているのだから。

そのまま少しぎこちない食事が終わり、リーマスを見送ったあと自室に戻る。徐々に馴染みつつある部屋は、最初に訪れた時と比べてずいぶんその様相を変えた。カーテンや絨毯はシンプルで可愛らしいものに変わり、仰々しい置物達も姿を消して、勉強机や小物入れが置かれている。これらを買う時、シリウスがどこか兄のように、父親のように振舞っているのを見て、その横顔を何度も振り返ったのを覚えている。あの時何も起こらなければ、もしかしたら――そう思わずにはいられないのだった。

ベッドの中から部屋の様子を眺めてそんなことを考えているうちに、扉を叩くノックの音がした。どうするか決めかねて、寝たふりをする。「ナマエ?」やさしい、窺うような声で、そう呼ぶのが聞こえた。すると、扉は少し開いていたので、シリウスがそのまま入ってきたのが分かった。

彼はわたしの布団を肩までかけなおすと、しばらく何もせずにベッドの脇に立ち尽くしていた。寝顔を見つめる視線を何となく感じて、いたたまれなさに寝返りも打つことができない。そっと、肩に手が置かれるのを布団越しに感じた。「君は――」ささやくような小さな声だ。シリウスは迷ったようにしばらくそのまま身動きもしなかったけれど、言葉を続けることもなく体を起こして、静かに去っていった。

わたしはひとり残されたこの部屋で、眠りにつけるはずもなく――複雑な思いを抱えたまま、夜を過ごすのだった。

答えのない夜
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