新世界で君とキスした
すべて覚えている。

「シリウス!何やってるのよ」

呆れた声で彼を呼ぶと、彼なりにこっそり忍んでいたらしい丸めた背中を伸ばして、彼はちらりとわたしを見た。「一個くらいいいだろ」拗ねたような口ぶりで、そんなことをいう。口元には彼がつまみ食いをしたフライの名残が残っていた。

「一個くらいって言いながら、この前半分も残ってなかったでしょう」

わたしがそう小言を続けると、シリウスが腰に腕を巻きつけて肩に顎を乗せてくる。どうやらご機嫌取りのつもりらしい。ちゅ、と幼い音を立てながら唇を押し付けてくるたびに、ちくちくとした感触がいっしょくたになってやってきた。彼は最近髭を剃るのをさぼりがちなのだ。「危ないでしょ、」そんな言葉もどこ吹く風で、シリウスが戯れに耳を食んだ。「先になまえを食べたい」吐息を含んだ声で、そう囁きながら。

「はいはい。バカなことばっかり言ってないで、大人しく待ってて」

彼のペースに乗せられると何も進まなくなるので、わたしはしっしと彼を追い払った。いつの間にかトマトスープが煮えて、鍋がことことと音を立てている。もう、と振り返ると、テーブルに座ってふてくされた顔をするシリウスと目があった。彼は肩をすくめて、私の関与することではないと今にも言いたげである。ふてぶてしいことだ。

なんやかんや言いながらも、テーブルに出来立ての料理を並べる頃にはお互いにちょうど腹の虫が鳴り始めていた。素直に皿やカトラリーを用意するシリウスにはじっとしているという概念が存在するはずもないので、すれ違うたびにいたずらを仕掛けてくる。髪を撫で、肩を抱き、頬にキス。「なまえは機嫌がわるくても、キスするとき首傾げて受け止めようとするとこが可愛い」いつだかシリウスが言った言葉を思い出した。そういうシリウスだって、どんなに拗ねていても、鼻先にキスすると表情をゆるめるくせに。

「乾杯」

かつん、と小気味良い音を立てて、互いのグラスを軽く合わせる。「美味そうだ」シリウスが目に輝きを映しながらつぶやいた。

「君はまるで魔法使いだな」

「急にどうしたの」

「どれを食べても美味しいから。まるで俺が食べたい料理をいつも知っているみたいだ」

わたしはその言葉に笑って、「何年一緒にいると思うの」と返す。そうだ、何年、一緒にいるか。シリウスが鶏肉をフライにしたものを切り分ける。いつも粗野に振る舞うけれど、食べ方はいっとううつくしい男なのだ、彼は。フォークで口元に運ばれるかけらになりたいと、そう思うくらいには。わたしが見つめているのに気づいたのか、シリウスはにやりと笑って、「食べられたい?」とからかう。あなたこそ魔法使いじゃない、とは言わなかった。言えばそのしたり顔が余計に深くなることはわかっていたからだ。

「君は、」シリウスがふと思い出したという風に言う。「なまえは毎年、この時期になると俺の好物ばかり並べるよな」気づいてるんだぞ、と笑うシリウスに、わたしはスープを一口飲み込んで、曖昧に微笑む。

「何か後ろめたいことでも?」

さては浮気か、だなんて本気で思ってもいないだろうにそう言うシリウスがおかしくて、「気のせいよ、あなた、わたしが何作ったって同じ反応しかしないじゃない」と口にした。

「なまえの料理は何を食べても美味いから」

とろけるような声で言う。まるで指先からかたちをうしなっていくみたい。そんな心地がした。彼の声がすきだ。名前を呼んで欲しい。「なまえ」何も考えられなくなるくらい。「なまえ?」シリウスが首を傾げてわたしを見ていた。

「あなたが食べているのを見るのが好きなの」

シリウスは先ほどの話を特に気にしているわけではなかったようで、テーブルはすぐ別の話題に移った。彼が友人夫婦の間に生まれたかわいい赤ん坊の話に夢中になるのを聞きながら、わたしはちらりと、カレンダーに目を移した。何の変哲もない、幾度となく過ごした日付がそこにある。

食事が終わって、ソファに並んで座ったわたしたちの間に距離があったのは、ほんのわずかな時間だった。彼に見つめられれば、わずかな隙間もないほどに、抱きしめられたくなる。彼が両手でわたしの頬を挟んで、そっと額を合わせた。「最近沈んでるな」「なんでもお見通しなのね」言葉の合間に、口づけが降ってくる。

「何年一緒にいると?」

まるで先ほどのわたしの言葉をなぞったように、そんなことを言う。

「隠しごとはよくない」

「よくない?」

「妬けるから」

ほとんどキスしているみたいな距離で、囁き合う。卒業してから、ハンサムだった彼はもっと精悍になった。男らしく、力強く。くちびるが重なって、今度はより深く、つながり合う。

「なまえは機嫌がわるくても、キスするとき首傾げて受け止めようとするとこが可愛い」

秘密を教えるように、シリウスが言う。同じことを言うのね、あなたは。口のなかをくすぐられると、もうだめだった。指を絡めて手を握る。熱が伝わってくる。

「わたしがあなたに隠しごとなんて、できるわけない──」

あなた、わたしの全てを知ってるでしょう。

わたしのすべてを知っているのはあなただけ。でも、あなた自身がもう一人存在したら?どんなに近くで見つめても、相違ない顔を、わたしはずいぶん前に見たことがある。

前世って信じる?シリウスに尋ねてみたことがあった。その時の答えを、わたしは今でも覚えてる。いいや。彼は言った。もしあったとしても、なまえと出会わなければ俺は生きていられなかったろう。

わたしはその言葉に、わたしが居なければあなた、生きていけないものね、そう答えた。けれど、あなたはあの時、わたしが居たのに死んでしまったじゃない。そんな言葉は飲み込んで。

6月18日。今でも覚えている。すべて、覚えている。あの時もこうして、あなたの顔をこんな風に近くで見つめて、けれどあなたは二度と還らぬひととなって、遠くへ行ってしまった。

シリウスは、自分がわたしを見つけたと言うけれど、それは違う。わたしが見つけたのだ、あなたを。あなたがわたしを見つめるよりずっと前に、わたしはあなたを見つめてた。

もう一度、口付ける。二度と離れないように。今度は、口づけをしたままふたりで、どこまでも行けるように。

前世の記憶があるヒロインと、毎年6月になると不安定になるヒロインに気づいてはいるものの、理由がわからず歯がゆいすべて忘れてしまったシリウス。2019.06.18up

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