せつなさを忘れないで
わたしは森の中の丸太小屋――というには豪華すぎるかもしれないけれど――に住んでいて、朝は体に合った柔らかなベッドで目覚める。

「起きたのか」

ベッドで体を起こし目をこすっていたわたしに、そう声をかけるのはトムだ。この小屋にはわたしと彼しか立ち入らない、それを差し引いても、彼はとても美しい顔をしている。毎日彼の顔しか見ていないからって、アヒルを白鳥と間違えやしないだろう。彼は時折人間ではないのではないかと疑いたくなるほど、冷たい剣のような美しさを持っていた。

トムは甲斐甲斐しくわたしのベッドの脇にあるカーテンを薄く開くと、またキッチンへと戻った。ベーコンの焼ける匂いが漂い、わたしは自分が空腹であることに気づいた。

ここでの生活でわたしが知っているのは、彼のトムという名前と、それから”彼に教わった”なまえという自分の名前だけ。それ以外は、何一つ知らないのである。

気づいたらここにいた。

わたしの今の生活について、こう表現するのが最も正しいように思う。

わたしが初めてここで目を覚ました時、最初に目に移ったのはわたしを覗き込むトムの顔だった。状況を飲み込むより先に”なんて綺麗なんだろう”と彼の瞳について考えたときから、わたしはどこかおかしかったのかもしれない。何故自分がここにいるのか、トムはどうしてわたしを知っているのか、その問いにトムが答えることはなかった。それどころか、トムはわたしにこの家から出ることを禁じたのだ。しかし、最終的にわたしはトムを信じることにした。

鳥は最初に見たものを親鳥と信じ込むらしい。彼らに心があるなら、まさに、こんな心境なのだろう。わたしは冷たい冬の張り詰めた空気の中澄み切った夜空のような瞳を持つ彼を信じたかった。

そうしてその日から毎日変わらず、トムが甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる日々が続いている。

「トム、すごく美味しそう!」

わたしがテーブルに並んだ朝食を見て歓声を上げた。色とりどりに並べられたそれらはトムの手作りだ。

「ほら、座って。こうしているうちに朝食どころかブランチになってしまいそうだ」

彼はわたしをエスコートして椅子に座らせると、わたしの前に腰を下ろして微笑んだ。「いただきます」とわたしが早速ポタージュに手をつけると、トムは「やっぱりそれを一番に食べると思ったよ」と頬杖をついてわたしを眺める。

トムの前に料理は並んでいない。最初こそ、それがなぜかを尋ねていたけれど、もう最近は慣れたもので、彼に見守られながら食事をとることに違和感を感じなくなった。彼の手料理はとても美味しい。そして、どれを食べても苦手だと感じるものがない。以前それを伝えると、トムは「君の好物くらい知っているさ」と答えた。

「トム、まだ外は物騒なの?」

わたしが潰したゆで卵を挟んだサンドイッチをつまみながらそう聞くと、トムはちらりとドアを一瞥してから頷いた。

「そうだね、君はここにいなければ。当分」

彼の言う”当分”が一体いつまでなのか、わたしは知らない。けれど、この生活に終わりが来たとき、トムはいなくなってしまうのではないかと、そんなことをうっすらと感じている。彼と離れ離れになるくらいなら、わたしはずっとここにいたいと、そう思うのだった。

わたしは一日の大半を、編み物や、刺繍をして過ごしている。彼に贈ったマフラーを、冬になるとトムは必ず身につけていた。彼は他にもセーターやニット帽、それから彼のイニシャルが縫い付けられたハンカチなど、洗練された彼の服装からは到底合っているとは思えない持ち物を、大切に身につけていた。それが誰からの贈り物なのかをトムが口にすることはなかったけれど、その編み目の癖はどこか、わたしの作り出すものたちに似ている。

トムは時折出かけてこの小屋のある森を少し下ったところにあるらしい街へと食事と、それからわたしの編み物に使う毛糸などの買い物をするとき以外は、椅子に腰掛けて本を読んでいた。彼の持ち物はほとんどないと言っても過言ではなかったけれど、本だけはどこから手に入れているのか、毎週背表紙が変わっていた。

そうして、眠る時はわたしがまどろみの中に揺蕩うまで、同じ布団に入ってわたしの肩を抱いていた。彼は体温が低いのか、夏でも汗ばむこともなく二人で小さなベッドを共有していた。けれど、わたしは知っている。彼がわたしの眠りを確かめた後、そっとベッドを後にしていることを。そして彼がその後、この小屋を出てどこに行くのかを、わたしは知らなかった。

トムはわたしの頬に手を添えて、しばらくじっと瞳を見つめながら耳や、鼻先や、額を指先でなぞることがあった。まるで何の変化もないかを確かめるように。彼の指の動きがくすぐったくてわたしは体をよじったけれど、トムは真剣な表情を浮かべていた。そうした後は、必ずベッドの上で寝そべりながらわたしをぎゅうぎゅうと抱きしめた。まるで、何かから守るように。あるいは、奪われないように。

ある日、わたしはトムが新聞を読んでいるのを見た。不思議と、わたしが目を話しているすきに、その新聞の一面を飾る写真が、ちょこまかと動いているように見える。わたしは胡乱な目で写真をじっと見つめたけれど、そんなわたしに気づいたトムはさっと新聞を閉じてしまった。

「トム、その新聞、何だか動いているように見えたわ」

「まさか。君、最近細かい刺繍をしていたようだから目が疲れているんだろう」

「そうかしら。その、”名前を言っては”――」

「なまえ!」

わたしが何となく覚えていた新聞の写真の横にあった見出しを口にした途端、トムがここで暮らし始めてから初めて聞くような鋭い声を上げて、わたしを制した。わたしが驚いて身を強張らせたことに目を走らせると、「頼むから、それを言わないでくれ」と囁くように、しかし有無を言わせないような口調で言いつけ、彼が握りしめたせいでくしゃくしゃになった新聞を暖炉の火の中に投げ捨ててしまった。

しかし、その日からわたしは不思議な夢を見るようになった。出てくるのはトムだ。しかし彼ではない。トムは深緑色のラインの入った不思議な服装をしていて、尊大な話し方をする。そうして、木の棒のような何かを振って彼の名前を空中に書いてみせるのだ。”トム・マールヴォロ・リドル”と。わたしはトムの名前を、トムとしか知らなかった。

そうして夢の中のトムはもう一度木の棒を降って、それをバラバラにする。そうして並べ替えられた言葉が完成する前に、わたしは決まって目をさます。何となく、このことをトムに言うのは憚られて、毎朝わたしを優しく起こすトムには言えなかった。

トムに隠し事をしたのはこれが初めてのことだった。

気が向いたら続きを書きたいお話です。

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