せめて境界線までは手を離さないで
「……卒業式だね」
「そうだな」
孤児院からずっと一緒だったトムは、親代わりだったダンブルドアの懸念の通り、闇の魔法に傾倒してしまった。
ダンブルドアはわたしにトムを正しい道に導かせたかったようだけれど、それは無理な話だ。トムがわたしの言うことを聞いたことは一度もない。
きっと、この箱庭から出た瞬間に、彼はわたしの手の届かない場所へ行ってしまう。
組み分けで寮が離れてしまった時の寂寥感とは比べ物にならない、まるで体の一部を失ったかのような虚無感に襲われ、わたしはめまいがする思いだった。
彼はわたしの友人であり、家族であり、また想い人でもあったのだから。
もっとも、彼はせいせいしてるかもしれない。彼は能力の高さを最も尊ぶけれど、わたしはそれに程遠い人間だから。
幼馴染のよしみで、今までテストの前になると図書室で勉強を見てくれたり、空き教室で魔法を教えたりしてくれたけれど、そんな細々とした縁も今日でおしまいだ。
ホグワーツを卒業するこの日に、トムの顔は晴れ晴れしい。
やっと、という思いがあるのだろう。彼にはもう、自分に心酔する部下すらいるのだから。
「なまえ。プロムの相手は?」
「え?」
唐突なトムの問いかけに、わたしは短い聞き返す言葉でしか答えられなかった。しかしその言葉の意味ははっきりとわかっている。
プロム。最近は頭の中がトムばかりで、すっかり忘れてしまっていた。
「だから、プロムのパートナーは?」
「…いないけど」
お誘いがなかったわけではないのだけれど、なんとなくその都度断ってしまい、気づけば当日になっていたのだ。わたしでさえ誘われるような機会なのだから、トムにいたってはすごかったらしい。行列が廊下の端から端まで並んでいたと聞いた。
「ふうん。じゃあ、プロムの10分前に、大広間で」
トムはそう言い残すと、未練なさげにさっさと立ち去ってしまった。
彼の言葉を咀嚼しきるのに時間がかかっていたわたしは、ぽかんと口を開けたままそれを見送るばかりだ。
今のは、なんなんだ。いや、わかっている。彼は待ち合わせ場所を言った。でもどうして?彼はわたしと一緒にいるところを見られるのを嫌がっていた。だからわたしたちはいつも、人目を忍んで会っていたのに。
プロムが開かれる大広間で待ち合わせる、だなんて。
プロムのダンスパートナーのお誘いにしか聞こえない。
結局わたしは母から送られてきていたシルクの体の線に沿ったドレスを身にまとい、10分前どころか20分前にはそこで待っていた。
もし、トムが来ない、もしくはパートナーを連れ立って来たら、ダンブルドアにエスコートを頼もう。
慣れないヒールの尖った爪先を見つめながらそんな気休めを考えて心を落ち着かせていると、わたしの足の前に革靴がぴたりと寄り添った。
「10分前と言ったら、女性はぎりぎりに来るものだろう」
僕の方が早く着く予定だったのに、と続ける彼は、スーツ姿に髪をきっちりとセットしているのも相待ってハンサムな顔立ちが余計際立っていた。わたしは何も言えず、この学生生活でずいぶん背の伸びた彼を見上げることしかできない。
すると彼はそんなわたしの様子に片方の眉毛を吊り上げ、少し腰を折ってわたしの耳に唇を近づけた。
「なまえ、今日の君は綺麗だ」
今日のトムは、徹底的にわたしの口をつぐませてしまう気らしい。耳まで真っ赤になっているであろうわたしは、彼が差し出した手を取ることしかできなかった。
プロムは夢のような時間だった。
最初ばかりは、スリザリンきっての人気者が犬猿の仲であるグリフィンドールではないものの、普段小馬鹿にしているハップルパフの生徒を連れていることに対してざわついたが、時間が経てばあの人格者のトムだから、ということで落ち着いたのか目線も気にならなくなってきた。
しかし、いつものにこやかな仮面をつけるトムに、突然わたしを誘った理由を聞くことだけができていなかった。スリザリンの純血の貴族と踊ることも、トムには容易かっただろうに。
ダンスのためとはいえ、初めて繋いだ手が震えそうなほどうれしく、そして切なかった。
理由は聞かなくても、本当はわかってる。
これは思い出づくりなのだ。最後の。
トムはなんだかんだ言って、わたしを見捨てずにここまで来てしまった。聡いトムはわたしの想いにすら気づいているだろう。
これは最後なんだ、と自分に言い聞かせると、この幸せな時間の最中にでさえ涙がこぼれそうになる。
プロムはあっという間に終わってしまった。着替えのために別れる学友たちとは反対の方向へとトムが行くので、わたしはそれについていく。
ヒールを履くわたしに気を使ってエスコートしてくれたトムが足を止めたのは湖のほとりだった。しばらく湖の表面に立つ小さなさざめきを眺めていたトムは、唐突に言った。
「僕のしようとしていることは、誰にも知られていてはならない」
「……うん」
「ダンブルドアは君にも探りを入れるだろう」
トムが綿密に立てた計画を、わたしは知っていた。トムの信奉者にすら言わない、トムの頭の中にのみあるそれらを、折々でわたしにぽつぽつと話していたから。
「本当は、君をこのまま生かしてはおけないんだ」
その言葉は分かっていた。
いっそそうしてくれとさえ思っていた。
孤児院に早々に預けられたわたしに帰る家などない。ならばいっそ、わたしにとっての唯一の場所である彼に全てを任せてしまいたかった。
「……でも、出来ない。こんな感傷は、ここに置いていかなければならない」
ひとりごとを言うかのようにそう呟いたトムがわたしに杖を向ける。
「トム、わたしずっとあなたのことが」
トムが呪文を唱える前に、と半ば叫ぶようにしてずっと言えなかった言葉を告げようとしたわたしの言葉を遮って、トムは静かな声でそれを唱えた。
「Obliviate」
その場に崩れ落ちたわたしを抱えて、トムが小さく「その言葉は僕にとって呪いだ」と小さく絞り出したような言葉を漏らしたことを、わたしは知らない。
愛を知れば弱くなってしまう、そう思い込んでいるトムはもう本当は愛することを知ってしまっている、そんな話。このObliviateは王子様のキスで解けるはず。