不確かな愛だけど

しん、とした暗い部屋。ふとアリスは本から顔を上げた。
辺りが暗くて文字が見えなくなってしまった。辺りを見回すが暗くて何も見えない。
そういえば少し肌寒い気がする。暖炉の火もついていないのか。
エンジン音がし、一瞬だけ室内が照らされた。ピシャァ、と水溜りが撥ねる音が続いてここまで届く。

「ジョン」

今日を共に過ごした友人の名前を呼ぶ。
栞を挟み、本を閉じて膝の上に置く。寒さに自身の腕を摩った。それで寒さは和らぐはずない。
暖炉に火をつけるか。それとも温かい紅茶を淹れるか。
それにしてもジョンから反応がない。彼は不在なのか。いや、そうだとしたら自分に声を掛けるはずだ。

「ジョン?」

「…ジョンはいない」

突然、傍に聞こえた低音にアリスは悲鳴を上げそうになった。
膝元の本が滑り落ちて大きな音を立てた。飛び上がりそうな体を辛うじて抑え込み、アリスは口を開いた。

「シャーロック?帰って来ていたのね」

「2時間も前に帰ってきた」

どこか不機嫌そうな彼のトーンにアリスは暗闇の中、首を傾げた。
2時間も前に帰ってきていたら気づいていたはずだ。もしかして読書に没頭するあまり気づかなかったのだろうか。
きっとそうだ。ジョンが出かけて行ったのにも気づかないのだから。

「シャーロック?どこにいるの?」

肘掛け椅子から立ち上がろうとすると背後から抱きすくめられた。
身動きが取れず、困ったように眉根を下げ、シャーロックの腕にそっと触れた。

「私どのくらいこうしていた?」

「知らない、僕が帰って来ても気づかない様子だった」

やはり不機嫌なトーンだ。

「どうしたの?事件、面白くなかったの?」

「…一時の退屈しのぎにはなった」

「満足できなかったのね」

背後から溜息が零れる。アリスは彼に抱きすくめられたまま首を傾げた。

「……そういうことにしておこう」

体を解放され、アリスは振り返った。暗い室内で彼の白い肌が浮いて見えた。
表情まではよく見えないが顔色があまりよくないように見える。

「シャーロック、あなた大丈夫?」

思わず彼の頬に触れれば、その掌に彼の手が重ねられた。

「ああ、僕は大丈夫」

「平気そうに見えないわ」

いつもは引き下がるが何時にも増して彼の顔色が悪いのだ。
多少強引かもしれないが何としても栄養のある温かい食べ物を食べさせ、身体を休めさせなければ。
彼の頬から手を離し、アリスは急いでキッチンの冷蔵庫へと手を伸ばした。
眉間に皺が寄っていることを自覚しつつ、目を動かすがビーカーやらよくわからないものの詰まった瓶ばかりで『食品』は一つもない。
溜息を落とし、アリスは落とした本を拾い上げ、階段を数段上がり、自室へと引き返した。
ハンガーにかけられたコートを羽織り、ハンドバッグを片手に踵を返し再度悲鳴を上げそうになった。
バタン、と床にやや乱暴に置かれたキャリーバッグに目を丸くする。それを落とした本人は静かな目でこちらを見据え、顎を使って指し示した。

「洋服と寝間着、簡単に生活必需品をすぐに揃えて」

「え……?シャーロック、どういう」

質問は受け付けないようだ。靴音を立てて下へと降りていく彼の背中を見送り、思考する。
長くなりそうな依頼でもあったのだろうか。首を傾げながらも彼の言葉に従ってアリスは手早く荷物を纏めた。
確認を終え、それを片手に降りていくと彼は既にいなかった。ポケットの中のiPhoneが震える。
テキストを開くと短く『下へ来い SH』の文字。肩を小さく竦め、アリスはポケットに戻すことなく、そのまま下へと駆け下りていく。
途中でハドソン夫人がひょっこりと顔を出し、「こんな時間にどこかお出かけ?」と眠そうな声で言った。今から寝るところだったのだろう。
アリスは苦笑を浮かべ、ハドソン夫人の頬にキスをした。

「ええ、シャーロックが」

「シャーロック最近休んでないじゃない」

「出来る限り私が彼を休ませます。それじゃあ」

「ええ…気を付けてね」

どこか心配そうな夫人を背にアリスは急いだ。ドアを開けるとシャーロックと一台のスポーツカーが待っていた。
まじまじとスポーツカーを見つめているとシャーロックは肩を竦め、「兄に借りた」と一言投げた。スポーツカーを移動手段として使うだなんて珍しい。
それほどまでに急いでいるのだろうか。それともタクシーや列車では行けない場所?いや、そんな場所存在しないと思う。
自動車の方が反って行動が制限されてしまうような気がする。

「遅くなってごめんなさい」

「かまわないよ、アリス。これっぽっちも急いでない」

「そう…ならいいんだけど」

荷物をトランクへ詰め、彼に示されるままに助手席に乗り込んだ。
運転席に乗り込んでくる彼を一瞥し、やはり首を傾げる。
急いでもいないのに急いでいるような感覚。そういえばジョンは連れて行かないのだろうか。
疑問が浮かび上がるがそれを口にしないし、表情にも出さない。出来るだけ彼を休ませたいのだ。小さな疑問で彼を煩わせたくない。
思考する間にも景色は移り変わる。まだ辺りは暗く、人も出歩いていない。シャーロックは淡々と運転していた。
水溜りに反射する眩い光に目を細め、息をつく。
ロンドンの街からどんどん遠ざかっている。どこへ向かっているのだろう。小さく欠伸を一つし、瞼を下ろす。

「まだ時間がかかる。寝てくれても構わない」

たくさん寝たはずなのにやってくる睡魔に抗えず、アリスは「うん」と返し、シートに体を委ねた。

*

次に目を開けたとき、真っ暗だった。魘されていたような気がする。
シャーロックに事件を託して解決してもらってから見ていなかった悪夢。嫌でも思い出す両親の死。それを暗い車内の中で振り払い寝返りを打った。

(あれ…シートベルト)

何時の間に外れていた。暗闇に慣れた目で隣に顔を向けると静かに彼が眠っていた。
両手は組まれ、瞼は下ろされ、いつも固く結ばれた口元は緩み、緊張感がない。
何よりそんな月明かりに照らされた彼の横顔を美しい、と思ってしまった。しばらく横顔を眺め、アリスはポケットを探った。
自身のiPhoneを取り出すがバッテリーがないようで電源がつかなかった。これでは今が何時でどこにいるのかわからない。
腕時計も置いてきてしまった。星空で時間帯を推測してもいいが生憎の曇りで方角も掴めない。方角を掴むには切株を捜せばいいが、この暗闇ではどうにもできない。
辺りを見回してみるが濃い木々しかないように見える。前方は木ではないようだがよく見えない。
外へ出てみてもいいが灯りがない上に狼が出てくるかもしれない。暗くて危険だ。

(結局寝るしかないわけね)

諦めてアリスは瞼を下ろした。

「アリス」

すぐに目が覚めた。あれから時間があまり経っていない気がする。目を擦りながら「朝?」と彼に問いかけた。
陽光が差していないから辺りは薄暗い。曇っているだけか。いや、アリスは目を見張った。昨晩は暗くてわからなかったが目の前には湖が広がっていた。
紫か、紺か、薄いブルーか。そんな空。ああ、夜明け前だ。ようやく理解し、感動に溜息を零す。

「外へ」

「あ…うん」

運転席から出ていく彼を見てアリスも車から降りた。高級車のシートだからか、身体に疲労は残っていない。
さすがマイクロフトの車。彼が何台車を持っているのか知らないし、そもそもマイクロフトが運転する姿を見たことないが。
外は肌寒かった。腕を摩っているとシャーロックがコートをかけてくれる。自分のコートだ。
驚いて彼を見上げるが彼は湖の方を見据えるだけだった。それに倣って湖の方へ顔を向ける。

「静か」

魚も活動していないのか水面に波が立っていない。時々、風が波紋を創り出すくらい。
空気は早朝だからか、この自然の中だからか、澄んでいて、風を受けているとひんやりと気持ちいい。寝起きのあの独特の火照った体を程よく涼めてくれる。
木々の隙間から細々とした陽光が差してきた。

「あ、太陽が昇ってきた」

スッと肩の辺りを触れられ、そのまま引き寄せられた。肩を抱き寄せるシャーロックを一瞥し、アリスは彼の腕に頭を預けた。
彼がこんなことをするだなんて珍しい。太陽が昇る様子を眺めながらアリスは敢えて口を閉ざしていた。
聞きたいことは山ほどある。ジョンは連れて行かないのか。これは顧客が依頼してきたための遠出なのか、それともただの旅行なのか。
前者はもはや、あり得ないだろう。依頼であれば彼がこのような“恋人らしい”行動に出るはずがない。
睡眠を削って現地へ向かうはずであるし、依頼であれば瞳を爛々と輝かせ、嬉々としてアリスへ事件のことを語るはずだ。そしてアリスの推理を求めるはず。
だとしたらこれは旅行――?それもあり得ない。かつてそのような行動に彼が出たことなどない。
退屈だ、退屈だ、と繰り返し、窓辺とソファーの間を行ったり来たり、と顧客を待つはずだ。
何の心境の変化なのだろうか。それとも、彼は何かを恐れているのだろうか。もうモリアーティはいないというのに。

「貴方は…」

こちらへ視線が注がれるのを感じた。湖がキラキラと瞬いた。いつの間に日がそこまで高くなっていた。
輝く水面を眺めながらアリスは口を開いた。

「何かを恐れる?」

肩に添えられた手に微かだが力が入った気がした。

「僕が?」

「ごめんなさい、愚問よね」

唇を歪めて苦笑を浮かべると頬を軽く突かれた。

「僕は事件がなくなってしまうのが怖い」

単調に吐かれた彼の言葉。頭脳を使って難解な事件を解く。そう、それが彼自身の存在意義なのであろう。
退屈な“一般人”の生活や癖、性格を暴くことでも、何でもない。きっと彼の生きる糧は事件だ。
彼にとって事件はきっと自分を失うのと同じことなのだ。

「朝食にしよう」

「朝食?」

彼はアリスの片手をとり、エスコートするように一本の小道を先導し始めた。
暗くて気づかなかったが確かに人の手によって作られた道があった。その脇には誰かが植えたのか花が咲いている。
腰くらいの高さまである雑草の中作られた横2人分の幅の道を歩きながらアリスは辺りを見回した。
キラキラと反射する湖は次第に遠ざかる。朝だからか、息を吸えばひんやりとした空気と濡れた樹木の匂いがした。ロンドンにはない景色。
手を引く彼の背中を見つめる。彼は朝食にすると言った。シャーロックは何がしたいの。

「着いた」

しばらく無言で歩き、ようやく辿り着いたそこには周囲の景色と上手く溶け込んだ一軒の家が建っていた。
コンクリートにガラス張りの綺麗な新築。

「ここは?」

「別荘」

シャーロックは短く答えるとポケットから一枚のカードを取り出した。
それを読み取り機に差し込み、緑色のランプが点る。それを確認するとシャーロックはドアを開け、アリスの背中を押した。
彼に背中を押されるままに中へ入り、足を止めて一度彼を振り返った。彼は読めない表情のまま、ドアの鍵を閉めると玄関を抜け、広い一室のソファーへコートを投げた。
リビングだろうか。大きな液晶テレビ、テーブル、並べられた4脚の椅子、キッチン。

「料理は用意してある、温めるの手伝ってくれ」

用意してある?アリスは首を傾げた。彼にそんな暇あっただろうか。
いや、もしかしたら寝ている間に作っておいたのかもしれない。コンロに鍋を置き、火をつけるシャーロック。彼はその鍋を指差し、「頼む」と短く言った。
アリスは頷き、火を調節し直して、鍋の中身を確認するために蓋をそっと開けた。中身はトマトをベースにしたスープのようだった。
おたまを受け取り、焦げ付かないようにかき混ぜる。数分後には湯気が立ち、キッチンの中がトマトのスープ匂いで充満した。

「あら?ビーンズが入ってる?」

「嫌だったか」

「ううん。貴方がつくったの?」

「ああ。僕が作るのは意外?」

表情に出ていたか。くすり、と笑みを浮かべ、素直に頷いた。

「うん、意外かも」

「あまり作らないがレシピを見れば簡単だ」

かき混ぜながらシャーロックの手元を覗く。
丁度フライパンに収まったオムレツをひっくり返すところだ。

「あ」

ぐしゃり、と形が崩れる。シャーロックへ視線を向ければ彼は気まずそうに「こんな日もある」と呟いた。
はいはい、と控えめに笑いながら「私がやろうか」と言うと拒んだ。拗ねてしまったらしい。
それから何度も失敗する彼を見かねて結局、代わった。

「なぜできない」

彼は仏頂面のまま、空になった皿を運んできた。台所を綺麗に片づけながら微笑む。

「いいじゃない。できなくても」

「いやだ、腹立たしい」

「料理くらい私に勝たせて」

そこで初めて彼は目を合わせた。あれ。気に入らなかったか。

「そうだな…」

納得したようだ。肩を竦め、皿洗いを始めようと袖を捲ると後ろから突然抱きすくめられる。

「シャーロック…?」

「もうジョンも君も悲しませたくない」

アリスはシャーロックの腕に触れ、微笑んだ。

「私は平気よ、ただ貴方が貴方であり続けて、貴方が無事でいてくれさえすれば」

ジョンだって同じ気持ちのはず。と続けて水を止めて、振り返ってシャーロックの顔を見上げれば彼はじっとこちらを見下ろしてきた。
探るようにアリスの頬に触れ、瞳を覗き込んでくる。背伸びして頬にキスすれば、彼はぎこちなく笑った。

「成る程。気づいていたのか」

「私を誰だと思っているの?心理学の教授よ」

胸を張って見せれば、彼はやれやれと首を横に振り、シンクに腰かけた。

「そうだったな…アリス、僕は君の言葉を聞けて……何と言うべきか…、その、安心した」

「それは良かった」

ニッコリ微笑み、皿洗いを再開する。

「それが終わったら帰ろう」

「ええ、ベイカー街には貴方が必要よ」

これはほんの少しの休息の旅だったのだ。
たとえ、何があろうとジョンもアリスもシャーロック・ホームズを許し、受け入れる。
それを文字通り宣言したことによって彼は安心し、謎へと再び戻ることができる。
いや、彼ならば言葉がなくても必ず自分でいるだろう。彼はあのシャーロック・ホームズなのだから。





×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -