月明かりの優しい夜


アリスは午前中、ベーカー街221Bの彼らを訪れた。しかし目当てである彼がいない。
アリスはそっと溜め息を零さずにはいられなかった。
ジョンから「ゆっくりしていったら?」とコーヒーを勧められたが首を振って断りジョンへ“シャーロックへの包み”を預けてそのまま仕事へ出かけた。
認証カードを警備員へ差し出し、しばらくして返されて通っていいことを伝えられ、そのままスッキリしない頭でフレイン教授の研究室へと向かう。
薄手のコートのポケットに入ったiPhoneがバイブ音と共に震える。
再度溜め息をつきアリスはポケットからそれを取り出した。バイブの振動回数でそれがメールを受信した報せであることはわかっていた。




From:John Watson

title:don't worry

アリス?あのシャーロックのことは本当に気にしなくていいと思うよ。
彼はその…行事に疎いんだ。
だから、うまく言えないけど…気にしないで。ごめん、これしか言えない僕を許して欲しい




ジョンが悪いわけではないのに。アリスは困ったように眉根を下げ微笑んだ。
今日はバレンタインデー。男女の愛の誓いの日とされている日。
アリスは勿論、この日のためにチョコレートとカードをシャーロックのために用意したのだが…。
予想していた通り、彼は行事など忘れてどこかへ出かけて行ってしまったらしい。
予想はしていた。渡されなくても構わなかった。ただ“会いたかった”だけなのだ。
アリスは短く“thanks”と打ち込みすぐに送信した。
iPhoneをポケットへ滑らせ、アリスは研究室のドアを開けた。そしてそこにいた人物に目を見張る。

「レストレード?」

「やあ、アリス」

「おーやっと来たかね、アリスくん、待ち侘びたぞ」

朗らかに挨拶をするレストレード警部に微笑を返し、フレイン教授に会釈をして挨拶をする。

「ごめんなさい、教授。少し寄り道をしていたら遅くなってしまって」

「いいや、構わないよ」

「あの、なぜレストレードが?」

「君にこれを届けに来たんだ」

差し出された上品な包装箱を受け取りながらアリスはキョトンとレストレードを見やった。
まさかバレンタインのチョコレートを渡すためにわざわざ大学まで来てくれたのだろうか。
アリスは真っ直ぐレストレードを観察した。思考が纏まらない内にレストレードは困り顔で「おいおい」と口を開いた。

「シャーロックと同じような目であまり見つめないでくれ」

「シャーロック、と?」

彼の名前がなぜここで出てくるのだろうか。アリスは眉間に皺を微かに寄せ、小首を傾げた。
微かに不快感が向こうに伝わったらしい。
レストレードは「すまん!」と慌てて口を開いた。

「シャーロックと同じように言われたくなかったよな、すまない本当に」

「あ…いいの。気にしないで、レストレード。まさかこのチョコレートのためにここまで来てくれたの?」

「…?ああ、そうだが」

「ああ、わざわざごめんなさい…!ありがとう、とても嬉しいわ。Happy Valentineレストレード」

「Happy Valentine,アリス」

**

カチリ。秒針の音にアリスはハッと顔を上げた。時刻は昼過ぎ。
図書館の勤務の時間がすぐそこまで迫っていた。
慌てて荷物を全て持ちフレイン教授に挨拶をして研究室を後にした。
急ぎ足で廊下を進む。講義終わりの学生たちが驚いたようにアリスを見ていた。

「アリス教授、こんにちは」

「え、え…こんにちは!」

学生たちの挨拶に弾む息でそう返しアリスはさらに足を早めた。
フレイン教授と図書館まで道のりは長い。勤務当初はやはりよく迷うほどだった。
あと二つ曲がり角を過ぎれば着く。そんなときだった。

「……!!」

曲がり角から手が伸びアリスの腰辺りに回され引き寄せられたのは。
声を出そうと口を開いたが予測されていたのか口元が手に覆われる。
鼻腔につく匂いは決して安心できるものではなく寧ろ危険を察知させるような香りだった。
しかし今ここで“彼”が自分を殺すはずがない。ここで殺せば“ゲーム”が台無しになるだろう。
アリスは体から力を抜いた。

「いい子。いいお嬢さん」

耳元でそう囁かれアリスはゾクリと背中が粟立つのを感じた。
そう、彼はとても危険な男だ。気まぐれでいつ殺されるか分からない。
ゲームの駒だとしても安全性が保証されるわけではない。
彼の気まぐれで消される可能性だってあるのだ。しかし怖がれば彼の思い通りになる。アリスはそれだけは避けたかった。

「何しにきたの。まさかバレンタインの日に血で私を染めにきたんじゃないわよね」

くっくっと彼が笑う音がすぐ傍で聞こえる。とても変な体勢。
学生に見られたら大変だ。しかし学生の気配は今のところない。

「流石にそんなどこかの映画のような殺人者の真似なんてしないよ。僕がそんな間抜けなことをすると思うか?」

「それじゃあ、何しに来たのよ」

チョコレート渡しにでも来た?
そう嫌味っぽく言えば「正解」と予想外に返され「え」と思わず素っ頓狂な声を出してしまった。

「モリアーティ」

「何だ?」

「離して」

体を捩らせればモリアーティは肩を竦めて解放してくれた。一体、彼は何を目論んでいるのだろうか。
探るように見つめればモリアーティは相変わらず読めない表情のまま小首を傾げて見つめ返してきた。
シャーロックと同じで全く読めない。
心理学を学んでいても読み取れないものは読み取れなかった。それに心理学は万能ではない。
とっても複雑で全ての人間に当てはまる法則はないのだ。

「僕は忙しいからこれを渡して帰るとするよ、Happy Valentine,アリス」

頬に口づけられ、アリスは遠慮なくあからさまに顔を歪めてみせた。
それに対し彼は傷ついた様子もなく薄く笑い「美しい顔が台無しだ」と言い放って去っていった。
相変わらず風のように去っていくモリアーティの背中を見つめ、アリスは何を思ったのか追いかけて彼の袖を引っ張った。
驚いたような一瞬見開かれた彼の目に、ああ彼も人間なのだと思う。

「ありがとう、Happy Valentineモリアーティ」

背伸びをして彼の頬に短く口付けを落とし、用はないと言わんばかりにアリスは図書館へと駆け出した。
駆けていく彼女の背中を見送りモリアーティは口元を吊り上げた。彼女からとった予想外の行動。
モリアーティは仕掛けたつもりはなかった。
機嫌良さそうに口笛を吹き、モリアーティはいつもと違う種類の笑みを浮かべた。

「Good Valentine's Day」

*

「暗いけど帰らないの?」

アベルの声にアリスは危うく本を落とすところだった。
驚いたように辺りを見回し、もう既に暗くなっていることを初めて知った。
驚くような視線を感じながらアリスは「ええ」と頷いた。

「まだ本の整理も終わっていないし、まだ帰りたくない気分なの」

苦く笑いながらそう言えばアベルは眉を寄せた。

「あの探偵と何かあったのか?」

「ううん、違うの。あ…いいえ、あっているんだけど、そうね…私が一方的に寂しく思っているだけよ」

肩を竦め、アリスは本を一冊本棚に戻した。
複雑そうな視線を感じ、アベルの方へ視線を返す。

「俺だったら君にそんな想いはさせないのに」

アベルのそんな言葉に言葉を失う。

「先に帰ってて。お疲れ様」

視線を逸らしてそう言うのが精一杯だった。何事もなかったようにスッパリと。
アリスは気にしない素振りでそのまま本の整理を続けた。しばらくそこにいる気配がしたが諦めたのだろう。
彼は帰っていった。
ここにずっと居ても仕方ない。そのうち警備員が来て帰るように言うだろう。
アリスは荷物を掻き集め、何か不審な点はないか全体をチェックし電気と暖房の電源を落とした。
闇に包まれる図書館。
窓から差し込む月明かりで辛うじて足元が見えた。幾つもの本棚の間を縫うように通り過ぎる。

「これだけ置いて仕事に出るのは狡いな」

「っ…!!」ひゅっと息を呑み、アリスは体を硬直させ、構えた。
そして人物の正体が分かり眉根を下げ、構えを解いた。
シャーロックはいつものコートにスカーフ姿で本棚に寄りかかり腕を無造作に組んで立っていた。
閉じられた瞼がゆっくりと開き、アリスを映し出す。暗がりでもわかる彼の顔。月明かりに照らし出される彼の表情。

「シャーロック…驚いたわ」

心臓の辺りを抑えながらアリスは白い息と共に言葉を吐きだした。

「驚かせてすまないな、ここでは寒い。早く帰ろう」

シャーロックは素っ気なくそう言うとアリスの手首を掴み歩き出した。
相変わらず彼のペースだ。
やれやれと首を振り、引かれるままに彼の後に着いていく。

*

アリスは困惑した顔で背中を向けているシャーロックを見つめた。先ほどから彼はずっとあの調子である。
ジョンは外出中(新しいガールフレンドとデート)で共同スペースには誰もいない。
暖炉の炎と窓から差し込む柔らかい月光だけが室内を照らしていた。

「シャーロック?」

耐え切れずアリスは彼の名を呼んだ。しかし応答はない。彼は背を向けたままである。
もう一度呼ぼうと息を吸い込んだ途端、くるりと彼の体が動き見下ろされていた。
困惑した様子で見上げればシャーロックは眉間に皺を寄せたまま「これは誰からだ?」と綺麗にラッピングされたものを掲げて見せた。
言おうと口を開いた瞬間、シャーロックは「言わなくていい。当てる」と片手で制した。

「どうぞ」

「これは学生たちからの、だな」

「ええ、そうよ」

紙袋いっぱいに詰まったものは全て学生からのだ。
シャーロックはアリスが頷いたのを確認すると何食わぬ顔で暖炉に放り投げた。鼻につく紙の燃える匂いとチョコレートが焦げる香ばしい匂い。
アリスは「ちょっと、何するの」と肘掛け椅子から立ち上がろうとしたが彼の「座っていろ」の声で大人しくせざるを得なかった。

「これは…レストレード」

今度は答えようとする前に暖炉に向かって放り投げられる。
アリスは驚きのあまり言葉が出なかった。彼の行動が理解できない。
一体何のためにこんなことを――?
普段のアリスであれば簡単に推察できただろう。しかし今の彼女は混乱し、上手く思考することができないでいた。

「これは……」

シャーロックは黒の包装紙に包まれた箱を見つめ言葉を切った。
信じられないような顔で箱とアリスを交互に見つめている。
何を隠そうモリアーティからのチョコレートだ。彼のことだ。すぐに推理できたに違いない。

「まさか…なぜジム・モリアーティから」

「くれたの」

「毒が入っているかもしれないのに?その危険性は考えなかったのか?」

「考えたわ。でも大丈夫だと――」

シャーロックはすぐにそれを暖炉の炎に向かって放り投げた。たちまち炎で溶かされ焼かれる彼からの贈り物。
ハッとしたときには彼の顔がすぐそこにあった。
炎のオレンジに照らされる彼の顔は静かな怒りが湛えられていた。

「シャーロック?」

グイっと立たされ、今度は窓辺まで追い詰められる。
衝撃的な彼の行動に思考は最早ついて行けてなかった。
今度は普段見せないような、切ないような愛おしむような優しい顔があった。月明かりの青に浮かび上がる彼の顔。

「つまらん嫉妬だ、アリス」

「嫉妬…?」

「我ながらそう思うよ。僕としたことがバレンタインという日を忘れるとはな。通りで外に出たら街が甘々しく浮かれていたわけだ」

「チョコレートは食べてくれたの?」

「いいや、今から食べる」

シャーロックはどこからか午前中ジョンに託した箱からトリュフを一摘みし口の中に放り込んだ。

「ん…丁度いい。疲れた思考には糖分だ」

「喜んでくれて良かったわ」

ふわりと微笑を浮かべればシャーロックはニッコリ笑って見せた。そして徐に一粒掴みアリスの唇に押し付けた。
固まっていると彼は「口に入れろ」と言うので仕方なく彼が差し出すままに口に入れると今度は彼の唇がアリスの唇に触れた。
遅れて伝わる口の中のチョコレートの甘さ。体を硬直させれば、腰の辺りを撫でられ緩めるしかなかった。
そのまま下唇を舐められる感触に思わず唇を開き彼の舌を受け入れる。

「ん…」

深々と重なる唇。角度を変えての甘い口付けに全ての感覚がシャーロックに侵される。
久しぶりの口付けにアリスの思考は蕩けていた。
成る程、チョコレートは“恋の媚薬”というわけだ。彼のそんな声が聞こえてくるようだ。
月明かりは朧げに優しく二つの重なる影をぼんやり照らすのだった。は



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