白衣を脱いだら

今、もしもね。相良はそう言ってこちらを見遣った。パソコンの画面から視線をズラして相良を見つめ返す。

「白衣を脱いだら僕、どうなっちゃうと思う?」

相良をしばらく見つめる。
真意が読めない。お互い夜勤が入り、日名は医局室で事務作業をしていたところだ。
相良はというと先ほど病棟のナースに呼ばれ、患者を診に行き、ついさっき医局室へと帰ってきたところである。

「一般人になる」

その回答の何が可笑しかったのか相良は噴き出して笑った。
ふふふ、と相良の笑い声が医局室内で響く。
眉を顰めれば、相良は目元を細めてまた笑い「いや」と首を横に振った。

「あまりにもそのまんまの答えだったからつい」

「私だって白衣を脱げば一般人です。白衣を脱ぐということはドクターの私にとってはその時間が就寝時間です」

相良は芝居がかったように、つまらなそうな表情を浮かべた。
成る程。今の会話は遊びらしい。真面目に返す必要がないようだ。
スルーしよう。日名はパソコンの画面に向き直った。

「僕の場合はね」

気にした様子もなく相良は一人で喋り出した。
手元にあるパックのジュースの水滴を指で軽く拭った。
そして突き刺さったストローを口元まで持っていき、ちゅー、と吸った。
酸味に日名の顔が歪む。酸っぱさに思わず、ぱちり、と片目を瞑ってしまった。

「きっと僕は僕を止められなくなる。」

酸っぱさにしばらく悶え、日名は画面に向き直ってから、ゆっくりと口を開いた。

「2人だけ何ですから伸び伸びしてくださいよ」

浩介さん。彼のあまり呼ばれることのない下の名前を呼んだ。
シークァーサージュースなんて買うものじゃなかった。量の減ったパックを片手で弄びながら酸っぱいため息を零した。
すると突然、相良が立ち上がった。無言で立ち上がる彼を見遣り、また画面に戻す。
衣擦れの音が聞こえ、日名はまさかと思い、再び相良へと視線を投げた。
笑顔の相良と目が合う。白衣はソファーの上に掛けられていた。

「うわあ、意外だなあ。陽葵、真面目だから職場でプライベートの僕に会いたいだなんて言うとは思わなかったなー」

誰がいつそんなこと言ったのだ。日名は半ば呆れたように相良へ視線を送った。
否、日名はそういう風に相良へ言ったのだ。そういう解釈されても仕方ない。文句は言えない。
視線を受け取った相良は日名が考えていることを読めたらしい。悪気なく微笑んだ。
相良の目的がまったくもって読めない。或いは何の意味も成さないのかもしれない。
後者だとしたら本当にタチが悪い。無駄に翻弄されたということになる。
日名は画面に集中しながら適当に質問を投げかけることにした。

「何かのゲーム、ですか」

「君も僕を疑うのか」

背後から抱き竦められ、耳元でそう囁かれ、一瞬、動揺する。

「…いえ、見極めたいだけです。私、宮部さんみたいに翻弄されてばかりの立場はごめんなので」

頭のてっぺん辺りに固い感触が伝わる。相良の顎が乗っているようだ。
ふふふ、相良がまた笑う。「宮部くんは関係ないだろ」と可笑しそうに笑った。

「そうなんだよねー。君は度々、僕を困らせるからホント参っちゃうよ」

「私、相良先生を困らせた憶えはないんですが」

だってさ、相良は少し拗ねた口調で言った。

「君ってば、僕の思い通りになってくれないんだもの」

つまりもっと転がれ、と?
日名は小さく笑った。なに、この人。可愛い。

「いいと思ったものには従い、良くないと思ったものには従わない。それだけです。でもやっぱり私は、貴方には敵いません」

「僕はそんなつもりないよ、陽葵」

やっぱり落ち着く。彼に名前を呼ばれると。溜息をつき、口を開く。

「休憩したいので離れて頂けます?」

キーボードから手を離し、立ち上がって白衣を脱いで椅子へと掛けて振り返った。
読めない笑みを浮かべる相良。日名はライトへと手を伸ばし、切った。ただでさえ、暗い医局室が真っ暗になる。
外の弱い光で辛うじて相良の顔が浮かんでいた。

「一般人になったの?」

クスクスと笑う相良に向かって笑い返す。

「きてくださいよ、浩介さん」

「君が来てよ、陽葵」

おいで。と続けた相良。ああ、まったく狡いな。

「職場ではこういうことしないんじゃないのですか」

「たまにはいいんじゃないかな」

相良の元へと近づくと抱き寄せられる。彼の胸に押し付けられ、目を閉じた。

「…何かあったんですか」

「いいや、何もないよ」

後ろ髪を梳かれ、眠くなる。

「そうですか」

「キスしていい?」

慌てて相良から離れ、顔を顰めて彼を見上げた。相良は相変わらず、笑みを張り付けたままだ。

「ですから職場ではそういうこと!」

「ムラムラしちゃったんだから仕方ないじゃない」

「セクハラですよ、もしかして酔ってます?」

そんなわけないと思いながらも聞けば彼は「お酒は完全に仕事が終わってからじゃないと飲まないよ」と真面目に返してきた。
それはそうだ。患者の命を預かっているのにそんなふざけたこと誰もするはずない。

「冗談です」

「君も冗談言うんだね」

「どういう意味ですか」

「君の分かりづらくてわかりやすいところ好きだよ」

意味がわからない。白衣を着れば、相良は諦めたのか、自身のデスクに腰を下ろした。
そこでタイミングよく日名のPHSが鳴る。

「はい、日名です」

『305の石坂さんが』

「はい、すぐ向かいます」

切れば、相良がこちらを見つめていた。

「患者さんかい?」

「ええ、私だけで十分です」

PHSを首にかけ、白衣のポケットへと滑らせる。

「じゃあ、いってきます」

「ああ」

そこで腰を屈めて相良の唇の横に唇を落とす。驚く相良の顔を満足に見下ろし、笑った。

「わかりやすいですか?」

相良が何か言う前に日名は白衣を翻し、病棟へと急いだ。




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